心機一転

毎年、毎年何かがあるもんだ。自分にとって、

昨年に続き、今年も「厄年」、って思わされた。

しかも、ここのところ毎日が「厄日」のようなところも

感じられる。しかしながら、ある《出来事》を

きっかけに、ここ二日ばかり、ほんとぐっすりよく眠られる。

今朝はことのほか目覚めがいい、気分が良い。昨年末のこと。


ある若い女性に向かって、ふとぽつりと尋ねた。

「もう、いいお年頃ですよね」(今年春には28歳をむかえる)

「何か《活動》されてるの? 」 見やると、彼女は

一瞬、視線が合いそうになるところを、そらし

「え? え?」とつぶやき、ただただ沈黙「・・・・・」

「最近、めいっこが結婚しましてねえ・・・」

さらに何気に振ってはみてが、なおも素知らぬ顔で

悠然とやりすごされた。心なしか、

いささか視線がおよいでるようではあったが、

(いつもマスクをしているため、表情がよめない。)

ややして、何か思い立ったようで、離れて持ち場に向かった。

ただ、これだけのことだったのだが、その後、

彼女は妊娠出産を迎えることとなり、年初、とつじょ、

関係者多数の面前で、寂しくもここを離れるとの報告をして

小生の前からもどこかへ姿を消すこととあいなった。

親子にも夫婦でも、恋人でも、兄弟でも、親友にも

どのような人間関係にも、必ず《終わり》はあるものだ。


彼女とは、とあるコミュニティーを通じて知り合った。

あどけない顔立ち、ほっそりながらもムチッとした魅惑的な

からだつき。おとなしくも、どことなく威厳もただよっていた。

総じて、女ざかりがからだ全体に、みなぎっていた。

ひと言で申すならば、魅力的な《いい女》感が半端なかった。

初対面の時から、目を惹く気になる女性で、

小生は、ときたま、見かけると、ちょっかいをだしたもんだ。

あわよくばといった、やましい《下心》がないわけではないが・

小生すでに60にさしかかった老いぼれ妻帯者、頭も薄くなり

加えて、半身まひのハンディーキャップといった不自由な

身、しかもこの歳になって、社会に対してこれといった

功績も財産も残せていない無名な、平凡なふがいない

あわれな年寄りであろう。誰の目から見ても・・・

体力の落ち込みもいなめない。(あちらのほうも)

言わずもがな、若い女性に、気にとめられるだけの強みも魅力も

みじんもなかろう、そんなことは百も承知だ。


重々、自覚している。でも、いくつになっても、

夢を持つことくらい許されてしかるべきではなかろうか?

(しかし、無残にも、花は散り落ちた。)

もう二度と顔を合わせることも、見かけることすらないだろう。


そんなことよりも何より、いつから、

そういった相手を見つけ、

それにいたる行為を繰り返していたのだろう?  当然、

カラスの勝手で、小生に口をはさむ余地はどこにもない。

出るまくも、どこにもあろうはずはない。

誰に言われなくとも、重々わかっている、年甲斐もなく、バカな

行為であることも、身の程知らずも、世間体が通らないことも。

それなのに・・・ なぜに・・・

誰よりも、いつも気にかけ、

声もかけていた数少ない知人の小生に、

結婚すら、事前に何の報告もない。

いっさい、おくびにも出さずに、ひた隠しに隠しに、

どういうつもりなのか、理解できない。

ほんと、見くびられたものだ。何かうらみ節のように、

聞こえないわけでもないが・・・  でも・・・

なんだか、わびしい、悲しい、悲しすぎる。いくら望んでも、

叶わぬ恋と、当然わかってはいる。でも、こちらの気持ちは

彼女も承知してるはずなのに、(直接、何度も伝えていた。)

事ここにいたっては、もはや、もう、

どうすることもできないからこそではあるまいか?

多数の面前で報告する前に、そんな小生に、ひとこと《何か》

知らせがあってしかるべきではあるまいか?

(小生なればこそ、言えなかったやもしれぬが)

ことは、「妊娠」といった状況に至ったゆえの別れで

あるわけだ。しかし、それ依然に、ただ「結婚」した

ことだけでも、直接ひとこと本人の口から伝えてほしかった。

かえすがえすも、なんだか非常に残念であった。

しかし、振り返って、思い出して、推察するに、ピーンと来た。

そこには、彼女のやさしそうに振る舞っている心の奥底に、

小生をさげすんでいた、バカにしたような、小悪魔のような

あざけっていた《心》がちらほらとかいま見えるのだ。

余計な勘ぐりをされることも彼女も承知であろうに。

何かの思惑、裏があるような気がした、細かくは差し控えるが

知らされる前とその後では、彼女に対する小生の対応が、

変わってしまうのは、当然であろう。

それこそ、致し方ないことであるはずだ。  その覚悟が

なければ、身勝手なことなど何ひとつすべきではない。

誰かに想われる、慕われることには、責任が伴うものなのだ。

人とはつねに、多面な顔を持つ生き物だから・・・

良いことをすると同時に悪いこともする生き物だから・・・


人の世は、苦界(くがい)である、

何もかもが夢まぼろしである。

ひと呼吸して、じゃっかん、考え直した。もう、すべて、

済んでしまったことゆえ、

すべて水に流して忘れることにしたのです。

そんなことを思ってからは、何か《つきもの》がとれたようで

すっきりした。目からうろこが落ちたようだ。

心がなんだか軽くなった。 そこでこれからは、

分相応に、自分の身をわきまえて、

また、自分らしく笑って喜びを見出し、

小さいながらも幸せをかみしめて過ごそうと・・・・

良い意味で、何だか生まれ変わった心境なのだ。

何か大きなエネルギーが感じられる。力が満ちてくる。


中国の故事に、「人間万事塞翁が馬」がある。

「人間万事塞翁が馬よ! 人生是修行なり」 とも考える。

大切な何かがなくなろうと、いなくなろうと、

大切な息子や身内が、自分が大きなけがをしようと・・・・

人生何が良くて何が悪いか、死ぬ直前までわからない。

良いことも、そうでないことも、何が人生に変化をもたらすか

わからないものだ。頭ではわかっていたが、つまらぬことで、

(本人にとっては、とっても大事な事案なのですが・・・)

心も身体も悲鳴をあげていたようです。

疲れはてていたようです。ご心配おかけしました。


世間で言えばこれは《失恋》ですよね。誰も経験したくない

避けたい、惨めな悲しい辛い辛い出来事でしょうに。

とんでもないぜ。でも小生にとっては、《失恋》ではなく

《三下り半》なのです。(強がりととらえる人もいるだろうが)

一回死んで生まれ変わった《新しい人生》の始まりです。

「心機一転」何事にも心をくだいてはげもう、はたらこう。

今を懸命に生きようと・・・

そう思わされた出来事でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

では、また。


今日はおまけはなしです。


 

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