未来

不思議なもので、半世紀以上生き続けて、年老いてくると、

若いころよりも明らかに、その先は短くなっているにも関わらず

若い時よりも、未来のことを考えることが多くなってきます。

先が短いがゆえに、先が読み易いこともあるのでしょうが、

まだやり残した事が多くあって、残された時間内に

どうにかしてやり遂げたいと強く願っている心境なのに、

具体的に動き出せない自分がいるのです。でも気持ちが切迫

する中、時間は容赦なく無情にも過ぎて行きます。どうしよう。

さらに知り合いが次々逝ってしまうと人生は無常だ、はかない。

結果、毎日焦り始めているからなのです。自分はなぜに、どこに

向かっているのだろう。答えの出ないことを考え始め、

自分ひとりの禅問答が始まるのです。特にこれと言って、

とりえの無い自分にがっかりしてしまいます。だめだ、だめだ、

今の自分に、見切りをつけるようなことだけはよしておこう。

考え込んで、過去を振り返ると、自分が悲しい道化師に

なったみたいなのです。ただで得られるものなんて存在しない、

どんなものにも代償は払わなければならないのです。おそらく

人間誰しもが、過去を土台にする以外に、未来を考えることは

出来ないはずです。

強く意識的に自分を顧みない限り、人間の未来に対する行動は、

現在の行動の延長線上にしかないのです。


僕ら含めて、総じて、サラリーマンって人種は、時間の切り売り

なので、なまじっか苦労して手に入れたお金が、多過ぎず

少な過ぎず、中途半端に持っていると、手放すのが

惜しいのです。そうであるから目の前にチャンスが

巡ってきても、なかなか、それに飛び込むことができません。

持っている《もの》を失うことを恐れて、みすみすチャンスを

逃すことになりかねません。何かを得ようとするなら、

今持ってる何かを手放して、物理的に空間を作らないと、

新しい何かは入ることはできません。


我々には誰ひとりとして、先回りして未来を覗

(のぞ)き見することは出来ません。しかも未来を正確に

予見することも決して出来ません。たとえそうであっても、

楽しい明るい未来を夢見て、子供のように心躍らせて、

わくわくどきどき、することは、誰にだって出来るはずです。

何をお前ごときがの上からのもの言いのようですが、立て続けに

身に起こった事柄で、寒さと共に、つとに身に染みた事でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。今日は思いつくままに、書きなぐってみました。


 

ナビゲーション

初めて出かける場所へ「目的地です。お疲れさまでした。」

カーナビって便利ですよね。数十年前ならともかく

現在、車の運転で、カーナビ使ったことのない人ってまず

居ないでしょう。科学の発展によって我々の生活は本当に

便利になったようです。カーナビの開発はすでに昭和時代から

始まっていました。当時から未来予想で《自動運転》の概念が

あったそうです。斬新な発想と豊かな才能を持つ人がその当時

から日本に居たなんて驚きです。当時僕なんて車内から道行く

女性を、目で追うてばかりで「発想」でなく「妄想」が日常

茶飯事でした。顔から火がでるような思いです。お恥ずかしい。


現在何処に居ても「目的地」さえ入力すれば、そこまで導いて

くれるなんて楽でいいですよね。でも時には最短距離や最速の

行程を選択してくれないことも、多くの頻度で発生しますが。

時にまわり道なんて、このあたり人生と似ていて面白いですね。

「設定」によっては高速道路を外したりと、通りたくない道も

除外することもできますが、度々「ルートを外れました。」と

音声で注意を喚起してくれます。いっそう、人生の途中でも

信頼できる何か(神様)から、そう言ってもらえればいいのに。

きっと楽かも。面倒くさい時が、人生多いですから、ね。


自殺者、精神疾患者の多い、まともじゃない現在の日本。

人生の未来を悲観したり、何度もドロップアウトして

人生の障壁と先の見えない時に人生のナビでもあれば楽

もしかして、近未来願望の未来世界で、自分の「目的」を

入力すれば、何でも自動で導いてくれる《人間人生の目的》の

ナビゲーションが、作られる時代が訪れてくるかもしれません。

その目的の空白欄には「お金持ち」や「世界一の美人」とか

「幸福な結婚」、「独裁者」、「不老不死」とかが

入力されるかもしれません。それが発明されれば

たとえ一刻(いっとき)の苦痛からでも、開放されて、明るい

未来の見通しが立ったなら、明日を生きる希望が生まれるやも。


僕なら「苦労しないで楽しく生きる」と入力しようかな。

「それは無理です。」「真面目に地道に努力を続けて下さい。」

とか諭され、説教されてしまいそうです。今、僕の人生振り

返って、もちろん《夢》はいっぱいありましたが、どれも

《ただの夢》で終わっています。結局楽なサラリーマン

なんて情けない。今となっては、《本気》じゃなかったって

ことでしょう。でもそれもただの言い訳ですね。自分に才能が

なかっただけなのです。だっていつの時代でも、才能のある者は

どのような境遇に置かれようと、悪い状況に陥ろうとも、必ず

乗り越えて、事を成して、名を残しています。結局は、


「意思あるところに、道は開ける」でしょうね。しかしこれも

どれだけ《言葉やことわざ》をたくさん知っていようが、

考えていようが、本当の《真理》そのものを知らない者には、

どれほど優秀で、完璧なナビゲーションが存在しても、

おそらく「目的地」にはたどりつけそうにありません。

「コースがそれました、リルートして下さい。」の連続で、

最後にも「目的地付近です」と、さまよってばかりでしょう。


でもそんな《人間人生の自動》のナビゲーションなんて絶対出来

っこないでしょう。だめだ。またやる前から無理って決めつける

僕の悪い癖。想像の世界くらい気楽に楽しまないと。喝(かつ)

僕は人間のナビゲーションにはどこか、うさん臭さを感じます。

その人間が自分の利害を最優先させてしまうのが人間の欠点。

機械であれば、多分人間に優劣を付けないで公平でしょうから。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。夢の持てる明るい未来に、乾杯!!!


また明日から楽しく書こう!!


 

思い出

今朝の事。起きがけのコーヒーを、起き抜けのお茶に変更して

トイレでスッキリを感じて、「今日も調子が良いぞ」って

玄関に向かっている僕の背後から、妻の声が

「***さん、亡くなったって、、、」「ええっ」

上がっていた士気が、一気にふやけてしまいました。


僕の母親よりわずかに年上だったでしょうか。二年程前まで

数十年間我が家の近所に居を構え、旦那さんを亡くしてからは

ひとり暮らしをしていて、毎週妻の施術を受けられていた、

僕のお気に入りの《おばさん》でした。その穏やかで

優しい眼差(まなざ)し、ゆっくり、ゆったりとした

気取らない動作と飾らないしゃべり口調が、本当に

心いやされる、得(え)も言われぬ、心和(なご)まされる、

ご内儀(ないぎ)、おかみさんだったのでした。

ずっと昔から(僕が生まれる前から)知っている誰かのような人

数年前より物忘れが発症し始め、東京在住の息子さんの

世話にと、引っ越しされた数年後の便りが

《死の報告》とは寂しい限りです。特別に何かを話し、

何かをして頂いた、僕の人生の何かを変えたわけでもないし、

取り立てて僕自身の《何か》ではないのですが不思議と、

決して忘れられない懐かしい存在なのでした。


人生のすべてはやがて煙のように消えて無くなってしまいます。

でも《いつか》は、それらのすべては素晴らしい

《思い出》となって、きっとよみがえって来るはずです。

どのような形であれ。必ず。


今日はここまで。近藤浩二でした。ではまた。

今日は在りし日の***おばさんを思い出しながら、、、


施術後に「楽になった。ありがとう。」っと、またコーヒー

と菓子を召し上がって「美味しかった。ありがとう。」って

玄関を立ち去って行く小さな姿が思い出されます。拝。


 

喧嘩(けんか)

朝夕ともに涼しいというより、すっかり冬かと勘違いするほど

寒くなってしまいました。数日前、昼前の11時過ぎ車に

乗り込み、昼食を兼ね、隣町へと新鮮卵を購入に出発します。


秋晴れの中、草をなびかせる、でも穏やかな風、空には薄く

静かにたなびく雲、草木がもうじき色付き始める季節が迫って

来ています。秋の柔らかい光に導かれ、低い位置に

視線が移りました。ほんのりと肌寒く、車中から心地良く

秋景色を眺めていました。青空と取り囲む古い家並み、

川べりを走行中、うっすらと、緩やかに、わずかに

揺れ動く白い穂先が僕の視界を捉(とら)えました。

次の瞬間「ススキがいっぱい」確信が持てずとも、

思わず声が、、「あれ、ススキで?」いきなり聞かれて、

泡(あわ)食ってしまって、声が上ずってしまいました。

「えっ、、っと、、」、、押し込まれて、自尊心が

傷つきたくない僕は、しどろもどろと言い訳がましく

「ススキ科か、、ススキの仲間の植物やろ、、」との自己弁護に

走って、自己嫌悪が襲い掛かっていると「えっ、、ほんとに?」

と再度尋ねられ、さらに自己弁護を重ね塗りしてしまいました。

「そんなの、本人に聞いてみないと、分からないでしょ、、」

そんな僕の発言に嫌気がさしたのか妻の逆襲が始まりました。

「もう、ほんとに素直じゃないのね。大嫌い。」

「もっと素直になりなさい。」その時二人の視界に

本当の《ススキ》らしき一群が見えました。

「あれが、ススキですよ。」妻が強い口調で自慢気に

言い切っていました。僕にもなんとなく納得できましたが

なんだかその正当性が認められず、悔しくて抵抗しました。

「君はススキさんですか?」ダイコン役者が絵空事を論じます。

「私はススキではなくて、、鈴木ですよ」とオチをつけました。

「よく間違えられるのよ。気を付けてね。」「あっ、そっだね」


僕たち夫婦はつまらない、些細(ささい)な事でよく

揉(も)めます。お互い聞き流せば、済むことを生来の

負けず嫌いがそうさせるのでしょう。バカみたいです。その後

本気で喧嘩になって言い争いに至ります。良く言えば《本音》

でぶつかり合います。結果どちらも折れないから、互いを

ののしり合ってしばらくの間、沈黙になります。《時間》の経過

だけが、ふたりの《かすがい》として存在しているのです。でも

これで20年近く今もって365日二人だけで生活しています。


本音で傷つくならば構わない。でも、嘘で傷つくのならば

いたたまれない。理屈では理解できても、悪態をつかずには

いられない。これが人間の悲しいサガです。しかし互いに

相手をよく理解し合っているのでしょう。加えて根本的に人間を

愛しているのだなと思います。それは《本音》でぶつかり合う

からなのです。自分は勝たず、相手も負かさず、敬意を払って

《虚》(嘘)ではなく《誠》(本音)を振りかざす限りは、

相手を切っても、傷つけても、血は流れません。


得てしてとかく、我々は自分の正当性を言い張って

しまいがちです。しかし一方の正当性の反対は

《また別の正当性》であることを引き合いに出すまでもなく、

論争は相手に歩み寄る気持ちが、無い限り、平行線なのです。

夫婦喧嘩はたいがいこれでしょう。したがって結論は、

第三者が、客観的に下す以外に答えは出ません。結局

ほとんどの人は残念ながら、その言葉に、

生き方が追いついていないものです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。今日も楽しんで書けました。


 

貯金

新しい週になりました、、、今朝、、、、目覚めとともに

先日視聴したBSテレビの字幕が頭をよぎりました。

「地球の《表情》は、その内部でふつふつと沸き上がっている、

マグマの大きなエネルギーの流れによって、ダイナミックに

形成されました。」と心の中で黙読したと同時に

その時の深紅(しんく)のマグマのダイナミックな

動きが映像となって強烈によみがえって脳内を占拠(せんきょ)

しました。おかげでトイレ内で、最近元気のない男性自身を

手にして、年齢のせいだとばかりに決めつけ、へこんでいた

気持ちにむちを打つことができました。その後


洗面所の鏡に映っている、覇気(はき)のない目元を

手でこすって洗っていると、何事においても少しやる気の失せた

原因を探(さぐ)ってみようと考えてみました。日課の

ルーティンを変更してパソコンを立ち上げ、メールと

ブログのチェックをしてみました。ここ最近の自分の

ブログを読み返して、はたと気が付きました。客観的に視て

ありふれた発想、貧困な切り口、当たり前すぎる

面白くない内容に、思わずゲロが出そうになりそうでした。

原因は即座に思い当たりました。思考力の低下、こう着状態に

陥っているからなのでした。昔から「小人(しょうにん)

閑居(かんきょ)して不善をなす。」と言われますが、僕の場合

「小人閑居して、《こと》を行わず」なのでした。近々


仕事量が減るにつれて、自由な時間が増えてしまって

寝て、起きて、食べて、小言を言っては、自己嫌悪に陥って

また食べて、少し仕事をして、動いて、食べて、寝て、、、、

といった、極めて創造力のかけらもない人間らしくない、

「なまけもの」の体(てい)たらくな、ぐうたらを

過ごしていたかもしれない、との内省に

至ったのでありました。でも「後の祭り」です。


「時は金なり」といったメタファーがありますが

「時間はお金と同じくらい大切なものなのです。」といった

戒(いまし)めでしょうが、実際には「時間はお金、以上に

重要なものなのです。」ご存知のように、時間は何の制約も

受けることなく流れ去って行ってしまいます。

平家物語で白河法皇は「加茂川の水、双六の賽(さい)の目

山法師、これぞわが心にかなわぬもの。」また方丈記で鴨長明は

「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と

古来より、流れて過ぎ去っていくものは、止めることができない

人間の思い通りにならないと、世の無常を嘆いていました。

現代においても、河の流れはともかく、時間の流れは

人智の及ばざる事柄です。


生まれながらに、不平等、不公平に与えられているもの

《お金》等は、自分自身の努力、裁量でその量や多さは

どうにかすることが出来ます。一方、生まれながらに人間に

平等に与えられているモノの《寿命》と《時間》は自分の

モノであるにも関わらず、自分の思い通りに取り扱うことが

出来ません。どちらも手元に留(とど)め置くことが

出来ないのです。言い換えるならば、貯蓄(貯金)がどちらも

出来ないのです、誰しもが、歳を取り続け、時間を

さかのぼって、戻ることなど出来ないのです。

神様のすることは人間の理解の範疇を超えています。


現実に目に出来るモノは、自由にため込んで好きな時に

取り出して使用することが出来ます。しかし「光陰矢の如し」

です。まさに《チャンスは貯蓄出来ません》。


手元の現金(モノ)が少なくなれば改めて、その存在の重要性

大切さに気付かされ、注意深く慎重丁寧に取り扱います。しかし

少し現金(モノ)に余裕が出来ると、人はとかく、倹約を忘れて

しまって、ついつい、ぞんざいに扱ってしまいがちです。

大切なものほど、失って初めて気付かされるものなのです。

その時には残念ながら、もう手遅れなのです。


貯金のできる《モノ》より、貯金の出来ない《モノ》をもっと

大切にしようと痛切に感じた、57歳、平成最後の秋の

盛りの一日でした。何事も無駄のなく、効率良くなど

生きれない、利口者でない、小馬鹿で小心者の僕なのでした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。次も楽しんで書こう!