センス

週末の仕事を終えた、寛(くつろ)ぎのひと時。妻の声が

届いてきました。「こっちに来てみて。」何事かと

声の出どころに着いて、はっとさせられました。見慣れた部屋の

景色が一変していたのでした。数日前より宣言していたシアター


ルームの様子です。《やると言ったらやってしまう》のが我が妻

千恵子のすごい所です。プロジェクターの置く台がまだ箱なので

付け焼刃の感は否めませんが、分相応の金額で至らない所は

知恵と工夫と行動力でなんとか、それらしくこなして、しまう

ところは、父親譲りの《器用》を受け継いだようです。その後


「この大画面でビールでも飲みながら、映画観てみたいよね」

「うん、食料買い込んで、ビデオ借りに行こう!!」ってことで

昨日、決行。『ボヘミアン・ラプソディー』を鑑賞。再びあの

感動を体感しました。案の定、ウェンベリーのライブ場面から

二人とも、ほぼ半泣き状態、32型程度の画面と音響だけでは

決して味わえなかった感動です。アルコールの効果も手伝って、

僕の身体は「熱い興奮」と同時に心は「穏やかな平安・心地

よさ」で満たされたのでした。そのゆるやかな時間の流れに身体

を委ねていると、まるで、楽園の中で覚めない夢を見ている様子

で、すごく心が落ち着いた、つかの間の、心安らぐ《旅》でし


た。どんな生活レベルであっても、くよくよしないで、生活を

明るく楽しむ《極意》(センス)に、心癒されたひと時でした。

毎日の暮らしを、豊かにすることなんて、ささやかなことで可能

なのです。センスは、人それぞれですが、仕事も遊びも人付き

合いも、きっと《センス》が大切なのでしょう。それは

どれが良くて、どれが悪いとかではありません。ただ、

人生を磨くには、おそらく、センスを磨くと、より素敵になるの

ではないでしょうか!


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S. I LOVE YOU.


 

サービス業のジレンマ

塾という、もう斜陽産業に携わって10年以上、つくづく感じる

《サービス》を提供して利潤を追求する業種のあつれき。

豊かで人間らしい生活のためには、売り上げアップが必要です。

売り上げアップのためには、客であるカスタマーの増加が急務。

カスタマーの増加は、同時に仕事量の増加も意味します。毎日遅

くまで生徒に関わって、自分の時間を割いて準備を行い、簡単な

食事を摂って寝る、といった日常です。常識では、収入は増えて

も豊かな生活とは、縁遠い人生と言わざる得ません。貯金をして


老後のためにと、考えても、老後が来るかどうかも分かりま

せん。元気な人でも、余命がわかっている人も、年老いた人も

若い人でも、明日生きられるかどうかなんて分かりません。

今日を大切に、精力的に生き切る以外にありません。その上で

豊かに楽しく暮らすためには、《飯の種》の仕事だけに埋没

しないように、注意すべきなのでしょうか? 考えるに


そのジレンマの解決には、客あたりの単価を上げる必要が

ひとつ。 カスタマーが増えても、仕事量が増加しないような

システム作りがふたつ。最も重要な事柄は、仕事そのものに

《生きがい》や《自己実現》の達成感を実感できれば問題は

より軽くなるのでしょう。一般に、サービス業の頂点は


《医師業》でしょう。命を救う、と言った行為は、人間にとって

達成感の高い聖なる行動です。その行為は最高の称賛や高い報酬

を受け、しかも社会的地位も約束され、世間の景気の浮き沈み

にも影響を受けにくいとくれば、人生の絶頂感を味わうこと

が出来るでしょう。しかし、普通の仕事に従事しているならば


誰にもそのような《充足感》を味わうことは困難です。そこで

毎日少しでも、読書をするように気を配っています。

新しいことを勉強すれば、少しは将来を恐れることは少なく

なるかもと考えて、その時間を作ろうと留意しています。

何もしないで、じっとしていると、不安が不安を呼び込んで

怖くなってくるのです。だけど、このジレンマからはなかなか

逃れられない毎日なのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S. I LOVE YOU.


10分程のうたた寝の時に、何気に考えた事項でした。


 

老いた母

父を見送り一年以上過ぎたというのに、リハビリ通所での

こと。少し前から心配はしていたものの、思いもよらない突然

の問いかけに、僕はひどく動揺させられました。真剣なのか、

からかっているのか、でも思いのほか、しっかりと前を見据えた

目をして、母はひとりごとのように、か細い声でつぶやき

ました。そのもうろくぶりに、母が、もうすでに僕が知っている

彼女ではないことを、しみじみ痛感させられました。

「もう、還って来んのかね?」「え?」「戻って来んのかね?」

僕は真意を計りかねました。何を指して言っているのかは、

改めて聞き返すのが憚(はばか)れるのでした。相手にする気に

はなれず故意に、視線を落とし逸らせて、取り合わず、聞き流し

話題を変えました。歳のせいなのか、50年以上共に過ごした連

れ合いを失くしたがために、こうも変わってしまったのか、と

寂しくもあり、辛く悲しくもあり、懐かしい昔の思い出と共に、

何かこみ上げる感情が、僕の胸をえぐるのでした。《どうした?

かあちゃん しっかりしろ!》今年86になり、ひい孫も持つ

老婆です。残された人生も、令和の時代に終えるであろうに。


言葉には言い表せない程の苦労《子供の頃、僕に実家に帰りた

いと本音を告げ、父か自分かのどっちを選ぶかを真剣に聞かれた

のです。》を体験してきた母を想うと、せめて散り際くらい

本来の自分を取り戻し、昇って逝ってほしいと思うのでした。

その後最低限、妻と出来ることを最終段階になるだろう親

孝行をと考えるようになりました。僕にとって、強く勉強熱心


だった父は、尊敬と畏怖の対象でありましたが、学問とは程遠い

少しばかり《小ばか》であろう母には、はてしなく深い愛情を

感じさせてくれる存在で、この世で、この上なく愛して

やまない女性のひとりです。誰とも、いさかいを起こさず、

平和的付き合いを重んじる彼女は、尊敬される女性ではなく、

ただただ愛される女性なのです。僕にはそれで充分なのです。

両親、特に母には感謝の念は永遠に尽きません。兄を大切に

し過ぎて、逆に甘やかせて育てたことを後悔していた父。

兄姉には内緒で僕に、こっそり小遣いをくれた母。客観的にも

ひいき目に見ても、美人とは言い難い母が、小中高学校の懇談会

時に、慣れない化粧を施し、変に凛(りん)と振る舞って、女性

をひけらかそうとする姿は見るに堪えませんでしたが、今では、

当時の自分の心意気を、強く思い起こして欲しいと思うので

した。


誰にも存在する母親。彼女は、子供がどんな時でも、どんな状況

でも、常に真実の母です。今でも子供の僕に掛けてくれる愛情

を、老いて自分を失いかけている母に、今度は僕が優しく見守

ってあげようと、思わされました。「かあちゃん、

見守ってあげるからね。心配しないで。わがまま言ってね」

ひとり眠りに就く時、涙が止まらない夜でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S. I LOVE YOU.


今日は、ほんの少し感傷的な気分になってしまいました。

なつぞら

日和(ひより)続きの今日この頃、毎朝泣かされています。じっ

ちゃん、ずるい。涙腺の崩壊の毎日です。歳をとるとほんとに

涙もろい。ところで涙もろくなるのは、過去の人生で、涙を流す

ような艱難辛苦(かんなんしんく)を数多く味わってきて、耐え

忍んできた証なのだそうです。それを天が、そのような苦しみを

持ったまま、黄泉(よみ)の国に逝ってほしくなくて、涙を流さ

せて浄化させるのです。そしてその過去を顕在か潜在意識の記憶

の中から取り除かせてるのです。老いてから、やっと天の許しを

得て、自分自身を癒して、美しい思いを抱いて、いつの日か還っ

て来てもらいたのです。戦争のせいで、両親を亡くし、孤児


(みなしご)になってばらばらに暮らすようになった三人兄妹。

北海道酪農家に住む、真ん中の姉(奥原なつ、広瀬すず)が、

人との出会いを通して、アニメの世界に魅せられ、成長していく

姿を感動的に描かれるであろう(まだ物語は始まったばかりなの

で、憶測の範囲です)夏の季節に向けて春から始まった「朝の

連続テレビ小説」。僕はとりわけ、気楽に観える、素敵な話が

大好きです。偶然の出会いが、これから始まる物語の幕開け

でした。そしてこの偶然の出会いの連続が、物語を動かして

いきます。話は逸れますが、人はよく世の中《偶然》はなく、

全ては《必然》なのですと言い切る人が居ますが、人間が

思いも及ばない《因果関係》で物事が決定されるならば、

《人智》の及ばないそれは、もはや人には成す術(すべ)

無しなので、必然なのではなく偶然なのでは? ただ自分が

説明出来ない結果の着地を、必然とすればスッキリするからかな


人生は間違いなく、ご縁の賜物です。世界中には知らない人がた

くさんいます。誰とご縁するかで、人生は大きく変化して行きま

す。その出会いは、偶然か必然か? ったく。まだはっきり

と全体像が見えてこないので、憶測の枠は出ませんが、多分、

テーマは《純粋》だけで人は生きられるのか? 様々な問題を

放棄した人間より、この問題と共に生きる人間を我々は愛し信じ

ます。人を信頼し、素直に正直に、優しく生きることは極めて

大切だとは思います。しかし現実は厳しい。そこで《純粋》の他

に柔軟な鎧を身にまとって、頑固で無愛想な人の心をも溶かし、

心を通い合わせていくのです。それは《謙虚》《忍耐》《節度》

《寛大》等であって、しかも何事にも惜しみなく愛情を注ぐので

す。その結果、多くの人々の心を動かしていくのです。人は

誰もが自分の《居場所》を求め、もがき苦しみ、息詰まる思いで

命を枯らすように、身もだえするのです。自分の足元が切り崩さ

れていくような不安感を覚えるのです。その結果人間は

自分が解決できていない問題を、他者を通じて解決しようとする

ようになるのです。自分は何もやらないまま、他人を羨

(うらや)んで、不満を募らせて、不機嫌をばらまいて

言い訳を重ねてしまうのです。ここでその《居場所》とは、

場所であったり、人間であったり、モノであったりするのです。

しかしとどのつまり、それは《心》以外あり得ません。それは

何かを真剣に思い続ける《自分の心》なのです。


人生を切り開く突破口は、ひょとするとすごく単純な事柄で解決

できるのかもしれません。人間の欲望と犯罪が渦巻く、この世の

中では、《純粋》な生き方だけでは世渡りができません。人は

はたまた、純粋な心は大切にしつつ、懐深く、度量の大きさが

必要です。周りの目を気にしないで自分本位に生きると、結果的

に社会から孤立するでしょう。


《素直さ》《飾らない美しさ》《裏表のない心》

不平不満文句を言わず、ひたむきに一生懸命に頑張る、に尽きる

のです。思ったことを何も考えず、 そのまま口に出すのは、

嫌われる人・・思ったことを伝えるのが怖くて、何も言わない

のは、忘れられる人・・思ったことを相手が受け取りやすく、

話すのが、好かれる人・・・ 自分はどれですか?


レイモンド・チャンドラーは、かくのたまいました。

「強くなければ生きていけない。

優しくなければ、生きる資格はない。」

彼風に申すなら、

「《愚か》では生きていけない。

《純粋》でなければ、生きる権利はない。しかし、

《ひたむき》でなければ、生き続けられない。」


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


この番組の主題歌、毎回素晴らしいです。毎日数回

番組放送時に、声に出して、身体ゆすって、リズムとりながら

歌っています。ストレス解消されます。


 

桜の散り際

どれほどの歳月が流れようが、どんなに寒い冬が来ても・・・

必ず春が訪れ桜が見れますよね。心が和みます。しかし命には

必ず終わりがあります。陽の光漂うその道脇に・・・ そして

大好きな風景に今日も風が吹いています。まるで悠久の風を

受けるように、歴史を紡ぐように咲き続けている桜。近くで、

はためいた旗がいつまでもなびいています。道端の至る所で

ピンクのじゅうたんが見られます。桜の木々から内なる声が

聞こえて来ました。「おいおいおいおい・・てめえたち、

この桜ふぶき、散らせるもんなら、散らせてみあがれ? 」

その時です。突然一陣の風が・・・「ヒューーン」見事に、

ひとひら、ふたひら、広げた手のひらの上に、次々に乗って

いきます。季節を肌で感じられる時節です。単調な自然にも、

その自然の中に身を委(ゆだ)ねれば、楽しい現象です。

陽の光に囲まれ、全身を少し冷たい風で吹き突かれながら、

大切なものを護り抜き、散り死んでいくモノ達がいます。

男は、死ぬ間際、空を見上げながら「楽しかったな」と呟き

ました。たまらない《ジン》とくる死に方だな、と、思います。

自然の大きな木を見ていると、確かに人間は育ちます。畏敬

の念、尊敬するモノってあります。自然は観るものではなく、

感じるモノです。観察するって感じる事。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S. I LOVE YOU.


今日はかなり早起きしました。

58の春に思う

4月に入って、春真っ盛り。春うららかな晴天の空の下、視線の

先には、繰り広げられる花々の共演。薄青空色にはピンク色、

土色と緑色の中には、黄色や白色がほのかに浮かび出て、映え

上がっています。半分眠い状態から、目覚めました。のどかな

景色です。思いの全てが一瞬消えてしまいました。自然の事物は

人の心を鎮めてくれます。嫌なことを忘れさせ、心穏やかに

なれます。そして誰もがきっと、四季を実感させる、野に咲く

花々や、木々に散らばり、溢れ開く花弁を、同じように美しいと

心を残す者なら誰もが感じるのでしょう。誰にも心があるの

です。けれども奇妙な事に、そんな目の前の事象に関わらず、

人は自分の思考に常に苛(さいな)まれるのです。何気に歳を

重ねたからこそ、シンプルでなく、少し深い事を考えてし

まうのです。毎日ネットで見られる僕の誕生日占いによると、

「生命力にあふれ、積極的で行動力に富む」らしいのですが、

本当かな? 誕生日から数日が過ぎ、定数化できてしまい、

残されるであろう、自分の有限の人生。もう58にもなれば、


おそらく、毎日一日、一日が、神様からのプレゼントの様です。

だから、そんな日々は粗末に扱えないでしょう。ぞんざいに

扱えば、それこそ冒涜(ぼうとく)、大罪になってしまいます。

そこでふと考えてしまいました。もしこの世の中で、今、僕が居

る世界と、僕が居ない世界との間に、どれほどの隔たり、違いが

あるのだろうかな? 仮に隔たりがゼロだったら、どうしよう?

僕が居ても、居なくても、この世界が同じなのだろうか?

どうなんだろう? 答えは知る由もない。どれほど違うかで

僕の人間としての価値が決定されそうです。ずっこけて、はい

つくばって、突き飛ばされたり、すかされたりし続けている僕の

人生。どれだけの人に、どれほど影響を与えているのだろうか?

今回の誕生日をきっかけに、やり直しの人生もいいかも、って

思いました。今まで僕の人生、たまたま目の前にある事象を

ひとつひとつ、こつこつと、こなしていって、今があるのです。

常にあるのは、やるかやらないか、の二択だけなのです。

生き続けるためだけに、《やる》を選択し続けたのです。

人には、生きる道はふたつとありません。選べる道は

目の前にいっぱいありますが、実際に進める道はひとつ

しかありません。偶然の連続の流転(るてん)の末、今

僕の居るこの世界では、全ては《天の配剤》なのでしょう。

人とは欲深い生き物なのに、社会の中では奇妙なことに人々は、

自分の思い通りに、自分を生きることよりも、他人の目を気に

して、お互いが厳しく監視し合って、生きる世の中になってい

ます。となると、他人の評価で、人生の価値は決まってしまう

ものなのでしょうか。人の人生は、天皇であれ、誰であれ、

《その人の人生の価値は、その人生を送った人、その本人にしか

わからない》はずだと思います。社会の中で生きていかなけば

ならない運命ならば、その呪縛から逃れられないのか。何を

もって成功と呼ぶのでしょうか? 何をもって幸せと言うの

でしょうか? 何をもって不幸せと言うのでしょうか?

人の価値って何なのでしょうか? 人生って何なのでしょうか?

答えが出せない分、考えさせられます。いずれにしろ、

厚かましく生きて生かさせて頂きます。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


読んでくれている《あなた(YOU)》が存在する限り、

この紙面には意義を見出せます。本当にありがとうございます。


 

誕生日

そこは家から10分程のところでした。助手席に乗り込むと

妻が「今日おいちゃん、誕生日よ」と、同時に後ろを振り返ると

「おいちゃん、お誕生日おめでとう!!!」と5歳の女の子が

僕に笑顔を投げかけてくれました。時を置かず、2歳の弟君まで

も「あっ、おいちゃん、誕生日おめでとう!!!」と口にしたの

です。「ありがとうね、ふたりとも」と返すと、お姉ちゃんが

「ほんとは、プレゼントあげたいのに・・・」

「分かってたら、家から持って来たのに・・・」と大人顔負けの

ませたセリフに、感じやすい僕は正直泣きそうになりました。

幼稚園で躾(しつけ)の一環で覚えさせられたのでしょうが

初対面の大人の男性に、強制された訳でもないのに、なんの屈託

も無く反射的に口に出せるのです。《恐れいりやのきしぼじん》

一方最近、リハビリ通所で4月から誕生日祝いが突然取りやめに

なり、残念に思っていたところだっただけに、不意の心遣いに

感激いっぱいでした。どんな時代、どんな境遇であろうが、どん

な人生を送ろうが、誰もが持っている、本人の唯一無二の記念日

である誕生日。絶対、誰だって祝福されたいはず。


どこで、どんな風に祝うかは、個人によって様々でしょうが

想定内の演出は《ふーん、》て感じですが、まったく

予想だにしていない出来事に、僕の心は大きく揺さぶられま

した。数分後到着した場所は市民グラウンドに隣接した幼児

公園。僕はひとり車に残り、妻と子供達がふわふわドームで

戯れているのを眺めていました。風が強く肌寒かったのですが、

少し陽に当たろうと降車して、のそのそと杖をついて

歩いていると、お姉ちゃんが僕に近づいて来て、僕の顔を見なが

ら「大丈夫? 大丈夫?」って何度も聞いてくるのです。笑顔で

「うん、大丈夫よ!!」って答えそれでも、のそのそと歩いて

いると、今度は僕の少し後ろに回って、僕の左腰を軽く触って

「大丈夫。大丈夫」と声掛けをしながら一緒に歩いてくれたので

す。言葉に出来ないくらい感激、心動かされました。「ほんとに

ありがとうね。**ちゃん」と言って顔を覗き込みました。

二重瞼のパッチリおめ目に、バランスのとれた品性の良い、

とっても可愛い顔立ちにびっくりしました。性根が良いから、

素顔が素敵なのか、見た目が良いから、心根も良いのでしょ

うか、どちらにしても、早熟で、めんこい素敵な女の子との

出会いに感謝感激。夕食は居酒屋で乾杯。雇われ女性店員まで

も「なんにもないね・・・・ハッピーバースデー」て、祝福して

くれました。注目の新元号の話題より先に言ってもらえました。

歳をとらないと味わえない幸せもあることを再認識。


帰りの車中。僕らの近くまで身を乗り出して「おなら出た」

少しも悪びれる素振りも無く言い放ちました。その後

僕たちの会話の中で「はい、はい」と、どちらかが言うと

「はい、は一回」と、後ろから、突っ込んできます。

こうして僕たちはわずか半日で、とっても仲良しになりました。

これは人生おける、変動しうる幸福の最大値の、ひとつの出会い

といえるでしょう。58歳になった僕の人生。

まだまだあるじゃないか・・面白いじゃないか・・・

姿勢はエンジョイ。知識はぼちぼち。子供たちとのゆるふわ

交友関係。微笑ましくも、軽ーい関係であっても、人生を

色鮮やかに彩(いろど)るのでしょう。普通、幸せな人間は

自分に正直で素直です。そして自分の幸せに集中するもので

しょう。この素直な思いを正直に表現する人間を僕は愛します。

その上で、自分が「この人は素敵だ!」と思った人と出逢った

際に、恥ずかしくない自分でありたい。まだまだ人生の醍醐味

を見つけよう、探そう、求めよう、手を伸ばし続けよう、そこに

辿(たど)り着こう、まだまだ、いたずらに過ごしてなんか

いられない、安穏(あんのん)として居られない、と思いを

新たにした58回目の誕生日でした。ベストセラー

『七つの習慣』の著者は言っています。「 最も大切なこと

は、最も大切なことを、最も大切にすることである」今後は

これを実践していこう。人生には色々な生き方があります。

《自由に生きる》生き方だって、《豊かに生きる》生き方だっ

て、《自分らしく生きる》生き方だって、ただし無理をしないで

楽しみながら生きようと思っています。今後ともよろしくです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。PS I LOVE YOU.


陽の気配が感じられるが、闇がまだ、少しずつ入り混じって

いる、春の明け方。まだまだ肌寒いため、布団の中でごそごそ、

夢うつつの内に時間がいたずらに過ぎて行く。とてつもなく

贅沢な目覚めを頂く。そんな寒の戻りの朝を迎えた誕生日。