貯金

新しい週になりました、、、今朝、、、、目覚めとともに

先日視聴したBSテレビの字幕が頭をよぎりました。

「地球の《表情》は、その内部でふつふつと沸き上がっている、

マグマの大きなエネルギーの流れによって、ダイナミックに

形成されました。」と心の中で黙読したと同時に

その時の深紅(しんく)のマグマのダイナミックな

動きが映像となって強烈によみがえって脳内を占拠(せんきょ)

しました。おかげでトイレ内で、最近元気のない男性自身を

手にして、年齢のせいだとばかりに決めつけ、へこんでいた

気持ちにむちを打つことができました。その後


洗面所の鏡に映っている、覇気(はき)のない目元を

手でこすって洗っていると、何事においても少しやる気の失せた

原因を探(さぐ)ってみようと考えてみました。日課の

ルーティンを変更してパソコンを立ち上げ、メールと

ブログのチェックをしてみました。ここ最近の自分の

ブログを読み返して、はたと気が付きました。客観的に視て

ありふれた発想、貧困な切り口、当たり前すぎる

面白くない内容に、思わずゲロが出そうになりそうでした。

原因は即座に思い当たりました。思考力の低下、こう着状態に

陥っているからなのでした。昔から「小人(しょうにん)

閑居(かんきょ)して不善をなす。」と言われますが、僕の場合

「小人閑居して、《こと》を行わず」なのでした。近々


仕事量が減るにつれて、自由な時間が増えてしまって

寝て、起きて、食べて、小言を言っては、自己嫌悪に陥って

また食べて、少し仕事をして、動いて、食べて、寝て、、、、

といった、極めて創造力のかけらもない人間らしくない、

「なまけもの」の体(てい)たらくな、ぐうたらを

過ごしていたかもしれない、との内省に

至ったのでありました。でも「後の祭り」です。


「時は金なり」といったメタファーがありますが

「時間はお金と同じくらい大切なものなのです。」といった

戒(いまし)めでしょうが、実際には「時間はお金、以上に

重要なものなのです。」ご存知のように、時間は何の制約も

受けることなく流れ去って行ってしまいます。

平家物語で白河法皇は「加茂川の水、双六の賽(さい)の目

山法師、これぞわが心にかなわぬもの。」また方丈記で鴨長明は

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と

古来より、流れて過ぎ去っていくものは、止めることができない

人間の思い通りにならないと、世の無常を嘆いていました。

現代においても、河の流れはともかく、時間の流れは

人智の及ばざる事柄です。


生まれながらに、不平等、不公平に与えられているもの

《お金》等は、自分自身の努力、裁量でその量や多さは

どうにかすることが出来ます。一方、生まれながらに人間に

平等に与えられているモノの《寿命》と《時間》は自分の

モノであるにも関わらず、自分の思い通りに取り扱うことが

出来ません。どちらも手元に留(とど)め置くことが

出来ないのです。言い換えるならば、貯蓄(貯金)がどちらも

出来ないのです、誰しもが、歳を取り続け、時間を

さかのぼって、戻ることなど出来ないのです。

神様のすることは人間の理解の範疇を超えています。


現実に目に出来るモノは、自由にため込んで好きな時に

取り出して使用することが出来ます。しかし「光陰矢の如し」

です。まさに《チャンスは貯蓄出来ません》。


手元の現金(モノ)が少なくなれば改めて、その存在の重要性

大切さに気付かされ、注意深く慎重丁寧に取り扱います。しかし

少し現金(モノ)に余裕が出来ると、人はとかく、倹約を忘れて

しまって、ついつい、ぞんざいに扱ってしまいがちです。

大切なものほど、失って初めて気付かされるものなのです。

その時には残念ながら、もう手遅れなのです。


貯金のできる《モノ》より、貯金の出来ない《モノ》をもっと

大切にしようと痛切に感じた、57歳、平成最後の秋の

盛りの一日でした。何事も無駄のなく、効率良くなど

生きれない、利口者でない、小馬鹿で小心者の僕なのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。次も楽しんで書こう!


 

 

 

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