興味の対象が努力の対象

塾という仕事を長年従事していて、改めて気づいた事があります。

昔からの言い伝えです。「好きこそものの上手なれ」です。


戦国時代の初期の出来事です。1560年、 桶狭間の戦いが起こりました。今川義元2万5千の兵、対する織田信長3千の兵です。普通に考えれば今川義元の圧勝だったと、誰もが疑わないでしょう。

結果は皆さんご存知の通り、数の上で圧倒的に劣勢の織田信長の勝利でした。

この説明で終わりにしようと思ってましたが、成績が芳しくない生徒が「どうして、織田信長が勝てたのですか?」予期していない質問でした。

無視することも出来ず、知っていたので説明することにしました。

「奇襲でした。」「どのような?」「桶狭間と言われる狭い窪地で義元の首を取った」「もっと詳しく知りたい」僕は知っている限りの知識を総動員させて説明しました。

生徒達は興味津々な様子で熱心に聞いていました。僕はご満悦で気分がとっても良かったものです。

しかも、そこに居合わせた生徒たちはその後、歴史にすごく興味を持ち始め、歴史の成績が上がってきました。


出来事の結果だけを、読み上げて終わるつもりが、そういう訳にはいかなかったのです。それが思わぬ好結果につながりました。

歴史はストーリーですから、興味の対象は結果だけでは無くて、その過程が大切であると子供達でも気が付いているのです。


問題から答えを出すのは、ほとんどの問題の場合、わずかな時間であるか、ほんの一瞬でしょう。

しかしそこに至るまでの99パーセントは時間をかけて勉強した努力のはずです。

何事も結果が全てではなくその過程も大切です。

だから努力することは大切です。

と教えたかったのですが、、、、、、


生徒達は歴史においては結果のみならず、

その結果に至る経過に興味を持ち始めました。

しかしほんの少しトリッキーな数学や科学の計算には頭が回らないのか、考えたく無いのか、その結果に至る過程にはまったく興味を持ちません。


僕はこれは仕方の無い事だと気が付かされました。

人間好きな事には興味を持ちます。嫌いな事には興味がわきません。無駄になるかもしれない努力なのだと本人が一番よく分かっているのです。無理強いはよくないと思いました。

残念ながら頭の良し悪し、得手不得手は生まれつきある程度決まっていると僕は思っています。

ある事柄が得意な人は初めから得意なのです。不得意な人は初めから不得意なのです。数学、芸術、スポーツ等においては顕著に出ます。

誰でも疲れる事はやりたくないのです。見通しの立たない努力はしたくないのです。


現行の学校教育では教育格差はますます広がると思われます。

勉強の得意な子供はますます得意になるでしょう。80点が100点近く取れるようになるのでしょう。一方不得意な生徒はほんの少し点数が取れるようになるだけでしょう。30点の生徒が40点程度になるだけでしょう。

すなわち、ある生徒は得意な分野はさらに得意になるでしょう。しかし不得意な生徒は人並みにもなれず、底辺を這っているままでしょう。

落ちこぼれが無くなるどころか、ますます格差が広がりそうです。


しかしです。ほとんどの人達は自分の不得意な分野を把握できずに、努力すれば一人前になれて、さらに努力を重ねれば一流になれると思い込んでいるのです。不得意を克服しようとするのです。

あのイチローですが、誰かがもし無理やり野球ではなくサッカーをやらせていたとしたら、野球と同じ程度の功績を残していたかどうかです。おそらく途中で努力することさえ断念したでしょう。

僕が思うに不得手な事柄はおそらく努力しても、一流どころか、一人前にもなれないでしょう。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

偉い人ってどんな人?!

偉い人って数多く居てますが、どんな人を言うのだろうか?

早速ウイキペディアで調べてみると、「歴史に遺るような、並外れて優れた人間のこと」と記述されてました。


僕が子供の頃、伝記と言われるような本にその生涯が物語になっている人を偉人と言うのでしょうか。誰が判断しているのでしょう?

偉人は時代によって、つまり世代によって異なるでしょう。

また国によっても変わるでしょう。

そして価値観が変化すれば、それに従って個々の人達の考える偉人達も異なるはずでしょう。

また、誰もが知っている人以外にも、自分の周りの自分だけが知っている偉人も存在するはずです。


少し列挙してみます。

  • 徳川家康
  • 織田信長
  • 豊臣秀吉
  • ナポレオン
  • ジョージ、ワシントン
  • 伊藤博文
  • エジソン
  • ベンジャミン、フランクリン
  • ガリレオ
  • ヘレンケラー
  • マザー、テレサ
  • アインシュタイン
  • 湯川秀樹
  • 坂本龍馬
  • ゴッホ
  • モーツァルト
  • イエス、キリスト

僕が学生の頃、伝記で読んだ人達の一部です。


今の年齢になって感じますが、たしかに名を残すような、並外れた優れた人であるには違いないと思いますが、腑に落ちない人も含まれているように思えてなりません。

今もってそうですが、本屋に行っても、図書館に行っても、児童館に行ってもです。伝記コーナーみたいに区切られて、初めから「この人達は偉い人です」のように押し付けられ、教え込まれて、詰め込まれている気がするのは僕だけでしょうか?

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、ナポレオンなどは戦争で多くの人を殺戮して手に入れた名声です。確かに素晴らしい志や信念に根差した行動であったでしょう。身習う生き方もあるでしょう。僕も信長の考え方やその行動力は驚愕しましたし好きな武将です。


ある国、ある時代ではレーニンやマルクスが尊敬されましたが、

平等を謳って成功した国はありません。

「自由な社会よりも平等な社会が人を幸福にする」とする考えは間違いであることは歴史がそれを証明しています。しかしながらレーニンやマルクスを偉人と捉える人達も数多く存在しました。


現在は自由な社会で資本主義な社会です。ですから「お金持ち」が偉くて偉人であると考えられています。となると後の時代ではビルゲイツや孫正義など金持ちが偉人として伝記に描かれるのでしょう。

たしかに今のような現実的な物質社会において、そこを生きる我々は「有名」、「地位」、「名声」、「権力」、「お金」などを判断材料に人の偉さを測りがちです。もちろんある分野に特別に、際立って優秀で努力したからこそ、成功をおさめ「地位」や「お金」を手に入れる事が出来たのでしょう。それを疑う余地はありません。


でも僕は思うんです。そこに偏りはないでしょうか。ただ自分がそうなりたいと望み、拝められるような人だけが本当に偉い人なのでしょうか?

それは自分には無いもので、もし仮に自分がそれを手に入れる事が出来れば、自分の心の中の穴を埋める事が出来るだけなのではないでしょうか?


世界一の大富豪のビルゲイツはお金持ちになっても幸せにはなれなくて、虚しい心の穴を慈善団体を作って寄付をすることで埋めていったのです。

またフェイスブックの創始者のマーク・ザッカ―バーグも資産の99%を寄付しています。


人はいつも自分に無い物を強く願い欲しがり、すでにもうそれを持っている人を尊敬し憧れるのです。そして偉いと考えるのです。

僕の考える偉人のひとつには、

どれだけ自分の理念にそって生きたかであり、
それは自分に利がなくても、怒りを買ったとしても、
批判されたとしても、理念に沿って生きるのです。

そのうえでどれだけ他人に貢献できたか、なのです。

そしてそれは時代が変わろうが、国が変われろうが、誰からも尊敬される思想であり、功績であって、特定の人達からのみ拝められる偶像ではなく、それは普遍的でなければならないのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした


《追記》先日の日曜日、地元で市議会議員選挙がありました。候補者の中には僕が割と知っている方が出ていました。内心あんな人が議員に成ったらこの街も終わりだと思っていた人達が当選してました。別のある人がその人は偉い人だと言ってたのです。そこで人によって、偉い人の定義は大きく異なるものだと痛感したのでした。


 

「くじ」や、「じゃんけん」は平等では無い!

少し前に携帯電話の契約更新で定額プランが安いプランに変わりました。すると応対された若い女性が安くなった金額分を賄おうと別のプランの追加を提案されました。


僕は必要無いと言いましたが、家内は興味があるのかそのプランを何度も見返して未練たっぷりの行動をしていました。どうする?とお互い顔を見合わせいました。我が家ではそのような時は決まって「じゃんけん」でもって決めるのです。


と言うのも、「人間にとって本当に大事な事はくじで決める。」と日本エドガーケイシーセンターの会長から古代の人の物事の決定方法を教えてもらったからなのです。

「くじ」などは決定要因が平等であって、運だけが結果を左右する要因と理解していたのでしょう。

古代の人達はそこに神の介入を感じたためでしょう。


しかしです。 「くじ」って本当に平等なのでしょうか。


ここでは「じゃんけん」に特化して考えてみたいと思います。じゃんけんの場合、ぐー、ちょき、ぱーの三つがあります。ここでそれぞれの手がそれぞれ出る確率は平等の3分の1と思われますが、ここが一番の問題です。

人によってはちょきが出しにくい人と、ぱーをよく出す人など、個人個人によって大きな「ばらつき」が存在するのです。

この「ばらつき」は確率の計算する場合、一番障壁となる問題なのです。

仮に1万回戦って、勝った回数が多い方を勝ちとするような勝負ならば、ぐー、ちょき、ぱーの出る確率は限りなく3分の1になるでしょう。しかし一回限りの勝負であれば、それぞれの出る確率は平等の3分の1では決して無いはずです。


何が言いたいかと言うと、「くじ引き」や「じゃんけん」などは決して平等ではなく、「じゃんけん」は特に、個人によって偏りが存在します。そしてそこにも戦略や戦法が存在するのです。

ですから「くじ」や「じゃんけん」に勝つ人はただ単に「運」が良い人じゃなくて、何かに優れた人でもあるのです。


僕は子供の頃、商店街の歳末謝恩祭で「がらぽん」を何度か回しました。

でも不思議な事に、毎年必ずと言っていいほど、

特等や一等は抽選の最終日まで当てって射ないんですよね。

結局本当に、特等や一等は出たかどうかは分からない訳です。

そんことで子供心にも「ガラポン」の不正を確信したものです。しかしです、あの偶然性の要因しか考えられないような「ガラポン」にも当てるための戦略や戦法があるそうです。


あの夢の「宝くじ」にも戦略や戦法がありますから。

でも一枚買っただけで当たる人も居ますが。何千枚買っても当たらない人も居ますから。ほどほどに。ちなみに僕は宝くじは買いません。


みなさんもくれぐれも「くじ」や「じゃんけん」の不平等の確率を理解しておきましょう。


ところで、僕と家内の勝負は追加プランに入らない側の僕が勝ちました。しかし追加プランは契約しました。

そうです、僕は勝負には勝ちましたが、ふたりの女性の、目で訴えかける、圧力に負けたのです。

「くじ」や「じゃんけん」はしなくてもすでに結果は決まっていたのです。「じゃんけん」はただの形式だけのことでした。

強引な人には負けるのです。残念ながら、男性は女性にはかなわないのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。

ヒッグス粒子って!?

深夜のBS番組でパーティカル、フィーバーと言う映画を観ました。科学史における金字塔となる「神の粒子」と呼ばれる「ヒッグス粒子」を発見するまでのドキュメンタリー映画でした。


専門用語が一杯でてきました。しかも僕には基礎知識が欠如しているのです。ほとんど理解できませんでした。

しかしキャスターの熱意と研究者たちの尋常ならざる探求心がこちらまで伝わってきました。二時間余りがあっという間に終わりました。実験は成功に終わりました。

20年というとっても長い期間をかけて準備し、世界中を巻き込んで膨大な国家予算をも注ぎ込み絶対に失敗は許されない状況です。しかもメディアが常に監視の目を光らせています、その重責ははんぱじゃありません。

もちろん世界初めての挑戦です。挑戦に失敗は付き物です。当然予期せぬトラブルに会いました。スケジュールが遅れて変更、変更が続きました。

しかしながら彼らは決してくじけることなく、真実追求のため袋詰めの状態で、不眠不休の命がけで戦いました。そしてついに成功しました。


ある研究者がつぶやきました。

「僕は幸せだ。好きな研究に没頭できる。こんな良い環境を与えてくれて成功するのは約束されている。」「ただひとつの問題は失敗した時に言い訳出来ないことだ。」


宇宙や生命の起源になるとされる、この素粒子は「神の粒子」と呼ばれ、提唱者であるイギリスの物理学者ピーター、ヒッグスの名前からとって「ヒッグス粒子」と呼ばれている。後に彼はこの功績によってノーベル物理学賞を受賞されました。


さて、この粒子の役割です。

この粒子は全ての物質に質量(つまり重さ)を与える事です。

最初は質量を持たなかった他の素粒子がこの「ヒッグス粒子」にぶち当たることで次第に動きにくくなっていったのでした。この「動きにくさ」が質量そのものなのだそうです。「ヒッグス粒子」は質量(重さ)を持っています。

別の方法で分かりやすく説明します。

人混みがあります。その人々がヒッグス粒子だとします。その人混みにあなたが入っていこうとします。最初あなた自身には質量(重さ)はありません。当然他の人(ヒッグス粒子)と接触しますよね。誰もいない時よりはるかに動きにくいですよね。

この「動きにくさ」が質量なのです。

最初は質量を持っていない人(あなた)が他の人達(ヒッグス粒子)に当たることで質量(重さ)を持ったような状態になるのです。

想像してみて下さい。体感出来ましたか?


今回の実験はピーターヒッグスが考えた理論の証明であったわけです。物に質量があるための理論な訳です。

もし仮に「ヒッグス粒子」のような粒子が存在するならば、物に質量(重さ)があることは今までの科学の理論から論理的に説明がつくのです。

しかしながらもし「ヒッグス粒子」のような粒子が存在しなければ、今までの科学の理論だけでは物に質量があることの説明が論理的にできないのです。

質量があるための必要十分な条件として「ヒッグス粒子」なる物の存在を仮定とした訳です。「ヒッグス粒子」の存在を前提にピーターヒッグスは理論を構築していったのです。

ですからその「ヒッグス粒子」の存在が明らかにならなければ、物に質量があることの証明、つまり物には重さがあることの説明が論理的に出来ないのです。

そしてその「ヒッグス粒子」の発見に今回の実験によって至った訳です。

「ヒッグス粒子」の存在が明らかになった事によって物が重さを持つようになった過程が周知の事実として誰にも認められるようになったのです。

もし仮に「ヒッグス粒子」のような粒子の存在が発見出来なければ、

物に重さがあることの理論は最初から考え直さなければならない訳なのです。

それとも、何かまったく想像もできないような新しい粒子が発見されるかもしれなかったのです。この事に多くの研究者たちは興奮していたのです。

結局、今回の実験では「ヒッグス粒子」の発見により物に質量(重さ)を持つことの説明に終止符打たれた訳です。


科学はあくまで演繹的であるべきであると僕は考えています。

ここで演繹的とは、ある理論と別の理論が前提に在ってそれらの理論に基づき新しい理論または結論を導きだす積み上げ式の考え方の事です。数学はまさにこの積み上げ式の学問ですよね。

例えば、1+1=2と2+0=2等の理論から足し算が構築されました。

ただし積み上げられた新しい理論(または結論)は実験などによって立証されて初めて正しいと判断される場合が大半です。

ただし数学等は実験などでは証明のしようが無いので必要ありません。ただ積み上げただけの理論、結論はあくまで机上の話です。

これとは逆に最初に実験によって出て来た結論を後から論理的に検証して理論だてていく方法を帰納的と言います。

科学史の中には演繹的、帰納的どちらの方法も有効です。有名なニュートンのリンゴが木から落ちたひらめきは帰納的なひらめきと言えるでしょう。コペルニクスの地動説も帰納的な発想でしょう。一方アインシュタインの相対性理論は演繹的の代表でしょう。

長い科学史の歴史の中には仮説や予測のままで、立証されないで日の目を見ないままで埋もれてしまっている理論も数多くあるでしょう。

科学の分野でのノーベル賞はほとんどは帰納的かもしれませんね。何かの実験によってたまたま偶然、予期せぬものを発見したりアイデアがひらめいたりしていますね。キューリー夫人の放射能の発見など。


この世界初の国鏡を超えた大プロジェクトですが、確かに科学の基礎は大事です。すごく大切です。しかし私達の日常生活が劇的に変化するわけでも、良くなるわけでもありません。

現実的なある経済学者が質問していました。

「この発見により経済的に何か益はありますか?」研究者が答えます。「はっきり言える答えはひとつです。」

「まったく分かりません。」「ただ真理の探究のためです。今後の科学の発展のためです。」「我々は何か得にになるからしているのではありません。」実際先の20年の準備の間に国の中には国益にならない実験に膨大な予算を組む余裕が無いと実験に拒絶した所も多くありました。


真理の探究には損得勘定など入る余地などありません。経済的な損得勘定は人間のエゴから生まれたものです。一方真理の探究は神の領域なのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

近未来予想!?

昨日の続きです。近未来予想です。


パソコンやスマホが

「一家に一台」から「ひとりに一台」の時代が今です。

「ひとりに一台」の次は? その未来は?


単純に誰でも考えられる事では、

「ひとりに一台」から「ひとりに数台」でしょうか。


その程度なら、どこかのパソコンメーカーでも考えていたでしょう。

でもそうなると、その市場は過当競争になってしまいます。

そして行き着く先は価格競争になってしまいます。その結果自分達の首を自分達で絞めることになってしまいます。


ここで、携帯電話の必然性の未来社会と、コンピューター社会と、ネット社会の、三つの組み合わせを考えた男がいました。

スマホの登場は社会の常識ばかりでなく生活スタイルや経済の枠組みまで変えてしまいました。

そしてそれぞれの市場(カメラ業界もですね)を一手に獲得してしまいました。もしかすれば今後、テレビ業界も変えてしまうかもしれません。


その結果、時代が大きく変革しました。今もなお変わり続けています。

僕も子供の時、当時の大人たちが予想した、21世紀の未来はどうなるのか、その予想図、それに近い絵画のような漫画を、たびたび本や雑誌で見かけた記憶があります。

その時に見た物と21世紀の現代ではかなり違っていると思います。

記憶は確かではありませんが、違いを列挙してみます。

  • 町並みがスマートでした。今のようなずん胴のビルではなくもっと曲線形のスマートなビルでした。
  • 自動車が空を飛んでいました。しかも水中も水上も雪道もたやすく走ります。そしてその形状も細くてかっこよかったはずです。
  • ドアがほとんど自動ドアです。
  • ほとんどの機械、特に家電は遠隔操作で動かします。
  • もっと多くのロボットが活躍していました。
  • 同時自動翻訳機をみんな身に付けていました。

きりがないのでこれぐらいにしておきます。


前述の未来は、常識の大きな破壊とそこに住む人達の理解が無いと無理でしょう。そしてそれに伴う大きな技術革新が必要でしょう。

子供の頃は空飛ぶ自動車の登場を一番に待ち望んでいました。しかし現在の物理学のニュートン力学を充足させるには、さらなる時間を要しそうである。

何かの本で読んだ事だが、現在の社会環境では、夢の機械タイムマシーンは創造不可能であると断言していました。理由は光より速くタイムマシーンが走らないと、時間を超越出来ないのです。しかしながら、相対性理論では光より速い物はこの世には存在しないと明言されているためということらしい。


現在の科学の常識から考えると、空飛ぶ自動車やスマートなビルは、残念ながら、21世紀中でも不可能だと考えています。


近未来は、僕の想像では次のようになるだろうと考えています。

  1. 化石燃料の使用が減少して自然代替エネルギーである、太陽熱、風力、水力が大きく増えるようになると思っています。
  2. 車はほとんどが自動運転になるでしょう。
  3. 家電製品のみならず、日用品、椅子、机等までもネットに接続された状態になり、求める様々の情報が取得出来るようになる。
  4. 各地区に経済特区のような場所が出来、未来都市のような小さな街が作られるような気がしています。

大きな変化は無いと申しましたが、2、3、だけが実現されただけでも生活スタイルは大きく進歩したように感じるでしょう。

その実現のために4番のような場所が作られ徐々に広がっていくのではないかと考えています。

現在でもどこかの国では未来都市建設中です。


期待の人工知能ロボットが人間に執って代わるにはまだ数十年はかかると思われます。

2、の自動運転の技術は現在ほぼ出来上がっています。実現には社会環境の整備が必要なだけなのです。

資源を持つか持たないかが、国力の強弱を決定しないように、また環境衛生などの両面から、エネルギー源が大きく変換すると考えています。

それを実現するためには、ライフラインの新たなな整備が必需であると思います。


そのためには国民である我々が公共に対する町作りをもっと理解する必要があると考えています。

例えば道路を広げたり、新たに作ったりする時、飛行場、駅を新たに建設する時、政治家まで巻き込んで反対のストを起こす人達がいますが、町の発展から視ると言語道断です。公共意識お無さも甚だしい。考えるべき意識でしょう。


以上が僕が考える近未来のひとつです。

では今日はここまで。近藤浩二でした。


 

世の中はまさにスマホ時代

家内の知り合いの一人にパソコン教室を営んでいる女性社長が居ます。

世界一大富豪のマイクロソフトのビルゲイツはOSソフトを開発の折り、

「一家に一台パソコンを」を目標に掲げていました。


その上を行ったのが、そのマイクロソフトとのOS戦争に敗北した、アップルの創業者のひとりである、スティーブ、ジョブズでした。後に彼はiphoneを開発しますが、

「ひとりに一台スマホを」と掲げました。

実際その夢は実現するような勢いです。


くだんの経営者はワープロからパソコンへの転換時にパソコンの到来を予想しました。手作りのパソコン数台から事業をスタートさせ、いち時期はパソコン数十台を設置する程に拡大したそうです。

しかしスマホの登場で事態は急変したそうです。パソコンが一家に一台行き渡る前に、手軽で操作性の良いスマホの登場は世間の常識を大きく変えてしまいました。


家に固定電話は無くても家族全員スマホを持っている家族は多く存在します。そして家にパソコンは無くても各人スマホは持っている人達も数多く居てます。

実際知り合いに某有名家電メーカーに勤務されていた方であっても、家にパソコンもDVDプレーヤーも所持してないそうです。そんなこともあってか、パソコンやパソコン関係のアイテムはその需要を大幅に減少させています。すでに、企業やいち愛好家や職業で必需品と言う方しか、もはやその存在意義は無くなっています。


くだんの経営者も今では大部分を占めていた、いち個人の客はひどく減少し、今では職業訓練校として、市から委託を受けることで経営がどうにか維持出来ている状態だそうです。

経営の能力の問題というよりも、著しい技術革新が社会の需要をも変えてしまったほんの一例です。


「一家に一台」から「ひとりに一台」の時代はここ十年程で変化しましたが、「ひとりに一台」から次はどうなるのでしょうか?

それを誰が仕掛けてどのような時代を作るのかは想像も出来ません。しかしそのチャンスは誰にでも有ると僕は思います。これから数十年先の未来をどう見据えるかによって各人の未来が変わってしまいます。


未来がどうなるのか、ただの傍観者になるのでは無くて、自分達で仕掛けて、自分達の考える未来を作っていきましょう。

最後に筆者の座右の銘です。スティーブ、ジョブズの言葉で

「ハングリーであれ!、愚かであれ!」です。

いつもこうありたいものです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


《追記》

「ひとりに一台」と理念を掲げたジョブズでしたが、後のインタビューで自分の子供にスマホを使用させますか?との質問には、自分の子供達には使用させたくないと望んでいたそうです。不思議ですね?

枕草子に教えられたこと

いきなりですが、清少納言に物申す。

昨日、古典の傑作清少納言の「枕草子」を久々に読みました。もし、当時ネットがあれば彼女は間違いなく人気ブロガーだったでしょう。

「春はあけぼの」、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて」ですよね。今は立春を過ぎた頃なので、春ですが、現代人で今を春と考えてる人は少ないでしょう。どちらかと言えば冬ですね。


「冬はつとめて」

冬は日が明けた直後が趣があるって言うてますが、寒くてもう少し布団にくるまって暖を取ってから起き出したいものです。

平安時代と現代の時代背景が大きく異なるので比較はできませんし、物の視方も違いますよね。しかし「春はあけぼの」にもあるように、昔の人は早起きで働き者だったのですね。感心です。とっても寒いのに、眠たいのに。


僕が考える冬は、晴れ渡る空に、日の高く上りたる南中時刻頃が暖かくなり最も良い。しかも空を見上げた時に、澄んでいてさわやかな空気中に、雲の隙間から日の光が射して、その周りが色づく風景は格別に美しい。と考えていました。

一方、その時間帯は清少納言が冬の昼間は暖かくなってしまって趣が無く良くないと、指摘している箇所なのです。


この時点で僕は「はた」と気付かされました。彼女と僕の意見が全く正反対だということに。これはどういうことかと?

僕が間違っていたと思わされました。汗顔の至りです。


彼女は四季折々の季節を楽しんでいるのです。

僕は季節を楽しむ余裕が持て無くてそこから逃げているのです。

僕は自分中心で物事を捉えているから、自分が快適である状態のみが最も良いと論じているのです。

対して彼女は自然を粛々と全て受け入れて、淡々と生活しているのです。

その自然の良い部分を探し出して季節ごとに自分も楽しもうと考えているのです。

そして物事を的確に分析し文章にしたため、前向きに生きている彼女はやはり偉い。


昔の人は生きていくために自然と共存して暦などを作る必然性があったにしてもです。

ただ「あるがままに」自然を受け入れていたのです。日本は世界でも有数の自然災害国です。発生した台風のほとんどが日本を通過しその爪痕を残します。川は氾濫し土砂は崩れます。

人々はそれが過ぎて行くのをただただ淡々と待つだけだったのです。しかも地震もたびたび起こります。

その後で人々は再び橋を掛け直し、家を建て直します。それの繰り返しで時間が流れました。

昔から現在に至るまでそれらはほとんど変わっていません。復興に要する時間は短縮されましたが。


昔の人はいつも自然と共存していたのですね。現代は短期の内に極度に文明が発達し過ぎたため、自分達の快適さを追求して、暑ければ冷房、寒ければ暖房と家に閉じこもるのです。

その結果、どうすることも、ほとんど何もすることが出来ないにも関わらず、

自然を「あるがままに」受け入られなくなってしまいました。見えない何かに時間を追われているのです。忙し過ぎるのです。「忙しい」とは心を亡くすと書きますが、まさにその通りです。


そのため対象物をじっくり眺めて観察しません。そのため対象物の本質を見抜けないのです。結果、対象物を理解する事が出来ないのです。共存することなく回避しようと考えるのです。

しかも自分を中心に物事を捉えているため、自分は変わらないで、周りを自分に合わせようと無理に変えようとしているのです。

そして、両者の間に摩擦が生まれるのです。その結果、時に対立し合い、溝が出来るのです。

これって、自然に限らず、人間関係等全てに当てはまりますね。気をつけたいものです。


《追記》

しかし「枕草子」の中で、彼女も頻繁に他人の悪口を言ったり、不平不満や愚痴を言ったりしているのです。人間関係においてはやはり昔も今もたいして変わってないのですね。

人間に欲が有る以上、人間の心の在り様に進歩も退廃もないでしょうから。

では今日はここまで、近藤浩二でした。


 

本当の初心者でもホームページの作成にあたって知っておくべき知識

私昨年ホームページ作りに初めて挑戦したのですが、本も買わず、ソフトも買わず、ネットに繋がったパソコン一台で10ページ程のホームページを一か月程で作成し、公開しました。

ホームページの作り方の知識が全く無かった(ほぼ0です)自分でも割と簡単に出来るものだと正直思いました。出来上がったものは正直ダサくて、いけていない、洗練されていないものかもしれません。しかし最低限の目的を果たすことのできる機能は織り込まれています。

取っ掛かりはインターネットの情報だけです。企業ならともかくいち個人がホームページ作るのなら高いお金を払ってまでどこかの企業に発注する必要はまったく無いと強く思われました。これから先もホームページ作成の需要は間違いなく無くなっていくと痛感させられました。それで飯を食っていこうとされている人が居ましたら申訳ありません。正直、時間とホームページを作る熱意があれば、どなたでも作成可能だと思っています。


そこで、ホームページを作る時に最低限知っておくべき知識を述べたいと思います。

仮にサラリーマンやめて、時間は割とありますがお金が無いという方。しかも誰かに使われるのが嫌で自分で商売を営む志があって時代の流れからホームページでも載せてみたい、でもお金はかけたくないって方等が対象です。

まずは、基本的な環境2点です。

1、ネットに繋がっているパソコン一台。

スマホやタブレットでも可能でしょうが、入力やコピ&ペーストやダウンロード、アップロードが厄介です。

2、どこかにサーバーを確保。

これは無料でも構わないですが、出来ればレンタルを借りる方がより良いでしょう。(一月に数百円程度です。)無料だと制限される機能もけっこうありほんとに不便です。(実は僕も最初は無料のサーバーで賄うように考えてましたが、ホームページの問い合わせ項目に入力すれば直接指定のメールアドレスに届くシステム(専門用語でCGIと言うらしいです。)が使えなかったので有料に変更しました。)

2のサーバー確保はホームページの原稿が出来てからで、遅くありません。慌てなくても2のサーバー確保は時間をかけてじっくり選びましょう。ということでホームページ作成へ急ぎましょう。


基本(とりあえず1のネットにつながったパソコン)がそろえば次から作業に入ります。

サーバーにファイルを格納する(アップロード)の方法は後で述べますのでひとまず置いとくとします。

原稿が無ければ話になりませんから、今回は原稿すなわちホームページ作成の方法から話していきます。


まずはホームページ作成の手順


1.ホームページ作成ツールをネットからダウンロード。

Windows付属のメモ帳は絶対に使用しないで下さい。(僕は最初これを使って文字化けを起こしてしまいその対応に10日程取られてしまいました。)たくさんありますが、僕のお勧めはMicrosoft Expression Web 4 です。項目によって文字色が異なり、文法チェックもできます。ここでのツール選びが一番重要です。作成ツールの良し悪しで作業効率に大きな違いが出てきます。参考までにリンクを貼っておきます。http://algorhythnn.jp/blg/2014/04/11/expression_web_4-install/

ページの真ん中あたりにMicrosoft Expression Web 4のダウンロードの項目からダウンロードして、インストールして準備完了です。以下のリンクから取り寄せて下さい。

Microsoft Expression Web 4のダウンロード

Microsoft Expression Web 4のダウンロードはMicrosoftのサイトからダウンロードできます。
マイクロソフト公式ダウンロード センターから Microsoft Expression Web 4 試用版 をダウンロード

01_expression_web_4サイト

expression_web_4サイト

ダウンロードが完了すると、[WebStudio_Trial_ja.exe]ファイルがダウンロードされます。
WebStudio_Trial_ja.exeを実行しインストールを開始します。


これでホームページが割と簡単に作成できます。

作成する前に、ここで注意点を挙げておきます。

  1. ページが5ページ以上ならスタイルシートを使用しよう。
  2. ファイルの種類ごとにフォルダを作成しよう。
  3. 書き始める前に少しの基本の知識は勉強しておこう。
  4. あらかじめデザインを決めておこう。
  5. 大まかな配置も決めておこう。
  6. 背景画像やボタン類などはフリー素材などネットから前持って手に入れておこう。
  7. ノートを一冊用意しておき2~5までは前もってノートで下書きしておこう。 ちょっとした知識やルールも専用ノートに書き留めておこう。

ここで上の項目を少し説明していきます。まずは1番スタイルシートから、


スタイルシートとは? レイアウトとは?


スタイルシートとはファイル名の最後に付く(ドットの後ろに付く拡張子の事ですが)拡張子がcssで終わっているファイルの事です。sample.css 等

そのファイルの役割はウエブページのデザイン(レイアウト)を決める事です。それにはウエブページは大きく分けて、

1、ヘッダー、

2、メニュー、

3、左メニュー、

4、右メニュー、

5、コンテンツ、

6、フッター、

の6個の項目に大きく分類する事が出来ます。ここでそれらひとつひとつの項目の幅、高さ、背景色、文字色、フォント形式などを決める必要があります。スタイルシートを使えば割と簡単に設定する事ができます。そしてページをたくさん作る時、各ページが同じデザイン、同じレイアウトの方がすっきりして見やすいのです。しかも使い勝手が良いのです。加えて作りやすくて編集もしやすいのです。スタイルシートファイルひとつを変更するだけで各ページをひとつひとつ変更する必要が無く変更できるのです。

項目のレイアウトは概ね上図のようになります。

メニューは左右どちらでも可能ですし、左右両方置くことも可能です。その場合当然コンテンツの幅が制約を受けて狭くなります。ここで各項目の記述内容を記載しておきます。

  • ヘッダー:当サイトのタイトルロゴとその簡単な案内です。
  • メニュー:各ページコンテンツの内部リンク、最も注目してほしい内容へのリンク
  • コンテンツ:本文
  • フッター:サイトの紹介文、各ページへの相互リンク(よくある質問、お問合せ等)

様々なホームページに訪問してみて確認するのも勉強になって楽しいものです。

これは概ねの傾向ですので、どのように何を書いても自由なのです。


次は2番です。まずは○○のホームページとでも名前を付けてフォルダーをひとつ作りましょう。そのフォルダーに作成したファイルを格納していくのです。さらにそのフォルダーの下層にスタイルシートのファイル(拡張子css)だけを格納するフォルダーを作成します。名前はcssで良いでしょう。さらに画像ファイルだけを格納するフォルダーも作成します。名前はimagesでも何でも良いでしょう。画像ファイルは基本的には拡張子がjpg、gif、png、bmpの4種類のファイルです。これらのファイルはひとつのフォルダにまとめて格納しておきましょう。

またファイル名は出来るだけ簡潔に短くリネームしておきましょう。通し番号をファイル名の最初か最後に付けておくと管理が楽です。例えば、001_button.gif や button001.jpg 等としましょう。

  • ホームページ
    • css
    • images
    • content001
    • content002
    • 等など
    • index.html

上のような形でフォルダを作りファイルの種類ごとやコンテンツの種類ごとにまとめていきましょう。ホームページフォルダの下層にはフォルダの他にホームページのトップページである、index.htmlファイルも格納するようにしましょう。


次3番です。ホームページ作成のため少しの知識を覚えておきましょう。

  • ウエブページの作成にはhtml(hyper text markup languageの略称)が使用言語です。と言っても特別な文字を使う訳ではありません。キーボード上にある文字ならどれでも使用できます。ただし、意図する内容をネット上に表示するためにはルールに従わないといけません。ここで簡単に知っておくべきルールを記しておきます。
  • HTMLファイルの作り方ですが、「.html」という拡張子をつけることで、HTMLファイルであることをコンピュータが認識してくれます。(例 index.html)

1、必ず次のようなタグではさんでいきます。

<○○>ここに表示させたい文字や画像を入れます。</○○>

<○○>を開始タグと言い</○○>を終了タグと言います。

通常は<○○></○○>のセットで使用します。○○には共通するコマンドが入るます。例えば、

見出しの文字を書くときは、<h3>ホームページ</h3>を使います。hの後の数字で文字の大きさが決まります。

ここで忘れてはならない事は、タグは半角で書くことです。

半角です。全角で書かないように。

大きい順にh1、h2、h3、h4、h5、h6、となります。

<h1>ホームページ</h1>

<h2>ホームページ</h2>

<h3>ホームページ</h3>

<h4>ホームページ</h4>

ウエブ上では次のように表示されます。

ホームページ

ホームページ

ホームページ

ホームページ

となります。

もし全角で書くとタグのコマンドは無視されて以下のようにウエブでは表示されてしまいます。
<h5>ホームページ</h5>


ここで代表的なタグを表しておきます。

  • <p>一つの段落です</p>
  • <br>これは改行を表します。

このコマンド改行は終了タグの</br>は必要ありません。したがって改行したい文章の最後に入れます。すると次の段が改行されて新しい段の最初から表示されます。例えば、

ホームページでした。<br>次はメニューです。

の場合以下のようになります。

ホームページでした。
次はメニューです。

またこれは、<p></p>で代替可能です。

<p>ホームページでした。</p>次はメニューです。

ホームページでした。

次はメニューです。

のようになります。

<br>との少しの違いが判るでしょう。<br>の場合は詰んだ改行ですが、<p></p>の場合は少し間隔の空いた改行になり長文の場合、少し読みやすくなります。使い分けて下さい。


htmlは大きく分けて二つに分けれます。

  1. ヘッド:head
  2. ボディー:body

ヘッドの中にはタイトルのタグを入れます。そのファイルのタイトルを表します。ウエブ上のタブの部分に表示されます。

<head>では、<title>がタブに表示されます。

<body>の中身はそのままタグに従ってブラウザに表示されます。

上図は少し見えにくいでしょうが、赤囲みの部分は<head>の記述で上の部分がタブの部分です。また青囲みの部分は<body>内の記述で右の部分の青の囲みのような表示です。

<html>

<head>

<title>○○のホームページ</title>

</head>

<body>

<h2>htmlの書き方</h2>

<p>はじめてのhtml</p>

</body>

</html>

のような記述になります。


一日では書ききれないので今日はこれくらいしておきます。

続きはまた明日、ではまた、近藤浩二でした。


 

対人関係に疲れた時の対処法

今日はまず初めに報告があります。

僕はなんて意志薄弱な人間なんだ。簡単な誘惑に負けてしまいまました。自己嫌悪に陥りそうです。

三日前から続いていたテレビを点けないという状態が本日で止まっちゃいました。最低でも一週間は続くと思っていましたが。

しかも二日間点けなかったので、今日三日目になんと三日分まとめて、視てしまいました。

人間は本当に誘惑に弱いですね。あの有名な偉人でさえも、

一人の女性によって人生が終わってしまいましたから。気をつけたいものです。


テレビをよく観てた時期アナザースカイて番組好きでした。

アナザーていう事ですからもうひとりの自分です。普段周りの人に見せてる自分とまったく違ってるもう一人の自分。

たぶんそっちが本当(素)の自分なのでしょう。普段周りに見せている姿は本当の自分じゃない場合って多くないですか。

でも、どんな人であって人に合わせて意識的、無意識的はともかくとして、少なからず自分を作ることってあると思います。また、そうして自分を作ることが本当の自分で、作らない自分は偽の自分って人も居てるでしょう。

周りの人に合わせて作りだしてる偽の自分。しかもかなり無理して作り上げてる人も居るでしょう。しかもそのような人が仕事人間だったら大変でしょう。へたをすれば人生の半分が偽の自分で生きている事になりますよね。

これじゃ気の休まる時間はほとんど無いでしょう。

もしそんな自分を作り続けていたら必ず何処かに支障をきたすのは時間の問題でしょう。僕はそのような人を何人か見てきました。本人には自覚がなく条件反射的に脳が指令を出しているみたいです。このような人達に共通する傾向があるようです。

1、何事に対しても真面目であるのです。

2、どちらかといえば、口数が少ない。

3、特にこれと言って人に自慢できる余暇の過ごし方が無い。趣味が特に無い。

4、気のおけない仲間が少ない。

5、どちらかと言えば仕事人間であるのです。

6、笑顔が少なく、笑うことがあまり無く、表情が豊かでない。

あれ、これって自分自身にも当てはまるかもしれないって思っているあなた(実は僕自身もこれに該当しているかもって自分で特徴上げているのにもかかわらずドキッとしたのでした。)


すいません。

本当にごめんなさい。

申訳ありません。

アナザースカイってもう一人の自分じゃないですね。自分自身にとって今居る場所以外の、もうひとつの居場所のことですね。間違えてしまいました。ここまで読んでくれた人はその番組の事を知らないのか、それとも本当に優しい人なんですね。

もうひとつの自分の居場所で自分を取り戻そう。って事なのかな

これも間違いのような気がしてきました。

教訓です。自分のよく知らない事は語らない方が良いですね。


もし仮に今の自分が疲弊してしまったとしたら、精神も身体の両方を癒してくれるそんな場所を見つけてみましょう。

あなたにもきっとありますよ。探してみましょう。って提案しているのでしょうね。

これも違っているのかも。


今日のテーマがよく見えてこないぞ。でも今思った事を書きますね。


確かにどんなに社交的で魅力的な人であっても、苦手な人やあまり好きでない人は必ず一人は存在するでしょう。そのような時には人間は必ず自分を守ろうとして軽い拒否反応を起こすはずです。

しかしながら、そのような人とも付き合わなければならないとしたら、

好むと好まざるとに関わらず違う自分を作ってその場を乗り切ろうとするはずです。


なにも本来でないもうひとつの別の人格を作ることが悪いことで本当(素)の自分のままで居続ける事が善(正義)と言っているわけではありません。また、そのふたつが全く両極端に位置する存在であるとも思っていません。

どちらであってもそれは自分自身であるのだと僕は思います。

それは、どちらの自分も自分の心が作りだしたものだからです。


人間のの性格なんて生まれついて8割は出来上げっているでしょう。その後の人生で作り変えられる要素なんてほんのわずかでしょう。

ただし、社会的に人と付き合う要素は、言い換えれば人間関係の形成には、性格はあまり関連性が無くて、むしろその人の今まで生きて来た経験や価値観、常識から来る、思考パターンや行動パターンに影響されると考えています。


僕の場合、人間関係は第一印象でほとんど決定します。この人はどちらかと言えば好きで友達になれそう、でもこの人は苦手で好きじゃないって、初対面でほんの一分で決まります。

そして前者の人は不思議と無理をしなくても人間関係が築けます。一緒に居ても楽なんです。

しかし後者の人は無理をするんですね。そしてだめなんです。どんなにしても居心地悪いんです。とってもしんどいし疲れるのです。


そのように疲労困憊した時は(ストレスと感じた時)

1、不思議と食欲が出てよく食べます。

2、よく寝ます。

3、本当に親しい人とよく話します。

4、お気に入りの音楽を聞きます。

5、ドライブに行きます。

6、とにかく、外出します。

7、とっても良くないことで、自己嫌悪になる時がありますが誰かを攻撃するのです。

これらは全て脳内物質の快楽ホルモン(ドーパミン)を分泌させるのです。


ポイントはこのドーパミンを分泌させる行動をすることです。自分の経験でどんな時に快楽を味わえたか考えてみると、誰にも二つや三つはあるはずです。

3、4、6は僕のお勧めです。おそらく、7番が一番効果が高いでしょうが、一緒に話す相手が必要です。そして共通の敵が必要です。しかも話してるうちに自分達が嫌な奴に思えて虚しくなってきます。覚悟のある方どうぞ。


何を言いたかったのか今思えばよく分からなくなりましたが、今日はここまで、ではまた、今度、近藤浩二でした。


 

初めて○○した人ってすごい!

人類の歴史には偉人と呼ばれる人々はたくさん居てますが、それらの人々にも負けず劣らず, 名もなきすごい人達も居ると思います。むしろこちらの人達の方が僕個人では偉いと思います。


例えば、初めて様々な食べ物を見つけだした人。

初めて火を自由にした人。

初めて海に潜った人。

初めて動物を殺して食べた人。

初めて言葉を考えた人。

初めて文字を作った人。

初めて単語を作った人。

等々、初めてシリーズです。


その中でも、僕個人としたら火を自由にした人が一番すごいと思っています。

ここから以下はあくまで僕個人の想像です。

初めて火を見た人は驚愕したであろう。何だろう?っと。

最初は当然人為的以外でしょう。

目にする機会は、自然界での落雷による木々や動植物の燃焼時。

または、火山噴火による噴火物やそれらによる二次火災時ぐらいかな。

ほとんどの物の形を無くして黒こげにしてしまう。これは一体何物なのだろうかと考えたでしょう。

初めは敵と判断して立ち向かっていったでしょう。

そして火傷を負ったりしたでしょう。最悪焼け死ぬ人達も数多くいたでしょう。

結果的に、逃げ迷うだけだったのです。

その中で観察力のある人が気が付くのです。そう火の弱点に。

火は海や川では広がらずなくなってしまうものである事に。

その結果、少しではありましたが、火を抑制することが出来るようになったのです。

その次は火を作りだそうと考えたのです。

体験的に何かが身体にこすれると熱くなり、火傷を負った時と同じ状態になることなどから判断して、ある物と違うある物をこすること数万回、やっと煙が発生するとこまでたどり着きます。

そこからはたまた数万回の試行錯誤でようやく種火になりました。それを樹に広がらせ、消えないように数万本の木に移し替えていったでしょう。しかし不運な事に、雨が降ったり水がかかってしまい火は消えて無くなってしまいます。

そしてまた最初から試行錯誤で数日かけて火を起こします。そしてまた消してしまいます。大変な労力です。嫌になるでしょう。

ここで革新的で器用な人が出てきます。試行錯誤を幾度も繰り返します。火を起こすためだけの道具を発明します。

やっとのことで、火を起こす時間が大幅に短縮されました。

その結果、人々は火を自由に出し入れ出来るようになったのです。しかも火の使用用途の多さに喜んだのでした。

おそらく、火を自由に扱える人達は他の人達を従えるようになったのでしょう。

このように、現代のように情報や知識がほとんどまったく無かった時代に、

経験と思考力と情熱のみで、生きていくためだけの動機付けで、

長い月日をかけて火を自由にした人の偉さと苦労は並大抵ではなかったであろう。

粉骨砕身、悪戦苦闘だったのだろう。火が起こるまでのその人の心の内側は如何ばかりであったろうか?

火が必ず起こる保証はどこにもないのである。

これで最後にしようと何度考えたであろうか。

いつかは必ず火が起こると信じていたのでしょうか?

生きるためとはいえその精神力の強さには脱帽です。

いつの時代であっても、何か新しい物を生み出す人達はひとつの例外もなくそうなのでしょう。


当時の人達は現代の人達よりも精神が強かったのでしょうか?

割合で言えば高いと言えるでしょう。

確かにある程度文明が構築された時代においては、たとえ自分の経験や知識が浅くても先人たちが築いてくれた知識や知恵によって、何かを生み出すことは少しは容易かもしれません。

しかしながらガリレオが地動説を言い続けることや、コロンブスが新大陸を発見したことは、当時としは驚天動地のような驚きだったはずです。


いつの時代においても初めて○○○する人は必ず存在するのです。そしてそのような人達は自分自身のためだけにとどまらず、自分自身でも分からない何か強いものに揺れ動かされているのでしょう。

その上に自分をどこまでも信じ、少しの知恵と強い勇気、大いなる大胆さを持ち合わせた類まれなる人達だったのです。


寒くて起き上がってストーブを点けて、寒さをしのぎながら燃える炎を見て便利な時代の中で生きていけることの幸せを感じながら、今朝考えた事柄でした。


今朝からもテレビは見てません。その調子で頑張ろう。

ではまた明日、近藤浩二でした。


 

 

(Blog to Soul)水素風呂と時代劇と音楽を愛する左半身麻痺の塾講師