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テレビを視ない恩恵を得ましょう

これは物心ついて初めての体験でしょう。

今日は朝起きてから一度もテレビを点けていません。

僕に限らず同居人もテレビを点けません。

間違いなくこれは生まれて初めての体験です。

悪い習慣から少し脱出しそうです。


居間の部屋でパソコンを前にしています。本当に静かです。

聞こえてくるのは、時たま家の前の交通量の多い道路から聞こえてくる、車の走るサーと言う雑音だけです。

時間の流れが普段よりかなり遅く感じます。

しかも自由な時間が一杯あるようです。

わずかですが幸福感を感じます。なんだか少し得した気分です。

そして何かしていないと落ち着かないのです。

学習塾のために英語のライティングの勉強始めました。

他人のブログを100以上速読しました。

またブログを久々に続けてみようと思いました。

文章を書くという作業が自分にとってどのような意味を持っているのか改めて考えなおすためです。

1、文章を書くことが楽しんでできているのか、それとも嫌々でしているのか。

2、文章を書くことが自分は、どちらかと言えば、好きな事なのか、それとも嫌いな事なのか?

もしふたつの質問において、どちらも後者ならばブログは続けても仕方ないでしょう。仮に前者に近いならばこれから先もずっと続けていこう。これを自分に問いかけてみようと思ったのです。


結論を書きます。テレビを視なくてよかった事。

1、時間が長く感じる。

2、自由な時間がかなり増える。

3、少し幸福感を味わえる。

4、読書の時間が増える。

5、静かな空間で物事を考える事が出来る。

6、電気料金が安くなる。

7、時間に縛られない。

8、相手をさえぎって話をしなくてすむ。

9、仕事に集中できる。

10、就寝時間が早くなる。

11、朝が早くなる。

12、寝床に入ってあれこれと考える事が少なくなる。

13、寝付きが良くなる。

14、食事に集中できる。

15、消化に良い。

16、目が光の刺激を受けなくてすむ。

17、不必要な情報が入って来ないので欲しいものが抑えられます。

18、そのため出費が減ります。


等々です。

今までの人生、なんともったいない事をしていたのか、考えさせられました。ちなみにテレビを視ないと家族との会話が増えると思ってる人がいるでしょうが、それは幻想です。まったく増えません。我が家では以前と同じでまったく変わりません。

いつまで続くか分かりませんが、ぜひ視たい番組まで続けてみます。

このようにして少しづつでも、悪い習慣を絶ってみたいと思います。ではまた、近藤浩二でした。


 

 

 

今の教育ってホントに正解?

先日塾で入試を控えた中学3年生に対して、英語の単語復習の勉強をしていました。

「バラは英語で?」「?????」「ユリは?」「????」「いとこは?」「????全部習ってません。」

実際には地域によって教科書が違っているために習う単語が異なっているだけの事らしいのですが。


僕は何気に「ゆとり世代か、、、、」とつぶやいてしまいました。悪気などまったく無かったのですが、その場に居た生徒全員の反感をかったようでした。

「先生、それって差別。学校の先生も何かって言うとすぐに、ゆとり世代だからって、それって卑怯です。」「私達がゆとり教育望んだわけじゃありません。今の大人が勝手に決めたことでしょう。それを無理やり押し付けといて、都合の悪い時には、ゆとり世代がってすぐ言うのよね。これっておかしくないですか?」

その時僕も彼らの言い分も理があると思ったから無理に言い返そうとはしませんでした。そして少し勉強を置いて一緒にそれについて考えてみることにしました。

まず、我々が学生の頃は一日6、7時間授業は当たり前、しかも土曜日も午前中は授業がありました。学習塾自体がほとんどなく通ってる生徒もほとんど居なかったと思います。それでもほとんどの生徒が希望する高校へ進学できていました。

当時は中学校の時に、すでに自分の事に関して、勉強に向いている向いていないを本人だけでなくや家族、先生達も判断されていたのかもと思います。しかもそれについて何の疑問も抱かず人生を送っています。


「私、数学、科学は大嫌い。高校入ったら数学と科学は勉強なんか絶対しないの、計算式出てくるから。でも進学高校は行くの。私の知り合いがみんなそこの高校の卒業生だから。入るのだけが目的。そこの高校の制服着てないと周りの人にバカに思われるから。」と、ある女子生徒が言っていました。私は少し悲しくなりました。

物事に対する疑問符を持たず、学問に対しての好奇心もない彼女に、進学校に進む正当な理由など見当たりません。世間に対する見栄と体裁だけが彼女が勉強をする動機なのです。


また別の女子生徒は「先生私は***大学に絶対入るの。そして大学生で歌手になって有名になるのが夢」「先生なれますよね?」「私頑張るから」

僕は無責任にも「うん、+++ちゃんなら、大丈夫と思うよ。」

これって嘘ですよね。いくら頑張ったからといって夢が絶対に叶う確証はありません。努力は頻繁に嘘をつくのです。

まず目指す大学に入れるかどうかですが。頑張っても入れるとは限りません。その理由は大学には定員があるためです。成績上位数パーセントの人間しか入れません。

次に歌手になりたい夢ですが、これは努力の要素はほんのわずかです。

生まれついての才能のある者には残念ながら勝てません。

また別の理由として、歌手になれるかどうかは宝くじに当たるかどうかと同じような問題で運だけの要素が運命を左右させ、努力にはほとんど関連性はないからです。お金や権力があればそこそこ実現は可能でしょうが。しかしそれは本人の望む物とは違うでしょうけど。

悲しい現実として、現実社会の、物事のほとんどの実現性は努力で可能性を高めることは簡単には出来ないのです。

とどのつまり努力だけでは才能や強運には到底かなわないのです。


話を戻します。ゆとり教育の前は詰め込み教育と言われています。

今までの歴史で人々が積み重ねて来た知識だけが、さも絶対の常識であるかのように一方的に半ば強制的に記憶させられました。その結果ここ日本において我々はその知識を疑うということを知らず、新しい発見や発明への扉を閉ざすという弊害を生んだのです。有識者と言われる人達の一部の見解です。

そこでこの閉塞感のある教育を打破しようとしてゆとり教育、おそらく時間にゆとりを持たせて自分で考える力をつけさせようとしたのでしょうが、机上の空論です。

一方で社会は相変わらず学歴重視です。

しかも教壇に立つ先生が詰め込み教育の申し子です。

教科書の内容と授業時間を少し削り、教育の理念を打ち出さないままでは変わりようがありません。

そしてゆとり教育にも限界を感じ、最近また詰め込み教育のような時間割に変えようとしています。


日本で最も賢いと考えられる人達のある集団が、高いお金と時間をかけて熟慮しているから、

完璧でなくてもそれなりの良くできた教育プログラムを考えてくれることを期待して待つことにしよう。

我々にできることは知識を絶対の常識として押し付けるのではなく、

子供たちの疑問や好奇心にひとつの考え方を提案してやるだけで良いのでしょう。そこから先は自分で悩み考え、自由に自分の進む道を選択していくでしょう。我々はそれを応援してやるだけで良いのでしょう。そう学問とは読んで字のごとく、問うて、学ぶ物だからです。

それの繰り返しがその子の、将来進みたい道を決定していくのでしょう。

ひとつの教科、しかもわずかの内容だけでその教科の向き不向きは決めれません。しかし学校ではテストが良くなければ、その子はこの教科に向いてないと判断を下し、しかも本人もそれを納得してしまいます。嫌いな教科を作ってしまいます。

これでは可能性の芽を摘んでしまいます。まだ時間がかかるかもしれないけれど、栄養が十分行き渡っていない上につぼみにもなっていない小枝を折ってしまうようなものです。もしかすればどの木々よりも一番大きく綺麗な花を咲かせるかもしれないのに。

弊塾に来てくれた子供たちには時間の許される範囲で学問に興味を持ってもらえるように、好奇心を育んでいこうと考えています。


しかし今の社会の常識が破壊され、まったく新しい社会の常識が出現し国民の大多数の考えや常識が変化しない限り、ほとんど記憶力だけが優れた生徒を優秀な生徒とする現行の教育では生徒(人間)の評価の視点は大きく変わらないのでしょう。残念です。


 

人間にもし寿命が分かったならば

久しぶりに外出から家に帰って何気にテレビを点けたら、今週の映画ランキングが発表されていて一位は相変わらず、「君の名は」でした。そして第二位は初登場で「本能寺の恋」少し映画の紹介があった。「本能寺の変」ではありません。


みなさんご存知のように「本能寺の変」は日本史上の歴史で未だに謎とされている事件で天下統一を目の前にしてた織田信長が光秀に討ち取られる「本能寺の変」に関する映画。

事件の前日に現代の女の子がタイムスリップして信長に出会う話。「変」とよく似た漢字の「恋」。

「本能寺の恋」は学生の珍迷回答の代表のような題名でもあろう。歴史に「もしも」は禁句だが、僕はまだこの映画を観ていないのでストーリーはよく知らないが、あえてドラマのために、信長の運命を知っている現代の女の子が信長に恋に落ち信長を救って歴史を変えてしまう話であろうことは想像に難くない。

しかし歴史ドラマではなくラブストーリーのようだ。

その後テレビを消してパソコンを起動させてユーチューブを見てると、あるお笑い芸人が「人間はなんのために生まれて来たのか?」もう一人が答える「納税するためですよ」。言い得て妙である。


人間は間違いなく社会性を持った動物である。社会とつながっていない人間はひとりも存在しないはずである。

そして社会を構成するのは人間本人であって、一人ひとりはその社会を構成する一つのピースに過ぎないということなのである。

その現実をシニカルに皮肉的に表現し笑いを誘っているのだ。


人間は誰しも必ず使命を持って生まれてくるものだと言い切る人もいる。僕は決してそうは思わない。人類は誕生して数百万年もの間、生き続けて種を保存するためだけに生活していたであろう。そんな状況では使命は種の保存の、本能でしかなかろう。

その後人間は現在までおそらく何度かDNAが書き換えられ脳が発達していった。そして人間は知恵を持ち始め集団で生活するようになる。その後社会が形成され、安全な生活や安定した食事の供給が保証される。

衣食住が足りた社会生活の中で、自我が目覚め始め主観でしか物を見なかった人が客観で物を捉えると言う物の視方が形成されていく。その客観的視点が自分自身以外の物に関心を持たせる。そして相違点の認識をさらに深めていき、自然科学を発展させることになる。自然科学の発展が新大陸の発見等を可能にさせた。これにより文明をさらに発展、発達させ続け、人間の生活はより豊かになっていった。


僕はある一時期、聖書を学ぶ機会があり旧約聖書の創世記を教わったのであるが、アダムとイブは狡猾な蛇にそそのかされ、神様が食べてはならないと言われた知恵の木のリンゴを食べてエデンの園を追放されたが、とすると神様は人間に知恵を持ってほしくなかったのであろうか。そして文明を発展させてほしくなかったのだろうか?人間に豊かになって欲しくなかったのだろうか。腑に落ちない疑問が頭に沸き起こる。


話を戻そう。「本能寺の恋」の話で信長が自分の運命を知りえたとするなら、信長が自分の死期を認識して、その後の人生をそれを回避するように生き方を変えたとすれば、それはもはや我々の知っている魔王信長ではなくなる。

いつ死んでしまうか誰も予測できない戦国乱世だからこそ、一瞬一瞬をいつ死んでも悔いが無いような気持ちで生き抜いてきた信長だからこそ、当時としてはあれほどの偉大な破格な事業を成しえたと思えるのだ。


現在社会は、けっこうなことに平和社会で、予期せぬ戦争が起こったり、事故による突然死はほとんどやって来ない。しかも豊かな社会のため、明日の食事に困ることもほとんど考えられない。

幸か不幸か、一部の現代人には死ぬほどの気持ちで何かに取り組み頑張る必然性が全くなく、自分自身の持っている可能性をほとんど発揮することなく残念なことに無駄に年を取っていき死期に近づいていくように思えてならない。


もし仮にあるときに事故や病気による死も寿命と考え、なにものかに自分の死期寿命を知らされたとするなら、しかもその情報に信憑性があったならば、その人の生き方はその一瞬から、180度変えられる可能性がある。


それは一日前か三日前か一週間前かひと月前か一年前か三年前かによっても、事故か事件か病気かによっても、対応は変わってくるだろう。

しかしながら、自分の死期を知ることで覚悟を決めることが出来るだろう。腹が座ることが出来るのだろう。不思議と前向きに生きることが出来ようになるかもしれない。

人間200年生きることは不可能なことも分かっている。100年生きることも困難で稀であることも理解している。しかし年を重ねても、毎日を死んだ気持ちで生き抜く気概を持つことの出来ない人間の弱さを痛感させられる毎日である。


自分の死期がある程度具体的に認識出来るようになると必ず生き方が変わるはずだ。

嫌な会社や仕事にしがみつく理由がなくなるだろう。すると他人の目を気にすることもなく、自由で自分らしい人生を送るようになる。結局残された時間を有意義に過ごすことができるようになる。

まだ見ぬ世界を見るために

「@@@さんてすごい人よね。尊敬してます。」

<@@@さん、私信じられないけど、+++++だと思う。>

「でも++さんて最近****でしょう。ちょっと変じゃない」

(<<は>>で@@よね、変わってるわ。)

(****ってすごく楽しい。面白い。)

<@@は++っていわれてるでしょう。今ネットですごい話題でしょう>

「私はもういいです。だって@@@は++++だから」

(<<<|>>の話はもう結構です。しませんから、面倒やし。)

<今忙しくて時間無いから。****はもう少し時間経ってから聞くわ>

「まだ@@@やっているのか?+++++++はやめなさい」

この数週間、身近な人の言動を目や耳にする度、人の考え方、物の見方、人や物に対する接し方の大きな違いを感じています。

そして当然それによってその後、人の行動力、行動範囲、行動の自由度に大きな影響を及ぼします。

同じ人、同じ物に対してなのに、人によって、どうしてこんなにも考え方や見方が、大きく食い違うものなのかと痛感しています。

今日はその辺のことについて僕なりの考え方、物の見方で、考えてみたいと思います。


以上のような会話は全て「偏見」と言う言葉で括られるでしょう。「偏見」とは偏った物の見方や考え方。しかも全て非好意的


これってどこから来るものなのでしょうか?

例えば好きな芸能人と嫌いな芸能人のランキングには不思議と必ず同じ名前の人が上位にランクインします。

これはあるひとつの表情に対して個人によって違った解釈をするからでしょう。ただ単に好みの問題でもあります。

よく話す人を(うるさい)と非好意的にとらえる人もいれば(明るくて楽しい人)と好意的にとらえる人もいるようにです。ただ見た目(イメージ)だけで判断する場合もあるでしょう。

見た目すごく可愛らしくて優しそうで女性らしそうな方なのに、実際話して付き合ったら、下品でケチで酷い人も居ます。

すごく裏切られた気分になり落ち込む時があります。


もうひとつ違った例を見てみましょう。

テレビで見たり、ただなんとなくやっている人を見てるだけだと、テニスやスキーなんてとっても簡単なスポーツで直ぐに上手くなると思っていました。でも実際やってみると、なかなか上手くできず奥が深いなと思ったりします。あれ、思っていたのと、考えていたのと、実際やってみるのとでは、全く違ってるじゃないか。って思う時あります。

政治家なんて自分勝手でお高いと思ってましたのに、実際会って話をしてみると、気さくで楽しくて面白い人だったりする人もいてます。あれ、思っていたのと実際とでは異なってる人もいます。中には印象で思ってたままの人もいますが。

慎重で真面目だと思っていた人が車の運転をすると、無謀で粗く法律すれすれでヒヤヒヤさせられたり。本当の姿はどっちなのって分からなくなる時もあります。

気が弱くて頼りなくて何も出来ないと思っていた人なのに、現実には、気丈で色々な事が出来て頼りになる人もいます。まったくその反対の人もいますが。良い意味で裏切られた時です。

人を集めてイベントを開催する人は「これだけ儲かる」とお金儲けだけが目的と思ってる人って多くないですか。でも実際に当事者と親しくなり実態が分かってくると開催目的は「この講演会に来てくれた人達の考え方や知識のために」だけだったりするんです、お金は二の次だったなんてことも経験しました。しかも身銭を切ってまで開催する人もいたりとかしてました。その逆の人も居たりしますから訳分からなくなってきました。

これらは初めに思い抱いていたイメージや知識と、現実に体験した後のイメージや知識とで、大きな食い違いを感じることが少なくないことのほんの数例です。


人間って自分自身の今までの経験や知識と、テレビや雑誌やうわさ話などの不確かな情報(新聞で信じて良いのは、日付だけ。某有名(?)作家の口癖)だけで、人や物を自分勝手に判断してしまいがちです。でもこれって仕方のないことなのです。

これは自分自身でその人やその物を「よーく知っている」と勝手に思い込んでいるだけなのです。しかもその人やその物は「なんかこーんな感じ」と大雑把に考えているだけのときがほとんどでしょう。

おそらく思い込んでいる人に、ではその人やその物は何か詳しく教えて下さい。と聞き返してもよく知らないはずです。実際に聴き返した時には、言い訳みたいに、根拠等どこにもないのに、自分はそれを知っておく必要もないし。知る必要もないからと開き直る人が居ます。実際に知らないから仕方ないことなのです。

多くの人たちは「よーくは知らない」、けれども「間接的に噂話やメディアで何かを知っている」だけなのです。

しかもその何かが、その人やその物の本質や真の姿では無い上に特殊で特別で普通でない部分、しかも大きく的外れの部分で、本質や真の部分とは程遠い、細かいどうでもいいような事柄であることがほとんどなのです。悪意に満ちた何かの場合がほとんどです。

良くも悪しくも、その人やその物をほんの少し「間接的に何かを知っている」場合にこれらは形成されます。


そしてそれは特殊な部分で、そのひとやその物の普通でない部分であるがゆえに、より大きくクローズアップされます。そしてそれらの殆どが非好意的で攻撃的なのだす。

ここで特殊で特別な部分(普通でない部分)でない部分、つまり普通な部分がその人やその物の本質であったり真の姿であったり実態であることが数多くあります。

しかも「間接的に知った」情報では、普通の部分は意図的に削ぎ落とされています。

「間接的にしか、その人やその物を知らない」から、それらの特殊な部分だけをまとめあげた情報が、その人やその物の本質や真の姿や実態を捉えきれないまま、

真核からずれてしまって特殊な部分や偏った部分だけがその人やその物の本質や真の姿、実態の普通の部分(全体像)と思い込んでしまうのでしょう。

しかしそれは人が愚かで悪い人だからではなく「間接的に知っている」情報が本筋から大きくそれていて、しかも偏っている情報でしかないので、偏見になるのは必然なのでしょう。

情報全てを冷静に判断しても、情報自体がずれてしまっているから偏るのは仕方ないでしょう。だからこれらを悪と決め付けられません。


まさに、木を見て森を見ず、です。物事や人間には多様性があるってことや、また氷山の一角、のように見えてない部分にこそ本質が隠されていることの方が多いことを認識や意識することが重要なのでしょう。

また自分自身の自分は何でもよく知っているというおごりを失くすことも大切でしょう。

また人間の知識量には限界があるということもしっかり知っておきましょう。今自分は偏見を持っているかもしれないと自覚しておくことも大切でしょう。

そういう認識や意識が偏見を防ぎ、本質を見失わないで行動の自由度を広げたり、行動力を発揮させたり行動範囲を広げる事にもなるでしょう。

特殊な部分や偏った情報だけでない、その対象物の本質や真の姿やその実態(まだ見たことのない世界)を知ることも出来るかもしれません。

この世界にははまだ見ぬ真実にあふれかえっています。しかも実態のつかめない見えない世界の方が,見えてる世界より数多いのです。

まさに生命の起源は深海であって、しかもその深海の実態は今もって誰も見たことが無く、全てを把握できない世界であるのです。


《追記》

この話自体にも僕のどうにもならない偏見に満ち満ちているかもです。ご了承下さい。自戒してます。


 

鬼平に代表される日本人の好む人気作品

最近テレビを殆ど無駄に視なくなりましたが、それ故にお気に入りの番組はほとんど逃さず視聴します。

朝の連続テレビ小説、大河ドラマ、吉本新喜劇、相棒は欠かしたことはほぼないですね。

音楽番組も時々視ます。


その中の一つに時代劇の鬼平犯科帳もあります。ほとんどがBSテレビの再放送による放送で新作が年に一本あるかないかでした。

当然といえば当然であります。ご存知のように鬼平は実在の人物なのですが、他のヒーローものと同じでノンフィクションの愉快痛快話がそれほど残っておらず、池波正太郎氏によるフィクションものなのです。

原作者が他界した現在、他者による類似作品を良しとしないスタッフの意向で今年2016年をもって新作はもう二度と作られないとのこと。ファンとしては本当に寂しい限りです。先日最終作品をビデオ録画で保存しており、本日視聴しました。やっぱり面白い楽しい。


表題が鬼平なので、悪人を鬼人のごとく情け容赦なくたたっ斬ると思われがちですが、人間の心情、人の心や男女の機微もよく表現されていています。

法律がきっちり整備されていない時代背景だからこそ、様々な意味で自由度を広げており、作者の創造力をかき立てたであろうと思います。

特に上の人間の裁量が問われる決断や結末において、変幻自在の展開のおかげで、鬼平が時たま仏の顔を見せる等多彩に富んでおり

情けのある裁断を下す結末が特に好きでほろっとさせられます。しかし根っからの悪人は必ず最後は成敗されます。


フィクッションものは勧善懲悪ものが分かりやすくて単純明快でよろしい。視終わった後、気分も爽快でストレスが残らず大好きです。

史実なら仕方のない表現もあります。しかしながら時々結末の白黒をはっきりさせないで、玉虫色でうやむやに終わらせたり、

その後の結末は個々の視聴者の想像や想いにお任せします的な視聴者に結末を丸投げするような作品がたまにありますがあれはいやですね。そんな作品を作った監督の作品はその後はほとんど視ないようにしています。


ノンフィクションなら仕方がないところもありますが、フィクションものなら恋愛ものでもなんにしてもハッピーエンドが絶対一番でしょう。


構成がしっかりしている作品としては朝日テレビの相棒も良く仕上がった作品ですよね。今から正月の放送が楽しみです。

ただし鬼平と少し違って全ての分野においてほぼ完璧に整備されている現代の社会背景が災いして、隙や自由度があまり無く遊び心も少なく、少し窮屈な結末が稀にあると思います。


しかしながら右京さんの無尽蔵ともいえる知識には脱帽させられるし、冴えわたる推理には当然と分かっていても圧巻であります。

加えて自分の信念を決して曲げず、上役に媚びへつらわない態度は見習うべき姿勢として自戒しています。かっこよくて痛快です。

人気の秘密がわかりますよね。ご存知のように上述の2作品は国民的ドラマと呼ばれるほどの人気のある作品です。


NHKの番組や新喜劇は数十年の習慣化で、毎日そして週に一回の小さな楽しみなので悪しからず。本当にただのストレス発散なのです。


話は全く変わりますが、僕自身は今もこれからも自由な人間なんだと当然思っていました。もちろん様々な制限付きではありますが。

しかし人間って自分自身で思っているほど自由ではなくて、

特に何ものにも縛られず自由に行動や考え方を毎日瞬間瞬間、選択しているようであっても、

実際は行動の殆どは何かの縛りに結構支配されて選択していることが、テレビを視るという行動一つにおいても考え直させられました。


ひとつは長年にわたる生活の習慣化による縛り。

もうひとつは(生まれてからの避けられない生活行動による刷り込みみたいな偏った思考認識)文化や環境や社会や歴史的背景による縛り。

僕の場合は上述の二つが好みの選択基準に影響しているようです。


僕に限らず他の人々も似たり寄ったりの好みの選択をしているかもです。


 

行事の意味合いはあるのか?

本日10月31日です。そして明日は11月1日です。

ある人種におけるの新年の始まりとされ、

収穫祭のハロウイーンの始まりとされていると、ウイキペディアにありました。

それがどうでしょう。一昨日の土曜日に地元の商店街で、昨日は県庁所在地の松山で

ハロウィーンのイベントが大々的に催されていました。


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日本の正月を1月1日以外にやっている地方があるだろうか。いくら海外のイベントだからって、クリスマスイブを12月24日以外に実行する人が国内にいるのだろうか?でもハロウインは別ってこと。そこの判断、根拠は何なのか?

休日にすれば、集客が見込め、現場が活気づくからの判断だけだろう。

もう一つは、ハロウインの言葉やその内容が認識不足で定着していないためだろう


それで商魂たくましい人達が、ハロウインの言葉と仮装の楽しさ、面白さで参加を呼び込み、人を集め、人が集まれば、そこにはお金が落ちるからってことだよね。

経済効果のあることには、反対や意義を唱える人は少ないよな。


宗教的な意味合いをそれほど取り上げない日本人ならではって感じかな。

日本の行事以外で海外の行事で日本に定着したものって、クリスマスとバレンタインぐらいかな、それに数年後には10月末にハロウインも定着しそうな勢いだ。





わが町伊予西条でも秋祭り10月15、16日の日時は神社のお祭りだから、動かすことができないが、祭りに付随する行為が節操なく行われていることに、僕はうんざりしている。

個人的には、子供の頃は、治外法権的に道路を歩いたり、おいしいものを食べて、大好きだった。

しかし最近は若者のマナーの悪さに、嫌気がさしてきた。

加えて神さんを先導する屋台を掻き揚げる人達の接待として、花代、つまり現金を差し上げるのであるが。一般の民家なら、子供のおこずかい程度で十分なれど、屋号を出して商っている場所なら、そういう訳にもいかない、総数100台近くに全て差し出すとしたならば、相当な金額になる。

祭りの二日間内で市内全域を回り歩き花を集めきることは不可能なため、祭りの数日前より在宅であろう時間帯の夕食時に来訪し、花代をせがむのである。これには閉口である。

祭り二日前に、とある居酒屋で食事中にはっぴを羽織った若者二人が当たり前のごとく、花代を要求していたことには、あきれ果てた。やってることはやくざと同じだ。恥ずかしいことだ。

そんな当たり前のこともわからない、マヒしている。正常じゃない。

楽しむことも大事だが、本来の意義を再確認、認識してして宜しい行為とそうでない行為を常識的に判断し謙虚を取り戻しこんな行為を慎んで欲しい。


今、テレビで東京では、ハロウイン本番の本日盛り上がっています。と仮装した人達がパレードで楽しんでいる。


確かに世の中は矛盾だらけだ。不合理で、理不尽なこともいっぱいだ。

しかしそんな中でも、行事の本来の意義を理解し、しっかりと後世に伝承していき、

しなければならない行為と、してはいけない行為の区別を一人の人間、大人として、ルールにのっとり、人間として恥ずかしくない行動をとってほしいと思うし、自分にも戒めていこうと感じた日であった。


 

毎日が日曜日

みなさん、こんにちは。初めまして。

私、齢55の既婚者で左半身麻痺で、毎日特に変化がない。すべき用事はありますが単調で気分はもうものすごく暗いブルーなんです。

そんな私が今頃、今になって、今さらって感じですが、ブログを始めるいきさつを書きますね。良かったら読んでください。


9年前の脳出血後、以前の仕事、機械設計を断念する事余儀なくされ、学習塾を始めました、開塾当初は一人で続けるには、十分な生徒も集まり、結構楽しく、気分も晴れやかでバラ色とはいかずとも、薄紅色で未来も明るく前向きな毎日を過ごしていました。

ところが、今年4月に塾生が卒業して以来、少子化と大手進学塾の塾生確保の勢いと不景気のあおりを受け、塾生が激減。そこでサイドビジネスとして、昨年知人より持ち込まれた水素に関わる話。説明会を聞けば聞くほど未来を予感させる事業に納得。

そこで、水素風呂のレンタル事業を始める事に。手始めにホームページを作ることに。初めてのこともあり手間取りつつ、約2か月かけて完璧ならずも無事完成。サイトにアップに成功。ホット一安心。

同様にホームページ開設した知人からメールをいただきアクセス増やすコツを検討中とあり、早速ネットで検索するとブログ開設がかなり強力なツールになるとあり、知人はすでに数年前より開設済みらしいが、遅ればせながら自分も始めたってことです。

今日、初めてブログって始めました。かなり不安もありますが、とにかく何かに挑戦しようと数日前に水素風呂のホームページをサイトにアップし来訪者を増やしたい一心で、ネット情報でブログの力を認識して、ネタが続くかどうか、読んでくれる人がいるのかどうか等、心配事もありますが、とにかく動いてみることに、始めてみることに、問題が出たときは、その時考える事に、こんな無責任でかるーい感じで始めちゃいます。


恥ずかしながら私の顔写真と塾の玄関貼り付けます。


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