1;この歳(57歳)になると、他人から「おとうさん」
ってよく呼ばれます。
僕は既婚者ですが、子供はひとりもいません。
2;小さな子供を連れていると「おじいちゃん」っと
も呼ばれます。子供が居ないので。当然孫は居ません。
3;「トイレ 流す時は ボタンを押して下さい」
って注意書きがありました。トイレなんか当然流れません。
流れるのは水です。こういった内容、今週で3回ありました。
ちぐはぐなやりとりです。何かしっくりしません。
こういった経験皆さんありませんか?
当然どれも誰もが理解出来るでしょう。当たり前ですが
僕にも理解できます。でも、天邪鬼(あまのじゃく)で、
0か100か、の性格の僕には、モヤモヤが背中
を走って、玉虫色でグレイゾーンに突入して、99%
(100%じゃないのは宝くじのような感じ)当たらない石を、
投げたくなるのです。結果、気になって仕方ないのです。
聞くところによると、人間の話す会話の80%は意味の無い
言葉だそうです。だから見ず知らずの誰とでも違和感なく、
挨拶を交わすことが出来てしまうのです。といった意味では、
意味の無い言葉は、便利ではあります。残りの20%すら
意味の無い時もあります。にも関わらず、言葉だけを交わす人
はいっぱい。コミュニュケーションって一体何なのでしょう?
あいさつ等、いつもそこにあるものは、当たり前すぎて、さほど
気にしない上に、深く考えないため、少しの変化等には気付か
ないものです。それは気付かない間に、沁みついてしまっている
クセのせいで、思考回路が《マンネリ》や《型どおり》に
陥っているのでしょう。変わり映えのしない新鮮味の無い日常に
足りないものや望むものを出しきること、軽いスキンシップ、
小さな些細なことに、手を抜いてはいけないポイントが
あるのだと再認識しました。そして視点を変えてみて、
少し思い直してみれば、良いのかもしれません。もちろん気に
して、深刻になり過ぎても、意味の無いことは分かっています。
そこで、誰かと意思疎通を図る場合や、相手に何かを伝えようと
するには当然《言葉》が人間にとっては、最善のツールです。
ここで優しさは大切です。思いやりも大事です。よって
人間関係において「嫌われないこと」とか「不快感を与えない
こと」は必要です。であっても、最優先であるのは
「自分の思いを伝えること」です。寒さで固まり、行き届かない
思いやりと底の浅い思慮。結果、出て来てしまうのは、
得も言われぬ不協和音なのかもしれません。心のない言葉は
空虚であり、心のある言葉は(どれだけ表現力に乏しいもの
だとしても)心に刺さります。上手い下手ではありません。
大事なのは相手への敬意(愛とも言い換えれます)だと
思います。ここに至って、歴史的観点から、人間のふたつの
行動原理が見て取れます。ひとつは人間の思考傾向は、人間の
本質が、つくづく《性善説》に基づいていることを証明して
います。言い換えれば、あまねく出会う人は、私である自分を、
悪意を持って、攻撃するものでは決して無いのであって、
例外なく誰もが、好意的に、優しく親しみを持って、
出会えたことに感謝を示そうしている、と相手のことを、
考えているのでしょう。もうひとつは、生物界において、
生態系のバランスの保持と維持のため、また数の論理
(食物連鎖)の上で、特に動物は、争いは避けられず、
殺し合いを余儀なくされてしまいます。しかしながら、
知能の高い動物(人間)こそ、食料の確保や種の保存のために、
戦争は例外として、生死を賭けてまで、争わない方が、
得策であることを思い知ったのです。それから学んだことは、
相手に、敵意を見せない示さない、平和的友好が最善な手段
なのだと、身に染みて痛感したのです。ですから、どのような
言葉であっても、人はお互いにとって、都合の良いように
解釈して、平和的に受け入れているのでしょう。だとすれば、
コミュニュケーションには完璧な言葉は必要ないということ
なのでしょう。加えて、
日本人は《言葉の縁起》をとても大事にしています。
結婚式では「別れる」「切れる」の言葉は、ご法度(はっと)
で決して口にはしません。しかし、強気でも弱気でも
「目は口ほどに物を言う」って言われます。ことに恋愛なんて
賭けなきゃ。自分を投げ出さなきゃ。始まりませんよね。
思いを伝える難しさと、伝わらないもどかしさへの一喜一憂は、
当人にとっては、おおげさでなく死活問題です。大概思い描いた
筋書とは裏腹に、意志疎通が、滑らかになされないのです。
その結果、悲しい結末で、袂(たもと)を分(わか)つのです。
おそらく、人間関係には言語能力、日本語力、語彙(ごい)力
などよりも断然、想像力が求められるのではないでしょうか。
今日はここまで。近藤浩二でした。
ではまた。P.S I LOVE YOU.