人間ってなんて傲慢なのだろう。いやいや自分って、どうにも
傲慢だったのだろう。との、いましめを感じる年末年初。
ともすれば、私たち人間は、悲しい、残酷なことに、
自分の目に見える範囲の人間、しかも自分にとって《益》を
もたらす人間にだけしか、興味、関心事を向けていない《悲哀》
に気付かされました。しかしながら、現実には、いたるところで
自分の見えていない、家のかたすみ、街の片隅、村の片隅、森の
片隅など、ありとあらゆる、いたるところで、時は、歴史は
命はつながり、流れ続けているのでした。
生物は大別すると、二種類に分けられます。ひとつは植物。
もうひとつは動物です。基準は、《動く》か《動かない》か
です。言い換えれば、動かなくても生きていけるモノと、動かな
ければ生きられないモノです。さらには、自分で栄養を作られる
か、作られないモノです。もっと言い換えれば、他の命を食べ
て自分の命を生きながらえる、維持していく、なんとも身勝手な
ケダモノたちです。我々人類は、悲しいかな、このカタゴリーに
帰属します。話を戻します。
昨年末、ある知り合いの方から、食料となる植物を頂きました。
誰にとっても、とっても馴染みのある野菜です。しかしなので
す。ひと昔前ならいざ知らず。令和のこの時代に・・・。
僕の子供の頃には、自前の畑なら、日常茶飯事の《事件》が
まさに青天の霹靂(へきれき)、寝耳に水、の変事が起こった
のです。
そこには、ある奇妙な物体が、現代の女性ならきっと、発狂する
ほどの、気絶しかねない、現象が勃発していたのです。それって
・・・ 《ウジ》とか《ゲジゲジ》と呼ばれても、当たらずとも
遠からず・・・小さくて、青くて、気味の悪い、ニョキニョキ
動くバグ、虫なのでした。見なれた、この僕でもいっぺんで
食欲を失(な)くさせる存在、成長したら、あんなに優雅に
可憐に、我々の目を楽しませてくれるのに・・癒してくれるのに
・・・その名は《青虫》でした。
神様のなさることは、いたって摩訶不思議で、理解不能です。
幼い時には、あんな形で、我々の食料の上をはえずり周り、
身の毛もよだつお姿なのに、成長すれば、なんとも華麗に
舞い踊るようになるとは、誰ひとり予想もできはしまい。
我々人類への戒めでもあるのでしょうね、きっと。
ともあれ、彼(青虫)を、我妻、千恵子はたまごパックの透明
容器に、野菜の切れ端ともども、隔離させ、呼吸穴を開けて、
台所の隅っこで、飼育を始めたのです。年末差し迫ったころ、
彼は、室内の程良い温度を感じてか、今がころあいと悟って
たまごパック容器の最も高い位置まで登りつめ、ピタリとも
動かなくなりました。日が経つこと、数日後の正月二日の事
彼は薄くて、柔らかい衣を脱ぎ捨て、いやいや、破り捨て
バタフライ(蝶々)へと成長していたのです。その後
千恵子は100均にて、かごやら、網やら、植物やら
わたなどを買い込み、昨日、ただの一頭(とう)の彼の
ために、新居を作ってあげたのです。彼はきっと、喜んで、
今では、うれしそうに、楽しそうに、優美に舞い踊っています。
それにしても、僕の中では、決して見ることのできない
であろうと思っていた、連続していく命の《営み》を
目の当たりにできた《奇跡》なのでした。後は、
たまごから、殻を突き破って出てくる、ひよこかな。
今日はここまで。近藤浩二でした。
ではまた、お目にかかれる時まで。
こんな真冬に、現実に、蝶々を見える喜び、いやされる。
みなさんにもぜひお見せ差し上げたいです。
残念ではございますが、文面より想像致して下され。
動画を私のフェイスブックに7日に投稿しましたので、
どなたでも、検索なさって、ご随意に。
蛇足ではございますが、昆虫は数を数える時は、
学術的には、一匹、二匹、・・・とは言わず
一頭、二頭、・・・と数えるのだそうです。
諸説ありますが、ある学者の英米人が、
ワン ヘッド(head)、ツー ヘッズ(heads)と
数えたことよるのだとか。参考までに。