資格の有効期限?

今日は普段より早起きしました。

一日が普段より少し長く感じました。

《朝一時間早く起きると、一日が25時間になるそうです。》

嘘でも、本当ににそう感じました。


早起きしたのには理由があります。

運転免許証の更新をするために警察署を訪ねる必要があったのでした。


大阪から愛媛県に居住を移してから、運転免許証の更新はここ20年の間にすでに4,5回目になるでしょうか。

ちょっと頻繁過ぎない?

その間に病気を患い身体が不自由になりましたから、運転判断の是非が問われることは仕方ないと思います。実際テスト項目が一つ増えました。

運転免許証の有効期限は、事情によって通常3年から5年です。

しかもです。たとえ健康で普通に運動が出来る健康体であっても運転免許証には有効期限があって必ず3年から5年で更新の必要があるのです。

大きな凶器となる鉄の塊をすごいスピードで走るのですから、そのエネルギーは半端じゃないでしょう。

人身、物損の事故の被害を考えると短期間での更新の必要性は、是非にあらずです。理解できます。

でももう少し有効期限は長くても良いように思いますが。


一方、すごく不思議なことに、人の命を預かる医師や看護師等、《医療従事者のほとんどは生涯に一回、資格を所得すると有効期限は死ぬまであって、更新の必要がないのだそうです。》

この法令って理解不能です。

しかも自分のような身障者の介護度の更新は3年に一回あります。《介護保険の法令は数年で頻繁に改正があります。》

改悪もあるかもです、しっかり改正されているのか疑問です。

しかもチェック機能が2重3重にもあります。

その判断は「はい」か「いいえ」の二者択一の質問内容が判断材料なのです。

そして最終決定は第3者の一介の役所の事務員が主観で決定するものなのです。《これって絶対おかしい》


医療をお金を払って受ける側が頻繁にチェックされ更新を必要とされているにも関わらず、お金をもらって医療を行使する側は治療技術やその知識に関わらず更新の必要が無くて、既得権が守られているのです。


この国の医療現場には、

《政治力さえも押さえつける何かとてつもなく大きく恐ろしい悪魔のような権力を感じてしまいます。》


そこには本当に、自分勝手でおぞましい欲望がはびこっているのでしょう。


興味本位でネットで少し調べてみました。一度資格を所得すれば更新の必要のないものです。

  • 弁護士
  • 公認会計士
  • 税理士
  • 歯科医
  • 保育士
  • 教師

最近になって教師は更新が必要になっているようです。

しかし有効期限は10年と長めです。


ほとんどの資格には有効期限が存在し更新の必要があります。

しかしながら、絶対に最もその技術や知識のチェック機能が必要であって、更新も必要と思われる医師には、ここ日本ではよっぽど事情がない限り、生涯有効で更新の必要がないのです。

ほとんどの外国では医師には有効期限が必ず存在します。


極端に言えば100歳の高齢外科医が手術しても法律違反にならないのです。これで患者の命が守れるのでしょうか?

わが日本の七不思議の一つです。


本日運転免許証の更新が割と頻繁に行われていると感じました。それでその必要性に疑問を持ち、他の資格はどうなのかと思ったのでした。

そこで病院の知人に聞いたり、ネットで調べてみたのです。

そしてその現状に驚嘆したのです。


今日はここまで、ではまた。近藤浩二でした。

今日も一曲プレゼント。

ボブ ディランでライク ア ローリング ストーンです。


http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/LIKEAROLLINGSTONE.mp3

 

宝くじ屋の不思議?

週末のドライブ中、赤信号に引っかかりました。

よくあることですが不運なことに信号の一番手前で止まりました。


「ついてない」と思ってふと横を見ると小さな宝くじ売り場ばありました。

そこの小さな宝くじ売り場は、「もっとついていない」売り場のようでした。

昔はタバコと葉書と切手を販売していた店だったのでしょう。そこは大きな大通りの角に位置していました。


個人的に「ついていない」という表現は根拠のない言葉なので、あまり好きではありませんが。


話を戻します。

築50年は過ぎてると思われる木造建築です。店の側板がところどころで、素人の住人が打ち付けたような修繕があちこち見受けられます。どう考えても経済的に余裕があるとは言えないのです。この店も「ついてない」のだろうと思ったものでした。


しかも主力製品であるタバコの自動販売機を覆い隠すように、過去で当たった宝くじの当たり金額を、大きく遠くからでも目につくように手書きで画用紙に書き記して貼り付けています。

これでは本来のタバコ屋ではなくなっています。

宝くじをもっと販売して儲けようと考えているのでしょうか?


しかしです。一枚300円程の宝くじ一枚売っていくら利益が出るというのでしょう。仮に一枚3円の利益が出て一万枚売れて3万円。時給1000円のバイトで30000÷1000=30時間

フルタイムで働いて約4日程の儲けです。

一生働いてもお金持ちにはなれそうにありません。

ところがです。くだんの張り紙内容をのぞいてみましょう。


平成23年 2等 当選金額2億**千萬***円

平成25年 2等 当選金額2億**千万円


この10年ほど前からこの小さな宝くじ売り場で真面目に購入した人が少なくても二人はお金持ちになっているのです。


ジャンボで、億単位の当たりが出るから、かなりの枚数の宝くじの販売があったのでしょう。宝くじを売ってそこそこ儲かったのでしょうか?

そしてそれに気をよくしてさらに宝くじを売って売り上げを倍増させようと考えてのことでしょう。

しかし販売できる宝くじをすべて売れたとしても利益の金額の上限が、億単位には届かないでしょう。お金持ちになれるはずがありません。


あくまで後つけ理論ですが、もし店主が近い将来自分の売り場から再び、億単位の当たりが出るかもと予測を立てて、宝くじをある程度自己消費して持っていたとすれば、数年後には億万長者になっていたかもしれません。


でも実際にはそうしていないから、今の店の状態なのでしょう。


僕は宝くじはまず買いません。以前は購入するときもありました。宝くじの良いところは二点あります。

ひとつは想像をはるかに超えるハイリターンです。投資金額の一万倍近く還ってくる投資は宝くじだけでしょう。ほとんどギャンブルと同じです。しかも投資金額は自己裁量で上限が決定できます。

二つ目は還ってくるお金は投資してからわずかの時間です。短期、長期の投資ものなどと比較すると、ほぼ瞬間と言えるでしょう。

欠点は一つだけです。当選確率の低さです。僕が購入しない理由はこの点です。確率は0ではありませんが、奇跡が起きないと駄目だと考えています。


これは想像です。しかも希望的観測です。

よく当たるとされる宝くじ売り場の宝くじを根こそぎ購入したとして戻ってくる金額との差益はいか程なのでしょうか?

仮に経済的に余裕があって根気強く購入し続ければ、お金持ちになれそうな気がしますが。どうなのでしょうか?


何処かの宝くじ売り場では毎回、億万長者になれる当たりくじを売り子さんから購入者に手渡されていってます。それを特定することは不可能です。

しかしある程度傾向を把握して、当たりを絞り込むことは出来るでしょう。

そして当選確率を上げることは出来るでしょう。

当てることは奇跡では無くなるはずです。


宝くじ売り場で高額当選が出たと張り紙が出ることがよくあります。

それはその売り場の経営者が当てたことではありません。

それは売り場の宣伝だけに過ぎないのです。

《宝くじを買ってもらうためだけです。》


「大きなチャンスほど目の前を静かに通過する」と言われますがまさにその通りだとつくづく思います。


もしある宝くじ売り場で高額当選が多数出たとしたら、そこの売り場の経営者はきっと唇をかむほど悔しがるはずでしょう。

だって、その時の宝くじを根こそぎまではいかずとも、大量に購入していたならば、ちょっとしたお金持ちになれたかもしれないからです。


不思議なことに、世間の宝くじ売り場の経営者のほとんどはお金持ちではないのでしょうね。


仮に僕が宝くじ売り場の経営者でよく当たりを出していたとしたなら、売り場の宝くじを大量に購入するだろうにと思います。

《それは僕がお金はたとえ不必要であっても、欲しいものだからです。》

でも残念ながら、現在は経済的に余裕がありませんので、お金を回してお金儲けは出来ません。でも現実問題としたらどうでしょう?

*「我々は夢を売っています」とでも思っているのでしょうか?

*それとも何か制約があるのでしょうか? きっと厳しい制約がありそうですね。


よく解りませんが不思議です。


宝くじ売り場を経営しているような人は、ほとんどお金持ちにはなれないのでしょうね。 中には居るかもしれませんね。

証券会社の証券マンが他人のお金を運用して、他人がお金持ちになる手伝いをして、手数料で飯を食べていますが、優秀な証券マンが不思議とお金持ちになった話は聞きません。これも実際何人か居てるかもです。

そして経済アナリストや経営コンサルタントが自分達のお金を回してお金持ちになっているのでしょうか? なっているかもです


他人がお金持ちになっていくのを手助けして、目の前でその様を見ている人達は、不思議とそのチャンスをつかむことができないのですかね。


その原因は一体なぜなのでしょうか?

僕なりの見解では偏ってしまいます。しかも正しい答えにはなりません。

そして正直よく解りません。そこは考えてみてください。

しかし普段特に、疑問を抱かないで見過ごしてきた事に、疑問が出始めた時には何かを変える必要があるということでしょうか?

お金持ちになりたければ他人の金持ちになる手助けはするな。ってことかも。ほんとよく解りません。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。

今日も一曲プレゼントです。

ボストンでヒッチ ア ライドです。



http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/HitchaRide.mp3


「善」と「悪」一体どっち? どっちも!

 

この世には善いことをしている「善人」が居てます。

しかしながらその裏で悪い事をする悪人の顔を持つ「悪人」も居てます。どちらも同じ人なのです。

善い事をたくさんする人でありながら、その一方で、同じ人が悪い事もいっぱいしてしまうことがあります。

これが肉体を持った人間の正体なのです。だからこそこの世は面白いのです。


僕が子供の頃から、いやはるか昔から、そう太古の頃からでしょう。「良い子、善い人になりなさい。」と教え続けられて人は育ってきたはずです。それが人間にとっての成長とでも万人が思い込んでいるかのごとくです。「悪人になりなさい。」なんて誰も言われたことはないはずです。

ということは、教えてもらわないと人間は、ついうっかり自然と悪い事をしてしまう生き物なのでしょう。

悪い事は教えてもらわなくても簡単にできますからね。生善説なんて嘘なのでしょうか?


現実社会のこの世では「善人」ほど生き難い社会はないのです。

最近のベストセラーに「嫌われる勇気」と呼ばれる本があります。読んでないのでよく解りませんが、誰からも好かれようと「良い人」になろうとしても駄目です。時には嫌われてもいいから「悪い人」になる勇気を持ちなさい。おそらくそのようなことを推奨する本でしょう。


芸能人のような好感度の要因が人気度に影響を与える社会では「善い人」であることが重要でしょう。

「善人」であることが前提である職業も存在します。医者、教師、政治家、宗教家等は、本当はエゴによる欲はかなぐり捨てて、どんなときでも「善人」として生きなければならないはずです。ですから昔から聖なる職業、聖職と呼ばれて当人の人柄抜きで尊敬されていたものです。ところが昨今を賑わせている世間の話題は聖職と呼ばれていた人たちの虚偽の雨嵐です。これなんてまだまだ氷山の一角ですよね。

法律に抵触しない範囲内での「悪」ほど始末に悪いものはありません。巷にあふれかえっています。


それはともかく現在、我々の生きている一般社会においては「悪い人」の方がどちらかと言えば「善い人」より生きやすいはずです。


物欲、金銭欲、名誉欲、権力欲、、、、、これらの欲をある程度持っていないとこの世では生きていけないのです。

これらはある意味、闇の部分、暗黒面の部分が支配しています。そしてその闇の力、暗黒の力はこの世では「善」の持つ光、陽の力よりも、はるかにパワフルで力強いものです。それは普段、闇は光によって隠れているためどのようなものが存在しているのかが把握できないため不気味なのです。表面的には普段は、光、「善」だけのような人もいてますが、本質的には付き合えば、闇、「悪」であるという人が居てます。最も注意すべき人ですよね。


昔から太極図というものの考え方が存在します。僕はこの考え方がいつの時代にも正しい考え方の一つであると思っています。


「悪」は絶対的に悪いものではないのです。

光があるから闇が生まれ、闇があるということは光がある証拠なのです。


陰の中には陽があり、陽の中には陰がある。

陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になる。

二項は決して対立して存在するものではないのです。


「善」と「悪」はどちらも大切なものであります。そしてそのどちらも使えてこその人間なのです。


しかしながら我々はその二つを絶対にその使うべき状況を、見誤って使うことは決して許されないのです。

それを肝に銘じて「善」と「悪」の二つを使い分けて人生を享受しましょう。


今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。

今日は最後に一曲プレゼント、ドンヘンリーでハートオブザマターです。



http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/the heart of the matter.mp3

睡眠!?

一昨日 夜中に目が覚めてから、なかなか寝付けませんでした。あれこれと色々と思考が頭を駆け巡ります。ほとんど眠ることなく一時間後に起き上がりました。


時計を見ると朝の5時でした。

ここ最近パソコンの初期化をしたのですが、うまく処理できなくて何度も挑戦しており、ネットで調査を繰り返し試行錯誤の疲労は半端じゃありません。

現在我が家には使用できるパソコンが3台あります。しかしそれぞれのパソコンには互換性がなく、windowsme、windows7、windows8の三種類。しかも購入時の書類やディスクが紛失しているのです。


自分達の管理の甘さを痛感しています。


その続きの作業を朝5時から始めました。それから食事、リハビリ、仕事、入浴等で横になることもなく、気が付くと夜の11時過ぎ心地よい疲労感とともに睡魔が襲ってきました。


昨日は夜中に一度も目が覚めることなく昼前の11時に目が覚めました。睡眠時間連続12時間でした。

何にも捉われることなく睡眠に没頭しました。ほんとに爆睡状態。


睡眠には浅い眠りのレム睡眠と、深い眠りのノンレム睡眠があります。
眠りにつくと、まずノンレム睡眠があらわれ、次に浅い眠りのレム睡眠へと移行します。私たちの眠りはこれら性質の異なる2種類の睡眠で構成されており、約90分周期で一晩に4~5回、一定のリズムで繰り返されています。


僕は今まで不眠症なんて贅沢な心の苦しみに煩ったことはありません。

不眠症なんてまったく悩む意味の無い悩みですよね。


そのため眠れなくて苦しかった経験もありません。

眠れない時は眠らないだけなのです。

その時にやっておこうと思った事柄をやるだけなのです。

すると眠るべき時に自然と眠りにつけます。


生物学的には、睡眠は脳を深く眠らせて、精神的な疲労を回復する大切な営みなのです。

昔から「寝る子は育つ」といいますが、脳が深い眠りに入ると成長ホルモンが分泌されることもわかっています。この成長ホルモンは細胞の新陳代謝を促して、皮膚や筋肉、骨などを成長させたり、日中の活動で傷ついた筋肉や内臓などを効率よく修復する働きがあります。

いってみれば、睡眠は身体と脳の再生工場のようなもの。

私たちは、心と身体の健康を保つために眠る必要があるのです。


以前はダブルのサイズのマットを敷いて家内と二人で8畳の部屋で寝ていました。

最近は部屋の広さが同じ8畳の部屋でシングルのサイズのマットで一人で寝ています。


睡眠でも重要なことはどこで眠るかではないのです。

誰と眠るかなのです。


今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。


 

VR(バーチャルリアリティー)

バーチャルリアリティーの考え方ってとっても大切だと思っています。


日本語に訳すと仮想現実。

現実では無いものの、極めて現実に近い状態。この様な状態をバーチャルリアリティーと呼ばれています。


数年前にはよく聞いた言葉ですが、ここ最近はほとんど見かけなくなった言葉ですね。

ネット上で様々な場所が作られ始めた頃には、実際の場所と区別するためにバーチャルと呼んでいました。

現在ではネット上でのコミュニティーが当たり前になっていますから、現実の場所や社会とネット上とを区別する必要がなくなり、バーチャルとはもはや呼ばれなくなりました。


しかしインターネット上だけが、バーチャルではないのは当たり前ですよね。

今現在では、現実には実現不可能な事柄を、現実社会上で具現化して、極めて現実化したものをバーチャルリアリティーと呼ぶようにもなっています。


例えば、戦争などによって敵をミサイルなどで攻撃する体験などは誰彼でも、現実には体験不可能でしょう。

また野生の猛獣を攻撃する体験もバーチャルリアリティーなら可能です。

現実には極めて困難な事柄であっても、バーチャルであれば体験可能であることも多いのです。


グーグルアースと体感装置があれば、世界中をバーチャルで旅行することや空を飛ぶことも海中を潜ることも出来るでしょう。

宇宙旅行だって簡単にできるかもしれません。

実体験しているかどうかなんて他人が認可するものでもないのです。

自分自身の脳内が認識するかどうかなのです。

そう考えるならば、脳内に特殊な信号を強制的に送って特別な映像や体感を与えてやればいいのではないだろうか。

近い将来現実では無いにしても、仮想上で様々な事柄が体感できるような社会がやってくると考えても不思議ではないでしょう。

現実社会では到底実現不可能な事柄を、せめて空想上の世界だけ(フィクション)でも実現したいと考える「欲望」を空想力が実現させることで、ある意味ではその空想力が社会を「平和」足らしめている力でもあるのです。


本当にこの世の現実においては、肉や物質しか受け入れない人間が意外と数多く存在します。

バーチャルリアリティーをある程度理解しているにも関わらず、金品と交換してまでは、体験しようとしない人達も存在します。

しかもそのような人達に限って以外に、目に見えない、科学的根拠の全くない非科学的なものである「魂」とか「超非現実現象」を取り上げて、現実の事のように話題にするものなのです。

人間はある一面においては極めて現実的であるにもかかわらず、一方では科学的根拠の全くない、自分に都合の良い、漠然とした占いや未来予想を盲信的に信じこむものなのです。


ほんとに人間とは両面性を併せ持つ不思議な生き物です。

「現実的」とか「非現実的」もそうですが、「善人」であるとか「悪人」においても不思議です。


人間とは、他人のためになる良い事もたくさんしておきながら、一方ではある人にとっては悪い事も平気でたくさんする生き物なのです。


バーチャルリアリティーの話から人間とは本当に、多面性を併せ持つ興味の尽きない生き物であるとつくづく思うこの頃です。

今日はここまで。ではまた、近藤浩二でした。


 

安定は良いことなのか!?

実は僕は今左半身まひで、生活していくためにはリハビリが欠かせませんが、生きている事自体がリハビリしているようなものです。


最近、リハビリを変更しました。

以前は病院配下での訪問リハビリを施術してもらっていました。正直な感想では「ダメですね。」

熱意が感じられません。改善の見通しが見えてきません。

3年程続けました。そろそろ潮時かな、と思っていた時に近所に民間のリハビリ所の新設の予定の話がありました。体験を受けて後直ぐに移ることに決めました。

これが思いの外、良いのです。中小の民間経営たる所以でしょうか。


大きな病院にとっては我々難病患者はていの良いお得意様なのです。

死ななければ、生きてる限りはお客様なのです。

治らなくて当たり前、現状維持で十分、少しでも改善すれば儲けものと患者も医師も考えているのです。

もちろん患者である我々は完治することを望んでいるのは言うには及ばずです。

しかしながら我々患者を取り巻く人達は生きているだけで十分と思っているのが現状でしょう。

定期的に行われる定期検診がその最たる例でしょう。

「何か困ったことはありますか?」「特に、ありません。」「今まで通り生活できていますか?」「はい」

通り一遍等の質疑応答に、マニュアルにのっとった処方箋を出し10個ほどの薬を受け取り帰宅。時には強制的に機械診断、血液調査をされるまま。

しかもです。予約しているにもかかわらず、一時間遅れは当たり前です。

そして待たされた挙句がマニュアルに従っての薬の処方箋です。

病状が改善する道理がありません。


医師の側にも医者としての本道が抜けているように思えてなりません。

もう治らないと考えているようです。死ななければ良いでしょう。現状維持で十分でしょう。

悪化するのだけは防ぎましょう。

そのためには薬を飲み続けてください。

なにせ良くなった、前例がないのですから。とでも言いたいようです。


本当に優秀な医者など必要ありません。今の医者に倫理観を求めても無駄です。

このような医療現場が当たり前の日本こそ人工知能ロボットで十分です。


生活習慣病患者を抱え込む人数が、病院の収入との間に相関関係があるのです。

多く抱え込む病院が儲かり、病院が大きくなっていくのです。

大きくなったから安定するのです。安定するから挑戦しないのです。現状維持を望むのです。サービスの質が低下していくのです。

少ないと儲かりません。そのため大きくなりません。安定しません。サービスの質の向上を目指すのです。革新が生まれるかもしれません。


ほんとに、安定することは良いことなのでしょうか?

成長を続けている社会では誰でも望むことでしょう。

しかし成長が止まってしまった社会においては、安定は障害、障壁になるのです。


医は仁術とは遠い昔の話です。

やはり、医は算術なのです。


大きな病院には期待するのはやめにしましょう。

それでリハビリを変更しました。

今後の医療のさらなる大きな発展、革新を望む者には大きな安定した病院などは望みません。必要ありません。


良くなるかもしれない、改善するかもしれないという期待感を、持てる医療や社会の形成を期待して止みません。


ここに現代医学の根幹をなす、ヒポクラテスの誓いを載せます。

医の神アポロンアスクレーピオスヒギエイアパナケイア、及び全ての神々よ。私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを誓う。

  • この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。
  • 師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。
  • 著作講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。
  • 自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。
  • 依頼されても人を殺すを与えない。
  • 同様に婦人を流産させる道具を与えない。
  • 生涯を純粋神聖を貫き、医術を行う。
  • どんな家を訪れる時もそこの自由人奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。
  • 医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。

この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう!
しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう。


下手に手術などして生死を決定させるより、生かさず、殺さずが病院の儲ける方法なのです。

現在では医者になる動機は人助けをしたいからではないのです。

容易く金が儲かり、他人から尊敬されるからなのです。


医療費削減の一番効果的なことはとにかく生活習慣病を減らすことですが、そうなると医師の儲けが少なくなり、医師業界に暗雲が立ち込め、甘い汁を吸えなくなる輩が困惑してしまうのです。

しかし今のままでは医療業界の発展はなさそうです。

本当に高い志を持って医学の発展を望む医師や研究家も数多くいると思います。しかし、一部の悪しき守銭奴たちによって発展が阻まれている事があることも事実です。

まったくもって遺憾の極みです。


そのようなこともあって、僕は大きな後ろ盾のある所とは極力関わらず、小さくても志を持って頑張る者を応援したいと思いますし、そのような人達のサービスを受けたいと思っています。


安定が良いのかどうかは「自分で考えて自分で答えをだすものなのです」

今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

フランチャイズ方式

先日の日曜日、おにぎりを作って東へドライブへと出かけました。


車を走らせること2時間余り、うどん県香川県に突入し20年前に知り合った友人の経営するコンビニエンスストアーに立ち寄るつもりが、確かにそこの場所にあったはずの店が別の職種の店に変わっていました。

仕方なくそこを通り過ぎ瀬戸大橋の四国側のすそのの公園で、一休みしました。キャンディー購入して、一路帰路へ。


帰り道、もう一度知り合いの店を見つけだそうと目を皿のようにしましたが、やはり見つけだせません。

そして二人で儲からなくなったから辞めたのだと認識しました。コンビニ店はフランチャイズ方式でお金のかかるシステムだから、契約更新の時に解約したのであろうと勝手に結論づけました。


実は15年ほど前ですが、家内の所属していたカイロプラクティックの団体もフランチャイズ展開されていて、我々が大変な苦労をしたことを思い出しました。

そんなこともあり、フランチャイズ方式には親会社だけが儲かるようになっているように感じていました。

実際にはそんなこともないのでしょうが。


ここでフランチャイズ方式とは、加盟店契約をすればさまざまな特典がもらえる方式です。

一番のメリットは商標が使えることでしょう。

無名の店舗には誰も寄り付きませんが、誰でも知っている有名店舗には宣伝をしなくても人が自然と集まるのです。

2番めのメリットは生産、商品、流通が利用できる点でしょう。製造工場を持たなくても多種多様な商品が、安価で早く手に入ることです。

3番めは経営戦略を立ててくれて経営指導をしていただけることです。


良いことばかりで誰も失敗しないようですが、職種によっては商品の均一化が図れないこともあります。

また当然社会の景気に左右されるので経済的な体力がないと、資金ショートをおこしてすぐに経営が立ちいかなくなります。

一番の欠点は売上に応じて数パーセントの金額を支払わなければならないため、損益のバランスとなる売上金額が普通の小売店に比べ高く設定されることです。

したがって、売上をかなり上げないと利益を確保することが出来ないのです。

となるとより忙しくなって人手が不足しないように、人件費がかさむようになるのです。

またコンビニ店の場合、社会問題になっている食品の大量のごみ問題です。まだ十分に食することのできる食品を捨てなければいけない規約は受け入れられない方もいるでしょう。


20年前ならコンビニ店も過渡期で市場は広く需要に応えるにはまだまだその数の不足は否めませんでした。

しかしここ数年の間に爆発的に広がってしまい、供給が需要を上回ってしまいました。その結果過当競争になってしまいました。ここを切り抜けて生き残るためには、なおいっそうのアイデアと努力と忍耐が必要です。このような現状に耐えられなくなったのでしょう。


僕らはくだんの知り合いは正しい選択をしたのだと思っています。

どのような商品でも、あれば必ず売れる時代は終わりました。

まして品物を右から左に流すだけで儲かる時代も終わっています。


どんな時代にも、付加価値のあるオンリーワンの商品を適正な価格で早く、安全に消費者に届け続けてこそ生産者も潤い、消費者も満足でき、社会も豊かになっていくものだと思います。

みんながウインウインの関係こそが誰もが願う社会構造であって健全な社会なのだと思います。


ある市場を早く広げる戦略ではフランチャイズ方式は画期的な方法でしょう。

しかしある程度広がってしまえば募集して増やしても廃業する人が後を絶たないのです。

被害者を作らないためにも企業側もある一定数まで増えれば健全な社会作りのために、募集をやめて違った展開を考えるべきではないかと思っています。

際限なく店舗を増やしても市場は宇宙のように無尽蔵に大きく広がっていかないのですから。

近頃は利益優先型で自分たちの保身のためだけに事業を行っている企業が多いような気がしています。


そんなことを考えながら、久しぶりに息抜きできた日曜日でした。

今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

ゼウス ウイルスって!?(危な!!)

突然でした。

昨日、昼間にとんでもない、奇妙な厄介なアクシデントに遭遇しました。


パソコンでネットを閲覧していた時でした。画面が予期せぬサイトに移ったのでした。クリックが全く効きません。戸惑いました。

そこにはゼウス ウイルスにあなたのパソコンが感染しています。シャットダウン、再起動させないでください。

下記に電話してください。フリーダイアルです。専門家が無料で対応します。って書かれていました。

すがる気持ちで直ぐに連絡とりました。言葉のたどたどしい日本人ではない人が対応してくれました。指示に従いました。

遠隔操作で僕のパソコンを操作しています。

電話の向こうには僕と同じように電話をかけてきた人に応対している日本語のたどたどしい人達の声が聞こえてきます。

このままではあなたパソコンは一時間以内にウイルスによって使えなくなります。と言われました。

恐ろしくなって言われるままに応じることにしていると2万円から4万円近くの高額のウイルスソフトを購入すべきです。それ以外に問題を解決する方法はありませんと言うのです。

仕方なく一番低価格のを購入しようと思いました。クレジットカードのみの決済でした。不運なことに手元にカードがありませんでした。

購入出来ない胸を伝えると電話が一方的に切られました。

仕方無くパソコンを触ってると一部のアプリは落ちました。しかし彼が遠隔操作で立ち上げたアプリは反応しません。

その時に電話がかかってきました。彼からでした。パソコンの状況はどうかと尋ねてきました。これこれです、反応していません。と告げるとパソコンを視るように指示を受けました。そこには振り込み用紙とある場所の地図が表示されていました。

そこに行ってこの振り込み用紙を印刷してお金を振り込むか、もしくはクレジットカードでの購入を記載するか、どちらかをしないとパソコンは使えないです。どうされますか?と聞かれました。

本当にカードが無いし、お金を振り込むことも出来なかったのです。どちらも出来ませんと強く言うとまた電話を突然切られました。

彼の言うことが確かならどっちにしてもパソコンは使えなくなってしまいます。出来る限りの事はしてみようと思いました。

この時に「えええ」と思ったのです。

お金を払えばパソコンが直り、使えるようになるなんて、彼にとって話が良すぎる。

最初から商品を購入しなくてもパソコンは使えるのではないかと彼の言葉に疑念を持ち始めました。

それから立ちあがったソフトはそのままにしてネットにつないでゼウスウイルスについて調べました。

調査と駆除方法が載っていたのでその全てを試してみました。

「このパソコンは感染していません。」と出てきました。でもまだ不安だったのでUSBメモリーに重要なファイルのバックアップを取りました。

そしてパソコンを工場出荷時に戻すことにしました。そして今このブログを書いています。まだ少しは不安です。

彼の言ってた事が正しいのかもしれませんが、今回一時的に回復したとしても、二度とウイルスに感染しないソフトなんて存在しないでしょう。

家内が帰ったのでその事を話しました。「詐欺じゃないの?」僕も新手のネット詐欺かも?って今では思っています。振り込め詐欺の一種でしょうか?


ほんとに振り込まなくてよかった。と今では思っています。

皆さんネット社会って怖いですよ。みなさん、気を付けて下さい。自分の身は自分自身で守る以外に方法はありません。

昨日の出来事は何だったのでしょうか?

今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

生活習慣や考え方を変える

世に成功法則本や自己改革本が数多くあります。

しかし自分を変えて成功出来る人はほんのわずかなのですね。


あなたは変わる必要ある?

それとも変わる必要無い?


変わろうと思っても変われない。だから成功は難しいのですね。

克服すべきはただひとつ、自分です。

塾講師で生徒たちに、頑張れよと言ってる立場なので僕自身頑張らない訳にはいきません。

でないと子供達に言う資格がないですよね。


しかしながら分かっていても、なかなか行動は変わらない。

人間ってなんて変わらないんだ。

そう身に染みて思う今日この頃です。

続けるを決めるのも自分。

辞めるのを決めるのも自分。

全部自分。

その繰り返しの結果が今の自分。


誰でも自分にしかない才能を持っているはずです。

でもその才能を使って成し遂げることとは別物です。

あなたは使わないで無駄にしている能力はありませんか?

才能がありながら、どうしてそれを使えないのでしょうか?

成功を収め裕福になれるはずの人間が、どうして不安で不平、不満な毎日に甘んじているのか?

人生を価値あるものにして、野心があるというのに、どうしてそうできないのでしょうか?


何を待っているというのでしょうか?

何が自分を抑えつけているのでしょうか?

何が引き留めているのでしょうか?

自分に問いかけてみましょう。きっと答えは見つかるはずです。


自分を抑えつけているのは、、、、、、自分です。

他の誰でもありません。

チャンスは全ての人に等しく与えられているのです。


行動を変えていくためには、自分の深層心理まで含めて変える必要があります。

僕自身素晴らしい人生を送りたいので、時々文章に書いて自分を戒めているのです。こんな事ブログに書くな!と怒られそうですが、みなさんお許し下さい。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

贅沢って何?!

焼肉を食べに行きました。「ぜいたく」って非難されました。


でも、そう言った人は高級車クラウンに乗っています。僕からすると高級車に乗っている人の方がよっぽど贅沢です。

僕の常識では、焼肉は一回食べてもせいぜい、一人4000円から5000円です。高級車は安くても一台300万円はします。

しかも焼肉をご飯のおかずと捉えれば一人500円から1000円で収まる時もあります。車の事はよく知りませんが安くとも150万円はするように思います。


ネットで調べてみます。一般論はこうです。

ぜいたくとは、

必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと。


しかしここで当然、必要な程度は人によって異なります。食事内容の程度も、その人によって異なります。

おそらく、贅沢かどうかを決定する一番の要因は、その人の現在の生活レベルでしょう。

そしてその次の大きな決定要因は、その人の現在における必需品の優先順位です。

そうです。今自分にとって一番必要な物は何か?です。


あなたにとって今一番必要な物は何ですか?

そしてそれに如何ほどかけられますか?


そしてなぜ、人はぜいたくをするかです。

もうひとつ、その贅沢品で自分自身の欠乏感を満たすことができるのです。

そしてその欠乏感は幼少時から続いている感情です。

経験上、好きな食事が満足に出来て、いなければ、食事にお金をかけて充足感を満たすのです。僕の場合です。

また、贅沢は他人とのお金の多少の比較ではありません。


自分が持ち続けている欠乏感をどれだけのお金を使っても、満たすためには人は、お金や物を惜しげもなく使うことが出来るのです。

毎日持ち金が無くなるまでお酒を飲み、金が無くても借金してでも使う人が居てますが、本人は贅沢しているとは思っていません。お金を使うという行為そのものに満足して欠乏感を満たしているのです。

きっと脳内物質の快楽ホルモン(ドーパミン)がそうさせているのでしょう。

そしてその行為を理解できない人がぜいたく(もしくはバカ)と捉えるだけなのです。

ぜいたくと呼ばれる行為は自分自身では判断でき難いと思います。

加えて誰かと比べて論じる物でもありません。自分個人にだけ使う概念なのです。

時が経って、別の違う充足行為を見つけた時に、後から自分のあの時の行動はぜいたくだったと気付くのです。


今僕が振り返って、贅沢だったと思える行為は、新婚時代にカイロプラクティックの勉強も兼ねてアメリカの海外旅行に一週間で二人で300万円程使ってしまったことです。

あの時のお金残していたら、、、、

と思い、、、、、、ませんですよ。千恵子(家内の名前です。)


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


《追記》もしかりに今、余裕のお金が一億円あったとしても、僕は高級車は持ちません。軽4自動車で十分なのです。これは価値観の問題かもしれませんね。


 

(Blog to Soul)水素風呂と時代劇と音楽を愛する左半身麻痺の塾講師