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本能寺の変(光秀)

1582(天正10)年、6月2日、午前0時、

京と中国地方との分かれ道、沓掛(くつかけ)において

光秀軍1万3千の兵は休憩をとります。やおら、

立ち上がった光秀は軍配を掲げ叫びます。「敵は本能寺にあり」

光秀軍は進軍の後、本能寺を取り囲み、勢いよく寺内に

討ち込みました。実際、寺内は異様なほど静かで、ネズミ一匹

見当たりませんでした。やがて、本能寺は火を放たれました。

燃え盛る炎の中で、「是非に及ばず(やむ得ない)」といった

謎めいた言葉を残し、信長は自刃をし、わずか49年の生涯に

幕を閉じました。世に言われる「本能寺の変」です。


いまだ、日本史史上最大の謎のひとつ、とされるこの事件。

「なぜに、光秀は主君である信長を討ったのか?」

「光秀の単独犯行か、共犯者はいたのか?」このふたつの

疑問は残されたまま、いまだもって、議論の的になって、

日本史ファンのロマンを掻き立ててやみません。


敗者(明智光秀)が主役の大河ドラマ「麒麟(きりん)が来る」

のクライマックスになるであろう出来事。勝敗は明白でした。

信長は供回り少人数。光秀は大軍。望む物は《信長の首》ただ

ひとつのみ。しかし、いくら探せど探せど見つからない。

「なぜに? 」 日を改めても、多数でも見つからない。

光秀、三日後の6月5日、信長の居城、安土城に入城。

朝廷に銀500枚献上。室町時代の古い領主を呼び戻しました。

近畿の武将たちに呼びかけます。しかし、光秀を支持する者は

ほとんどいませんでした。本能寺の変から11日後、6月13日

中国地方から駆けつけた秀吉によって、あっけなく敗れました。

居城、坂本城に逃げ延びる途中、京都の小栗栖(おぐりす)の

竹やぶの中で土民に襲われ落命しました。この後、

主君を裏切って、天罰が下ったものと噂され、謀反人として

歴史に名を刻まれました。《三日天下》は実際は11日でした。


福井市郊外に、光秀が浪人の頃、住んでいた東大味町の村の畑の

一角に、小さな祠(ほこら)があります。光秀は地元では

「あけっつま」と呼ばれ親しまれています。信長が越前を攻め

滅ぼした時、光秀は、かつて親交のあったこの土地の人々を守る

ため、力を尽くしたといいます。その光秀に、地元の人々が感謝

の意を込めて、そのほこらは建てられたものです。この近くの者

の家に、世間の目をはばかって守られてきた光秀の小さな木像が

今も残されています。それは、今も一年に一度だけ、命日の

6月13日に、ほこらに祀(まつ)られ、法要されます。主君

信長を討ち、謀反人として、歴史に刻まれた明智光秀。しかし、

その本当の優しさを知る人々は今も彼の人柄を慕い続けています


ここで、見方を変えれば、全てを破壊して、新しい秩序の時代を

作るという信長のやり方に、光秀は、ブレーキをかけた、とも

言えるでしょう。歴史の転換期には必ず、アクセルを踏む者と

ブレーキを踏む者が出てきます。後世、アクセルを踏んだ人は

人気がありますが、ブレーキを踏んだ人は人気がありません。


しかし、ここで、光秀の果たした意義を考えてみると、

仮に「本能寺の変」なかったとしたら、間違いなく、信長は

天下を取っていたでしょう。日本を統一して、朝鮮に攻め込み

、中国大陸をも侵攻していったでしょう。考えられないような

《暴走》をやったかも知れません。そうであったならば、当時の

人々の受けた苦しみや悲しみは、計り知れないものではなかった

のではないでしょうか?


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。またお逢いできる日まで。


江戸時代の戯(ざ)れ詩に、戦国三傑を詠んで

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

と、信長を評して、あります。

光秀なれば、

鳴かぬなら 放してやろう ホトトギス

であろうか


 

歴史(井伊直弼)

一期一会(いちごいちえ)ご存知ですよね。本当はもっと深遠で

人生にとって有益な教訓なのでしょうが要約すると、今この時は

生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意味。

語源はもちろん、安土桃山時代の茶人、千利休の茶の湯の

心得にあったとされています。しかし最初に書物に記載した人物

は歴史上、大悪人と揶揄(やゆ)されていた、幕末のあの大老の

井伊直弼(なおすけ)なのでした。著書『茶湯一會集』の巻頭

には有名な「一期一会」があるのです。でもそんな彼も、

幕末期、多くの維新志士を断罪(だんざい)し、死に

至らしめたとして、明治維新以降、その評価は最悪でした。

しかしです。明治時代の終わりごろから、再評価されるよう

になったのです。なぜ? ここで日本史の再検証です。僕は今

歴史にはまっていて、隙間時間に様々なメディアで視聴を

楽しんでいます。この時間が「あっ、いいな」って

恍惚(こうこつ)としています。


近代日本史の大きな転換点のひとつ。通常、幕末

(約15年間)と言われる、武家政権の終焉(しゅうえん)

(1868年)のきっかけとなる事件。1853(嘉永6)年

(いやでござんす)黒船来航。米国ペリー率いる艦船4隻が

大統領の国書を携えて江戸湾浦賀(現在横須賀市)に寄港。

当時13代将軍、家定は病弱で国政は無理。老中首座の

阿部正弘(備後福山藩)は各藩に相談するも、開国派

(井伊直弼等)と反対派(水戸藩徳川斉昭等)の対立は激しく、

その対処に苦悩していました。そんな中、直弼は大老に

就任しました。その後米国総領事ハリスから早急に開国を

要求されました。諸藩に意見を求めるも、開国やむなしと

考えていた直弼は、反対派の説得に努めましたが、色よい返事が

得られず、特に徳川斉昭(なりあき)が強硬に反対して

いました。そのため回答を引き延ばしていましたが、都の天皇に

勅許(ちょっきょ)を得られないまま、調印してしまいました。


井伊直弼は彦根藩(今の滋賀県)で11代藩主、井伊直中の

14男として誕生しました。将来、藩主になれる見込みは

極めてありませんでした。しかし彼は世の中を恨んだり、出世の

夢を抱いたりしないで、ただひたすら埋もれ木のように

こもって、自分のなすべき事をやっていこうとしたのです。

宛行扶持(あてがいぶち)と言って、一方的に与えられるわずか

な手当てで、自分の住居を埋木庵(うもれぎあん)と呼んで

300俵で部屋住みとして、慎(つつ)ましく

暮らしていました。しかし幸運にも36歳で藩主になるまで

なすべき事は多岐にわたり、武芸では居合の新派を創設。

焼き物、能、狂言、最も傾倒したのが茶の湯で、禅に通じる

内なる心を重視して「一期一会」の言葉を残しました。

一方で庭に見える柳の木に強い愛着を持って自らの

雅号(ペンネーム)も「柳王舎(やなぎわのや)」と

名乗るほどに。というのも柳の木は、太い幹はしっかりと

地に足をつけて、しかし枝や葉は風の流れに逆らわずに、

優雅に流れる。そんな柳の姿にあこがれて、自分もそう

ありたいと考えていました。36歳の時、藩主の兄がなくなり、

兄弟のすべての兄が養子に出されていたため13代

彦根藩藩主になりました。彼は儒学者の教えから多くの家臣や

民衆に耳を傾けていきました。領内をくまなく視察し

生活困窮者にお金、食物を分け与えていました。直弼の歌。

恵までは あるべきものか 道のべに 迎える民の 慕う誠に

(慈しまずにいられるものか 道端で出迎えてくれる民が私を

慕う誠の心を思えば)逸話として、この歌に、かの吉田松陰は

感涙にむせび感激したそうです。だが運命とは残酷なものです。

直弼はそんな松蔭を無残にも殺してしまうのでした。


この頃日本近海に出没する外国船が増えていました。

彦根藩は三浦半島の警備を担わされたのです。しかし

250年間太平の世が続く中、武士の士気は下がり警備体制は

お粗末でした。直弼はその実態に強い衝撃を受けたのでした。

なおのこと、この時期に外国との戦争は、到底勝ち目がないこと

は十分認識していました。ここで直弼のとった行動を理解する

ため当時の世界情勢を把握していなければなりません。


18世紀後半、英国で産業革命が起こり、蒸気船が造られ

大きな船に大砲が搭載され、戦闘力が格段に向上しました。

1840年、清国は英国にアヘン戦争、フランスにアロー戦争で

敗れ、不平等条約を締結し、香港を割譲しました。米国は捕鯨の

目的で太平洋を航海中、拠点の必要から日本に貿易を(開国)

望んでいました。当初は紳士的であった米国も、早急

(さっきゅう)な回答を出せない日本に徐々に苛立ち、

力づくで開国させようと考え初めていました。

直弼の判断は正しかったのです。《歴史は思想が造る》そうです

当時武士は朱子学を熱心に学んでいました。朱子学とは中国から

の学問です。「中華思想」が根底にあります。中華思想は

自分たちが一番。他から学ぶこと無し。との考えが主流。

開国などもってのほか、なおのこと、家康を神と仰ぐ

御三家の水戸藩は当然、諸藩の藩主の多数は開国反対でした。


彦根藩、井伊家は大河ドラマの女城主、井伊直虎にあって

養子であった、徳川四天王のひとり、井伊直政が初代藩主

でした。すなわち、井伊家は徳川幕府260年を支えた

名門でした。幕政の重要ポストを担い続けていました。

改めて、直弼の下した開国と言う決断は今から考えても正し

かったのです。たとえ諸藩の意見をまとめることが

できなかっても、天皇の勅許を得られずともです。

特筆すべきは当時の彼の心情が書物に残って

いるのです。----しばらくは戦争を避け貿易

を行うべきである。勇威を海外に振るうことができる

ようになれば、内外共に充実し、かえって皇国安泰に

なるはずである。---- と。実際その後、時代は直弼の

想像通りになっています。しかし不幸にも当時の時代の

流れが、彼を《赤鬼》と呼ばれるまでに、ならしめたのです。

ひとつは14代将軍継嗣(けいし)問題において

徳川斉昭との対立です。さらには、戊午(ぼご)の密勅と

言われる、孝明天皇が水戸藩に勅書を送った、前代未聞の

事件でした。古き良き伝統を重んじる直弼は、天皇に

このような行動をとらせた、良くない危険分子が、

はびこっている、世情を正すべきだと、

多くの維新志士を捕縛し、処罰してしまいました。

世にいう「安政の大獄」です。これにより彼の評価を地に

落としめ、自分の命運すら尽きさせたのです。水戸藩浪士による

「桜田門外の変」でした。当日命の危険は予測できていて

警護の者を増やすように進言されたにも関わらず、警護の

人数は規則で決まっていると、あくまで伝統を守ろうと

こだわったのです。暗殺前日に詠んだ辞世の歌です。

咲きかけし  たけき心の 花ふさはーーーー

ーーーー散りてぞいとど  の匂ひぬる

道半(なか)ばではあるが、国を想ってきた熱い自分の気持ち

は、自分の死後、きっと後世に理解されるだろう。直弼は自分が

もうすぐ殺されると解っていたのです。

むしろ死ぬ気だったのでしょう。なんて哀れで、みじめな人生!


歴史を知っている我々は、当時日本国を外国の侵略から救った

者は坂本龍馬であり西郷隆盛といった、薩長土肥の志士たち、

だけであったと考えがちですが、時代の状況をしっかり把握して

たとえ独裁者と揶揄されようと、リーダーとしての、決断力

と実行力を持ち合わせていた直弼の存在は無視できません。


直弼にとって不幸だったのは、彼の良い所でもあり悪い所でも

あるのでしょうが、移り変わる時代の中、変わるべき、

変えるべきところを、伝統にこだわり過ぎて、固辞して

変わらなかった、変えなかったところに、直弼の天命を

視た気がします。でも私的には、敬意を持てて大好きな人。


伝統さえ守れば、徳川幕府も日本国も守られ、ひいては民衆も

守られると信じて疑わなかった、頑固さも「安政の大獄」

といった日本史上まれな、非道に走らせた要因だったの

でしょう。いやー歴史って面白いですね。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

地球事変(酸素)

 

諸説はありますが、地球が誕生して約46億年。

人類が誕生して650万年から300万年。勉強になる?

昨日視聴したお気に入りのチャンネル、BSプレミアムの番組

「ギガ・ミステリー(地球事変)」って本当に面白い。

知的好奇心がくすぐられる。こちょこちょ、こちょこちょ。


ご存知のように、自身で栄養を作成できない、我々動物は

酸素を取り入れて、食物(有機物)をエネルギーに

変換して生命を維持しています。視点を変えれば、この地球上で

大きなターニングポイントは約27億年前、深海から吹き出す熱

水付近で何かのきっかけ(突然変異)で出現した

「シアノバクテリア」と呼ばれる微生物の果たした

役割なのです。彼らは太陽光で光合成をして自ら栄養を作って

生活するのだが、光合成の副産物として酸素を水中に

放出します。太陽光さえあれば、生きていける彼らは

これといって天敵が存在しなかったこともあって、陸付近の

海水中に無尽蔵に増殖しました。これによって彼らの放出した

酸素が海水及び地球上に充満しました。


高酸素濃度になったおかげで約5億年前に最初の、そこそこの

大きさの海生動物である、えびやカニの仲間である、三葉虫が

出現しました。これが人類誕生の広い意味での起源なのです。

さらに背骨を持った魚類が出現します。この後、生物は

海中から陸上へも、生活の場を変えていきます。


27億年以前には陸上は、太陽光の紫外線が強過ぎて生物が

生息できませんでした。しかし「シアノバクテリア」の

おかげで当時陸上は、高酸素濃度(約50%)でした。

同時に太陽に近い場所で、酸素が紫外線と反応して多くの

オゾンが出来ました。そのためオゾンによって太陽光の

紫外線が遮(さえぎ)られて、陸上で生物が生活できる

ようになったのです。さらに植物も陸上に繁殖し、

陸上は緑いっぱいで覆われていました。

そのため、陸上では酸素濃度はさらに上がり約85%まで

高くなりました。その結果動物は、多様化と大型化へと

変貌しました。その後2億5千年前に恐竜が出現しました。

しかし天変地異のため、植物の多くが死に絶えてしまいました。

そのため酸素濃度は下がり、低酸素濃度になり恐竜の多くは

生きることが出来なくなりました。ここで進化がありました。

気のうと呼ばれる呼吸器官を持った鳥類の出現でした。同時期

爬虫(はちゅう)類から、突然変異で進化した人類の祖先に

あたる、低酸素濃度(約21%)でも生きていける、

ネズミのような、身体の小さな哺乳動物も出現しました。


650万年前、霊長類が現れ、180万年前ホモサピエンスが

来ました。そして20万年前、旧人類から新人類へと進化して

現在の人類に最も近い人間が低酸素濃度(約21%)内で

今も生き続けています。


地球上で命が、突然変異という進化の最後の切り札で誕生して

以来、気の遠くなるような長い年月をかけて、様々な厳しい環境

にも適応して、進化を繰り返し、現在のような多種多様な生物が

共存共栄しています。しかしその陰には、誰かと結びつきたい

ひとりでは寂しいと言って、さまよっていた《酸素》という

特殊な元素が多くの命を紡(つむ)いできた歴史があるのです。


将来ある時、神様が何かの引き金を引いて、《自然の摂理》に

変化が起こり、想像できないような、我々人類の生活環境が

大きく変貌したとしたなら、人類はそれにうまく適応することは

出来るのだろうか? それとも人類はさらに何かに進化して

新しい地球の支配者が出現するのでしょうか? その時

我々人類は何の祖先とよばれるのでしょうか?

想像は尽きない。おっと、そろそろ行かなければ。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


追伸、ここで進化の原動力であり、だまされた感いっぱいの

「突然変異」とは? ググってみました。

生物やウイルスが持つ遺伝物質の質的・量的変化。および、

その変化によって生じる状態。らしい、なんか納得できないので

僕はこれに、因果関係の無い変化とも付け加えます。


 

 

 

徒花(あだばな)

師走に突入して、はや半ば過ぎ、正月までもういくつですかね。

毎年この時期になると恒例のように放送されるのが「忠臣蔵」

元禄時代の実話であり、武士の「忠義」を取り扱い

歌舞伎の演目にもなった有名な史実。それと酷似したもので、

先日二日続けて幕末ドラマ「白虎隊」を視聴しました。


「白虎隊」と言えば幕末の会津若松での戊辰戦争のひとつの

実話として有名です。そしてそれは悲劇にも関わらず

美談として感動的に描かれています。

「忠臣蔵」、「白虎隊」二つの話には

共通点が数多く存在します。

  • 江戸時代
  • 主君のために戦う
  • 武士道精神
  • 忠義に殉ずる
  • 自決する
  • 悲劇である
  • 美談に語り継がれる
  • テレビドラマ、映画化される

なぜに日本人は「大儀(たいぎ)」の名の下に

自刃して果てた人達をこんなにも異常に

美化するのが好きなのでしょうか?

「判官贔屓(ほうがんびいき)」の精神が

こうも日本人のDNAに流れるのでしょうか?

強い者に立ち向かい死んでいった弱き者を

英雄視するのでしょうか?

実際、僕自身もテレビや映画などを視聴して

登場人物に自分を同一視したり投影して、

悲しい場面では涙ぐんだりするものです。

でも少し冷静になると僕は別の異なる考えを持つのです。

それはなぜ彼らは自ら進んで

死ななければならないのだろうか? と。

生き延びてさらなる花を

咲かせようとしないのか? と。

当時(江戸時代)の価値観を

現在の価値観で推し量ることができないことは当然です。

「武士道とは死ぬ事である」の精神を

僕には到底理解できません。

「生き続けてまで、生き恥をさらしたくありません」

「立派に死のう!」ドラマの中のせりふです。

しかも「白虎隊」では会津藩主は既に

「負け戦」であろうと理解していたにも関わらず、

家臣の進言には耳を貸すこともなく

鉄砲、大砲に対して年寄、女、子供にまで、

やりと刀を持たせて、戦わせるといった

愚鈍(ぐどん)に陥っていたのです。

そしてあろう事か、藩主殿様は戦後家臣に腹を切らせて

自分の戦犯は逃れて、神社の宮司になって

明治の時代まで、天寿をまっとうするのです。

何かが間違っていると思う僕は

ダメな人間なのでしょうか?


ここから先は歴史の結果を知り得た者

だからこそ言える勝手です。

もし仮に、上に立つリーダーとその関係者たちが時代の潮流を

読む目を持っており殿様が馬鹿じゃなければ、

逆に時代を読む目を持っていなくとも、

ある意味においてもっと馬鹿であって、

早い段階で戦争を放棄すれば

多くの若者を死なせずに済んだであったであろうと考えるのです。

「立派に死ぬ」などと言った「徒花(あだばな)」を

散らせる必要などなかったはずなのです。


僕だったら命を助けてくれるなら

何だってしてあげられるよ!

土下座だって一万回だってするよ!

うそ泣きなんて何度でもできるよ!

裸になって陰部だって見せるよ!

「何か?」のために死ぬくらいなら

笑われたって生き続けるよ!


死んでしまえばもはや「花実」は咲かないのです。

我々人間の根底にある感情は、絶対ハッピーエンド

のストーリーで満足する生き物のはずです。

死んでしまうば、そこで物語は終わりなのです。

未来は無いのです。不思議な事に

大多数の人達は悲劇の物語を観て、

悲しい結末に感情移入して

自分も悲しみ涙することが、大好きな生き物なのです。

そしてそれを誇大に美化するのです。

しかしそれは、この上なく美しく咲き誇っても

決して「実」を結ばない

「徒花(あだばな)」でしかないのです。

その一方で、上に立つ人間の技量と能力が

下で支える人間の運命をも握っている事を

痛感する物語なのでした。


「誰かのために、誰かを殺す」

この図式は戦争であっても、単純な殺人であっても

自殺であっても、正当防衛であっても、

当てはまる図式です。

このような図式の成立は、創造主も絶対

望むものでは無いはずです。

どれほど美しく散ろうとも

この世に徒花(あだばな)は

決して存在させてはならないのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

今日も洋楽3曲紹介します。ではまた。


イーグルスでロングランです。

1979年リリース。アルバム「ロングラン」からシングルカット。全米No.8位。小気味の良いソウルロック。

ジョフォルシュのスライドギターが冴え渡る。

愛し合う二人ならば、どれほど時間が掛かろうが

乗り超えられるはずと言った内容の歌曲。


 

カーペンターズでバカラックメドレーです。

1971年リリース。アルバム「カーペンターズ」より

・ Knowing When To Leave 『 去りし時を知って 』
・ Make It Easy On Yourself 『 涙でさようなら 』
・ (There’s) Always Something There To Remind Me 『 愛の想い出 』
・ I’ll Never Fall In Love Again 『 恋よさようなら 』
・ Walk On By 『 ウォーク・オン・バイ 』
・ Do You Know The Way To San Jose 『 サン・ホセへの道 』  ) 】です。

テレビの公開ライブ演奏です。カレン自らドラムを叩いています。

リチャードがアレンジしています。

単曲よりも得した気分になる楽曲です。


 

スティーブンビショップでイットマイトビーユーです。

1983年リリース。全米No.25位。映画「トッツイー」の主題歌。サンドトラックからシングルカット。

邦題「君に想いを」。「人は誰でも運命づけられた人が居るんだ。」、「それは君かもしれないよ」って歌。

曲中に「All of my life」のフレーズが何度も出てくる。「自分の人生において」の意味。

なんだか気分の晴れないメロディーが妙に心に残る。

米国のシンガーソングライター。


おまけでエルビスコステロでシーです。

1999年リリース。全英NO.19位。映画「ノッティングヒルの恋人」の主題歌。サンドトラックに収録。彼のベストアルバムにも収録。カバー曲。

原曲は1974年フランスのシンガーソングライターのシャルルアズナブールの作品。当時全英No.1獲得。様々な言語で歌われている永遠の名曲です。

とてもドラマティックな美しいバラード曲。

エルビスコステロは英国の人気シンガーソングライターです。


 

地球事変(進化)

ここ数日急激に冷え込んだせいで

就寝時に暖房入れたら、案の定乾燥してしまい、

てき面に喉をやられてしまい、何もやる気が起こらず

仕方なくおとなしくしていました。栄養摂って

加湿を心掛け、水素風呂入ること数日

やっと人並みに体調戻し、通常の生活が復活です。

現在思考力が低下してそうなので

練習しないといけないな!!


そこで、なぜ世の中には冬とか夏とか極端な

季節が存在しないといけないのでしょうか?

春と秋の二季で良くない? 宇宙の摂理で仕方ない。

それじゃ納得できない。事象には必ず利点と欠点が存在します。

暑い夏があるから美味しいビールを味わうことが

寒い冬があればこそ美味しいカニを食することが出来ています。

そんなことはともかく、僕は暑い夏と寒い冬を経験するたびに、

要らないモノとして、いつも感じていました。

でもその答えの一端が垣間見ました。詳細及び正解は不明です。


昨日BSテレビ「地球事変」で見ましたが、

この極暑と極寒のおかげで

生物は長い歴史の中で、

どのような環境でも生きていけるように

「進化」を遂げて来られたそうです。


それによると

地球は誕生から長い年月をかけて、

人間や植物など様々な生物が生き続けて来られるように

地殻変動などを繰り返して現在の姿になったそうです。

人類の故郷である地球は《酸素》が存在する数少ない惑星です。

酸素がなければ地球上には微生物しか存在しなかったそうです。

そう考えると、ある意味で地球は我々生物と共に

「生きている惑星」と言えるでしょう。


どのような事柄にも

両極端が存在すればこそ

その間の偏りのない中途半端な部分が

《中庸(ちゅうよう)》として重要視される

考えが見出されたのです。


また片側に振れきった事柄は

もう一方側に振りきらない限りは

事柄は止まってしまって進行しません。


となると、

私の仮定が正しいならば、

極貧を経験している僕はきっと

とんでもない贅沢も

経験出来る時代がやって来るはずです。

そのためには長生きはしたいものです。

人類はそのうち数百年以上

生きられるように「進化」するかもしれませんね。


今日はここまで。近藤浩二でした。

洋楽3曲紹介します。ではまた。


ギルバートオサリバンでクレアです。

1972年リリース。全米No.2位。アルバム「バックツーフロント」からシングルカット。「クレア」とはプロヂューサーのゴードンミルズの末娘さんの事。相手がただの子供なのに

なんだか恋人以上に気になる存在に感じると異様な愛の形を歌った歌。

彼の作品では世界的に大ヒットした「アローンアゲイン」が有名


ニコレッタラーソンでロッタラブです。

1978年リリース。全米No.8位。デビューアルバム「ニコレッタ」からデビューシングルです。数枚のアルバムを残し1997年他界。そばかすとおさげ髪の田舎娘のイメージ。

「lotta」=「a lot of」

邦題=「あふれる愛」。


ジェームスイングラムでジャストワンスです。

1981年リリース。全米No.17位。アルバム「ヂュード」からシングルカット。ピアノで奏でる美しいメロディーを歌唱力のある少し太い声でしんみりと歌われた名バラード曲。

彼の代表曲は女性歌手パティーオースティンとのデュエットの「Baby come to me」(全米no.1)が有名


おまけでスタイルカウンシルでパリスマッチです。

1990年リリース。シングルカットせず。

デビューアルバム「カフェ・ブリュ」A面5曲目。

英国男性二人のロックソウルデュオ。ここでは女性のボーカルバージョン。フランスの情緒を感じさせる名バラード曲。

当時何気に聞いた時、パリスマッチの題名から

歌詞がフランス語ではと勘違いしてしまい

聞き流していました。未熟な僕でした。

子供の頃から、音楽は歌詞の意味など一切考えること無く

「音楽」という言葉の如く音全体を聴き楽しんでいました。

歌詞が英語であることを感じさせないほど

フランスを思わせる曲調。ドラムをブラシだけで

叩いて演奏しているのでとっても優しい音作り。


 

野生動物の住み家!!

先日のニュースでニホンカモシカが町中で捕獲された話が報道されていました。その少し前、野生の熊が人を襲って怪我を負わせた話が流れていました。僕も野生動物に関して稀有?(味わいたくない)な体験をしたことがあります。


僕が元気な時の事でした。高速道路も運転していた当時の話です。もう20年程前の事になります。梅雨に入り始めの、そんな時に、残酷極まりない事を初体感したのです。

当時居住地の伊予西条市から本州に渡るにはいくつかの方法がありました。車で30分の近くの所に港があります。そこから大阪まで大型旅客船が運行しています。(今も運行していす。)

家内の仕事の都合で僕が車で港まで送迎を務めてました。その時の事です。


30年前にバブル景気の頃通勤路確保のため、隣町との交通量が急増したので新たに田園地域に道路を建設しました。制限速度が50キロの車両専用の速いスピードの許された道路でした。そこの周りは見渡す限り、水田が広がる、人通りの少ない場所でした。時々付近に住む民家とつながる道が数本繋がっているだけでした。

しかも当時は道路の両脇には所々反射塔はありましたが、街灯のほとんど無い道路でした。そんな場所で残忍な事を体験したのでした。


家内を送り、船内に乗り込んだことを見届けました。その後の帰宅途中のことでした。

隣町との境目の分岐点に新設された道路に、入り込んだ直後の事でした。季節は梅雨に差し掛かり始めた、田植えを迎えた頃でした。

時刻は夜の11時過ぎでした。付近は街灯も無いほぼ真っ暗闇です。道路を走る車のライトが交錯し、その車のライトの明かりだけが、道路を照らし出しています。しかも辺りは静寂な場所です。時折、小動物の鳴き声が聞こえます。

ただし週末の金曜日で、この道路の車の通行量は多くて、混雑しています。

車は仕方なく低速度で前車両に付いて、徐行するように走っています。

車間距離を10メートルほど取って走らせています。

その道路の分岐点を左折した直後の事でした。


「ブツブツ!!」直後に再び「ブツブツ!!」。

数秒後にまた「ブツブツ!!」そしてまた「ブツブツ!!」

その直後「グルグル!!」「ゲロゲロ!!」との鳴き声。

そして「ブツブツ!!」「ブツブツ!!」の不快音。


気色の悪い音を聞きながら、まったくの不快の感覚を、車に乗っているにも関わらず、身体で体感します。

《何かを車で踏みつけた異様な感覚が身体全体に感じました。》


《間違いなく車で何かを踏みつけた感覚なのです。》

町境に流れる大きな河川に掛けられた橋に乗ってからは、その不快な感覚は感じることは無くなり、車はスムースに流れだしました。


その後数日間、雨が降り続きました。そして週明けの早朝に家内を迎えに隣町の港にくだんの道路を再び通りました。


あの不快な感覚を感じた道路は雨によって洗い流されていましたが、《兵どもが夢のあと》の状態で赤い血潮と共に小さな動物の手足がまだ数か所アスファルトにまだこびりついていました。


想像するに、

そこは、《トノサマガエルが車のライトの明かりに呼び出され、本能によって強く反応する反射行動が、皮肉にも生存本能に反して自殺行為のごとく人間の文明の悪魔のような怪物《走る凶器》に踏みつぶされてしまい、大量殺りくの餌食になってしまった戦場だったのでした。


稲作が行われるようになって、そこに寄生する害虫を餌に、ついの住み家で寿命をまっとうしていたであろう大ガエルにとって、予測だにしない天敵の出現に、彼らは今後どのように対応していくことになるのであろうか?《彼らに学習能力はあるのだろうか?》


あれから10年以上、かの道路を夜遅く走ることは無かったのです。

結果,大ガエルのその後の運命は推し量ることしかできません。


人間の人口が増加し、活動範囲が野生動物の生態範囲をも侵略してしまっています。

その代償として、野生動物たちが人間の生活テリトリーを脅かすようになってしまいました。

《そのため人間に取り押さえられてしまい、最悪殺されてしまうのです。》


生き続けていくために、自分たちが身勝手に振る舞っていたら、どこかの地点で何者かと、衝突してその生存を脅かされてしまいます。

その時にはお互いに妥協点を見出し、共存共栄を図る必要があるのでしょう。

《しかし悲しいことに、彼らには人間ほど知能が与えられずに、人間にされるがままなのです。》


昨今人間同士でもお互いが解りあえずに、自分の強さを誇示し合っている結果、世界情勢は第3次世界戦争への一触即発の緊迫した中で何とか均衡を保っています。

理解し合うのが困難な者同士では、お互いの立場や想いをもっと《忖度》して、問題が持ち上がった時には、共存共栄できるような方法を考慮すべきだと思うのです。


自然の生態系を壊さない範囲内で、人間の生活居住範囲を最小限に抑える必要性を痛切に感じた今日この頃でした。

最近、、、、

夏のホタルを見かけなくなりました。

秋の鈴虫の鳴き声を聞かなくなりました。

《風物詩が無くなりかけてますよね。》


今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。

今日も2曲プレゼントです。


ELOでアイニードハーラブです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/ELOINeedHerLove.mp3


エルトンジョンでリーボンです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/EltonJohnLevon.mp3


 

覇者とは?覇者と王者の違いは?

覇者と王者とではどちらが上なのでしょうか?どちらが偉いのでしょうか?


「覇者」とは何でしょうか?

その語源は中国の春秋時代(紀元前1世紀頃)までさかのぼります。「覇」を得たものの総称、武力でもって信を得た者を「覇者」と呼びます。「覇」とは武力、力、権力によって治める事です。

今の言葉で言うとチャンピオンとでも言えるでしょう。


武力でもって一番(上に付いた者)になった者を「覇者」と呼ぶのに対して、徳で持って一番(上に付いた者)になった者を「王者」と呼びます。


もう一度「覇者」と「王者」とではどちらが偉いのでしょう?

「覇者」と「王者」が一致する時もあるでしょう。

意味に従うならならば「覇者」と「王者」の問題は「武力」と「徳」の問題に置き換えることが出来るでしょう。では「武力」と「徳」とではどちらが上でしょうか?それは一概では判断出来ないのです。

と言うのは、人や社会や時代によって評価が分かれるところでしょう。

有無を言わせず一番を決めるには動物の場合、力比べをすれば白黒はっきりついて誰の目にも明らかでしょう。

一方「徳」の場合、その定義は多様なため、比較の判断基準が困難です。そのためどちらが優れているのかそんなに簡単に判断できないでしょう。

当人同士の問題ではなく、第3者の判断に任せないと結論が出ないことになります。時間がかかってしまいます。

言い換えれば力比べをして優劣を決めるのか、力比べをしないで優劣を決めてしまうのかと言う問題になります。単純に言えば戦って生き残った者が「覇者」になるのです。「王者」になるのは戦わなくともなれるのです。しかし特別な何かを持っていなくてはならないのです。それが「徳」と言われるものなのです。


歴史を見ると古代から近代までは戦いで正義を決定させていました。意見が衝突すれば力でもって相手を制圧すれば簡単ですから。

そうすると現在の世界の趨勢は「力」による「覇者」を「王者」よりも上、偉いと捉えることになります。

しかしながら、ここ日本では「王者」が「覇者」よりも偉いとされるでしょう。でも日本以外の殆どの国では「王者」よりも「覇者」のほうが偉いとされるのです。

昔から現在に至るまでここ日本に関しては「力」を持っている者よりも「徳」を持っている者が上で偉いと捉えるでしょう。

ご存知のように、武士の台頭で、徳川家は家康により関ケ原の戦い等の武力によって天下を統一し日本史史上最後の「覇者」となりました。

しかし家康自身が、中国の歴史に精通してましたから、「覇者」より「王者」のほうが偉いと認識していたため、自分の名前を松平から徳川に変えました。

しかしその事を理解していた、薩長土肥の新政府軍に倒幕され明治維新を迎えたのでした。その時に「王者」と尊王されたのは、神代の昔から脈々と生き続いている「天皇」家だったのでした。薩長が錦の御旗を掲げた時点で趨勢は決していたのです。


人類が誕生してから今日まで「力」のある者が時代を作ってきました。そしてあらゆる分野においても「力」の強い者を称賛してきました。

しかし今現在、人類は文明や自然、人間同士の無駄な破壊行為である、世界を二分するまでの戦争の無益さを悟り「力」と「力」の争いを回避する方法を常に今もって模索し続けています。


僕としても、人間はスポーツの分野以外では、「力」と「力」による争いを無くしてほしいものです。

それを「力」ではなくこの日本で言う「徳」と呼ばれるような何かで解決してほしいものです。

と考えると、この世界において、日本における「天皇」のような「徳」をもつ者が存在すれば良いということです。

今現在世界いおいて、日本における「天皇」のような存在、この何か特別な何かで、何者もひれ伏す「権威」を持つ何かの出現を一日も早く待ち望みたいと思います。


今日は12月31日、大晦日です。

今年のブログも最後になりました。来年も出来得る限り更新させていただきます。よろしくお願いいたします。みなさん良いお年を