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贅沢って何?!

焼肉を食べに行きました。「ぜいたく」って非難されました。


でも、そう言った人は高級車クラウンに乗っています。僕からすると高級車に乗っている人の方がよっぽど贅沢です。

僕の常識では、焼肉は一回食べてもせいぜい、一人4000円から5000円です。高級車は安くても一台300万円はします。

しかも焼肉をご飯のおかずと捉えれば一人500円から1000円で収まる時もあります。車の事はよく知りませんが安くとも150万円はするように思います。


ネットで調べてみます。一般論はこうです。

ぜいたくとは、

必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと。


しかしここで当然、必要な程度は人によって異なります。食事内容の程度も、その人によって異なります。

おそらく、贅沢かどうかを決定する一番の要因は、その人の現在の生活レベルでしょう。

そしてその次の大きな決定要因は、その人の現在における必需品の優先順位です。

そうです。今自分にとって一番必要な物は何か?です。


あなたにとって今一番必要な物は何ですか?

そしてそれに如何ほどかけられますか?


そしてなぜ、人はぜいたくをするかです。

もうひとつ、その贅沢品で自分自身の欠乏感を満たすことができるのです。

そしてその欠乏感は幼少時から続いている感情です。

経験上、好きな食事が満足に出来て、いなければ、食事にお金をかけて充足感を満たすのです。僕の場合です。

また、贅沢は他人とのお金の多少の比較ではありません。


自分が持ち続けている欠乏感をどれだけのお金を使っても、満たすためには人は、お金や物を惜しげもなく使うことが出来るのです。

毎日持ち金が無くなるまでお酒を飲み、金が無くても借金してでも使う人が居てますが、本人は贅沢しているとは思っていません。お金を使うという行為そのものに満足して欠乏感を満たしているのです。

きっと脳内物質の快楽ホルモン(ドーパミン)がそうさせているのでしょう。

そしてその行為を理解できない人がぜいたく(もしくはバカ)と捉えるだけなのです。

ぜいたくと呼ばれる行為は自分自身では判断でき難いと思います。

加えて誰かと比べて論じる物でもありません。自分個人にだけ使う概念なのです。

時が経って、別の違う充足行為を見つけた時に、後から自分のあの時の行動はぜいたくだったと気付くのです。


今僕が振り返って、贅沢だったと思える行為は、新婚時代にカイロプラクティックの勉強も兼ねてアメリカの海外旅行に一週間で二人で300万円程使ってしまったことです。

あの時のお金残していたら、、、、

と思い、、、、、、ませんですよ。千恵子(家内の名前です。)


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


《追記》もしかりに今、余裕のお金が一億円あったとしても、僕は高級車は持ちません。軽4自動車で十分なのです。これは価値観の問題かもしれませんね。


 

シンギュラリティー、技術的特異点(第二章)

技術的特異点は一世紀程前から議論されていたことらしいが、自分はここ最近知ったことです。

しかしこの歳になって改めて将来のことを考えるようになり、未来を予測しなければ生き続けていけない、勉強しないと世間から置いていかれるぞ、て感じて毎日テレビ見て何もしないで年を取っていく虚しさの恐怖に襲われ、生き方を変えなければって考え始めました。

それで最近はテレビは一日一時間程と制限つけてます。でその代わり本を読んだり身の回りの整理、ストレッチ体操等をしています。


ムーアの法則によると一年と半年で半導体の性能は二倍になっていく。30年後には単純計算で、30÷1.5=20、だから2の20乗、つまり約100万倍の性能になる。あくまで計算上のことです。現実にはそこまではいかないでしょうが。

現在のコンピューターがおよそ100万倍の性能アップになったとしたら我々の生活はどうなるのだろうか?そんな事を最近よく考えるようになりました。

今から30年程前、携帯電話、インターネットが出始めの時代から、現在のスマートフォン、ネット社会が当たり前のような常識、価値観の大きな変化が起こり続けている現在。

我々は当時から現在も生き続けているから大きな変化とは感じないかもしれないが、後になって歴史のひとコマとして視ると相当大きな変革であろう。

コンピューターの性能がおよそ100万倍向上するであろう30年後は現在よりもさらにもっと大きな常識や価値観の変化がやってくるだろうと思われる。生き続けている我々には残念ながらその特異点は認識できないであろう。

そんな特異点が仮に予測し認識できたならば、現代の人々の生き方も社会の仕組みももっと良い方向に変わって行くはずでしょうに。

そうそう簡単に未来を予測できないのは、いつの時代でも当たり前ではありますが。

しかしそんな未来予測も30年後までには出来るようになるかもしれない。


先日本で読んだが、作物の収穫は、光の当て具合、環境の調整によって一年間に24回は収穫できる、とある有識者が述べていた。

もしそういう時代がやってくれば世界中の人口約75億人が飢えることはなくなるそうだ。


ここで自分自身が想い描く未来予想図の一つに、優秀なコンピューターの制御により、食料の需要と供給のバランスをほぼイコールに調整するように過不足なく生産すれば、無駄なゴミも減少するだろうし、自然保護にもつながると思われる。

そして生産と製造分野の殆どを人間と同レベルのAIロボットに行わせる。人件費はかからないし、装置のメンテナンス費用だけで済むだろう。

それらを全て国が運用し、緻密が必要とされる作業だけを人間が行う。


結局30年後くらいには、すべての分野の作業において、現在我々が行っている仕事の殆どがAIロボットが担うようになってしまうかもしれない。

当然宇宙旅行は当たり前になるだろうし、地球が人類の故郷の星になり、新たな居住地を求めて宇宙のどこかの星に人類が住み始めるかもしれない。我々は地球区の日本という小さな地域の住人と呼ばれるようになるかもしれない。


そしてもしAIロボットが人類の英知を超越し、人間の仕事のほぼ全てをロボットが行うようになったとしたら、人間の存在理由はあるのだろうか?人間はただ生き続けるためだけに生きるようになるのかもしれない。

そしてAIロボットが人間のDNAすら書き換えて人間のコピーを作るかもしれない。

最悪な事態とすれば、人間は寿命がなくなり死ねなくなるかもしれない。人間の一番の悩みは死ねないことなんて笑えない世界がやってくるかもしれない。

しかしそんな事態がやってくる前に、神様の怒りに触れて、人類滅亡とか、太陽系が爆発するとか、ブラックホールに飲み込まれるとか、神の存在が明らかになるとか、宇宙全体が数百億年前まで何かの拍子にタイムスリップしてしまい、聖書でいうところの創世記に戻るとか、人類とはまた違う種類の生き物が出現してこの地球を支配するかもしれない。

想像は尽きないが、どのようなシナリオが描かれるようになるのかは時の流れを待とう。

ひょっとしてシンギュラリティーなんて技術的特異点自体がやってこなくて、そのすれすれのところで、何か特別な別の特異点があるかもしれない。

それは技術的な何かではなくて、我々の想像もはるかに超えたところの何かなのです。

技術革新により時代の変革の周期が短くなっているだけに一日一日を大切に無駄に過ごせないと思わされた。

それだけにシンギュラリティーの時期と予測される2040年から50年頃まで、僕が80歳から90歳までは生き永らえて見届けたいと思う今日この頃である。


《追記》

投稿して一時間後、再度読み返してみて、未来は明るい未来であってほしいはずなのに、悲観的すぎる未来なので、明るい未来も考えてみました。


仕事の中で煩わしく単調で厄介な作業はすべてロボットが行い、有意義で創造的で進歩的な仕事は今まで通り人間が行い、ロボットは手助けの範疇で当然あくまでも主体は人間なのです。これって都合良すぎですね。ロボットが怒りますよね。

余った時間は楽しみや癒しの時間となり、ゲームや遊びの種類と場所も増えます。

スポーツや音楽だけではなく、遊びが職業になる時代が来るのでしょう。人間の仕事がロボットに奪われるのではなくて、

言い換えれば、生活のために仕事をするのではなく、今でいうところの仕事をしなくても生活できるような時代になるのです。

そして時間を対価にして生活の糧を得る必要がなくなるわけだから、人生がもっと豊かで充実して、自分の本当にやりたいことがやれて(法律の範囲内で)自分らしく楽しく笑顔で幸福な人生を送れるような時代がやってくる。

細かい問題は省くとして、そんな未来も考えられるでしょう。少し大雑把ですね。

でも未来予測に正解なんてありませんから、個々人が自由に考えて楽しむのもありでしょう。

もっと細かく詰めることができた時にはまた投稿します。


 

シンギュラリティ(技術的特異点)に観る未来像(第一章)

少し前にネットサーフィンしてて、近未来の世界はどうなるのか?その中で特に気になる未来像を見つけた。その世界(未来)を見届けるまでは死ねないと思った。最近の技術革新から判断すると30年後、40年後には、どんな未来がやってくるかなとわくわくしている。


その未来は、グーグルの技術者によると、まず数年後には、人類の殆どの情報がデータベース化され、検索エンジンがもっと進化を遂げて、長い文章や様々な問題にも対応できるようになるそうだ。


そして、半世紀内には、コンピューターの技術革新が今のペースで進めば、人類の最後で最高の発明が数十年後にやってくる。それはAI(人工知能)らしい。その人工知能が自分よりさらに優秀な人工知能を開発する。それを階段を上るがごとく続ければ、人類の未来はどうなるのか想像もつかない。その最初の第一号の人工知能を開発した時をシンギュラリティと呼ぶらしい。人類にとっても大きな分岐点になるだろう。その人工知能は宇宙誕生前からの歴史も把握しており、全人類の脳もはるかに凌駕しており、どのような問題に対しても、あらゆる情報にほんの数分でアクセスし、わずか数時間で自分で学習し、数秒で最も適切な答えを出す。そんな未来がこの半世紀の内に訪れるらしい。


しかしながらここで問題なのは、人間の脳より優秀な人工知能が作られるのかどうか?神が人間を作ったのだとすれば、その人工知能は神かそれとも神以上の存在ということになる。


仮にその人工知能が人間以上ではないとしても、究極のレベルまで到達すると、我々の生活は大きく変わっていくだろう。、、、、、次回へ続く、、、、、


なんとも不思議な話(最終編)

四足の珍獣(現在では珍しいですが、自分ももう20年以上見てないですよ。

ひと昔前には割とよく見かけました。)その珍獣って何でしょうか?みなさん想像してみて下さい。


そんな事があったにも関わらず数日間は、自分達も忘れているように過ごしていました。

でもある夜中、寝付きかけた時、「ガリガリ、ガリガリ」と奇妙な音が聞こえてくるじゃありませんか。寝床の部屋の明かりを点けたその時、「トントントン、トントントン」って音に変わったんです。何かが二階に上がったかな?って思いました、ゆうれいじゃないよな?足があるんだから、でも気味が悪い。その夜は、

一階の雪隠に行き、また寝ました。次の日の朝、珍獣の正体が想像できました。


本日はここまで。to be continued,,,,,,,,


《最終章》

翌日廊下に掃除機をかけていると、ある一本の柱の下部5センチ程の位置を何かで引っ掻いたような傷がついていました。

ネズミが爪で引っ掻いた痕だろうことは直ぐに合点がいきました。駆除方法を検討しました。


生け捕りはトドメを差さないといけから性に合わないので、ドラッグストアーで毒殺用食料を買い込みました。

小学生の頃、ネズミの生け捕り用金網にネズミが一匹生け捕りされているのを朝目撃し、下校時家の近くの通学路の側の川に息絶えている金網の中のネズミを見たときは気分が悪くなったことを思い出しました。母が入れたそうでした。

そんなこともあり駆除用餌をキッチンの隙間に2袋配置して、ダイニングの扉を開けっ放しで数日様子を視て配置位置を変えたり、食材袋を交換する等数回しました。

駆除方法の選択肢がすくないため、家の中の何処かで息絶えた死骸を発見するかもという悪夢も考えられましたが確率は低いと希望的観測の下の決断。今から思うと最適な方法でした。

2週間程後、食料袋が破かれて中の食材がはみ出ているのを確認し、その後2週間同様に罠をし続けて破けた袋を再度確認して、その後数日はネズミの存在気配を感じなくなったので、罠は取り除きキッチン周りを綺麗に片付けました。

そして今現在に至ります。その間にはほぼ家全体をリホームもしました。


その後、なんとネズミはおろかゴキブリすら見かけなくなりました。我が家から害虫、害獣は駆逐されたようです。バンザーイ!!


 

なんとも不思議な話(前編)


真夜中のことである。いくら考えても納得のいかない不思議な事が起こった。


昨日は朝からほとんど一日中、雨がしとしと降り続いていた。

ほんとにブルーな気分な一日だった。

12時過ぎに寝床に就き、なかなか眠れず、携帯電話の電源が切れたことに気が付き、充電器を取ってこようとダイニングの明かり点けて、椅子に向かっていると、ゴミ箱のほんの少し横に黒茶色の3センチほどの気味の悪い物体が、、、





ナメクジラ、、、ゲゲゲ、こいついつの間にどこからやってきた。???

あの場面を思い出した。「ゴジラが国会議事堂付近で暴れています。」

空も飛べない、のろまのこいつが、監視カメラで追跡してみたい。と思った。

突然、湧き出たわけでも、飛んできたわけでも、はてなが頭の中を交錯した。

早速ネットで調査、ナメクジって陸上に生息するカタツムリと同じ巻貝の仲間で、殻が退化した貝だって。夜行性で湿気を好む。なるほど雨の降ったその夜中に、雨後の竹の子ならず、雨後のナメクジ。酵母菌や生野菜を好む。だんだん存在に納得してきた。

前日、夜に弁当を食し、ゴミ箱にポイ。食べ残しの発酵食の野菜の漬け物が弁当箱、ゴミ箱の中に、匂いを嗅ぎつけてノッソノッソと出現したんだ。

ナメクジって雌雄同体なので、交尾しなくても一匹でも産卵できるって、できなくてもいいでしょう。そんな必要あるのかな。世の中に必要な生き物なんだろうか?

食物連鎖のどこに位置するんだ?

この世に必要でないものはないっていうけれども。あの黒い悪魔のゴキブリも同じなんだろうな?


今、思い出した。数年前に奇妙な場面を目にした。

秋の夜、仕事から帰って裏口の扉、納屋の入り口(我が家は玄関のカギを失くしてたため、裏口の納屋からの出入りが日常化していた。)を開けると地面這う黒い動く物体、ゴキブリだ。気持ち悪い。棒で叩き殺そうかと思ったが、奇妙なことに、

ゴキブリは怪我をしたのか動きが鈍いではないか。普通じゃないぞ。って思った。

自動灯火が点き、その様子を眺めていると、足が何本かなさそうだ。どうしたのだろう?

その後、やつはドアの隙間から何かから逃れるように必死で外へ逃げって行った。

自分はさらなる入り口のドアを開けた。もっとびっくりする場面に出くわした。

ドアから1メートル向こうの廊下に後ろ向きに構えてた四足の珍獣がこちらを振り向いたのだ。その時であった。

目があったのだ。一瞬、時間が止まった。ドッキとした。心臓に悪い。ドアノブを持ってからわずか数秒間の出来事である。

おそらくやつも初体験だろうに。こっちは殺してやろうと思ったが、向こうは殺されると思ったろうか。

自分はドアを開けっぱなしにして、

ひとまず納屋から外に出て、退散した。





やろうが家の中から、せめて納屋の中まで、希望とすれば屋外に出てほしいと考え、10分程、様子見で家の辺りをうろつき、家の中から出て行っただろうかと半信半疑ながら家の中に戻り入った。廊下付近にはすでに居てなくて、何処に行ったかは分からないままでした。

その間に、さっきの光景を思い出し、何が起こってたのか想像した。ゴキブリがやつに(四足の珍獣)に襲われた。ではないんだろうか?

食用ではなく、動くものに野生の血が反応して遊び感覚で襲ったのでは。ゴキブリ側にはそんなやろうがこの世に存在するとも考えつかなかったであろう。

やつ(四足の珍獣)が家の中にいるのかどうかはっきりしないため、僕は心中穏やかにあらずでした。

家の中に居ないとなんの確信も持てないまま、家内と二人夜を過ごすことにしました。絶対人間のほうが強いと思っていましたから。

実際にはやつとも数日間、夜をともに過ごしていたのだが、


to be continued,,,,,