稲作の村文化

ある団体で「マスク上げてください」「マスク、マスク」と

やたらとうるさい、全国的に正義感中毒がはびこって社会問題を

引き起こしているらしい。

現実的な合理性や客観的な論理性を無視してでも、

個を捨て、集団に寄り添わないと生きにくい社会。

それが日本。使われにくい、嫌われると生きていき難い。

ほんと面倒だ、窮屈だ。社会通念にあらがうことが許されないということだ。


日本人はなぜに集団主義的傾向が強いのか?

そのひとつの理由は、古くからの農耕社会にまでさかのぼる。

欧米人は麦作、日本人は稲作だからというもの。

麦作は比較的簡単に育て作ることができる。個人でも家族くらい

の集団で容易に育てられ作れるのだ。わざわざ仲間を作る

必要がないのだ。一方、稲作の発育には何よりも水が最重要要因

である。そのためには、《かんがい》が必要になる。

「我田引水」の理由で大量殺りくまで発展するほどなのだから。

その《かんがい》を維持、管理するには、集団で共同体を造る

必要になる。その共同体を、維持しようとするには、

そこには必ずルールがある。不思議なことに、

それを維持するためには、問答無用で、他人に

《ちょっと犠牲を払いましょう》、

《労力を払いましょう》、といった自己犠牲的振る舞いを

求められる。そこにたとえ、論理性や合理性が成立していよう

が、していなくてもだ。やっかいなことに、しかもその犠牲が

美しく、尊いものに見られる、といった大いなる誤解を生む。

しかしながら、それを払わずにひとりだけ得をしようとする人が

いたら、みんなも同様に得をしようとして労力を払わなくなる、

犠牲を払わなくなる。もし、そういう人がでると集団、共同体が

壊れてしまって困るから、それを排除するか罰を与えようと

なる。話し合いで納得させようと努力することなしに・・・

罰として、寄ってたかって注意をしよう、足を引きずり

下ろそうとするらしい。ある意味、いわれなきイジメだ。

集団を維持するために必要な社会性のひとつといった

もっともらしい口実をたてにして。確かに、


個を殺し、組織を大切にするため、社会通念や同調圧力に従って

生きる方が日本社会には適応している。個を捨ててみんなで

一緒に何かをするのが好きな人は、統計によると、

日本人の7割に及ぶという。自分で意思決定するのが楽しくて

好きだと思う人は3割にも満たないらしい。

7割以上の人は、自分で決めるより

他人に何かを決めてもらって生きる方が楽だと思っている。

この時、脳科学的に、大脳皮質から快楽ホルモンである

ドーパミンが放出されるらしい。

自由意志がわずらわしいと感じる人が日本人には多数いると

いうことだ。

なんともどこを切っても金太郎アメといった日本人らしいではな

いか。稲作の村文化が生んで育んだまったく悪しき習性だ。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。今日も笑ってよろしくです。


 

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