「thinking」カテゴリーアーカイブ

老いた母

父を見送り一年以上過ぎたというのに、リハビリ通所での

こと。少し前から心配はしていたものの、思いもよらない突然

の問いかけに、僕はひどく動揺させられました。真剣なのか、

からかっているのか、でも思いのほか、しっかりと前を見据えた

目をして、母はひとりごとのように、か細い声でつぶやき

ました。そのもうろくぶりに、母が、もうすでに僕が知っている

彼女ではないことを、しみじみ痛感させられました。

「もう、還って来んのかね?」「え?」「戻って来んのかね?」

僕は真意を計りかねました。何を指して言っているのかは、

改めて聞き返すのが憚(はばか)れるのでした。相手にする気に

はなれず故意に、視線を落とし逸らせて、取り合わず、聞き流し

話題を変えました。歳のせいなのか、50年以上共に過ごした連

れ合いを失くしたがために、こうも変わってしまったのか、と

寂しくもあり、辛く悲しくもあり、懐かしい昔の思い出と共に、

何かこみ上げる感情が、僕の胸をえぐるのでした。《どうした?

かあちゃん しっかりしろ!》今年86になり、ひい孫も持つ

老婆です。残された人生も、令和の時代に終えるであろうに。


言葉には言い表せない程の苦労《子供の頃、僕に実家に帰りた

いと本音を告げ、父か自分かのどっちを選ぶかを真剣に聞かれた

のです。》を体験してきた母を想うと、せめて散り際くらい

本来の自分を取り戻し、昇って逝ってほしいと思うのでした。

その後最低限、妻と出来ることを最終段階になるだろう親

孝行をと考えるようになりました。僕にとって、強く勉強熱心


だった父は、尊敬と畏怖の対象でありましたが、学問とは程遠い

少しばかり《小ばか》であろう母には、はてしなく深い愛情を

感じさせてくれる存在で、この世で、この上なく愛して

やまない女性のひとりです。誰とも、いさかいを起こさず、

平和的付き合いを重んじる彼女は、尊敬される女性ではなく、

ただただ愛される女性なのです。僕にはそれで充分なのです。

両親、特に母には感謝の念は永遠に尽きません。兄を大切に

し過ぎて、逆に甘やかせて育てたことを後悔していた父。

兄姉には内緒で僕に、こっそり小遣いをくれた母。客観的にも

ひいき目に見ても、美人とは言い難い母が、小中高学校の懇談会

時に、慣れない化粧を施し、変に凛(りん)と振る舞って、女性

をひけらかそうとする姿は見るに堪えませんでしたが、今では、

当時の自分の心意気を、強く思い起こして欲しいと思うので

した。


誰にも存在する母親。彼女は、子供がどんな時でも、どんな状況

でも、常に真実の母です。今でも子供の僕に掛けてくれる愛情

を、老いて自分を失いかけている母に、今度は僕が優しく見守

ってあげようと、思わされました。「かあちゃん、

見守ってあげるからね。心配しないで。わがまま言ってね」

ひとり眠りに就く時、涙が止まらない夜でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S. I LOVE YOU.


今日は、ほんの少し感傷的な気分になってしまいました。

なつぞら

日和(ひより)続きの今日この頃、毎朝泣かされています。じっ

ちゃん、ずるい。涙腺の崩壊の毎日です。歳をとるとほんとに

涙もろい。ところで涙もろくなるのは、過去の人生で、涙を流す

ような艱難辛苦(かんなんしんく)を数多く味わってきて、耐え

忍んできた証なのだそうです。それを天が、そのような苦しみを

持ったまま、黄泉(よみ)の国に逝ってほしくなくて、涙を流さ

せて浄化させるのです。そしてその過去を顕在か潜在意識の記憶

の中から取り除かせてるのです。老いてから、やっと天の許しを

得て、自分自身を癒して、美しい思いを抱いて、いつの日か還っ

て来てもらいたのです。戦争のせいで、両親を亡くし、孤児


(みなしご)になってばらばらに暮らすようになった三人兄妹。

北海道酪農家に住む、真ん中の姉(奥原なつ、広瀬すず)が、

人との出会いを通して、アニメの世界に魅せられ、成長していく

姿を感動的に描かれるであろう(まだ物語は始まったばかりなの

で、憶測の範囲です)夏の季節に向けて春から始まった「朝の

連続テレビ小説」。僕はとりわけ、気楽に観える、素敵な話が

大好きです。偶然の出会いが、これから始まる物語の幕開け

でした。そしてこの偶然の出会いの連続が、物語を動かして

いきます。話は逸れますが、人はよく世の中《偶然》はなく、

全ては《必然》なのですと言い切る人が居ますが、人間が

思いも及ばない《因果関係》で物事が決定されるならば、

《人智》の及ばないそれは、もはや人には成す術(すべ)

無しなので、必然なのではなく偶然なのでは? ただ自分が

説明出来ない結果の着地を、必然とすればスッキリするからかな


人生は間違いなく、ご縁の賜物です。世界中には知らない人がた

くさんいます。誰とご縁するかで、人生は大きく変化して行きま

す。その出会いは、偶然か必然か? ったく。まだはっきり

と全体像が見えてこないので、憶測の枠は出ませんが、多分、

テーマは《純粋》だけで人は生きられるのか? 様々な問題を

放棄した人間より、この問題と共に生きる人間を我々は愛し信じ

ます。人を信頼し、素直に正直に、優しく生きることは極めて

大切だとは思います。しかし現実は厳しい。そこで《純粋》の他

に柔軟な鎧を身にまとって、頑固で無愛想な人の心をも溶かし、

心を通い合わせていくのです。それは《謙虚》《忍耐》《節度》

《寛大》等であって、しかも何事にも惜しみなく愛情を注ぐので

す。その結果、多くの人々の心を動かしていくのです。人は

誰もが自分の《居場所》を求め、もがき苦しみ、息詰まる思いで

命を枯らすように、身もだえするのです。自分の足元が切り崩さ

れていくような不安感を覚えるのです。その結果人間は

自分が解決できていない問題を、他者を通じて解決しようとする

ようになるのです。自分は何もやらないまま、他人を羨

(うらや)んで、不満を募らせて、不機嫌をばらまいて

言い訳を重ねてしまうのです。ここでその《居場所》とは、

場所であったり、人間であったり、モノであったりするのです。

しかしとどのつまり、それは《心》以外あり得ません。それは

何かを真剣に思い続ける《自分の心》なのです。


人生を切り開く突破口は、ひょとするとすごく単純な事柄で解決

できるのかもしれません。人間の欲望と犯罪が渦巻く、この世の

中では、《純粋》な生き方だけでは世渡りができません。人は

はたまた、純粋な心は大切にしつつ、懐深く、度量の大きさが

必要です。周りの目を気にしないで自分本位に生きると、結果的

に社会から孤立するでしょう。


《素直さ》《飾らない美しさ》《裏表のない心》

不平不満文句を言わず、ひたむきに一生懸命に頑張る、に尽きる

のです。思ったことを何も考えず、 そのまま口に出すのは、

嫌われる人・・思ったことを伝えるのが怖くて、何も言わない

のは、忘れられる人・・思ったことを相手が受け取りやすく、

話すのが、好かれる人・・・ 自分はどれですか?


レイモンド・チャンドラーは、かくのたまいました。

「強くなければ生きていけない。

優しくなければ、生きる資格はない。」

彼風に申すなら、

「《愚か》では生きていけない。

《純粋》でなければ、生きる権利はない。しかし、

《ひたむき》でなければ、生き続けられない。」


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


この番組の主題歌、毎回素晴らしいです。毎日数回

番組放送時に、声に出して、身体ゆすって、リズムとりながら

歌っています。ストレス解消されます。


 

58の春に思う

4月に入って、春真っ盛り。春うららかな晴天の空の下、視線の

先には、繰り広げられる花々の共演。薄青空色にはピンク色、

土色と緑色の中には、黄色や白色がほのかに浮かび出て、映え

上がっています。半分眠い状態から、目覚めました。のどかな

景色です。思いの全てが一瞬消えてしまいました。自然の事物は

人の心を鎮めてくれます。嫌なことを忘れさせ、心穏やかに

なれます。そして誰もがきっと、四季を実感させる、野に咲く

花々や、木々に散らばり、溢れ開く花弁を、同じように美しいと

心を残す者なら誰もが感じるのでしょう。誰にも心があるの

です。けれども奇妙な事に、そんな目の前の事象に関わらず、

人は自分の思考に常に苛(さいな)まれるのです。何気に歳を

重ねたからこそ、シンプルでなく、少し深い事を考えてし

まうのです。毎日ネットで見られる僕の誕生日占いによると、

「生命力にあふれ、積極的で行動力に富む」らしいのですが、

本当かな? 誕生日から数日が過ぎ、定数化できてしまい、

残されるであろう、自分の有限の人生。もう58にもなれば、


おそらく、毎日一日、一日が、神様からのプレゼントの様です。

だから、そんな日々は粗末に扱えないでしょう。ぞんざいに

扱えば、それこそ冒涜(ぼうとく)、大罪になってしまいます。

そこでふと考えてしまいました。もしこの世の中で、今、僕が居

る世界と、僕が居ない世界との間に、どれほどの隔たり、違いが

あるのだろうかな? 仮に隔たりがゼロだったら、どうしよう?

僕が居ても、居なくても、この世界が同じなのだろうか?

どうなんだろう? 答えは知る由もない。どれほど違うかで

僕の人間としての価値が決定されそうです。ずっこけて、はい

つくばって、突き飛ばされたり、すかされたりし続けている僕の

人生。どれだけの人に、どれほど影響を与えているのだろうか?

今回の誕生日をきっかけに、やり直しの人生もいいかも、って

思いました。今まで僕の人生、たまたま目の前にある事象を

ひとつひとつ、こつこつと、こなしていって、今があるのです。

常にあるのは、やるかやらないか、の二択だけなのです。

生き続けるためだけに、《やる》を選択し続けたのです。

人には、生きる道はふたつとありません。選べる道は

目の前にいっぱいありますが、実際に進める道はひとつ

しかありません。偶然の連続の流転(るてん)の末、今

僕の居るこの世界では、全ては《天の配剤》なのでしょう。

人とは欲深い生き物なのに、社会の中では奇妙なことに人々は、

自分の思い通りに、自分を生きることよりも、他人の目を気に

して、お互いが厳しく監視し合って、生きる世の中になってい

ます。となると、他人の評価で、人生の価値は決まってしまう

ものなのでしょうか。人の人生は、天皇であれ、誰であれ、

《その人の人生の価値は、その人生を送った人、その本人にしか

わからない》はずだと思います。社会の中で生きていかなけば

ならない運命ならば、その呪縛から逃れられないのか。何を

もって成功と呼ぶのでしょうか? 何をもって幸せと言うの

でしょうか? 何をもって不幸せと言うのでしょうか?

人の価値って何なのでしょうか? 人生って何なのでしょうか?

答えが出せない分、考えさせられます。いずれにしろ、

厚かましく生きて生かさせて頂きます。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


読んでくれている《あなた(YOU)》が存在する限り、

この紙面には意義を見出せます。本当にありがとうございます。


 

言葉足らず

1;この歳(57歳)になると、他人から「おとうさん」

ってよく呼ばれます。

僕は既婚者ですが、子供はひとりもいません。

2;小さな子供を連れていると「おじいちゃん」っと

も呼ばれます。子供が居ないので。当然孫は居ません。

3;「トイレ 流す時は ボタンを押して下さい」

って注意書きがありました。トイレなんか当然流れません。

流れるのは水です。こういった内容、今週で3回ありました。

ちぐはぐなやりとりです。何かしっくりしません。

こういった経験皆さんありませんか?

当然どれも誰もが理解出来るでしょう。当たり前ですが

僕にも理解できます。でも、天邪鬼(あまのじゃく)で、

0か100か、の性格の僕には、モヤモヤが背中

を走って、玉虫色でグレイゾーンに突入して、99%

(100%じゃないのは宝くじのような感じ)当たらない石を、

投げたくなるのです。結果、気になって仕方ないのです。


聞くところによると、人間の話す会話の80%は意味の無い

言葉だそうです。だから見ず知らずの誰とでも違和感なく、

挨拶を交わすことが出来てしまうのです。といった意味では、

意味の無い言葉は、便利ではあります。残りの20%すら

意味の無い時もあります。にも関わらず、言葉だけを交わす人

はいっぱい。コミュニュケーションって一体何なのでしょう?


あいさつ等、いつもそこにあるものは、当たり前すぎて、さほど

気にしない上に、深く考えないため、少しの変化等には気付か

ないものです。それは気付かない間に、沁みついてしまっている

クセのせいで、思考回路が《マンネリ》や《型どおり》に

陥っているのでしょう。変わり映えのしない新鮮味の無い日常に

足りないものや望むものを出しきること、軽いスキンシップ、

小さな些細なことに、手を抜いてはいけないポイントが

あるのだと再認識しました。そして視点を変えてみて、

少し思い直してみれば、良いのかもしれません。もちろん気に

して、深刻になり過ぎても、意味の無いことは分かっています。


そこで、誰かと意思疎通を図る場合や、相手に何かを伝えようと

するには当然《言葉》が人間にとっては、最善のツールです。

ここで優しさは大切です。思いやりも大事です。よって

人間関係において「嫌われないこと」とか「不快感を与えない

こと」は必要です。であっても、最優先であるのは

「自分の思いを伝えること」です。寒さで固まり、行き届かない

思いやりと底の浅い思慮。結果、出て来てしまうのは、

得も言われぬ不協和音なのかもしれません。心のない言葉は

空虚であり、心のある言葉は(どれだけ表現力に乏しいもの

だとしても)心に刺さります。上手い下手ではありません。

大事なのは相手への敬意(愛とも言い換えれます)だと


思います。ここに至って、歴史的観点から、人間のふたつの

行動原理が見て取れます。ひとつは人間の思考傾向は、人間の

本質が、つくづく《性善説》に基づいていることを証明して

います。言い換えれば、あまねく出会う人は、私である自分を、

悪意を持って、攻撃するものでは決して無いのであって、

例外なく誰もが、好意的に、優しく親しみを持って、

出会えたことに感謝を示そうしている、と相手のことを、

考えているのでしょう。もうひとつは、生物界において、

生態系のバランスの保持と維持のため、また数の論理

(食物連鎖)の上で、特に動物は、争いは避けられず、

殺し合いを余儀なくされてしまいます。しかしながら、

知能の高い動物(人間)こそ、食料の確保や種の保存のために、

戦争は例外として、生死を賭けてまで、争わない方が、

得策であることを思い知ったのです。それから学んだことは、

相手に、敵意を見せない示さない、平和的友好が最善な手段

なのだと、身に染みて痛感したのです。ですから、どのような

言葉であっても、人はお互いにとって、都合の良いように

解釈して、平和的に受け入れているのでしょう。だとすれば、

コミュニュケーションには完璧な言葉は必要ないということ

なのでしょう。加えて、


日本人は《言葉の縁起》をとても大事にしています。

結婚式では「別れる」「切れる」の言葉は、ご法度(はっと)

で決して口にはしません。しかし、強気でも弱気でも

「目は口ほどに物を言う」って言われます。ことに恋愛なんて

賭けなきゃ。自分を投げ出さなきゃ。始まりませんよね。

思いを伝える難しさと、伝わらないもどかしさへの一喜一憂は、

当人にとっては、おおげさでなく死活問題です。大概思い描いた

筋書とは裏腹に、意志疎通が、滑らかになされないのです。

その結果、悲しい結末で、袂(たもと)を分(わか)つのです。

おそらく、人間関係には言語能力、日本語力、語彙(ごい)力

などよりも断然、想像力が求められるのではないでしょうか。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S I LOVE YOU.


 

無題


強運


いきなりですが、いちごパンツ、ってご存知ですか?

そんなの簡単って思われたあなた、学生時代に

ちょっと、軽く勉強されたか、歴史に興味のある方ですね。

似たような言葉で、いちよむなしく、いやろっぱ、むしごろし、

これで、はっ、はっ、って分かるのでは。そうです、西暦の

語呂合わせなのです。仕事が終わって夕食前にBSテレビで


歴史学者の磯田道史氏が番組内で口にしたのを聞いて

驚いたのでした。磯田氏は、最近僕のお気に入りの人物で

博学多才であって、歴史に対する評価が斬新な切り口で、尊敬

とともに心惹かれる方なのですが、そんな大先生でも、歴史の

年表を、邪道ともいえる、語呂合わせで覚えていられることに

驚きとともに、この人も、僕と同じなのだと、とても嬉しく

なったのでした。ここで、いちごパンツとは1582

(天正10)年の事で、日本史史上重要な年なのです。


ひとつは明智光秀が織田信長を自刃に追い込んだ、本能寺の変。

もうひとつは織田・徳川軍が甲斐の武田勝頼を自害させた年。

織田・武田といった戦国時代をけん引した二大名家の滅亡が

同じ年に起こりその後、時代が大きくうねり始めだしました、

と言った、日本史史上意義深い分岐点のひとつなのです。

織田信長はまさに風雲児、それまでの日本人の価値観を、

根底からひっくり返し、能力と実力を重視して、地位や名誉、

肩書などはほとんど無価値だと考えていました。

その考え方は現代の人間にも通じる考え方なのです。


しかも新しもの好きでだけではなく、《本物》を見抜く力も

持っていた、神に選ばれた《魔王》なのでした。

一方武田勝頼は鎌倉時代から続く名門、戦国最強軍団を築いた

甲斐の虎こと、武田信玄の庶子(しょし)で甲斐武田家の当主。

聡明で領民思いで、父信玄時代より領土を拡大した名君でした。

ふたりとも時代の表舞台に出て、スポットライトを浴びたと

思ったら、突然姿を消した、《不運な英雄》なのです。そう、

ただ《運》がなかっただけなのでしょう。悲運の将なのでした。


長い日本史の歴史から見れば、彼らは、ほんの一瞬程しか

登場しないのですが、鋭く輝く閃光のような記憶と記録を

我々に深く刻みつけた英雄なのでした。逆に、長く光り、しかも

くっきりと地道に輝き続け、大きく花開き、天寿をまっとうした

勝ち組の英雄、秀吉、家康、等も存在しています。


彼らは決して派手さはありませんし、しかも保守的な活動ながら

も、地道に慎重に、かつ忍耐強く思慮深く案件に対処しました。

不思議なことに、彼らも目先の我欲に走りながらも、後世に

有益になるような功績を、数多く残しています。

悲しい最期と天寿をまっとうした英雄の違いは何なのでしょうか

それはただ《強運》と言えるのでは。どれほど能力があろうが

努力しようが善良であろうが、《強運》のある人には残念ながら

到底勝てないのが現実社会なのです。《運》のあるなしは

誰にも読めません。それが《競争社会》の原理、原則なのです。

現在大河ドラマ「西郷どん」放映中ですが、明治維新の新政府の

要人のほとんどは、その最期は暗殺か、自害です。

「神はサイコロを振らない」とはよく言われますが、それは

考えられる、全ての条件(科学的要因)がたとえ同じで

あったとしても、導き出される結果は決して同じではない

場合もあるのだそうです。どんな物事の結末にも、

人間にはもちろん、神様さえも、関わっていない不確かな要因

が存在するのです。そしてその不確かな要因が多少なりとも

その結果に影響を及ぼすとしたなら、我々は一体何を信じて

生きていけば良いのでしょうか? 各個人に委ねましょう。


何を信じる


先日、又吉直樹の番組ヘウレーカでの事。ある学者先生の話が

興味惹かれる内容でした。学生時代の宗教の授業時間。先生で

ある神父さんが、生徒の前で、聖書を手にして「今からここで、

人間の起源において、聖書が正しいのか、進化論が正しいのか、

議論をしなさい」っと言われて、聖書派と進化論派とに

分かれて、議論が始まったのでした。進化論派である学者先生

が「人間の起源の問題を、宗教で書かれている内容と科学書に

書かれている内容とではどちらが正しいでしょうか?」っと、

聖書派に問うたそうです。聖書派は反論できなかったのでした。

それを見ていた神父先生が、進化論派に対して「その点に

おいては、君たちが正しいのかもしれない。しかし

この世界の半分以上の数十億人は、この本である聖書に、

すがらないと、頼らないと、生きる指針としないと、

生きていけない人間なのです。しかもそれぞれの

人生において、この聖書を、心の糧(かて)にして、活きる

力として、生きて生かされているのです。そして君は、そういう

人間が存在していることを、理解してあげる努力をすると

君は将来立派な科学者になれます。」とおっしゃったそうです。

それぞれの個人にとっては、自分の人生において、世の中の

正しい事や完全なものだけが、必ずしも《正解》や

《信じるにたるもの》ではないのでしょう。


普遍的で誰もが《正しい》と考えられているものだけが

世の中の常識として信じられているのではないのです。たとえ

科学者であっても、世の中には、目に見えるものだけではなく、

目に見えないものへも思考を向ける柔軟性が、欠けてしまうと、

私たちは《目に見える、半分だけの、精神的に貧しい世界観》を

妄信的に生きることになってしまうのでしょう。

見えるものと見えないものには境界線などはなく

きっと、連続性の上で成り立っているのでしょう。


名言


・「たった一度の人生に何を刻むのか。

自分の生きた証を、何を持って語れるのか。」

by プロジェクト X、新リーダーの言葉

考えさせられました。

・「すべてこの世はこともなし」

by ロバート・ブラウニング

(神が天に居られるので、)世の中全体が平穏である


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

下町ロケット

期待にたがわぬ、とはまさにこういうことを

言うのでしょう。予想を超える、対価を払ってもなおも

おつりが返って来るほどの、満足感で締めくくられました。

やっとゴースト編が終わったところなのに。物語はまだ始まった

ばかりなのです。またまた始まりました。零細企業の逆襲です。

テーマは「宇宙(そら)から大地へ」別の言葉で「ロケットから

農業機械へ」です。「週刊文春」連載ベストセラー小説です。


技術立国日本らしい、レベルの高い自分の技術に自信と誇りを

持った、でも商売下手でお人好しの人達の集まる中小企業、

佃製作所が、様々な苦難障害に直面しながらも、強い経営

理念と哲学を曲げることなく、たとえ壊れやすくて弱いながらも

一枚岩でも受けて立ち、全身全霊を傾けて、どうにか

乗り越えていくのです。ところが、ほっとしたのも、

つかの間です。あくどい輩は、執拗に留まる事無く、

否応なく小さな、ほころびを見つけては、想定外の手口で

攻撃を仕掛けられ、危うく切り崩されそうになります。

しかし崖っぷちの瀬戸際で、機転を利かせ、

はじき返し守りぬくのです。転じて反撃を繰り出し

最後には、勝利の雄叫びを上げるのです。


天才的で整合性のある、隙の無いストーリー展開と

物語の重要な分岐点での、絶妙な会話の駆け引き。

そして必然的に、どんでん返しで最後に勝利するなんて、

まさに池井戸作品の真骨頂なのです。どんな窮地に陥って、

先の見えない状況であっても、複雑で絡み合ったであろう

問題の糸が一気にほどけて、解決に導かれていくのです。


著者池井戸潤氏の作品の主人公は、誰もが共通して

思い描くであろう《善人》が《悪人》に必ず勝利します。

桁はずれのお人好しで、自分の事よりまず他人の事を

心配して、考慮して実践努力してしまうのです。今作も


自分が信じる《正義》のため、「困った人が居れば、見過ごせ

ない、救いの手を差し伸べる」と言った信念の行動原理が

存在するのです。解決の糸口の見つけ方は、人間の本心である、

心境の変化を詳細に描写することによって、物語を展開、

進行させていきます。そして最後の決め手は、我々人間が

《原点回帰》の行動をとった時に、初めて気付かされるのです。

その後、真理がさらに見えてきて、どれほど小さなきっかけ

であっても、突破口にして道が開かれる、と言った手法は、

まったくぶれずに顕在でした。


現代人が失いつつある、数字やお金だけでは表現出来ない

熱い《夢と情熱》だけが一番の才能で売りといった、

熱い善人による、勧善懲悪の物語なのです。こざかしい

《悪人》どもを心優しい《善人》達が、打ち砕いて

勝鬨(かちどき)を挙げる姿を見て、すっきり、スカッと

心晴れ晴れして、留飲(りゅういん)が一気に下がります。

しかるにその過程は紆余曲折で、戸惑いながら、彷徨

(さまよい)いながらも、人間の根源である《魂の尊厳》に

光が当てられ、人間の《良心》、《善》、《誠意》をとことん

信じ、自分の《正義》を貫いて生きる姿勢に感動して、共感する

仲間との痛快サクセスストーリーに僕も感涙(かんるい)に

くれるのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

未来

不思議なもので、半世紀以上生き続けて、年老いてくると、

若いころよりも明らかに、その先は短くなっているにも関わらず

若い時よりも、未来のことを考えることが多くなってきます。

先が短いがゆえに、先が読み易いこともあるのでしょうが、

まだやり残した事が多くあって、残された時間内に

どうにかしてやり遂げたいと強く願っている心境なのに、

具体的に動き出せない自分がいるのです。でも気持ちが切迫

する中、時間は容赦なく無情にも過ぎて行きます。どうしよう。

さらに知り合いが次々逝ってしまうと人生は無常だ、はかない。

結果、毎日焦り始めているからなのです。自分はなぜに、どこに

向かっているのだろう。答えの出ないことを考え始め、

自分ひとりの禅問答が始まるのです。特にこれと言って、

とりえの無い自分にがっかりしてしまいます。だめだ、だめだ、

今の自分に、見切りをつけるようなことだけはよしておこう。

考え込んで、過去を振り返ると、自分が悲しい道化師に

なったみたいなのです。ただで得られるものなんて存在しない、

どんなものにも代償は払わなければならないのです。おそらく

人間誰しもが、過去を土台にする以外に、未来を考えることは

出来ないはずです。

強く意識的に自分を顧みない限り、人間の未来に対する行動は、

現在の行動の延長線上にしかないのです。


僕ら含めて、総じて、サラリーマンって人種は、時間の切り売り

なので、なまじっか苦労して手に入れたお金が、多過ぎず

少な過ぎず、中途半端に持っていると、手放すのが

惜しいのです。そうであるから目の前にチャンスが

巡ってきても、なかなか、それに飛び込むことができません。

持っている《もの》を失うことを恐れて、みすみすチャンスを

逃すことになりかねません。何かを得ようとするなら、

今持ってる何かを手放して、物理的に空間を作らないと、

新しい何かは入ることはできません。


我々には誰ひとりとして、先回りして未来を覗

(のぞ)き見することは出来ません。しかも未来を正確に

予見することも決して出来ません。たとえそうであっても、

楽しい明るい未来を夢見て、子供のように心躍らせて、

わくわくどきどき、することは、誰にだって出来るはずです。

何をお前ごときがの上からのもの言いのようですが、立て続けに

身に起こった事柄で、寒さと共に、つとに身に染みた事でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。今日は思いつくままに、書きなぐってみました。


 

ナビゲーション

初めて出かける場所へ「目的地です。お疲れさまでした。」

カーナビって便利ですよね。数十年前ならともかく

現在、車の運転で、カーナビ使ったことのない人ってまず

居ないでしょう。科学の発展によって我々の生活は本当に

便利になったようです。カーナビの開発はすでに昭和時代から

始まっていました。当時から未来予想で《自動運転》の概念が

あったそうです。斬新な発想と豊かな才能を持つ人がその当時

から日本に居たなんて驚きです。当時僕なんて車内から道行く

女性を、目で追うてばかりで「発想」でなく「妄想」が日常

茶飯事でした。顔から火がでるような思いです。お恥ずかしい。


現在何処に居ても「目的地」さえ入力すれば、そこまで導いて

くれるなんて楽でいいですよね。でも時には最短距離や最速の

行程を選択してくれないことも、多くの頻度で発生しますが。

時にまわり道なんて、このあたり人生と似ていて面白いですね。

「設定」によっては高速道路を外したりと、通りたくない道も

除外することもできますが、度々「ルートを外れました。」と

音声で注意を喚起してくれます。いっそう、人生の途中でも

信頼できる何か(神様)から、そう言ってもらえればいいのに。

きっと楽かも。面倒くさい時が、人生多いですから、ね。


自殺者、精神疾患者の多い、まともじゃない現在の日本。

人生の未来を悲観したり、何度もドロップアウトして

人生の障壁と先の見えない時に人生のナビでもあれば楽

もしかして、近未来願望の未来世界で、自分の「目的」を

入力すれば、何でも自動で導いてくれる《人間人生の目的》の

ナビゲーションが、作られる時代が訪れてくるかもしれません。

その目的の空白欄には「お金持ち」や「世界一の美人」とか

「幸福な結婚」、「独裁者」、「不老不死」とかが

入力されるかもしれません。それが発明されれば

たとえ一刻(いっとき)の苦痛からでも、開放されて、明るい

未来の見通しが立ったなら、明日を生きる希望が生まれるやも。


僕なら「苦労しないで楽しく生きる」と入力しようかな。

「それは無理です。」「真面目に地道に努力を続けて下さい。」

とか諭され、説教されてしまいそうです。今、僕の人生振り

返って、もちろん《夢》はいっぱいありましたが、どれも

《ただの夢》で終わっています。結局楽なサラリーマン

なんて情けない。今となっては、《本気》じゃなかったって

ことでしょう。でもそれもただの言い訳ですね。自分に才能が

なかっただけなのです。だっていつの時代でも、才能のある者は

どのような境遇に置かれようと、悪い状況に陥ろうとも、必ず

乗り越えて、事を成して、名を残しています。結局は、


「意思あるところに、道は開ける」でしょうね。しかしこれも

どれだけ《言葉やことわざ》をたくさん知っていようが、

考えていようが、本当の《真理》そのものを知らない者には、

どれほど優秀で、完璧なナビゲーションが存在しても、

おそらく「目的地」にはたどりつけそうにありません。

「コースがそれました、リルートして下さい。」の連続で、

最後にも「目的地付近です」と、さまよってばかりでしょう。


でもそんな《人間人生の自動》のナビゲーションなんて絶対出来

っこないでしょう。だめだ。またやる前から無理って決めつける

僕の悪い癖。想像の世界くらい気楽に楽しまないと。喝(かつ)

僕は人間のナビゲーションにはどこか、うさん臭さを感じます。

その人間が自分の利害を最優先させてしまうのが人間の欠点。

機械であれば、多分人間に優劣を付けないで公平でしょうから。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。夢の持てる明るい未来に、乾杯!!!


また明日から楽しく書こう!!


 

貯金

新しい週になりました、、、今朝、、、、目覚めとともに

先日視聴したBSテレビの字幕が頭をよぎりました。

「地球の《表情》は、その内部でふつふつと沸き上がっている、

マグマの大きなエネルギーの流れによって、ダイナミックに

形成されました。」と心の中で黙読したと同時に

その時の深紅(しんく)のマグマのダイナミックな

動きが映像となって強烈によみがえって脳内を占拠(せんきょ)

しました。おかげでトイレ内で、最近元気のない男性自身を

手にして、年齢のせいだとばかりに決めつけ、へこんでいた

気持ちにむちを打つことができました。その後


洗面所の鏡に映っている、覇気(はき)のない目元を

手でこすって洗っていると、何事においても少しやる気の失せた

原因を探(さぐ)ってみようと考えてみました。日課の

ルーティンを変更してパソコンを立ち上げ、メールと

ブログのチェックをしてみました。ここ最近の自分の

ブログを読み返して、はたと気が付きました。客観的に視て

ありふれた発想、貧困な切り口、当たり前すぎる

面白くない内容に、思わずゲロが出そうになりそうでした。

原因は即座に思い当たりました。思考力の低下、こう着状態に

陥っているからなのでした。昔から「小人(しょうにん)

閑居(かんきょ)して不善をなす。」と言われますが、僕の場合

「小人閑居して、《こと》を行わず」なのでした。近々


仕事量が減るにつれて、自由な時間が増えてしまって

寝て、起きて、食べて、小言を言っては、自己嫌悪に陥って

また食べて、少し仕事をして、動いて、食べて、寝て、、、、

といった、極めて創造力のかけらもない人間らしくない、

「なまけもの」の体(てい)たらくな、ぐうたらを

過ごしていたかもしれない、との内省に

至ったのでありました。でも「後の祭り」です。


「時は金なり」といったメタファーがありますが

「時間はお金と同じくらい大切なものなのです。」といった

戒(いまし)めでしょうが、実際には「時間はお金、以上に

重要なものなのです。」ご存知のように、時間は何の制約も

受けることなく流れ去って行ってしまいます。

平家物語で白河法皇は「加茂川の水、双六の賽(さい)の目

山法師、これぞわが心にかなわぬもの。」また方丈記で鴨長明は

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と

古来より、流れて過ぎ去っていくものは、止めることができない

人間の思い通りにならないと、世の無常を嘆いていました。

現代においても、河の流れはともかく、時間の流れは

人智の及ばざる事柄です。


生まれながらに、不平等、不公平に与えられているもの

《お金》等は、自分自身の努力、裁量でその量や多さは

どうにかすることが出来ます。一方、生まれながらに人間に

平等に与えられているモノの《寿命》と《時間》は自分の

モノであるにも関わらず、自分の思い通りに取り扱うことが

出来ません。どちらも手元に留(とど)め置くことが

出来ないのです。言い換えるならば、貯蓄(貯金)がどちらも

出来ないのです、誰しもが、歳を取り続け、時間を

さかのぼって、戻ることなど出来ないのです。

神様のすることは人間の理解の範疇を超えています。


現実に目に出来るモノは、自由にため込んで好きな時に

取り出して使用することが出来ます。しかし「光陰矢の如し」

です。まさに《チャンスは貯蓄出来ません》。


手元の現金(モノ)が少なくなれば改めて、その存在の重要性

大切さに気付かされ、注意深く慎重丁寧に取り扱います。しかし

少し現金(モノ)に余裕が出来ると、人はとかく、倹約を忘れて

しまって、ついつい、ぞんざいに扱ってしまいがちです。

大切なものほど、失って初めて気付かされるものなのです。

その時には残念ながら、もう手遅れなのです。


貯金のできる《モノ》より、貯金の出来ない《モノ》をもっと

大切にしようと痛切に感じた、57歳、平成最後の秋の

盛りの一日でした。何事も無駄のなく、効率良くなど

生きれない、利口者でない、小馬鹿で小心者の僕なのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。次も楽しんで書こう!


 

 

 

言葉

先日ふと思った。この世界は《言葉》であふれかえっている。

でも「言葉」って一体、誰の、どこから、生まれ出て、

理解されて伝わっていくのだろう?

誰かが、どこかから、何かを聞いて、口から言葉として

吐き出ていくのだろうか?それとも、誰かの身体

の中から、自然と湧き出て、言葉となって出るのだろうか?

言葉の最初の発生とその伝承の謎の解明に何気に気付いた事。


今年のお盆期間は言葉の未熟な幼児が初めて我が家に

やって来ました。午前中の活動は、初めての体験に

緊張して疲れたのか、車に乗り込むとあっという間に、

こっくりこっくりと、船をこぎ始めてしまいました。

重い頭が固定できずに、振れてしまう頭を、両手で自然と

バランスをとっている姿がいじらしく、僕の身体にもたれ

掛けてやると、すやすやと夢の世界に。可愛い寝顔にうっとり。


うたた寝も兼ねて昼食も摂ろうと、いったん家に戻り

マットに寝かせて自分たちもそれぞれの寝床で

横たわっていました。空気がよどまないようにと

すべての部屋の仕切りを開け広げ、明かりをつけない状態

のままでいると、僕の部屋の入り口付近に、起き出した

彼の姿が目に入り、ふと視線が合いました。


「***、どうした?」無言ですが目が何かを訴えていました。

「寂しい?」大きくうなずきました。僕は不思議に思いました。

彼は、《寂しい》って言葉を知っていたのかな?

彼は、いつ、どこで、覚えたのかな?

《寂しい》の意味を、どこまでどれほど、解っているのだろう?

もう一度尋ねました。「ひとりは寂しい?」うなずきました。


一歳余りの彼は、聞いたことはあっても、おそらく誰かに

何かで覚えたのではないはず。なぜなら《寂しい》っと

口に出せないから。知っている言葉ではないはず。

でも聞くだけで、なんとなく体感できる、分かる

理解できている。賢明な彼には空気が読めるのでしょう。

自分の感情を、口で発することは出来なくても、

不思議なことに、聞くだけで、その言葉の意味を《共有》

出来て、把握できているのだ。なぜだろう?不思議だ。

言葉は分からなくても、知らなくても

当然人間は解り合える存在なのだ。


《言葉》の成り立ちや細かい意味を、頭で理解できていなくても

《言葉》は、特に感情を表す《言葉》は頭で理解するものでは

ないのだ。

「初めに言葉があった」とは聖書のヨハネの福音書にある。

ところ変われど、《言葉》は人類の歴史とともにどこかで

生まれ出て発展しているのだ。


《言葉》の持つ、その《響き》や《雰囲気》は、頭の中を

通り越えて感じてしまうのだ。ゆえに《言葉》は身体全体で

感じ取る《感性》なものであることを、改めて幼児から

教えられた。だから《言葉》とは、長い歴史の果てに

身体(DNA)に沁み込んだ、きっと人間の身体の一部分から

吐き出されてできた、身体の一部分のはずだ。ゆえに《言葉》は

頭で、理解するものではなくて、長く忘れていた記憶を

思い出すように、身体で感じ取るものなのだ。そして言葉は

不思議なもので、身体の部分から出来上がったものだから

ひと文字、ひと文字、まったく無駄がなく、

過不足なく、出来ているのです。やはり世の中には、

無駄なものや、無駄なことは、何ひとつ絶対に無いのだ。

《言葉》は絶対、感じるものであって、《生き物》であり

《ミュージック》であり《リズム》であり

《波》や《感性》なのだ。

つまるところ、よくわからないが《言葉》に関して

現在感じ得た、僕のつたない言葉でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。