58の春に思う

4月に入って、春真っ盛り。春うららかな晴天の空の下、視線の

先には、繰り広げられる花々の共演。薄青空色にはピンク色、

土色と緑色の中には、黄色や白色がほのかに浮かび出て、映え

上がっています。半分眠い状態から、目覚めました。のどかな

景色です。思いの全てが一瞬消えてしまいました。自然の事物は

人の心を鎮めてくれます。嫌なことを忘れさせ、心穏やかに

なれます。そして誰もがきっと、四季を実感させる、野に咲く

花々や、木々に散らばり、溢れ開く花弁を、同じように美しいと

心を残す者なら誰もが感じるのでしょう。誰にも心があるの

です。けれども奇妙な事に、そんな目の前の事象に関わらず、

人は自分の思考に常に苛(さいな)まれるのです。何気に歳を

重ねたからこそ、シンプルでなく、少し深い事を考えてし

まうのです。毎日ネットで見られる僕の誕生日占いによると、

「生命力にあふれ、積極的で行動力に富む」らしいのですが、

本当かな? 誕生日から数日が過ぎ、定数化できてしまい、

残されるであろう、自分の有限の人生。もう58にもなれば、


おそらく、毎日一日、一日が、神様からのプレゼントの様です。

だから、そんな日々は粗末に扱えないでしょう。ぞんざいに

扱えば、それこそ冒涜(ぼうとく)、大罪になってしまいます。

そこでふと考えてしまいました。もしこの世の中で、今、僕が居

る世界と、僕が居ない世界との間に、どれほどの隔たり、違いが

あるのだろうかな? 仮に隔たりがゼロだったら、どうしよう?

僕が居ても、居なくても、この世界が同じなのだろうか?

どうなんだろう? 答えは知る由もない。どれほど違うかで

僕の人間としての価値が決定されそうです。ずっこけて、はい

つくばって、突き飛ばされたり、すかされたりし続けている僕の

人生。どれだけの人に、どれほど影響を与えているのだろうか?

今回の誕生日をきっかけに、やり直しの人生もいいかも、って

思いました。今まで僕の人生、たまたま目の前にある事象を

ひとつひとつ、こつこつと、こなしていって、今があるのです。

常にあるのは、やるかやらないか、の二択だけなのです。

生き続けるためだけに、《やる》を選択し続けたのです。

人には、生きる道はふたつとありません。選べる道は

目の前にいっぱいありますが、実際に進める道はひとつ

しかありません。偶然の連続の流転(るてん)の末、今

僕の居るこの世界では、全ては《天の配剤》なのでしょう。

人とは欲深い生き物なのに、社会の中では奇妙なことに人々は、

自分の思い通りに、自分を生きることよりも、他人の目を気に

して、お互いが厳しく監視し合って、生きる世の中になってい

ます。となると、他人の評価で、人生の価値は決まってしまう

ものなのでしょうか。人の人生は、天皇であれ、誰であれ、

《その人の人生の価値は、その人生を送った人、その本人にしか

わからない》はずだと思います。社会の中で生きていかなけば

ならない運命ならば、その呪縛から逃れられないのか。何を

もって成功と呼ぶのでしょうか? 何をもって幸せと言うの

でしょうか? 何をもって不幸せと言うのでしょうか?

人の価値って何なのでしょうか? 人生って何なのでしょうか?

答えが出せない分、考えさせられます。いずれにしろ、

厚かましく生きて生かさせて頂きます。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


読んでくれている《あなた(YOU)》が存在する限り、

この紙面には意義を見出せます。本当にありがとうございます。


 

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