本能寺の変(光秀)

1582(天正10)年、6月2日、午前0時、

京と中国地方との分かれ道、沓掛(くつかけ)において

光秀軍1万3千の兵は休憩をとります。やおら、

立ち上がった光秀は軍配を掲げ叫びます。「敵は本能寺にあり」

光秀軍は進軍の後、本能寺を取り囲み、勢いよく寺内に

討ち込みました。実際、寺内は異様なほど静かで、ネズミ一匹

見当たりませんでした。やがて、本能寺は火を放たれました。

燃え盛る炎の中で、「是非に及ばず(やむ得ない)」といった

謎めいた言葉を残し、信長は自刃をし、わずか49年の生涯に

幕を閉じました。世に言われる「本能寺の変」です。


いまだ、日本史史上最大の謎のひとつ、とされるこの事件。

「なぜに、光秀は主君である信長を討ったのか?」

「光秀の単独犯行か、共犯者はいたのか?」このふたつの

疑問は残されたまま、いまだもって、議論の的になって、

日本史ファンのロマンを掻き立ててやみません。


敗者(明智光秀)が主役の大河ドラマ「麒麟(きりん)が来る」

のクライマックスになるであろう出来事。勝敗は明白でした。

信長は供回り少人数。光秀は大軍。望む物は《信長の首》ただ

ひとつのみ。しかし、いくら探せど探せど見つからない。

「なぜに? 」 日を改めても、多数でも見つからない。

光秀、三日後の6月5日、信長の居城、安土城に入城。

朝廷に銀500枚献上。室町時代の古い領主を呼び戻しました。

近畿の武将たちに呼びかけます。しかし、光秀を支持する者は

ほとんどいませんでした。本能寺の変から11日後、6月13日

中国地方から駆けつけた秀吉によって、あっけなく敗れました。

居城、坂本城に逃げ延びる途中、京都の小栗栖(おぐりす)の

竹やぶの中で土民に襲われ落命しました。この後、

主君を裏切って、天罰が下ったものと噂され、謀反人として

歴史に名を刻まれました。《三日天下》は実際は11日でした。


福井市郊外に、光秀が浪人の頃、住んでいた東大味町の村の畑の

一角に、小さな祠(ほこら)があります。光秀は地元では

「あけっつま」と呼ばれ親しまれています。信長が越前を攻め

滅ぼした時、光秀は、かつて親交のあったこの土地の人々を守る

ため、力を尽くしたといいます。その光秀に、地元の人々が感謝

の意を込めて、そのほこらは建てられたものです。この近くの者

の家に、世間の目をはばかって守られてきた光秀の小さな木像が

今も残されています。それは、今も一年に一度だけ、命日の

6月13日に、ほこらに祀(まつ)られ、法要されます。主君

信長を討ち、謀反人として、歴史に刻まれた明智光秀。しかし、

その本当の優しさを知る人々は今も彼の人柄を慕い続けています


ここで、見方を変えれば、全てを破壊して、新しい秩序の時代を

作るという信長のやり方に、光秀は、ブレーキをかけた、とも

言えるでしょう。歴史の転換期には必ず、アクセルを踏む者と

ブレーキを踏む者が出てきます。後世、アクセルを踏んだ人は

人気がありますが、ブレーキを踏んだ人は人気がありません。


しかし、ここで、光秀の果たした意義を考えてみると、

仮に「本能寺の変」なかったとしたら、間違いなく、信長は

天下を取っていたでしょう。日本を統一して、朝鮮に攻め込み

、中国大陸をも侵攻していったでしょう。考えられないような

《暴走》をやったかも知れません。そうであったならば、当時の

人々の受けた苦しみや悲しみは、計り知れないものではなかった

のではないでしょうか?


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。またお逢いできる日まで。


江戸時代の戯(ざ)れ詩に、戦国三傑を詠んで

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

と、信長を評して、あります。

光秀なれば、

鳴かぬなら 放してやろう ホトトギス

であろうか