「thinking」カテゴリーアーカイブ

駐車場での奇妙な出来事???!!!

週末の日曜日、夜の九時頃、市街のスーパーマーケットの駐車場での事でした。

僕の車の目の前に、中型のバンが一旦停車しました。

後方よりも小型の車が追従しているようです。

僕の左隣の空き場所に止めるのかなと思っていました。

しかし前のバンの車は完全に停車して、運転席から運転手が降りてきました。

前方を塞がれて後方の車の人は怒ってしまうのではと、成り行きを見ていました。降りた運転手は後方の車の運転手と何やら話しています。

僕の視界は後方の車に移動しました。

なんと後方の車はです。

代行運転業者でした。《前者の車の助手席の人はお酒を飲んでいるのです。》


前車の助手席から、明らかに最前まで飲酒していた赤ら顔のおっさんが出てきて、運転席に座りました。

《今から運転するつもり?なのか!!》

そしてなんと、その後です。そのバンの車は、スーパーの駐車場を一気に横切って走り去って行きました。《実際に僕は、その場で飲酒運転を目撃しました。》


運転代行業者は30km圏内の近場なら3000円以上はかからないと思います。


《僕は正直「ばか!!」と思いました》

わざわざ代行運転を頼むほど安全を第一に考慮するなら、

その後、自分で運転して、

違反を犯すかもしれないリスクを賭けるだけの利得があるものでしょうか?

なぜ自宅まで送ってもらわないのでしょうか?不思議です。


あとわずかの少額の金銭を惜しんで、飲酒運転で逮捕されるかもしれないのです。

《幸運にも、これまでは何度も発見されずに、逃れてこれたのでしょう。》

しかしです。

犯罪心理学的にも、人類の歴史からも、僕の経験からも、

《犯罪者は自分自身の犯罪が見つかってしまうまで、

処罰されるまで、

犯罪を犯し続けるものなのです。》


その後、その男性は間違いなく、そのような人生を送り続けていくのでしょうね。《大事に至らぬ前に、気付いてほしものです。》


この世は、正しい事だけを行い続けても、

報われる事も少なく、不器用に不便を感じながら生き続けている人も数多く存在します。


しかし一方、我欲と二人連れの人が、

楽しく面白く生き続けて、寿命をまっとうできる人も居てます。


どちらか一方だけの人生では窮屈であり、危険でもあります。

どのような生き方が人として幸福なのでしょうか?

僕には本当に、よく解らないと考えさせられたのでした。


今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。

今日も2曲プレゼント。


ルパートホルムスでエスケイプです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/EscapeRupertHolmes.mp3


エアーサプライズでロストインラブです。


http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/LostInLoveAirSupply.mp3


 

錯覚の不思議???!!!

 

自動車のすべての窓ガラスを閉め切ります。

サイドミラーを収納します。

車を停車位置に止めました。

洗車機の大きな黒ブラシが回転しながら、前から後ろに動き始めました。

《自動車が止まっているにも関わらず、

前進しているような錯覚に陥ります。》


今朝はコメダコーヒーで、家内とブランチをしました。

その後、僕の田舎の実家に寄りました。

農家である実家に、今もって一年に数回、お米を無心に立ち寄っています。

僕は家の庭の駐車場で、車内にて待っています。

新緑にまぶしい庭を見ていると、僕の頭の中は昭和に、タイムスリップしました。


僕が高校卒業するまで生まれ育った家も、大工であった父自身の手によって、建て替えられて40年近くになるでしょうか。

《現在大工修業中の甥が一人前になったら、

再び建て替えられて、近藤家は存続していくのでしょう。》


僕が小学生当時は、庭に小さな池があり、小さな鯉も泳いでいました。僕はその鯉にえさを与えていました。《僕は断じて、ぼんぼんではありません。》

しかも大小200個ほどの、松の木の鉢植えが置いてあって壮観だったと記憶しています。

当時北隣は警察官が、西隣には消防局員が住んでいました。

しかしです。南隣の大きな民家に、早朝泥棒が入ったようなのです。

住人の奥さんが「ど、ろ、ぼ、う」と大声で怒鳴っていました。

そのどろぼうは慌てて逃げたようでした。

《このことは錯覚だったのかな、それとも現実だったのか》

我が家の住人7人には、その声は届きました。2階で寝ていた僕にも聞き取れて、驚いて起き上がりました。

しかもその日に、我が家の庭の、大きな鉢植えが3つほど無くなっていたのでした。

《小学生の僕でさえも無くなっていることには、直ぐに気が付きました。》

ところがです。近所の警察官も消防局員も熟睡して気が付かなかったそうです。

《なんたる失態!!!》

その後、事件は迷宮入りしました。


それから二週間後に、

兄が、兄の友人の家の庭で、我が家にあった鉢植えを、間違いなく見たと言って、父と一緒に見に出かけました。《父も認めていました。》

しかし関係をこじらせたくないため、家族は沈黙を保っていました。

それから2、3日後に、その鉢植えが友人宅からも無くなっていたそうです。

《売りさばいていたのでしょう。そしていつの時代でも、

真実は闇の中です。》


そんなこともあって、母親からその友人との、付き合いを禁じられていました。

しかしながら、僕たち兄弟はその友人と、その後も隠れて、親しく遊んでいました。

《その友人は家庭環境は複雑でしたが、不思議と金周りが良かったのでした。》

でも僕らは別の友人と一緒に、彼を仲間外れにしたりして、冷たくあしらって、いじめていました。《子供心にも事件のことで、腹が立っていました。》

《運動おんちで、泣き虫だった彼を、よくからかって、泣かせていたものです。》

《今思うと、酷い事をしたと、反省しています。》


そんなことを回想しながら、近くの洗車機で自動車を洗車しました。

車を止めて、大きな黒いブラシが前から後ろに動くと、

止まっている自分達が前進しているように、

大きな黒いブラシが後ろから前に動くと、

止まっている我々は後退しているように、錯覚してしまいます。


我々の人生そのものも《錯覚》の生み出した幻想かもしれません。

当時の僕の記憶自体が《錯覚》によって作られた妄想だったかもです。


本当に動物は行動のほとんどが、頭の機能によって生かされている事を気づかされました。《錯覚の不思議》を痛感しました。

もしかすれば、今僕が生きているのも《錯覚》かもです。

「お前はもうすでに、死んでいる。」と、

いつ、宣告されるのでしょうか?

その時こそ、本当の《錯覚》であってほしいと僕は思います。


今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。

今日も2曲プレゼント。


ダートバンドでアメリカンドリームです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/THEDIRTBANDFeaturingLindaRonstadtANAMERICANDREAM.mp3


レッドツッペリンでハートブレーカーです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/LedZeppelinHeartbreakerS.mp3


資格の有効期限?

今日は普段より早起きしました。

一日が普段より少し長く感じました。

《朝一時間早く起きると、一日が25時間になるそうです。》

嘘でも、本当ににそう感じました。


早起きしたのには理由があります。

運転免許証の更新をするために警察署を訪ねる必要があったのでした。


大阪から愛媛県に居住を移してから、運転免許証の更新はここ20年の間にすでに4,5回目になるでしょうか。

ちょっと頻繁過ぎない?

その間に病気を患い身体が不自由になりましたから、運転判断の是非が問われることは仕方ないと思います。実際テスト項目が一つ増えました。

運転免許証の有効期限は、事情によって通常3年から5年です。

しかもです。たとえ健康で普通に運動が出来る健康体であっても運転免許証には有効期限があって必ず3年から5年で更新の必要があるのです。

大きな凶器となる鉄の塊をすごいスピードで走るのですから、そのエネルギーは半端じゃないでしょう。

人身、物損の事故の被害を考えると短期間での更新の必要性は、是非にあらずです。理解できます。

でももう少し有効期限は長くても良いように思いますが。


一方、すごく不思議なことに、人の命を預かる医師や看護師等、《医療従事者のほとんどは生涯に一回、資格を所得すると有効期限は死ぬまであって、更新の必要がないのだそうです。》

この法令って理解不能です。

しかも自分のような身障者の介護度の更新は3年に一回あります。《介護保険の法令は数年で頻繁に改正があります。》

改悪もあるかもです、しっかり改正されているのか疑問です。

しかもチェック機能が2重3重にもあります。

その判断は「はい」か「いいえ」の二者択一の質問内容が判断材料なのです。

そして最終決定は第3者の一介の役所の事務員が主観で決定するものなのです。《これって絶対おかしい》


医療をお金を払って受ける側が頻繁にチェックされ更新を必要とされているにも関わらず、お金をもらって医療を行使する側は治療技術やその知識に関わらず更新の必要が無くて、既得権が守られているのです。


この国の医療現場には、

《政治力さえも押さえつける何かとてつもなく大きく恐ろしい悪魔のような権力を感じてしまいます。》


そこには本当に、自分勝手でおぞましい欲望がはびこっているのでしょう。


興味本位でネットで少し調べてみました。一度資格を所得すれば更新の必要のないものです。

  • 弁護士
  • 公認会計士
  • 税理士
  • 歯科医
  • 保育士
  • 教師

最近になって教師は更新が必要になっているようです。

しかし有効期限は10年と長めです。


ほとんどの資格には有効期限が存在し更新の必要があります。

しかしながら、絶対に最もその技術や知識のチェック機能が必要であって、更新も必要と思われる医師には、ここ日本ではよっぽど事情がない限り、生涯有効で更新の必要がないのです。

ほとんどの外国では医師には有効期限が必ず存在します。


極端に言えば100歳の高齢外科医が手術しても法律違反にならないのです。これで患者の命が守れるのでしょうか?

わが日本の七不思議の一つです。


本日運転免許証の更新が割と頻繁に行われていると感じました。それでその必要性に疑問を持ち、他の資格はどうなのかと思ったのでした。

そこで病院の知人に聞いたり、ネットで調べてみたのです。

そしてその現状に驚嘆したのです。


今日はここまで、ではまた。近藤浩二でした。

今日も一曲プレゼント。

ボブ ディランでライク ア ローリング ストーンです。


http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/LIKEAROLLINGSTONE.mp3

 

宝くじ屋の不思議?

週末のドライブ中、赤信号に引っかかりました。

よくあることですが不運なことに信号の一番手前で止まりました。


「ついてない」と思ってふと横を見ると小さな宝くじ売り場ばありました。

そこの小さな宝くじ売り場は、「もっとついていない」売り場のようでした。

昔はタバコと葉書と切手を販売していた店だったのでしょう。そこは大きな大通りの角に位置していました。


個人的に「ついていない」という表現は根拠のない言葉なので、あまり好きではありませんが。


話を戻します。

築50年は過ぎてると思われる木造建築です。店の側板がところどころで、素人の住人が打ち付けたような修繕があちこち見受けられます。どう考えても経済的に余裕があるとは言えないのです。この店も「ついてない」のだろうと思ったものでした。


しかも主力製品であるタバコの自動販売機を覆い隠すように、過去で当たった宝くじの当たり金額を、大きく遠くからでも目につくように手書きで画用紙に書き記して貼り付けています。

これでは本来のタバコ屋ではなくなっています。

宝くじをもっと販売して儲けようと考えているのでしょうか?


しかしです。一枚300円程の宝くじ一枚売っていくら利益が出るというのでしょう。仮に一枚3円の利益が出て一万枚売れて3万円。時給1000円のバイトで30000÷1000=30時間

フルタイムで働いて約4日程の儲けです。

一生働いてもお金持ちにはなれそうにありません。

ところがです。くだんの張り紙内容をのぞいてみましょう。


平成23年 2等 当選金額2億**千萬***円

平成25年 2等 当選金額2億**千万円


この10年ほど前からこの小さな宝くじ売り場で真面目に購入した人が少なくても二人はお金持ちになっているのです。


ジャンボで、億単位の当たりが出るから、かなりの枚数の宝くじの販売があったのでしょう。宝くじを売ってそこそこ儲かったのでしょうか?

そしてそれに気をよくしてさらに宝くじを売って売り上げを倍増させようと考えてのことでしょう。

しかし販売できる宝くじをすべて売れたとしても利益の金額の上限が、億単位には届かないでしょう。お金持ちになれるはずがありません。


あくまで後つけ理論ですが、もし店主が近い将来自分の売り場から再び、億単位の当たりが出るかもと予測を立てて、宝くじをある程度自己消費して持っていたとすれば、数年後には億万長者になっていたかもしれません。


でも実際にはそうしていないから、今の店の状態なのでしょう。


僕は宝くじはまず買いません。以前は購入するときもありました。宝くじの良いところは二点あります。

ひとつは想像をはるかに超えるハイリターンです。投資金額の一万倍近く還ってくる投資は宝くじだけでしょう。ほとんどギャンブルと同じです。しかも投資金額は自己裁量で上限が決定できます。

二つ目は還ってくるお金は投資してからわずかの時間です。短期、長期の投資ものなどと比較すると、ほぼ瞬間と言えるでしょう。

欠点は一つだけです。当選確率の低さです。僕が購入しない理由はこの点です。確率は0ではありませんが、奇跡が起きないと駄目だと考えています。


これは想像です。しかも希望的観測です。

よく当たるとされる宝くじ売り場の宝くじを根こそぎ購入したとして戻ってくる金額との差益はいか程なのでしょうか?

仮に経済的に余裕があって根気強く購入し続ければ、お金持ちになれそうな気がしますが。どうなのでしょうか?


何処かの宝くじ売り場では毎回、億万長者になれる当たりくじを売り子さんから購入者に手渡されていってます。それを特定することは不可能です。

しかしある程度傾向を把握して、当たりを絞り込むことは出来るでしょう。

そして当選確率を上げることは出来るでしょう。

当てることは奇跡では無くなるはずです。


宝くじ売り場で高額当選が出たと張り紙が出ることがよくあります。

それはその売り場の経営者が当てたことではありません。

それは売り場の宣伝だけに過ぎないのです。

《宝くじを買ってもらうためだけです。》


「大きなチャンスほど目の前を静かに通過する」と言われますがまさにその通りだとつくづく思います。


もしある宝くじ売り場で高額当選が多数出たとしたら、そこの売り場の経営者はきっと唇をかむほど悔しがるはずでしょう。

だって、その時の宝くじを根こそぎまではいかずとも、大量に購入していたならば、ちょっとしたお金持ちになれたかもしれないからです。


不思議なことに、世間の宝くじ売り場の経営者のほとんどはお金持ちではないのでしょうね。


仮に僕が宝くじ売り場の経営者でよく当たりを出していたとしたなら、売り場の宝くじを大量に購入するだろうにと思います。

《それは僕がお金はたとえ不必要であっても、欲しいものだからです。》

でも残念ながら、現在は経済的に余裕がありませんので、お金を回してお金儲けは出来ません。でも現実問題としたらどうでしょう?

*「我々は夢を売っています」とでも思っているのでしょうか?

*それとも何か制約があるのでしょうか? きっと厳しい制約がありそうですね。


よく解りませんが不思議です。


宝くじ売り場を経営しているような人は、ほとんどお金持ちにはなれないのでしょうね。 中には居るかもしれませんね。

証券会社の証券マンが他人のお金を運用して、他人がお金持ちになる手伝いをして、手数料で飯を食べていますが、優秀な証券マンが不思議とお金持ちになった話は聞きません。これも実際何人か居てるかもです。

そして経済アナリストや経営コンサルタントが自分達のお金を回してお金持ちになっているのでしょうか? なっているかもです


他人がお金持ちになっていくのを手助けして、目の前でその様を見ている人達は、不思議とそのチャンスをつかむことができないのですかね。


その原因は一体なぜなのでしょうか?

僕なりの見解では偏ってしまいます。しかも正しい答えにはなりません。

そして正直よく解りません。そこは考えてみてください。

しかし普段特に、疑問を抱かないで見過ごしてきた事に、疑問が出始めた時には何かを変える必要があるということでしょうか?

お金持ちになりたければ他人の金持ちになる手助けはするな。ってことかも。ほんとよく解りません。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。

今日も一曲プレゼントです。

ボストンでヒッチ ア ライドです。



http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/HitchaRide.mp3


VR(バーチャルリアリティー)

バーチャルリアリティーの考え方ってとっても大切だと思っています。


日本語に訳すと仮想現実。

現実では無いものの、極めて現実に近い状態。この様な状態をバーチャルリアリティーと呼ばれています。


数年前にはよく聞いた言葉ですが、ここ最近はほとんど見かけなくなった言葉ですね。

ネット上で様々な場所が作られ始めた頃には、実際の場所と区別するためにバーチャルと呼んでいました。

現在ではネット上でのコミュニティーが当たり前になっていますから、現実の場所や社会とネット上とを区別する必要がなくなり、バーチャルとはもはや呼ばれなくなりました。


しかしインターネット上だけが、バーチャルではないのは当たり前ですよね。

今現在では、現実には実現不可能な事柄を、現実社会上で具現化して、極めて現実化したものをバーチャルリアリティーと呼ぶようにもなっています。


例えば、戦争などによって敵をミサイルなどで攻撃する体験などは誰彼でも、現実には体験不可能でしょう。

また野生の猛獣を攻撃する体験もバーチャルリアリティーなら可能です。

現実には極めて困難な事柄であっても、バーチャルであれば体験可能であることも多いのです。


グーグルアースと体感装置があれば、世界中をバーチャルで旅行することや空を飛ぶことも海中を潜ることも出来るでしょう。

宇宙旅行だって簡単にできるかもしれません。

実体験しているかどうかなんて他人が認可するものでもないのです。

自分自身の脳内が認識するかどうかなのです。

そう考えるならば、脳内に特殊な信号を強制的に送って特別な映像や体感を与えてやればいいのではないだろうか。

近い将来現実では無いにしても、仮想上で様々な事柄が体感できるような社会がやってくると考えても不思議ではないでしょう。

現実社会では到底実現不可能な事柄を、せめて空想上の世界だけ(フィクション)でも実現したいと考える「欲望」を空想力が実現させることで、ある意味ではその空想力が社会を「平和」足らしめている力でもあるのです。


本当にこの世の現実においては、肉や物質しか受け入れない人間が意外と数多く存在します。

バーチャルリアリティーをある程度理解しているにも関わらず、金品と交換してまでは、体験しようとしない人達も存在します。

しかもそのような人達に限って以外に、目に見えない、科学的根拠の全くない非科学的なものである「魂」とか「超非現実現象」を取り上げて、現実の事のように話題にするものなのです。

人間はある一面においては極めて現実的であるにもかかわらず、一方では科学的根拠の全くない、自分に都合の良い、漠然とした占いや未来予想を盲信的に信じこむものなのです。


ほんとに人間とは両面性を併せ持つ不思議な生き物です。

「現実的」とか「非現実的」もそうですが、「善人」であるとか「悪人」においても不思議です。


人間とは、他人のためになる良い事もたくさんしておきながら、一方ではある人にとっては悪い事も平気でたくさんする生き物なのです。


バーチャルリアリティーの話から人間とは本当に、多面性を併せ持つ興味の尽きない生き物であるとつくづく思うこの頃です。

今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。


 

「くじ」や、「じゃんけん」は平等では無い!

少し前に携帯電話の契約更新で定額プランが安いプランに変わりました。すると応対された若い女性が安くなった金額分を賄おうと別のプランの追加を提案されました。


僕は必要無いと言いましたが、家内は興味があるのかそのプランを何度も見返して未練たっぷりの行動をしていました。どうする?とお互い顔を見合わせいました。我が家ではそのような時は決まって「じゃんけん」でもって決めるのです。


と言うのも、「人間にとって本当に大事な事はくじで決める。」と日本エドガーケイシーセンターの会長から古代の人の物事の決定方法を教えてもらったからなのです。

「くじ」などは決定要因が平等であって、運だけが結果を左右する要因と理解していたのでしょう。

古代の人達はそこに神の介入を感じたためでしょう。


しかしです。 「くじ」って本当に平等なのでしょうか。


ここでは「じゃんけん」に特化して考えてみたいと思います。じゃんけんの場合、ぐー、ちょき、ぱーの三つがあります。ここでそれぞれの手がそれぞれ出る確率は平等の3分の1と思われますが、ここが一番の問題です。

人によってはちょきが出しにくい人と、ぱーをよく出す人など、個人個人によって大きな「ばらつき」が存在するのです。

この「ばらつき」は確率の計算する場合、一番障壁となる問題なのです。

仮に1万回戦って、勝った回数が多い方を勝ちとするような勝負ならば、ぐー、ちょき、ぱーの出る確率は限りなく3分の1になるでしょう。しかし一回限りの勝負であれば、それぞれの出る確率は平等の3分の1では決して無いはずです。


何が言いたいかと言うと、「くじ引き」や「じゃんけん」などは決して平等ではなく、「じゃんけん」は特に、個人によって偏りが存在します。そしてそこにも戦略や戦法が存在するのです。

ですから「くじ」や「じゃんけん」に勝つ人はただ単に「運」が良い人じゃなくて、何かに優れた人でもあるのです。


僕は子供の頃、商店街の歳末謝恩祭で「がらぽん」を何度か回しました。

でも不思議な事に、毎年必ずと言っていいほど、

特等や一等は抽選の最終日まで当てって射ないんですよね。

結局本当に、特等や一等は出たかどうかは分からない訳です。

そんことで子供心にも「ガラポン」の不正を確信したものです。しかしです、あの偶然性の要因しか考えられないような「ガラポン」にも当てるための戦略や戦法があるそうです。


あの夢の「宝くじ」にも戦略や戦法がありますから。

でも一枚買っただけで当たる人も居ますが。何千枚買っても当たらない人も居ますから。ほどほどに。ちなみに僕は宝くじは買いません。


みなさんもくれぐれも「くじ」や「じゃんけん」の不平等の確率を理解しておきましょう。


ところで、僕と家内の勝負は追加プランに入らない側の僕が勝ちました。しかし追加プランは契約しました。

そうです、僕は勝負には勝ちましたが、ふたりの女性の、目で訴えかける、圧力に負けたのです。

「くじ」や「じゃんけん」はしなくてもすでに結果は決まっていたのです。「じゃんけん」はただの形式だけのことでした。

強引な人には負けるのです。残念ながら、男性は女性にはかなわないのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。

ヒッグス粒子って!?

深夜のBS番組でパーティカル、フィーバーと言う映画を観ました。科学史における金字塔となる「神の粒子」と呼ばれる「ヒッグス粒子」を発見するまでのドキュメンタリー映画でした。


専門用語が一杯でてきました。しかも僕には基礎知識が欠如しているのです。ほとんど理解できませんでした。

しかしキャスターの熱意と研究者たちの尋常ならざる探求心がこちらまで伝わってきました。二時間余りがあっという間に終わりました。実験は成功に終わりました。

20年というとっても長い期間をかけて準備し、世界中を巻き込んで膨大な国家予算をも注ぎ込み絶対に失敗は許されない状況です。しかもメディアが常に監視の目を光らせています、その重責ははんぱじゃありません。

もちろん世界初めての挑戦です。挑戦に失敗は付き物です。当然予期せぬトラブルに会いました。スケジュールが遅れて変更、変更が続きました。

しかしながら彼らは決してくじけることなく、真実追求のため袋詰めの状態で、不眠不休の命がけで戦いました。そしてついに成功しました。


ある研究者がつぶやきました。

「僕は幸せだ。好きな研究に没頭できる。こんな良い環境を与えてくれて成功するのは約束されている。」「ただひとつの問題は失敗した時に言い訳出来ないことだ。」


宇宙や生命の起源になるとされる、この素粒子は「神の粒子」と呼ばれ、提唱者であるイギリスの物理学者ピーター、ヒッグスの名前からとって「ヒッグス粒子」と呼ばれている。後に彼はこの功績によってノーベル物理学賞を受賞されました。


さて、この粒子の役割です。

この粒子は全ての物質に質量(つまり重さ)を与える事です。

最初は質量を持たなかった他の素粒子がこの「ヒッグス粒子」にぶち当たることで次第に動きにくくなっていったのでした。この「動きにくさ」が質量そのものなのだそうです。「ヒッグス粒子」は質量(重さ)を持っています。

別の方法で分かりやすく説明します。

人混みがあります。その人々がヒッグス粒子だとします。その人混みにあなたが入っていこうとします。最初あなた自身には質量(重さ)はありません。当然他の人(ヒッグス粒子)と接触しますよね。誰もいない時よりはるかに動きにくいですよね。

この「動きにくさ」が質量なのです。

最初は質量を持っていない人(あなた)が他の人達(ヒッグス粒子)に当たることで質量(重さ)を持ったような状態になるのです。

想像してみて下さい。体感出来ましたか?


今回の実験はピーターヒッグスが考えた理論の証明であったわけです。物に質量があるための理論な訳です。

もし仮に「ヒッグス粒子」のような粒子が存在するならば、物に質量(重さ)があることは今までの科学の理論から論理的に説明がつくのです。

しかしながらもし「ヒッグス粒子」のような粒子が存在しなければ、今までの科学の理論だけでは物に質量があることの説明が論理的にできないのです。

質量があるための必要十分な条件として「ヒッグス粒子」なる物の存在を仮定とした訳です。「ヒッグス粒子」の存在を前提にピーターヒッグスは理論を構築していったのです。

ですからその「ヒッグス粒子」の存在が明らかにならなければ、物に質量があることの証明、つまり物には重さがあることの説明が論理的に出来ないのです。

そしてその「ヒッグス粒子」の発見に今回の実験によって至った訳です。

「ヒッグス粒子」の存在が明らかになった事によって物が重さを持つようになった過程が周知の事実として誰にも認められるようになったのです。

もし仮に「ヒッグス粒子」のような粒子の存在が発見出来なければ、

物に重さがあることの理論は最初から考え直さなければならない訳なのです。

それとも、何かまったく想像もできないような新しい粒子が発見されるかもしれなかったのです。この事に多くの研究者たちは興奮していたのです。

結局、今回の実験では「ヒッグス粒子」の発見により物に質量(重さ)を持つことの説明に終止符打たれた訳です。


科学はあくまで演繹的であるべきであると僕は考えています。

ここで演繹的とは、ある理論と別の理論が前提に在ってそれらの理論に基づき新しい理論または結論を導きだす積み上げ式の考え方の事です。数学はまさにこの積み上げ式の学問ですよね。

例えば、1+1=2と2+0=2等の理論から足し算が構築されました。

ただし積み上げられた新しい理論(または結論)は実験などによって立証されて初めて正しいと判断される場合が大半です。

ただし数学等は実験などでは証明のしようが無いので必要ありません。ただ積み上げただけの理論、結論はあくまで机上の話です。

これとは逆に最初に実験によって出て来た結論を後から論理的に検証して理論だてていく方法を帰納的と言います。

科学史の中には演繹的、帰納的どちらの方法も有効です。有名なニュートンのリンゴが木から落ちたひらめきは帰納的なひらめきと言えるでしょう。コペルニクスの地動説も帰納的な発想でしょう。一方アインシュタインの相対性理論は演繹的の代表でしょう。

長い科学史の歴史の中には仮説や予測のままで、立証されないで日の目を見ないままで埋もれてしまっている理論も数多くあるでしょう。

科学の分野でのノーベル賞はほとんどは帰納的かもしれませんね。何かの実験によってたまたま偶然、予期せぬものを発見したりアイデアがひらめいたりしていますね。キューリー夫人の放射能の発見など。


この世界初の国鏡を超えた大プロジェクトですが、確かに科学の基礎は大事です。すごく大切です。しかし私達の日常生活が劇的に変化するわけでも、良くなるわけでもありません。

現実的なある経済学者が質問していました。

「この発見により経済的に何か益はありますか?」研究者が答えます。「はっきり言える答えはひとつです。」

「まったく分かりません。」「ただ真理の探究のためです。今後の科学の発展のためです。」「我々は何か得にになるからしているのではありません。」実際先の20年の準備の間に国の中には国益にならない実験に膨大な予算を組む余裕が無いと実験に拒絶した所も多くありました。


真理の探究には損得勘定など入る余地などありません。経済的な損得勘定は人間のエゴから生まれたものです。一方真理の探究は神の領域なのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

枕草子に教えられたこと

いきなりですが、清少納言に物申す。

昨日、古典の傑作清少納言の「枕草子」を久々に読みました。もし、当時ネットがあれば彼女は間違いなく人気ブロガーだったでしょう。

「春はあけぼの」、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて」ですよね。今は立春を過ぎた頃なので、春ですが、現代人で今を春と考えてる人は少ないでしょう。どちらかと言えば冬ですね。


「冬はつとめて」

冬は日が明けた直後が趣があるって言うてますが、寒くてもう少し布団にくるまって暖を取ってから起き出したいものです。

平安時代と現代の時代背景が大きく異なるので比較はできませんし、物の視方も違いますよね。しかし「春はあけぼの」にもあるように、昔の人は早起きで働き者だったのですね。感心です。とっても寒いのに、眠たいのに。


僕が考える冬は、晴れ渡る空に、日の高く上りたる南中時刻頃が暖かくなり最も良い。しかも空を見上げた時に、澄んでいてさわやかな空気中に、雲の隙間から日の光が射して、その周りが色づく風景は格別に美しい。と考えていました。

一方、その時間帯は清少納言が冬の昼間は暖かくなってしまって趣が無く良くないと、指摘している箇所なのです。


この時点で僕は「はた」と気付かされました。彼女と僕の意見が全く正反対だということに。これはどういうことかと?

僕が間違っていたと思わされました。汗顔の至りです。


彼女は四季折々の季節を楽しんでいるのです。

僕は季節を楽しむ余裕が持て無くてそこから逃げているのです。

僕は自分中心で物事を捉えているから、自分が快適である状態のみが最も良いと論じているのです。

対して彼女は自然を粛々と全て受け入れて、淡々と生活しているのです。

その自然の良い部分を探し出して季節ごとに自分も楽しもうと考えているのです。

そして物事を的確に分析し文章にしたため、前向きに生きている彼女はやはり偉い。


昔の人は生きていくために自然と共存して暦などを作る必然性があったにしてもです。

ただ「あるがままに」自然を受け入れていたのです。日本は世界でも有数の自然災害国です。発生した台風のほとんどが日本を通過しその爪痕を残します。川は氾濫し土砂は崩れます。

人々はそれが過ぎて行くのをただただ淡々と待つだけだったのです。しかも地震もたびたび起こります。

その後で人々は再び橋を掛け直し、家を建て直します。それの繰り返しで時間が流れました。

昔から現在に至るまでそれらはほとんど変わっていません。復興に要する時間は短縮されましたが。


昔の人はいつも自然と共存していたのですね。現代は短期の内に極度に文明が発達し過ぎたため、自分達の快適さを追求して、暑ければ冷房、寒ければ暖房と家に閉じこもるのです。

その結果、どうすることも、ほとんど何もすることが出来ないにも関わらず、

自然を「あるがままに」受け入られなくなってしまいました。見えない何かに時間を追われているのです。忙し過ぎるのです。「忙しい」とは心を亡くすと書きますが、まさにその通りです。


そのため対象物をじっくり眺めて観察しません。そのため対象物の本質を見抜けないのです。結果、対象物を理解する事が出来ないのです。共存することなく回避しようと考えるのです。

しかも自分を中心に物事を捉えているため、自分は変わらないで、周りを自分に合わせようと無理に変えようとしているのです。

そして、両者の間に摩擦が生まれるのです。その結果、時に対立し合い、溝が出来るのです。

これって、自然に限らず、人間関係等全てに当てはまりますね。気をつけたいものです。


《追記》

しかし「枕草子」の中で、彼女も頻繁に他人の悪口を言ったり、不平不満や愚痴を言ったりしているのです。人間関係においてはやはり昔も今もたいして変わってないのですね。

人間に欲が有る以上、人間の心の在り様に進歩も退廃もないでしょうから。

では今日はここまで、近藤浩二でした。


 

対人関係に疲れた時の対処法

今日はまず初めに報告があります。

僕はなんて意志薄弱な人間なんだ。簡単な誘惑に負けてしまいまました。自己嫌悪に陥りそうです。

三日前から続いていたテレビを点けないという状態が本日で止まっちゃいました。最低でも一週間は続くと思っていましたが。

しかも二日間点けなかったので、今日三日目になんと三日分まとめて、視てしまいました。

人間は本当に誘惑に弱いですね。あの有名な偉人でさえも、

一人の女性によって人生が終わってしまいましたから。気をつけたいものです。


テレビをよく観てた時期アナザースカイて番組好きでした。

アナザーていう事ですからもうひとりの自分です。普段周りの人に見せてる自分とまったく違ってるもう一人の自分。

たぶんそっちが本当(素)の自分なのでしょう。普段周りに見せている姿は本当の自分じゃない場合って多くないですか。

でも、どんな人であって人に合わせて意識的、無意識的はともかくとして、少なからず自分を作ることってあると思います。また、そうして自分を作ることが本当の自分で、作らない自分は偽の自分って人も居てるでしょう。

周りの人に合わせて作りだしてる偽の自分。しかもかなり無理して作り上げてる人も居るでしょう。しかもそのような人が仕事人間だったら大変でしょう。へたをすれば人生の半分が偽の自分で生きている事になりますよね。

これじゃ気の休まる時間はほとんど無いでしょう。

もしそんな自分を作り続けていたら必ず何処かに支障をきたすのは時間の問題でしょう。僕はそのような人を何人か見てきました。本人には自覚がなく条件反射的に脳が指令を出しているみたいです。このような人達に共通する傾向があるようです。

1、何事に対しても真面目であるのです。

2、どちらかといえば、口数が少ない。

3、特にこれと言って人に自慢できる余暇の過ごし方が無い。趣味が特に無い。

4、気のおけない仲間が少ない。

5、どちらかと言えば仕事人間であるのです。

6、笑顔が少なく、笑うことがあまり無く、表情が豊かでない。

あれ、これって自分自身にも当てはまるかもしれないって思っているあなた(実は僕自身もこれに該当しているかもって自分で特徴上げているのにもかかわらずドキッとしたのでした。)


すいません。

本当にごめんなさい。

申訳ありません。

アナザースカイってもう一人の自分じゃないですね。自分自身にとって今居る場所以外の、もうひとつの居場所のことですね。間違えてしまいました。ここまで読んでくれた人はその番組の事を知らないのか、それとも本当に優しい人なんですね。

もうひとつの自分の居場所で自分を取り戻そう。って事なのかな

これも間違いのような気がしてきました。

教訓です。自分のよく知らない事は語らない方が良いですね。


もし仮に今の自分が疲弊してしまったとしたら、精神も身体の両方を癒してくれるそんな場所を見つけてみましょう。

あなたにもきっとありますよ。探してみましょう。って提案しているのでしょうね。

これも違っているのかも。


今日のテーマがよく見えてこないぞ。でも今思った事を書きますね。


確かにどんなに社交的で魅力的な人であっても、苦手な人やあまり好きでない人は必ず一人は存在するでしょう。そのような時には人間は必ず自分を守ろうとして軽い拒否反応を起こすはずです。

しかしながら、そのような人とも付き合わなければならないとしたら、

好むと好まざるとに関わらず違う自分を作ってその場を乗り切ろうとするはずです。


なにも本来でないもうひとつの別の人格を作ることが悪いことで本当(素)の自分のままで居続ける事が善(正義)と言っているわけではありません。また、そのふたつが全く両極端に位置する存在であるとも思っていません。

どちらであってもそれは自分自身であるのだと僕は思います。

それは、どちらの自分も自分の心が作りだしたものだからです。


人間のの性格なんて生まれついて8割は出来上げっているでしょう。その後の人生で作り変えられる要素なんてほんのわずかでしょう。

ただし、社会的に人と付き合う要素は、言い換えれば人間関係の形成には、性格はあまり関連性が無くて、むしろその人の今まで生きて来た経験や価値観、常識から来る、思考パターンや行動パターンに影響されると考えています。


僕の場合、人間関係は第一印象でほとんど決定します。この人はどちらかと言えば好きで友達になれそう、でもこの人は苦手で好きじゃないって、初対面でほんの一分で決まります。

そして前者の人は不思議と無理をしなくても人間関係が築けます。一緒に居ても楽なんです。

しかし後者の人は無理をするんですね。そしてだめなんです。どんなにしても居心地悪いんです。とってもしんどいし疲れるのです。


そのように疲労困憊した時は(ストレスと感じた時)

1、不思議と食欲が出てよく食べます。

2、よく寝ます。

3、本当に親しい人とよく話します。

4、お気に入りの音楽を聞きます。

5、ドライブに行きます。

6、とにかく、外出します。

7、とっても良くないことで、自己嫌悪になる時がありますが誰かを攻撃するのです。

これらは全て脳内物質の快楽ホルモン(ドーパミン)を分泌させるのです。


ポイントはこのドーパミンを分泌させる行動をすることです。自分の経験でどんな時に快楽を味わえたか考えてみると、誰にも二つや三つはあるはずです。

3、4、6は僕のお勧めです。おそらく、7番が一番効果が高いでしょうが、一緒に話す相手が必要です。そして共通の敵が必要です。しかも話してるうちに自分達が嫌な奴に思えて虚しくなってきます。覚悟のある方どうぞ。


何を言いたかったのか今思えばよく分からなくなりましたが、今日はここまで、ではまた、今度、近藤浩二でした。


 

初めて○○した人ってすごい!

人類の歴史には偉人と呼ばれる人々はたくさん居てますが、それらの人々にも負けず劣らず, 名もなきすごい人達も居ると思います。むしろこちらの人達の方が僕個人では偉いと思います。


例えば、初めて様々な食べ物を見つけだした人。

初めて火を自由にした人。

初めて海に潜った人。

初めて動物を殺して食べた人。

初めて言葉を考えた人。

初めて文字を作った人。

初めて単語を作った人。

等々、初めてシリーズです。


その中でも、僕個人としたら火を自由にした人が一番すごいと思っています。

ここから以下はあくまで僕個人の想像です。

初めて火を見た人は驚愕したであろう。何だろう?っと。

最初は当然人為的以外でしょう。

目にする機会は、自然界での落雷による木々や動植物の燃焼時。

または、火山噴火による噴火物やそれらによる二次火災時ぐらいかな。

ほとんどの物の形を無くして黒こげにしてしまう。これは一体何物なのだろうかと考えたでしょう。

初めは敵と判断して立ち向かっていったでしょう。

そして火傷を負ったりしたでしょう。最悪焼け死ぬ人達も数多くいたでしょう。

結果的に、逃げ迷うだけだったのです。

その中で観察力のある人が気が付くのです。そう火の弱点に。

火は海や川では広がらずなくなってしまうものである事に。

その結果、少しではありましたが、火を抑制することが出来るようになったのです。

その次は火を作りだそうと考えたのです。

体験的に何かが身体にこすれると熱くなり、火傷を負った時と同じ状態になることなどから判断して、ある物と違うある物をこすること数万回、やっと煙が発生するとこまでたどり着きます。

そこからはたまた数万回の試行錯誤でようやく種火になりました。それを樹に広がらせ、消えないように数万本の木に移し替えていったでしょう。しかし不運な事に、雨が降ったり水がかかってしまい火は消えて無くなってしまいます。

そしてまた最初から試行錯誤で数日かけて火を起こします。そしてまた消してしまいます。大変な労力です。嫌になるでしょう。

ここで革新的で器用な人が出てきます。試行錯誤を幾度も繰り返します。火を起こすためだけの道具を発明します。

やっとのことで、火を起こす時間が大幅に短縮されました。

その結果、人々は火を自由に出し入れ出来るようになったのです。しかも火の使用用途の多さに喜んだのでした。

おそらく、火を自由に扱える人達は他の人達を従えるようになったのでしょう。

このように、現代のように情報や知識がほとんどまったく無かった時代に、

経験と思考力と情熱のみで、生きていくためだけの動機付けで、

長い月日をかけて火を自由にした人の偉さと苦労は並大抵ではなかったであろう。

粉骨砕身、悪戦苦闘だったのだろう。火が起こるまでのその人の心の内側は如何ばかりであったろうか?

火が必ず起こる保証はどこにもないのである。

これで最後にしようと何度考えたであろうか。

いつかは必ず火が起こると信じていたのでしょうか?

生きるためとはいえその精神力の強さには脱帽です。

いつの時代であっても、何か新しい物を生み出す人達はひとつの例外もなくそうなのでしょう。


当時の人達は現代の人達よりも精神が強かったのでしょうか?

割合で言えば高いと言えるでしょう。

確かにある程度文明が構築された時代においては、たとえ自分の経験や知識が浅くても先人たちが築いてくれた知識や知恵によって、何かを生み出すことは少しは容易かもしれません。

しかしながらガリレオが地動説を言い続けることや、コロンブスが新大陸を発見したことは、当時としは驚天動地のような驚きだったはずです。


いつの時代においても初めて○○○する人は必ず存在するのです。そしてそのような人達は自分自身のためだけにとどまらず、自分自身でも分からない何か強いものに揺れ動かされているのでしょう。

その上に自分をどこまでも信じ、少しの知恵と強い勇気、大いなる大胆さを持ち合わせた類まれなる人達だったのです。


寒くて起き上がってストーブを点けて、寒さをしのぎながら燃える炎を見て便利な時代の中で生きていけることの幸せを感じながら、今朝考えた事柄でした。


今朝からもテレビは見てません。その調子で頑張ろう。

ではまた明日、近藤浩二でした。