言語化

「ズボン脱ぐ!」 立ち尽くしたまま、その場でおろします。

「でるら か だ ぶ ら」「でるら か だ ぶ ら」

なにやら呪文めいた言葉を発しています。そして最後に、

人差し指から順番に、一本ずつ押し出しながら、

「1、2、3、4、5・・・・・」

「1、2、3、4、5・・・・・」「終わった? 」


なにわともあれ、子供ながらも、無理矢理に、
自分自身を奮い立たせるわけですね。

しかし、奮い立たせたところで、
自分が感じた不快感が、消えることはありません。

そのため、苦しさやいらだちは、
刻々と溜まっていき、心を傷つけます。

そして、ある時、ポキッと折れてしまいます。

結果、投げやりになって、行動が停止しました。


「終わった?」「うーん、もういい。」

額や耳のあたりに少し汗をにじませ、まだまだ、不満を残しなが

らも、「替えて」と目で訴えてきます。処理を施し、おむつを

交換してやると、上機嫌で再び、はしゃぎだしました。


3歳になる幼児が朝食に、好物のR-1の乳酸菌を飲み、食事を

終えた直後に感じた排泄欲。床に座ったままで「***出る」

「トイレに行く? 」「もう、出た。」すぐにも、立ち上がり

部屋の隅にひきこまり、戦闘態勢に突入。


なかなか、スッキリと排泄感がぬぐえず、幾度か試みるも

思うようにいかず、心が折れない様に、自分を奮い立たせ

弾みをつけようと、行動や心境を《言語化》しているのです。

誰に教えられるわけでもないのに、いまだ三歳であっても、

《言語化》の潜在力を、開放感などを理解しているのです。


同日のこと、暗い世相を吹き飛ばし、春を感じようと

遠方までドライブで菜の花畑を鑑賞に出かけました。

持て余している、若いエネルギーをはじけさせる

ほどに、歩き周り、走り回わったにも関わらず、

我々の前を、蛇行しながら、急激に方向を変更させて

「あ お り 運転」と振り返りほざき、笑みを浮かべながら

無邪気に狂喜乱舞(きょうきらんぶ)しています。

われわれも、なんとも微笑ましい光景に、心弾みます。


帰り道の用足しのために、道の駅でのこと、

子供専用のハンドルの付いた遊戯に乗りたいとの

所望に応えて百円を投入。周りに誰も居ない状態も

手伝い、ご機嫌宜しく、はしゃぐ男の子。いまだ満足できず

隣の遊戯に移り、無言の要求に仕方なく小銭を投入。

自分の近くに見知らぬ人が近付き、人見知りの彼は、

心が落ち着かず、遊びに集中できないのか、あちらこちらに

視線が揺れ動く。いまだ充足感が得られず、再度、隣の遊戯に

移るも、妻の承諾を得られず、しばらく座ったままで、要求の

視線を送り続けるものの、妻との根比べ。我々がその場を

立ち去ると仕方なく後を追って来るも、屋外に出て、我々が

立ち止まり振り返ると、その場にしゃがみ込み、流し目線を。

視線が合うと、わめきながら泣き出す始末。きりがないので

仕方なく、抱きかかえ車まで連れ込む。泣き叫ぶので力づくで

助手席に押してつける。最後には、顔を座席に押し付けながら

「おいちゃん、きらい。」「おいちゃんもおばちゃんも、だい

ーきらい。」「みんな、だーい、きらい。」と大粒の涙を流し

鼻水たらしながら、大声でわれわれを、なじり、けなし、

さげすむ。半時間ほどで、疲れたのか、気が晴れたのか、

静かに眠りに落ちました。我々の前では、いつも必ず

「良い子」「偉い子」「かわいらしい子」であったのに・・・・


こういう子ほど、一度、《たか》が外れると、始末に悪い。

しかし、聞くところによると、この4月で、親の都合で

ここ西条を離れ、故郷の高知に帰ってしまうのです。

これで、私たち夫婦とも、そうそう、たびたび、会えなくなって

しまうのです。おそらく、私たち夫婦は、彼にとっても、母親の

次に信頼のおける近い存在であったはず。そんな私たちとも、

もうじき、お別れなのです。言葉を覚え初め、最も可愛らしい

時分に、出会えた喜びに、立ちあわせていただいた奇跡に

感謝いっぱいの今日このごろです。子供ってほんとに素晴らしい

ものです。


不満、不快、など、負の感情は抱え込んだままにしておくと

やる気、元気など行動の源泉をなくさせ、何もやる気持ちを

失わせ、何もやらなくなってしまいます。そのために

人は、言葉にならなくても「言語化」することで

その状況から脱しようとするのです。何かを口に

出して、しゃべることで、精神を鎮静化できることを

生まれながらに、身をもってしっているのです。

医学的にも、チューインガムの効用を理解している

欧米人は、作業中であっても、ガムをよくかみます。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。逢うその日まで。