歴史(井伊直弼)

一期一会(いちごいちえ)ご存知ですよね。本当はもっと深遠で

人生にとって有益な教訓なのでしょうが要約すると、今この時は

生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意味。

語源はもちろん、安土桃山時代の茶人、千利休の茶の湯の

心得にあったとされています。しかし最初に書物に記載した人物

は歴史上、大悪人と揶揄(やゆ)されていた、幕末のあの大老の

井伊直弼(なおすけ)なのでした。著書『茶湯一會集』の巻頭

には有名な「一期一会」があるのです。でもそんな彼も、

幕末期、多くの維新志士を断罪(だんざい)し、死に

至らしめたとして、明治維新以降、その評価は最悪でした。

しかしです。明治時代の終わりごろから、再評価されるよう

になったのです。なぜ? ここで日本史の再検証です。僕は今

歴史にはまっていて、隙間時間に様々なメディアで視聴を

楽しんでいます。この時間が「あっ、いいな」って

恍惚(こうこつ)としています。


近代日本史の大きな転換点のひとつ。通常、幕末

(約15年間)と言われる、武家政権の終焉(しゅうえん)

(1868年)のきっかけとなる事件。1853(嘉永6)年

(いやでござんす)黒船来航。米国ペリー率いる艦船4隻が

大統領の国書を携えて江戸湾浦賀(現在横須賀市)に寄港。

当時13代将軍、家定は病弱で国政は無理。老中首座の

阿部正弘(備後福山藩)は各藩に相談するも、開国派

(井伊直弼等)と反対派(水戸藩徳川斉昭等)の対立は激しく、

その対処に苦悩していました。そんな中、直弼は大老に

就任しました。その後米国総領事ハリスから早急に開国を

要求されました。諸藩に意見を求めるも、開国やむなしと

考えていた直弼は、反対派の説得に努めましたが、色よい返事が

得られず、特に徳川斉昭(なりあき)が強硬に反対して

いました。そのため回答を引き延ばしていましたが、都の天皇に

勅許(ちょっきょ)を得られないまま、調印してしまいました。


井伊直弼は彦根藩(今の滋賀県)で11代藩主、井伊直中の

14男として誕生しました。将来、藩主になれる見込みは

極めてありませんでした。しかし彼は世の中を恨んだり、出世の

夢を抱いたりしないで、ただひたすら埋もれ木のように

こもって、自分のなすべき事をやっていこうとしたのです。

宛行扶持(あてがいぶち)と言って、一方的に与えられるわずか

な手当てで、自分の住居を埋木庵(うもれぎあん)と呼んで

300俵で部屋住みとして、慎(つつ)ましく

暮らしていました。しかし幸運にも36歳で藩主になるまで

なすべき事は多岐にわたり、武芸では居合の新派を創設。

焼き物、能、狂言、最も傾倒したのが茶の湯で、禅に通じる

内なる心を重視して「一期一会」の言葉を残しました。

一方で庭に見える柳の木に強い愛着を持って自らの

雅号(ペンネーム)も「柳王舎(やなぎわのや)」と

名乗るほどに。というのも柳の木は、太い幹はしっかりと

地に足をつけて、しかし枝や葉は風の流れに逆らわずに、

優雅に流れる。そんな柳の姿にあこがれて、自分もそう

ありたいと考えていました。36歳の時、藩主の兄がなくなり、

兄弟のすべての兄が養子に出されていたため13代

彦根藩藩主になりました。彼は儒学者の教えから多くの家臣や

民衆に耳を傾けていきました。領内をくまなく視察し

生活困窮者にお金、食物を分け与えていました。直弼の歌。

恵までは あるべきものか 道のべに 迎える民の 慕う誠に

(慈しまずにいられるものか 道端で出迎えてくれる民が私を

慕う誠の心を思えば)逸話として、この歌に、かの吉田松陰は

感涙にむせび感激したそうです。だが運命とは残酷なものです。

直弼はそんな松蔭を無残にも殺してしまうのでした。


この頃日本近海に出没する外国船が増えていました。

彦根藩は三浦半島の警備を担わされたのです。しかし

250年間太平の世が続く中、武士の士気は下がり警備体制は

お粗末でした。直弼はその実態に強い衝撃を受けたのでした。

なおのこと、この時期に外国との戦争は、到底勝ち目がないこと

は十分認識していました。ここで直弼のとった行動を理解する

ため当時の世界情勢を把握していなければなりません。


18世紀後半、英国で産業革命が起こり、蒸気船が造られ

大きな船に大砲が搭載され、戦闘力が格段に向上しました。

1840年、清国は英国にアヘン戦争、フランスにアロー戦争で

敗れ、不平等条約を締結し、香港を割譲しました。米国は捕鯨の

目的で太平洋を航海中、拠点の必要から日本に貿易を(開国)

望んでいました。当初は紳士的であった米国も、早急

(さっきゅう)な回答を出せない日本に徐々に苛立ち、

力づくで開国させようと考え初めていました。

直弼の判断は正しかったのです。《歴史は思想が造る》そうです

当時武士は朱子学を熱心に学んでいました。朱子学とは中国から

の学問です。「中華思想」が根底にあります。中華思想は

自分たちが一番。他から学ぶこと無し。との考えが主流。

開国などもってのほか、なおのこと、家康を神と仰ぐ

御三家の水戸藩は当然、諸藩の藩主の多数は開国反対でした。


彦根藩、井伊家は大河ドラマの女城主、井伊直虎にあって

養子であった、徳川四天王のひとり、井伊直政が初代藩主

でした。すなわち、井伊家は徳川幕府260年を支えた

名門でした。幕政の重要ポストを担い続けていました。

改めて、直弼の下した開国と言う決断は今から考えても正し

かったのです。たとえ諸藩の意見をまとめることが

できなかっても、天皇の勅許を得られずともです。

特筆すべきは当時の彼の心情が書物に残って

いるのです。----しばらくは戦争を避け貿易

を行うべきである。勇威を海外に振るうことができる

ようになれば、内外共に充実し、かえって皇国安泰に

なるはずである。---- と。実際その後、時代は直弼の

想像通りになっています。しかし不幸にも当時の時代の

流れが、彼を《赤鬼》と呼ばれるまでに、ならしめたのです。

ひとつは14代将軍継嗣(けいし)問題において

徳川斉昭との対立です。さらには、戊午(ぼご)の密勅と

言われる、孝明天皇が水戸藩に勅書を送った、前代未聞の

事件でした。古き良き伝統を重んじる直弼は、天皇に

このような行動をとらせた、良くない危険分子が、

はびこっている、世情を正すべきだと、

多くの維新志士を捕縛し、処罰してしまいました。

世にいう「安政の大獄」です。これにより彼の評価を地に

落としめ、自分の命運すら尽きさせたのです。水戸藩浪士による

「桜田門外の変」でした。当日命の危険は予測できていて

警護の者を増やすように進言されたにも関わらず、警護の

人数は規則で決まっていると、あくまで伝統を守ろうと

こだわったのです。暗殺前日に詠んだ辞世の歌です。

咲きかけし  たけき心の 花ふさはーーーー

ーーーー散りてぞいとど  の匂ひぬる

道半(なか)ばではあるが、国を想ってきた熱い自分の気持ち

は、自分の死後、きっと後世に理解されるだろう。直弼は自分が

もうすぐ殺されると解っていたのです。

むしろ死ぬ気だったのでしょう。なんて哀れで、みじめな人生!


歴史を知っている我々は、当時日本国を外国の侵略から救った

者は坂本龍馬であり西郷隆盛といった、薩長土肥の志士たち、

だけであったと考えがちですが、時代の状況をしっかり把握して

たとえ独裁者と揶揄されようと、リーダーとしての、決断力

と実行力を持ち合わせていた直弼の存在は無視できません。


直弼にとって不幸だったのは、彼の良い所でもあり悪い所でも

あるのでしょうが、移り変わる時代の中、変わるべき、

変えるべきところを、伝統にこだわり過ぎて、固辞して

変わらなかった、変えなかったところに、直弼の天命を

視た気がします。でも私的には、敬意を持てて大好きな人。


伝統さえ守れば、徳川幕府も日本国も守られ、ひいては民衆も

守られると信じて疑わなかった、頑固さも「安政の大獄」

といった日本史上まれな、非道に走らせた要因だったの

でしょう。いやー歴史って面白いですね。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。