枕草子に教えられたこと

いきなりですが、清少納言に物申す。

昨日、古典の傑作清少納言の「枕草子」を久々に読みました。もし、当時ネットがあれば彼女は間違いなく人気ブロガーだったでしょう。

「春はあけぼの」、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて」ですよね。今は立春を過ぎた頃なので、春ですが、現代人で今を春と考えてる人は少ないでしょう。どちらかと言えば冬ですね。


「冬はつとめて」

冬は日が明けた直後が趣があるって言うてますが、寒くてもう少し布団にくるまって暖を取ってから起き出したいものです。

平安時代と現代の時代背景が大きく異なるので比較はできませんし、物の視方も違いますよね。しかし「春はあけぼの」にもあるように、昔の人は早起きで働き者だったのですね。感心です。とっても寒いのに、眠たいのに。


僕が考える冬は、晴れ渡る空に、日の高く上りたる南中時刻頃が暖かくなり最も良い。しかも空を見上げた時に、澄んでいてさわやかな空気中に、雲の隙間から日の光が射して、その周りが色づく風景は格別に美しい。と考えていました。

一方、その時間帯は清少納言が冬の昼間は暖かくなってしまって趣が無く良くないと、指摘している箇所なのです。


この時点で僕は「はた」と気付かされました。彼女と僕の意見が全く正反対だということに。これはどういうことかと?

僕が間違っていたと思わされました。汗顔の至りです。


彼女は四季折々の季節を楽しんでいるのです。

僕は季節を楽しむ余裕が持て無くてそこから逃げているのです。

僕は自分中心で物事を捉えているから、自分が快適である状態のみが最も良いと論じているのです。

対して彼女は自然を粛々と全て受け入れて、淡々と生活しているのです。

その自然の良い部分を探し出して季節ごとに自分も楽しもうと考えているのです。

そして物事を的確に分析し文章にしたため、前向きに生きている彼女はやはり偉い。


昔の人は生きていくために自然と共存して暦などを作る必然性があったにしてもです。

ただ「あるがままに」自然を受け入れていたのです。日本は世界でも有数の自然災害国です。発生した台風のほとんどが日本を通過しその爪痕を残します。川は氾濫し土砂は崩れます。

人々はそれが過ぎて行くのをただただ淡々と待つだけだったのです。しかも地震もたびたび起こります。

その後で人々は再び橋を掛け直し、家を建て直します。それの繰り返しで時間が流れました。

昔から現在に至るまでそれらはほとんど変わっていません。復興に要する時間は短縮されましたが。


昔の人はいつも自然と共存していたのですね。現代は短期の内に極度に文明が発達し過ぎたため、自分達の快適さを追求して、暑ければ冷房、寒ければ暖房と家に閉じこもるのです。

その結果、どうすることも、ほとんど何もすることが出来ないにも関わらず、

自然を「あるがままに」受け入られなくなってしまいました。見えない何かに時間を追われているのです。忙し過ぎるのです。「忙しい」とは心を亡くすと書きますが、まさにその通りです。


そのため対象物をじっくり眺めて観察しません。そのため対象物の本質を見抜けないのです。結果、対象物を理解する事が出来ないのです。共存することなく回避しようと考えるのです。

しかも自分を中心に物事を捉えているため、自分は変わらないで、周りを自分に合わせようと無理に変えようとしているのです。

そして、両者の間に摩擦が生まれるのです。その結果、時に対立し合い、溝が出来るのです。

これって、自然に限らず、人間関係等全てに当てはまりますね。気をつけたいものです。


《追記》

しかし「枕草子」の中で、彼女も頻繁に他人の悪口を言ったり、不平不満や愚痴を言ったりしているのです。人間関係においてはやはり昔も今もたいして変わってないのですね。

人間に欲が有る以上、人間の心の在り様に進歩も退廃もないでしょうから。

では今日はここまで、近藤浩二でした。