今の教育ってホントに正解?

先日塾で入試を控えた中学3年生に対して、英語の単語復習の勉強をしていました。

「バラは英語で?」「?????」「ユリは?」「????」「いとこは?」「????全部習ってません。」

実際には地域によって教科書が違っているために習う単語が異なっているだけの事らしいのですが。


僕は何気に「ゆとり世代か、、、、」とつぶやいてしまいました。悪気などまったく無かったのですが、その場に居た生徒全員の反感をかったようでした。

「先生、それって差別。学校の先生も何かって言うとすぐに、ゆとり世代だからって、それって卑怯です。」「私達がゆとり教育望んだわけじゃありません。今の大人が勝手に決めたことでしょう。それを無理やり押し付けといて、都合の悪い時には、ゆとり世代がってすぐ言うのよね。これっておかしくないですか?」

その時僕も彼らの言い分も理があると思ったから無理に言い返そうとはしませんでした。そして少し勉強を置いて一緒にそれについて考えてみることにしました。

まず、我々が学生の頃は一日6、7時間授業は当たり前、しかも土曜日も午前中は授業がありました。学習塾自体がほとんどなく通ってる生徒もほとんど居なかったと思います。それでもほとんどの生徒が希望する高校へ進学できていました。

当時は中学校の時に、すでに自分の事に関して、勉強に向いている向いていないを本人だけでなくや家族、先生達も判断されていたのかもと思います。しかもそれについて何の疑問も抱かず人生を送っています。


「私、数学、科学は大嫌い。高校入ったら数学と科学は勉強なんか絶対しないの、計算式出てくるから。でも進学高校は行くの。私の知り合いがみんなそこの高校の卒業生だから。入るのだけが目的。そこの高校の制服着てないと周りの人にバカに思われるから。」と、ある女子生徒が言っていました。私は少し悲しくなりました。

物事に対する疑問符を持たず、学問に対しての好奇心もない彼女に、進学校に進む正当な理由など見当たりません。世間に対する見栄と体裁だけが彼女が勉強をする動機なのです。


また別の女子生徒は「先生私は***大学に絶対入るの。そして大学生で歌手になって有名になるのが夢」「先生なれますよね?」「私頑張るから」

僕は無責任にも「うん、+++ちゃんなら、大丈夫と思うよ。」

これって嘘ですよね。いくら頑張ったからといって夢が絶対に叶う確証はありません。努力は頻繁に嘘をつくのです。

まず目指す大学に入れるかどうかですが。頑張っても入れるとは限りません。その理由は大学には定員があるためです。成績上位数パーセントの人間しか入れません。

次に歌手になりたい夢ですが、これは努力の要素はほんのわずかです。

生まれついての才能のある者には残念ながら勝てません。

また別の理由として、歌手になれるかどうかは宝くじに当たるかどうかと同じような問題で運だけの要素が運命を左右させ、努力にはほとんど関連性はないからです。お金や権力があればそこそこ実現は可能でしょうが。しかしそれは本人の望む物とは違うでしょうけど。

悲しい現実として、現実社会の、物事のほとんどの実現性は努力で可能性を高めることは簡単には出来ないのです。

とどのつまり努力だけでは才能や強運には到底かなわないのです。


話を戻します。ゆとり教育の前は詰め込み教育と言われています。

今までの歴史で人々が積み重ねて来た知識だけが、さも絶対の常識であるかのように一方的に半ば強制的に記憶させられました。その結果ここ日本において我々はその知識を疑うということを知らず、新しい発見や発明への扉を閉ざすという弊害を生んだのです。有識者と言われる人達の一部の見解です。

そこでこの閉塞感のある教育を打破しようとしてゆとり教育、おそらく時間にゆとりを持たせて自分で考える力をつけさせようとしたのでしょうが、机上の空論です。

一方で社会は相変わらず学歴重視です。

しかも教壇に立つ先生が詰め込み教育の申し子です。

教科書の内容と授業時間を少し削り、教育の理念を打ち出さないままでは変わりようがありません。

そしてゆとり教育にも限界を感じ、最近また詰め込み教育のような時間割に変えようとしています。


日本で最も賢いと考えられる人達のある集団が、高いお金と時間をかけて熟慮しているから、

完璧でなくてもそれなりの良くできた教育プログラムを考えてくれることを期待して待つことにしよう。

我々にできることは知識を絶対の常識として押し付けるのではなく、

子供たちの疑問や好奇心にひとつの考え方を提案してやるだけで良いのでしょう。そこから先は自分で悩み考え、自由に自分の進む道を選択していくでしょう。我々はそれを応援してやるだけで良いのでしょう。そう学問とは読んで字のごとく、問うて、学ぶ物だからです。

それの繰り返しがその子の、将来進みたい道を決定していくのでしょう。

ひとつの教科、しかもわずかの内容だけでその教科の向き不向きは決めれません。しかし学校ではテストが良くなければ、その子はこの教科に向いてないと判断を下し、しかも本人もそれを納得してしまいます。嫌いな教科を作ってしまいます。

これでは可能性の芽を摘んでしまいます。まだ時間がかかるかもしれないけれど、栄養が十分行き渡っていない上につぼみにもなっていない小枝を折ってしまうようなものです。もしかすればどの木々よりも一番大きく綺麗な花を咲かせるかもしれないのに。

弊塾に来てくれた子供たちには時間の許される範囲で学問に興味を持ってもらえるように、好奇心を育んでいこうと考えています。


しかし今の社会の常識が破壊され、まったく新しい社会の常識が出現し国民の大多数の考えや常識が変化しない限り、ほとんど記憶力だけが優れた生徒を優秀な生徒とする現行の教育では生徒(人間)の評価の視点は大きく変わらないのでしょう。残念です。


 

人間にもし寿命が分かったならば

久しぶりに外出から家に帰って何気にテレビを点けたら、今週の映画ランキングが発表されていて一位は相変わらず、「君の名は」でした。そして第二位は初登場で「本能寺の恋」少し映画の紹介があった。「本能寺の変」ではありません。


みなさんご存知のように「本能寺の変」は日本史上の歴史で未だに謎とされている事件で天下統一を目の前にしてた織田信長が光秀に討ち取られる「本能寺の変」に関する映画。

事件の前日に現代の女の子がタイムスリップして信長に出会う話。「変」とよく似た漢字の「恋」。

「本能寺の恋」は学生の珍迷回答の代表のような題名でもあろう。歴史に「もしも」は禁句だが、僕はまだこの映画を観ていないのでストーリーはよく知らないが、あえてドラマのために、信長の運命を知っている現代の女の子が信長に恋に落ち信長を救って歴史を変えてしまう話であろうことは想像に難くない。

しかし歴史ドラマではなくラブストーリーのようだ。

その後テレビを消してパソコンを起動させてユーチューブを見てると、あるお笑い芸人が「人間はなんのために生まれて来たのか?」もう一人が答える「納税するためですよ」。言い得て妙である。


人間は間違いなく社会性を持った動物である。社会とつながっていない人間はひとりも存在しないはずである。

そして社会を構成するのは人間本人であって、一人ひとりはその社会を構成する一つのピースに過ぎないということなのである。

その現実をシニカルに皮肉的に表現し笑いを誘っているのだ。


人間は誰しも必ず使命を持って生まれてくるものだと言い切る人もいる。僕は決してそうは思わない。人類は誕生して数百万年もの間、生き続けて種を保存するためだけに生活していたであろう。そんな状況では使命は種の保存の、本能でしかなかろう。

その後人間は現在までおそらく何度かDNAが書き換えられ脳が発達していった。そして人間は知恵を持ち始め集団で生活するようになる。その後社会が形成され、安全な生活や安定した食事の供給が保証される。

衣食住が足りた社会生活の中で、自我が目覚め始め主観でしか物を見なかった人が客観で物を捉えると言う物の視方が形成されていく。その客観的視点が自分自身以外の物に関心を持たせる。そして相違点の認識をさらに深めていき、自然科学を発展させることになる。自然科学の発展が新大陸の発見等を可能にさせた。これにより文明をさらに発展、発達させ続け、人間の生活はより豊かになっていった。


僕はある一時期、聖書を学ぶ機会があり旧約聖書の創世記を教わったのであるが、アダムとイブは狡猾な蛇にそそのかされ、神様が食べてはならないと言われた知恵の木のリンゴを食べてエデンの園を追放されたが、とすると神様は人間に知恵を持ってほしくなかったのであろうか。そして文明を発展させてほしくなかったのだろうか?人間に豊かになって欲しくなかったのだろうか。腑に落ちない疑問が頭に沸き起こる。


話を戻そう。「本能寺の恋」の話で信長が自分の運命を知りえたとするなら、信長が自分の死期を認識して、その後の人生をそれを回避するように生き方を変えたとすれば、それはもはや我々の知っている魔王信長ではなくなる。

いつ死んでしまうか誰も予測できない戦国乱世だからこそ、一瞬一瞬をいつ死んでも悔いが無いような気持ちで生き抜いてきた信長だからこそ、当時としてはあれほどの偉大な破格な事業を成しえたと思えるのだ。


現在社会は、けっこうなことに平和社会で、予期せぬ戦争が起こったり、事故による突然死はほとんどやって来ない。しかも豊かな社会のため、明日の食事に困ることもほとんど考えられない。

幸か不幸か、一部の現代人には死ぬほどの気持ちで何かに取り組み頑張る必然性が全くなく、自分自身の持っている可能性をほとんど発揮することなく残念なことに無駄に年を取っていき死期に近づいていくように思えてならない。


もし仮にあるときに事故や病気による死も寿命と考え、なにものかに自分の死期寿命を知らされたとするなら、しかもその情報に信憑性があったならば、その人の生き方はその一瞬から、180度変えられる可能性がある。


それは一日前か三日前か一週間前かひと月前か一年前か三年前かによっても、事故か事件か病気かによっても、対応は変わってくるだろう。

しかしながら、自分の死期を知ることで覚悟を決めることが出来るだろう。腹が座ることが出来るのだろう。不思議と前向きに生きることが出来ようになるかもしれない。

人間200年生きることは不可能なことも分かっている。100年生きることも困難で稀であることも理解している。しかし年を重ねても、毎日を死んだ気持ちで生き抜く気概を持つことの出来ない人間の弱さを痛感させられる毎日である。


自分の死期がある程度具体的に認識出来るようになると必ず生き方が変わるはずだ。

嫌な会社や仕事にしがみつく理由がなくなるだろう。すると他人の目を気にすることもなく、自由で自分らしい人生を送るようになる。結局残された時間を有意義に過ごすことができるようになる。

目的が入れ替わる

年が変わってブログを書こうと思いパソコンに向かってあれこれいろんなことに想いを巡らせていました。

しかし正月でアルコールが入り睡魔のせいか、気分が乗らず筆が進みません。頭の中に想い浮かんだテーマを考えましたが考えがまとまらない。投稿の締め切りには時間が一時間程で日付が変わる。考えがまとまらない上に筆が進まない。


新年が初めってそうそうブログをスタートしないのは気分が良くないと思ってました。そこでその一日の出来事を箇条書きに書くだけにしようかなとも考えました。まるで小学生の日記みたいになるかもと思っていました。でも自分自身が認めることが出来ません。それで後から編集することにしてとりあえず投稿だけしました。

昨日と今日はその投稿の編集をする前に考えがまとまらず途中の話のまま投稿したことを考えました。


それで気が付いたのです。僕はブログを書くことだけが目的になっていたことに思いあったのです。本当はブログを書いたその先に目的があるのにもです。


誰にでもよくある話ですが、ある目的である行動を行っている間に目的が変わってしまうことってよくあります。

学生時代要点の整理と全体の流れを把握するため、ノートと教科書の二つを読み返して別のノートに数種類に色のマーカーや下線を引いたりカッコで囲んだりとカラフルにいっぱい時間かけてまとめ上げて整理ノートと作り上げました。これで今度のテスト対策はバッチリって思ってました。でも不思議な事にあんなに時間をかけたにも関わらず、テスト結果が伸びない時が多々ありました。

しっかり覚えて自分のものにすることが目的であるのに、ノートに綺麗にまとめ書きをすることで満足していたんです。こういうこっとって誰でも経験したこっとってあると思います。

本来の目的が作業の途中で別な物に入れ替わっているんです。僕は、年末部屋の掃除をしようとしました。数年前の懐かしい写真の束を見つけました。一枚二枚と見ていくうちに懐かしくなって椅子に掛け直して結局最後まで全部見ました。みなさんその後僕何をやったと思います。片付けするのをほっといて写真を探し始めたのです。

掃除して片付けするのが最初の目的だったのです。でもその途中でまったく別の目的に変わりました。そのことにまったく気が付かず時間だけが経過して結局初めの目的は達成されることなく次の目的、次の目的へとどんどん変わっていきました。そして時間だけが過ぎてしまい一日が終わったのでした。


今回ブログを書くにあたり自分なりに目的があったのです。しかし続けていくうちに、内容はともかく書いて一日に一回投稿するということが目的なってしまっていました。じっくり時間をかけて考えなくて投稿することがほとんどなのです。スピードが求められる上に、早いレスポンスが可能になったため仕方のないことなのでしょうが、投稿したい内容によっては毎日投稿可能なテーマと、何日間時間をじっくりかけて洗練すべきテーマがあるはずと考え直しました。しかも毎日考える事は時間の経過とともに変わり続けるのです。


今日はブログが途中で終わってしまったことで改めて考えたことを書いてみました。。人間の目的は行動の最中でさまざまに変化していくということ。そしてそれは誰しも当たり前であるということです。


 

覇者とは?覇者と王者の違いは?

覇者と王者とではどちらが上なのでしょうか?どちらが偉いのでしょうか?


「覇者」とは何でしょうか?

その語源は中国の春秋時代(紀元前1世紀頃)までさかのぼります。「覇」を得たものの総称、武力でもって信を得た者を「覇者」と呼びます。「覇」とは武力、力、権力によって治める事です。

今の言葉で言うとチャンピオンとでも言えるでしょう。


武力でもって一番(上に付いた者)になった者を「覇者」と呼ぶのに対して、徳で持って一番(上に付いた者)になった者を「王者」と呼びます。


もう一度「覇者」と「王者」とではどちらが偉いのでしょう?

「覇者」と「王者」が一致する時もあるでしょう。

意味に従うならならば「覇者」と「王者」の問題は「武力」と「徳」の問題に置き換えることが出来るでしょう。では「武力」と「徳」とではどちらが上でしょうか?それは一概では判断出来ないのです。

と言うのは、人や社会や時代によって評価が分かれるところでしょう。

有無を言わせず一番を決めるには動物の場合、力比べをすれば白黒はっきりついて誰の目にも明らかでしょう。

一方「徳」の場合、その定義は多様なため、比較の判断基準が困難です。そのためどちらが優れているのかそんなに簡単に判断できないでしょう。

当人同士の問題ではなく、第3者の判断に任せないと結論が出ないことになります。時間がかかってしまいます。

言い換えれば力比べをして優劣を決めるのか、力比べをしないで優劣を決めてしまうのかと言う問題になります。単純に言えば戦って生き残った者が「覇者」になるのです。「王者」になるのは戦わなくともなれるのです。しかし特別な何かを持っていなくてはならないのです。それが「徳」と言われるものなのです。


歴史を見ると古代から近代までは戦いで正義を決定させていました。意見が衝突すれば力でもって相手を制圧すれば簡単ですから。

そうすると現在の世界の趨勢は「力」による「覇者」を「王者」よりも上、偉いと捉えることになります。

しかしながら、ここ日本では「王者」が「覇者」よりも偉いとされるでしょう。でも日本以外の殆どの国では「王者」よりも「覇者」のほうが偉いとされるのです。

昔から現在に至るまでここ日本に関しては「力」を持っている者よりも「徳」を持っている者が上で偉いと捉えるでしょう。

ご存知のように、武士の台頭で、徳川家は家康により関ケ原の戦い等の武力によって天下を統一し日本史史上最後の「覇者」となりました。

しかし家康自身が、中国の歴史に精通してましたから、「覇者」より「王者」のほうが偉いと認識していたため、自分の名前を松平から徳川に変えました。

しかしその事を理解していた、薩長土肥の新政府軍に倒幕され明治維新を迎えたのでした。その時に「王者」と尊王されたのは、神代の昔から脈々と生き続いている「天皇」家だったのでした。薩長が錦の御旗を掲げた時点で趨勢は決していたのです。


人類が誕生してから今日まで「力」のある者が時代を作ってきました。そしてあらゆる分野においても「力」の強い者を称賛してきました。

しかし今現在、人類は文明や自然、人間同士の無駄な破壊行為である、世界を二分するまでの戦争の無益さを悟り「力」と「力」の争いを回避する方法を常に今もって模索し続けています。


僕としても、人間はスポーツの分野以外では、「力」と「力」による争いを無くしてほしいものです。

それを「力」ではなくこの日本で言う「徳」と呼ばれるような何かで解決してほしいものです。

と考えると、この世界において、日本における「天皇」のような「徳」をもつ者が存在すれば良いということです。

今現在世界いおいて、日本における「天皇」のような存在、この何か特別な何かで、何者もひれ伏す「権威」を持つ何かの出現を一日も早く待ち望みたいと思います。


今日は12月31日、大晦日です。

今年のブログも最後になりました。来年も出来得る限り更新させていただきます。よろしくお願いいたします。みなさん良いお年を


 

まだ見ぬ世界を見るために

「@@@さんてすごい人よね。尊敬してます。」

<@@@さん、私信じられないけど、+++++だと思う。>

「でも++さんて最近****でしょう。ちょっと変じゃない」

(<<は>>で@@よね、変わってるわ。)

(****ってすごく楽しい。面白い。)

<@@は++っていわれてるでしょう。今ネットですごい話題でしょう>

「私はもういいです。だって@@@は++++だから」

(<<<|>>の話はもう結構です。しませんから、面倒やし。)

<今忙しくて時間無いから。****はもう少し時間経ってから聞くわ>

「まだ@@@やっているのか?+++++++はやめなさい」

この数週間、身近な人の言動を目や耳にする度、人の考え方、物の見方、人や物に対する接し方の大きな違いを感じています。

そして当然それによってその後、人の行動力、行動範囲、行動の自由度に大きな影響を及ぼします。

同じ人、同じ物に対してなのに、人によって、どうしてこんなにも考え方や見方が、大きく食い違うものなのかと痛感しています。

今日はその辺のことについて僕なりの考え方、物の見方で、考えてみたいと思います。


以上のような会話は全て「偏見」と言う言葉で括られるでしょう。「偏見」とは偏った物の見方や考え方。しかも全て非好意的


これってどこから来るものなのでしょうか?

例えば好きな芸能人と嫌いな芸能人のランキングには不思議と必ず同じ名前の人が上位にランクインします。

これはあるひとつの表情に対して個人によって違った解釈をするからでしょう。ただ単に好みの問題でもあります。

よく話す人を(うるさい)と非好意的にとらえる人もいれば(明るくて楽しい人)と好意的にとらえる人もいるようにです。ただ見た目(イメージ)だけで判断する場合もあるでしょう。

見た目すごく可愛らしくて優しそうで女性らしそうな方なのに、実際話して付き合ったら、下品でケチで酷い人も居ます。

すごく裏切られた気分になり落ち込む時があります。


もうひとつ違った例を見てみましょう。

テレビで見たり、ただなんとなくやっている人を見てるだけだと、テニスやスキーなんてとっても簡単なスポーツで直ぐに上手くなると思っていました。でも実際やってみると、なかなか上手くできず奥が深いなと思ったりします。あれ、思っていたのと、考えていたのと、実際やってみるのとでは、全く違ってるじゃないか。って思う時あります。

政治家なんて自分勝手でお高いと思ってましたのに、実際会って話をしてみると、気さくで楽しくて面白い人だったりする人もいてます。あれ、思っていたのと実際とでは異なってる人もいます。中には印象で思ってたままの人もいますが。

慎重で真面目だと思っていた人が車の運転をすると、無謀で粗く法律すれすれでヒヤヒヤさせられたり。本当の姿はどっちなのって分からなくなる時もあります。

気が弱くて頼りなくて何も出来ないと思っていた人なのに、現実には、気丈で色々な事が出来て頼りになる人もいます。まったくその反対の人もいますが。良い意味で裏切られた時です。

人を集めてイベントを開催する人は「これだけ儲かる」とお金儲けだけが目的と思ってる人って多くないですか。でも実際に当事者と親しくなり実態が分かってくると開催目的は「この講演会に来てくれた人達の考え方や知識のために」だけだったりするんです、お金は二の次だったなんてことも経験しました。しかも身銭を切ってまで開催する人もいたりとかしてました。その逆の人も居たりしますから訳分からなくなってきました。

これらは初めに思い抱いていたイメージや知識と、現実に体験した後のイメージや知識とで、大きな食い違いを感じることが少なくないことのほんの数例です。


人間って自分自身の今までの経験や知識と、テレビや雑誌やうわさ話などの不確かな情報(新聞で信じて良いのは、日付だけ。某有名(?)作家の口癖)だけで、人や物を自分勝手に判断してしまいがちです。でもこれって仕方のないことなのです。

これは自分自身でその人やその物を「よーく知っている」と勝手に思い込んでいるだけなのです。しかもその人やその物は「なんかこーんな感じ」と大雑把に考えているだけのときがほとんどでしょう。

おそらく思い込んでいる人に、ではその人やその物は何か詳しく教えて下さい。と聞き返してもよく知らないはずです。実際に聴き返した時には、言い訳みたいに、根拠等どこにもないのに、自分はそれを知っておく必要もないし。知る必要もないからと開き直る人が居ます。実際に知らないから仕方ないことなのです。

多くの人たちは「よーくは知らない」、けれども「間接的に噂話やメディアで何かを知っている」だけなのです。

しかもその何かが、その人やその物の本質や真の姿では無い上に特殊で特別で普通でない部分、しかも大きく的外れの部分で、本質や真の部分とは程遠い、細かいどうでもいいような事柄であることがほとんどなのです。悪意に満ちた何かの場合がほとんどです。

良くも悪しくも、その人やその物をほんの少し「間接的に何かを知っている」場合にこれらは形成されます。


そしてそれは特殊な部分で、そのひとやその物の普通でない部分であるがゆえに、より大きくクローズアップされます。そしてそれらの殆どが非好意的で攻撃的なのだす。

ここで特殊で特別な部分(普通でない部分)でない部分、つまり普通な部分がその人やその物の本質であったり真の姿であったり実態であることが数多くあります。

しかも「間接的に知った」情報では、普通の部分は意図的に削ぎ落とされています。

「間接的にしか、その人やその物を知らない」から、それらの特殊な部分だけをまとめあげた情報が、その人やその物の本質や真の姿や実態を捉えきれないまま、

真核からずれてしまって特殊な部分や偏った部分だけがその人やその物の本質や真の姿、実態の普通の部分(全体像)と思い込んでしまうのでしょう。

しかしそれは人が愚かで悪い人だからではなく「間接的に知っている」情報が本筋から大きくそれていて、しかも偏っている情報でしかないので、偏見になるのは必然なのでしょう。

情報全てを冷静に判断しても、情報自体がずれてしまっているから偏るのは仕方ないでしょう。だからこれらを悪と決め付けられません。


まさに、木を見て森を見ず、です。物事や人間には多様性があるってことや、また氷山の一角、のように見えてない部分にこそ本質が隠されていることの方が多いことを認識や意識することが重要なのでしょう。

また自分自身の自分は何でもよく知っているというおごりを失くすことも大切でしょう。

また人間の知識量には限界があるということもしっかり知っておきましょう。今自分は偏見を持っているかもしれないと自覚しておくことも大切でしょう。

そういう認識や意識が偏見を防ぎ、本質を見失わないで行動の自由度を広げたり、行動力を発揮させたり行動範囲を広げる事にもなるでしょう。

特殊な部分や偏った情報だけでない、その対象物の本質や真の姿やその実態(まだ見たことのない世界)を知ることも出来るかもしれません。

この世界にははまだ見ぬ真実にあふれかえっています。しかも実態のつかめない見えない世界の方が,見えてる世界より数多いのです。

まさに生命の起源は深海であって、しかもその深海の実態は今もって誰も見たことが無く、全てを把握できない世界であるのです。


《追記》

この話自体にも僕のどうにもならない偏見に満ち満ちているかもです。ご了承下さい。自戒してます。


 

健康な身体は健康意識から

 

僕の心の柱のひとつであるエドガーケイシーのリーディングのひとつにこんな文章があります。
「心は作り手です。あなたが思い続けることで、あなたが培うことで、あなたは日々に果実をみのらせるのです。」
ここでいう心は意識や意志と言い換えることができるでしょう。
何かに強い意識や意志を向けることで人は考えが変わります。そして行動が変わります。そしてそれを継続するのです。その結果、何事においても良い結果に導かれます。そういうことでしょう。
今日は健康意識を高めることを考えてみようと思います。


現在日本国内において死亡原因の上位はがん、脳卒中、心臓疾患、肺炎、老衰、自殺等です。
この中でがん、肺炎、老衰等においては死は突然やって来なく、少しの猶予が与えられます、しかし一方脳卒中、心臓疾患の一部心筋梗塞は突然死が考えられます。
しかも突然死には血管の状態に起因する病気がほとんどなのです。
病院での精密検査ならともかく一般の個人が識別できる血管の状態は血圧しかありません。


東北のとある町で、希望する家庭に家庭用血圧測定器を配布したそうです。するとその付近の町の中で死の死亡率がトップだったその町が突然最下位になっとそうです。希望する家庭に家庭用血圧計を配布するだけでその町は大きく変わったのです。何が変わったのでしょう。


血圧計の配布を提唱された医師によると、自分自身で血圧を測ることによって健康意識が高まったことが大きな要因に挙げられるそうです。

ただ意識を持つだけでも、意識を変えるだけでも好結果が出るという話でしょうか?当然そんなに簡単な話ではないのです。
もちろん血圧を測定するだけではなく記録もするという二つの行動を同時に起こしたのです。その血圧測定と記録の確認が、健康意識を高めたと言うことなのです。

そして健康意識が高まったからこそさらに行動を継続します。そしてさらに良い結果が出てきます。

良い結果が出ると気を良くしてさらに継続をします。そしてまた自分自身で血圧を測ります。そしてより健康意識が高まります。そのような好循環によるものらしいのです。

この循環の中に「健康意識を高める」のキーワードが何度か出てきますが、この健康意識を高めるということが最も大切なことなのです。

その上で、もし少しでも数値に異常があった場合、直ぐに生活習慣を見直すと言う、そういう意識を持ったことが実際の健康につながった訳なのです。


しかしであります。何かの本で読んだ話ですが、医師によりますと生活習慣が原因で病気になってしまった患者さんであっても、医師が提案される生活習慣の改善を実際の生活に取り入れて、生活習慣を改めて実践する患者さんの割合は、なな、なんと、0パーセントなのだそうです。

つまり、痛みを伴った患者さんであっても、実際に生活習慣の改善を実行に移すような人はひとりも居ないということなのです。禁煙やダイエットの困難さがよく理解できますよね。0パーセントは言い過ぎにしても、殆ど居ないと言うことなのです。

当然誰しも死にたくはありません。不自由なままは嫌ですが、無理をしてまでしたくない出来ないと言うことです。

それほど簡単に今の生活が変えれないのです。誰しも長年続けた生活を変えたくはないのです。たとえ死と隣り合わせであったとしてもです。それは誰にも寿命がわかりませんし、どこにも痛みが無ければ特に無理はしないでしょう。
とするならば、強い意志を持って取り組む以外に方法はないのでしょうか?
それはど強い意志を持ち続けることができる人はまれでしょう。そんな人ばっかりなら世の中みんな自分の想い描く人生を送って不幸な人なんていないでしょう。そうでないのが人間たる所以でしょう。


とするとここで疑問が出てきます。前述の町の場合において数値に異常があった場合、その対象の人々はみんな生活習慣を改善したのでありましょうか?

答えは、な、ななんと、Yesなのです。それはなぜでしょうか?なぜ彼らは出来たのでしょうか?ただ健康意識が高まったからだけなのです。一念岩をも穿つなのです。強い意識を持つと行動を起こさせる何か強い力になるのです。 と言っても行動は直ぐには変えられないでしょう。


ここで少し人間の行動原理について考えてみたいと思います。行動を起こす時にはほとんどの場合、行動の前には意志が働くはずです。

人間、自分自身の行動は自由意志による選択権が与えられているわけでしょうが、意外と予期していない縛りに選択肢が狭められている気がすると少し前のブログに書きましたが、ここで大切なことは、行動の中にも意識的な行動と無意識な行動とに分けられるということです。
例えば、朝起きれば出勤する、毎朝顔を洗うとか、着信が鳴れば電話に出る、玄関のブザーが鳴れば応対するなどは、無意識による行動の最たるものでしょう。反射的に起こす行動もその中に含まれます。
当然状況によってそれが出来ない時も出てきます。しかしそれらはほとんど意識的な意志によるものです。

と考えますと、行動を起こすことは無意識でも行われますが、行動を起こさないという選択は脳に意識的に働かさないと、人は無意識に勝手に行動してしまう事柄が往々にしてよくある、と結論づけられます。


したがって無意識に自分自身に行動を起こさせるように仕向ければ強い意志を持たなくても行動を継続することが出来るかもしれません。

それは言い換えれば行動を習慣化にすると言うことです。もちろん何かの行動を習慣化することが出来れば大きな力を習得できます。

しかしながら、ご存知のように習慣化になるまで継続できるかどうかが一番の問題なのです。


そこでであります。まず第一に無意識に行動が出来るようにするためには、意識的に思考を目的の方向に向けます。


以前ある人気のブログの中でブログを書き続けるコツが載っていました。みなさん何だと思われますか。

なんとそのコツは、「とにかく毎日書くことです」、といきなり反則のようなコツが書かれていました。仕方ないので素直に従ってみることにしました。

僕は子供の頃から、文章を書くこと、作文や感想文、日記などを書くという作業は好きではないから、もちろん得意でもなかった。

だからブログを書き続ける事の困難さを痛感していました。そんな自分がわざわざそれほど好きでも得意でもないのにブログで文章を書いている不思議。

人気ブロガーの「毎日書くことです」を実践してみようと考えました。そこでとにかく「ブログを書き続けよう」の意識を持ち、そのための自分なりの方法を考えました。

毎朝起きれば、テーブルのパソコンを点けて自分のブログにログインする。仕事が終わればご飯の前にまた自分のブログにログインしています。

初めの頃は強い意識や意志を持って向き合っていましたが、徐々に無意識に毎日決めた時間以外でもブログに向き合っています。

最初の頃はパソコンを点けてもブログにログインしないでニュースを読んだりメールをチェックしたりとか、ユーチューブを視たりしてました。誘惑に負けてしかったのです。

ふと思い直した時、少しブログに強く意識を向け直し、一度ブログにログインすると、度々ブログにログインするようになりました。「少し習慣化してきたかも」と思っています。


第二には自分自身にとって最も簡単でたやすく出来る小さい事柄を見つけ出す、探すことです。そしてとにかく始める事です。


また僕自身10年程前に右脳の脳出血後、その後遺症のため生活の自由度が大きく変わり今現在も不自由ではあります。

しかし病気になったことで健康に対しての健康意識が以前より強くなり、エドガーケイシー療法に出会うことが出来、明るい未来が持てるようになりました。

発症前の自由で元気な身体に戻れるかどうかは神のみぞ知るです。それほど神経系統の病気は完全回復が困難な難病なのです。

しかし健康意識を持つことで、健康で長生き出来る強い身体と健全な精神(魂)を持つことの方がより重要であることに気づきました。

健全な精神は健全な肉体に宿る。とよく言われますが、卵と鶏ではどっちが先の議論と同様に精神(魂)と肉体とではどちらが先なのでしょうか。よく分からないので、僕は今現在は健全な肉体と健全な精神(魂)造りを同時進行で進めています。


そのなかで自分自身の健康意識はかなり高まっていると思います。魂磨きの方も高まっていると思います。
健康な身体を維持していこうと、健康的な行動を意識的に行なっています。そしてそれらが習慣化になるまで続けるように気を張っています。
無意識で健康な身体作りのための行動を選択するように意識を極力健康に少し傾けて毎日生活しています。

時々はストレス発散のため、ファーストフード、揚げ物、甘味物、アルコール、インスタント、炭酸飲料は食しますが、深入りはしなくなりました。直ぐに健康な食事に切り替わります。健康意識は常に頭の中に持ち続けています。


第三に小さな行動を起こしている間も意識を持ち続ける事です。そして繰り返す。続ける。継続する。


また 健康意識が高まったことでふたつの情報に出会うことも出来ました。
ひとつはエドガーケイシーの健康に対するリーディングの数々です。

この情報は現実に即してる上に、実際に好結果も出ていますし、非常に役立ちます。しかも普遍的で論理的にも納得できるものなのです。

この情報に基づく実践が発症から現在に至るまで風邪ひとつもひかない健康な身体を保ってくれている要因であることは間違いありません。

そしてもうひとつは水素に関わる商品との出合いです。この水素は臨床結果が数多く出ているにも関わらずいまだに賛否両論がネットでも議論されていますし、医者であっても検証もしないでその効果を頭から認めようとしない人もいるほど、人によってその是非が大きく分かれています。

使っているものはただの水だけなので水素精製機械があれば良いだけですし副作用が全くないため、大手薬品メーカーが参入出来ない等、既存の病気治療や予防方法が不必要になるかも等、水素はある組織にとっては死活問題にもなりかねない危険分子なのです。

最悪、薬品不要論さえ出かねない状況のため、水素医療の発展や研究を妨げるような社会の圧力を感じてしまいます。

水素に関しては多くの批判拒絶情報が蔓延してるようです。悪しき(?)既存勢力と新興勢力との利害関係はいつの時代にも大変大きな問題ですね あくまで私個人の見解です。

使用して良好な結果が出た人だけが信じて使い続ければ良いと思います。しかし医療の発展のためや国の医療費削減をもっと議論すべきでしょう。


ここで以前から健康に意識を向けて意識的に行っていた行動の中で現在はほぼ習慣化したものを列挙したいと思います。健康に興味のある方はぜひ取り入れてみて下さい。
1、豚肉はほとんど口にしません。(ここ何年間あの美味しかったとんかつを食べたことがありません。)
2、野菜はほぼ毎食摂っています。(特にレタスを多く食べるようになりました。)
3、水を一日一リットル以上飲む。(水の都西条なので美味しい水は豊富です。)
4、柑橘系の果物を穀物と一緒に摂らない。(10年前から食後にみかんを食べたことがありません。パンとオレンジジュースは一緒に食しません。)
5、身体が酸性に傾きかけたら朝食にみかんだけ食する。(風邪っぽいな疲れたなと感じ初め)
6、胃腸を休ませるため、生のリンゴのみを数日間出来る限り多く食べる。(水分は水とコーヒーのブラックのみ、年に一回程実践します。)

7、飲用水は水素水を使用する。(飲用を初めて毎日数回便通があります。)

8、風呂は水素風呂に入る。(身体が冷めにくく、水虫がほぼ完治しました。)

9、毎朝洗顔後に10分間の足と首のストレッチ体操(眠気がいっぺんで吹っ飛びます。)

10、30分から一時間置きに椅子から立ち上がり、少し歩く。(耳石を動かし平衡感覚を保つ。)

5番、6番を除いてはほぼ習慣化しています。5,6番は年に数回なので習慣化してるとは言えないと思います。刺身のつまでもほとんど好んで食します。


第4に習慣化したと思われる行動をもう一度意識確認する事です。無意識な行動を自分自身に自覚させるためです。


意識を向けて意識的に行動しようとしても出来ない事柄や続かない事柄も数多くあります。当然それらは習慣化することはありません。

そうなれば当然良好な結果を得ることはできません。

その時はまた第一に戻って意識するところから始める。そして第二の自分の出来る小さい事柄を見直すのです。

行動の習慣化は階段を上るように段階的に上がるのではなく、右肩上がりに曲線上に上がっていくものなのです。


最後は良好な結果を得ることが出来たことを、神様等に感謝する。感謝することです。


 

WordPress(ワードプレス)のPlugin(プラグイン)で問題発生

ブログの更新が三日間続いていました。今日も更新しようと活き込んで、調子に乗っていたある時突然

またまたログインできなくなりました。また何か問題が発生したのだ。もう時間がないし、三日坊主で終わってしまうと覚悟しました。


Fatal error: Out of memory (allocated 126877696) (tried to allocate 122880 bytes) in /home/rslitefc2/users/taiyohanasaku/public_html/koji/wp/wp-admin/includes/class-wp-plugin-install-list-table.php on line 210


と初めて見るメッセージに困惑しました。当然ネットで調べました。でも手の施しようがありませんでした。

10時頃、早速レンタルサーバーへメールにて連絡を取りました。事の詳細を記載するとほどなく真夜中の5時頃メールにて問題原因と解決策を教えて頂くことが出来ました。

そうそう作業を開始しましたが指摘のファイルが見当たらず作業がなかなか進まず途方にくれたまま朝を迎えました。


仕方なくもう一度、進捗状況を記載してメールを送信しました。難易度の高い問題で苦労しているのか、それとも日曜日をはさんだため、

担当者が休みかもと思い月曜日の本日まで待ってみることにしました。しかし結局昼過ぎまでメールは届かなかったのです。

もう自分で何とかしなければと思いました。前のメールの中身を何度も読み返し問題究明が明らかになっているので自分でもじっくり取り組めば何とか出来ると信じました。


参考までにレンタルサーバーからのメールの記載を貼り付けます。

「確認をいたしまいたが、おそらく多数のプラグインの導入により不具合が起きている可能性がございます。

ログイン後、不要なプラグインを削除、または無効にし管理する事をお勧めいたします。」

以上の記載より判断して解決策を仕方なく自分で見つけようと考えました。

まずプラグインはオプションのため、絶対必要な項目ではないから、問題になっているプラグインを無効にするとログインできるかもしれないと考えました。そしてそれが正解で問題解決へと導いてくれました。

しかもインストールしたプラグインは幸運なことにディレクトリごとに分割されていました。

最も問題発生の考えられるプラグインからディレクトリに入りファイルの中で最も主要であろうファイルのひとつをリネイムしてみました。

これが最後の処理でした。


問題発生のあるプラグインをスルーすればログインできるかもしれないと考えました。全てが正解でした。

再びログイン画面から入力しました。予想と策が当たったんです。


無事ログイン出来ました。しかし今の状況ははただ、投稿だけが出来るようになっただけです。

まだプラグイン機能が全く使えない状態なので、問題項目のプラグインを機能停止か削除しなければ完全な問題解決にはならないのです。

早速インストールされているプラグイン項目にアクセスし問題になっていたプラグインを見つけました。

そこの項目に削除を見つけ早速クリックしました。問題項目のプラグインのみ削除に成功しました。

ネットでワードプレスで必要最低限項目のプラグインを見つけ、それらの項目だけ残し残りは全て削除しました。全て削除できました。

それですべて成功、完了したと認識しました。


早速ログアウトして再ログインしてみました。問題なくログイン出来ました。

そして今現在投稿できてます。自分ひとりで解決できました。さすがに今回は無理かもと思いました。

それでも諦めずに考え続けて解決できました。達成感いっぱいです。


 

食べる事は一番の楽しみ

僕が小学6年生の時に白黒テレビがカラーテレビに変わった。チャンネルも一つ増えた。中学1年生の時、固定電話がやっと我が家に付いた。

そして、小さなモーター音のうるさい冷蔵庫、すすぎ、脱水が不十分な半自動洗濯機、前輪が一つの小さなトラック車両から家族5人みんなが乗ることができる国産車。

まだまだ不便はいっぱいあったが、今振り返ってみると時代の変わり目だったのだろう。

知り合いや近所も、ほぼ全家庭が同じような状況だったろう。

しかもお金持ちでも普通の家庭でも国民はほぼみんな豊かさを享受でき始めていた。一ドル360円のレートが変わり始めていたのだろう。

そうお金持ちでも一般家庭であっても便利な機械などはそんなに大差なかったと思う。エアコン、クーラーの存在はよくわからないが。


しかし食事は別だだったろう。お金にものを言わせれば、お金持ちは相当贅沢な食事は味わえたであろう。食材を海外から輸入で取り寄せてでも。一般の家庭ではそういう訳にはいかなかったはずだ。

それでもバナナは少し安価で手に入り始めていた。

昔は食事の内容はお金持ちの家庭と一般の家庭では食事内容は大きく異なっていたはずだ。食材はほとんど国内産で高価だったろうに。

だから僕も家内も今のような、それほど豊かな時代に生まれ育っていないため、食事は必ず家庭料理、外食なんてもってのほか、

一番の好物はカレーライス、ざんき(トリカラ)くらいでした。今でもそうです。今の一番は焼肉かな。

だから今でも、食べることに関しては、二人ともかなり貪欲。外食時は結構もめます。

いつの時代でも我々の一番の楽しみは食べる事なのです。


僕は初めてもらった給料を持って、友達と大阪なんばの商店街を歩いて、美味しいものを腹いっぱいと考えていました。

一皿100円の看板を見つけ、初めての回転寿司で腹いっぱい美味しい寿司を食べれた幸福感を味わうことができました。大満足でした。

選択の基準は安くて早くて、好物な物を大量にです。


今日は家内が早朝より仕事で外出のため、負担軽減のため朝食抜きました。たまにはありでしょう。

朝昼兼用でチェーン店の小さなお弁当です。見た目はともかく栄養バランスの悪い食事ですよね。自分でチョイスして買ってきてもらってますが。でもこれで十分なのです。

前日の夕食は食べ過ぎですし、今日の夕食でカバーすれば大丈夫。たまにはこれもありです。いつも栄養考えてもらってるから。

でもこの弁当、色どり見た目もだめですね。食事は見た目7割、味3割、特に弁当はそうだと思います。中学校当時弁当のおかずは意外と、自分で詰めたりしてました。

でも好物のトリカラふたつにエビフライが入っているだけで幸せ。しかもふりかけ付で380円です。安上がりでした、コスパは良すぎ。

野菜不足は青汁で補ってます。

しかも自分一人ぼっちの食事タイムです。BGM流して自由この上なしです。ストレスなしで美味しい楽しい食事が一番です。


現在のような豊かな社会ならお金持ちも一般の家庭も食事内容は大差なくあまり変わらないですよね。

子供のお年玉の金額、一万円程出せば、今ならだれでも流通しているメニューの殆どは口にできるでしょう。

料理人や場所によって味や値段には少しはバラツキはあるでしょうが。


お金を使えば、贅沢をしようと思えばいくらでもできますが、そこまで毎食美味しいと思って食事できるか疑問です。

むしろお金持ちの人たちよりも一般の人たち我々のほうが、たまの贅沢で美味しい食事を、より美味しく楽しめ幸福ではないでしょうか。


飽きることが無ければ我々の毎日の食事もインスタントでも十分なのです。下手な料理人よりはるかに美味いものがあります。

ちなみに僕の今日の弁当のトリカラもエビフライもふりかけも青汁野菜もインスタントです。白米もそうかもです。

健康に害が無ければ僕は何一つ不平不満もありません。むしろ料理の待ち時間が短くてこちらで結構です。

そしてめったにない、たまの贅沢で焼肉や居酒屋で大好きで美味しい料理を頂くのが一番の幸せです。


我が家では今年のクリスマスの料理はすでに出来上がっています。冷凍室に保存されています。

ネット通販で買いました。昨日クリスマスケーキが届きました。auショップで割引特典で購入しました。

大みそかの料理も僕は出来合いの料理でも良いのですが、家内は鍋料理を作って締めに年越しそばを食べると言っています。

ですから年の最後くらい風呂を頂いた後で、冷えたビールで二人でのんびり紅白視ながら、楽しく鍋をつつこうと思っています。


食事は少しづつ口に入れて30回以上噛むように意識しています。

美味しい食事はもちろん大切ですが、医食同源の言葉どうり、食事による健康な身体作りも大事にしています。

何事も身体あってのもの種ですから、まだあと35年程この世界に未練ありますから。

独身時代から自由になる収入の半分以上は食費に充ててました。今でもそうしたいと思ってます。

エンゲル係数って豊かさを測る指標がありますが、我が家はこの20年ほぼ横ばいでしょう。


欲張らずむこう30年として30×2×365=21900回、一日に2回の食事を摂るとして

むこう30年で2万回強、うーん、粗食一万5千回、残りの5千回は好物の食事に充てようかな。その内2千回は洋食、残り和食。

計算どうりにならないでしょうが、これならバランス取れて医者いらずで大丈夫かも。


 

鬼平に代表される日本人の好む人気作品

最近テレビを殆ど無駄に視なくなりましたが、それ故にお気に入りの番組はほとんど逃さず視聴します。

朝の連続テレビ小説、大河ドラマ、吉本新喜劇、相棒は欠かしたことはほぼないですね。

音楽番組も時々視ます。


その中の一つに時代劇の鬼平犯科帳もあります。ほとんどがBSテレビの再放送による放送で新作が年に一本あるかないかでした。

当然といえば当然であります。ご存知のように鬼平は実在の人物なのですが、他のヒーローものと同じでノンフィクションの愉快痛快話がそれほど残っておらず、池波正太郎氏によるフィクションものなのです。

原作者が他界した現在、他者による類似作品を良しとしないスタッフの意向で今年2016年をもって新作はもう二度と作られないとのこと。ファンとしては本当に寂しい限りです。先日最終作品をビデオ録画で保存しており、本日視聴しました。やっぱり面白い楽しい。


表題が鬼平なので、悪人を鬼人のごとく情け容赦なくたたっ斬ると思われがちですが、人間の心情、人の心や男女の機微もよく表現されていています。

法律がきっちり整備されていない時代背景だからこそ、様々な意味で自由度を広げており、作者の創造力をかき立てたであろうと思います。

特に上の人間の裁量が問われる決断や結末において、変幻自在の展開のおかげで、鬼平が時たま仏の顔を見せる等多彩に富んでおり

情けのある裁断を下す結末が特に好きでほろっとさせられます。しかし根っからの悪人は必ず最後は成敗されます。


フィクッションものは勧善懲悪ものが分かりやすくて単純明快でよろしい。視終わった後、気分も爽快でストレスが残らず大好きです。

史実なら仕方のない表現もあります。しかしながら時々結末の白黒をはっきりさせないで、玉虫色でうやむやに終わらせたり、

その後の結末は個々の視聴者の想像や想いにお任せします的な視聴者に結末を丸投げするような作品がたまにありますがあれはいやですね。そんな作品を作った監督の作品はその後はほとんど視ないようにしています。


ノンフィクションなら仕方がないところもありますが、フィクションものなら恋愛ものでもなんにしてもハッピーエンドが絶対一番でしょう。


構成がしっかりしている作品としては朝日テレビの相棒も良く仕上がった作品ですよね。今から正月の放送が楽しみです。

ただし鬼平と少し違って全ての分野においてほぼ完璧に整備されている現代の社会背景が災いして、隙や自由度があまり無く遊び心も少なく、少し窮屈な結末が稀にあると思います。


しかしながら右京さんの無尽蔵ともいえる知識には脱帽させられるし、冴えわたる推理には当然と分かっていても圧巻であります。

加えて自分の信念を決して曲げず、上役に媚びへつらわない態度は見習うべき姿勢として自戒しています。かっこよくて痛快です。

人気の秘密がわかりますよね。ご存知のように上述の2作品は国民的ドラマと呼ばれるほどの人気のある作品です。


NHKの番組や新喜劇は数十年の習慣化で、毎日そして週に一回の小さな楽しみなので悪しからず。本当にただのストレス発散なのです。


話は全く変わりますが、僕自身は今もこれからも自由な人間なんだと当然思っていました。もちろん様々な制限付きではありますが。

しかし人間って自分自身で思っているほど自由ではなくて、

特に何ものにも縛られず自由に行動や考え方を毎日瞬間瞬間、選択しているようであっても、

実際は行動の殆どは何かの縛りに結構支配されて選択していることが、テレビを視るという行動一つにおいても考え直させられました。


ひとつは長年にわたる生活の習慣化による縛り。

もうひとつは(生まれてからの避けられない生活行動による刷り込みみたいな偏った思考認識)文化や環境や社会や歴史的背景による縛り。

僕の場合は上述の二つが好みの選択基準に影響しているようです。


僕に限らず他の人々も似たり寄ったりの好みの選択をしているかもです。


 

音楽、歌の良さ


今、僕のスマホの全容量の内2GB近くの容量は音楽が100曲以上入っています。

それほど音楽が好きでよく聴くってことです。寝るときにも音楽流して眠りにつきます。起きたときにも割と大きな音量で音楽が流れているのが当たり前です。

おそらく浅い眠りで身体に悪いかもしれませんがそれが長年、習慣化してしまってるため、今更やめる強い意思がないのです。


テレビを視ることが少なくなった分、好きな音楽をBGMとして聴く機会が多くなりました。歳をとったせいか最近の流行りの歌より昔の歌を聴くことのほうが多いです。

中学生の頃から今現在に至るまでほとんど洋楽しかもアメリカのポピュラー音楽が大半です。

1972年頃、ご褒美で父親に初めて買ってもらったラジオ付カセットデッキ(通称ラジカセ、たぶん2万9千円位だった)にFM放送の音楽番組からカセットテープに殆どの洋楽を録音し、コレクションするのが趣味、楽しみでした。

そしてカバー表紙や曲名をデザインして、棚に並べて眺めては一人悦に浸っていました。

特にお気に入りの番組は毎週日曜日の夕方6時から7時までの全米のビルボードヒットチャートの音楽番組でした。(不覚ながら番組名は忘れました。)出来上がったテープを次の日曜日まで学校以外はほぼ毎日四六時中聴き入っていました。

その当時カセットテープ一本500円程、学生の僕にはもちろん高額でした。それで2、3本のカセットテープに録音した曲を十二分に何度も聴きこんでました。

十二分に聴きこんだら消去する。そして新たに他の歌を録音して再び聴きこむといった具合で使いまわし使用してました。

お気に入りの曲は2、3本のカセットに保存したまま本棚に残して置きました。

20年程前当時のカセットが実家から出てきて懐かしさのあまりsonyのウォークマンで聴き返しました。あ、こんな歌流行っててよく聴いてたなと当時の記憶がよみがえってきました。


記憶にあるところで参考までにに曲名は、

シカゴで愛ある別れ、
リタ.クーリッジでみんな独りぼっち、

原曲はボズ、スキャッグス

トトでホールド、オン、ザ、ライン、

おまけで杏理のオリビアを聴きながら(初期バージョン) 杏里、懐かしーーーー


音楽、歌の良さって人を癒す、落ち着かせる、精神状態を安定させる。

真逆のところで気分を高揚させる、調子づかせる、覚醒させる等がありますよね。

植物や幼児の発育にも影響を及ぼすとか。仕事がはかどる時もあります。

私のような高齢者にとってはもう一つ、音楽、歌の良さは、後になって聴くと当時の記憶がよみがえるところですね。


そして苦い思い出も甘い思い出も当時の映像とともに割と鮮明によみがえってきます。

当時の歌を聴くと脳裏に浮かぶ光景のひとつは、

初めての都会で、日常目にするようになったネオンの明かりに照らされ輝くビル群や商店街

そしてそこを交錯するシックな装いのおしゃれな人々。そんな憧れの彼らの一員になろうともがき始めていた当時の自分。

僕はどちらかといえば苦い辛い記憶がよみがえってきます。

ところが、歌を聴きながら思い出すのは、その切ない、わびしい、寂しいと思い込んでいた記憶が、

歌のメロディーにいったん乗ってしまうと妙に離れがたくて、置き去りにしておけない、懐かしくて、不思議と忘れたくない

自分にとってとってもとっても大切な良い思い出、古き良き時代になるから不思議です。

そう言えば当時、お金なんて無くてろくなもの食べてなかったな。でも仲間がいて夢や希望がいっぱいあって元気で自由で、毎日が楽しかったよな。みたいに。


今、スマホで映画FMのサウンドトラックの

主題曲スティーリンダンのFM

を聴きながら、1980年当時を思い出していました。

映画はともかくサウンドトラックのアルバムはここ日本国内でも意外とヒットしたと記憶しております。

とりわけ当時よく耳にした曲がフォリナーの青い朝


そういえば、この年の12月8日にジョンレノンが撃たれたんだ。

これは悲しい

無かった事にして欲しい現実の記憶。

哀悼の意を込めて、ジョンレノンでビューティーフルボーイ


《注意》リンクは視聴で楽しむ以外の行為はご遠慮下さい。

(Blog to Soul)水素風呂と時代劇と音楽を愛する左半身麻痺の塾講師