ボヘミアン・ラプソディー

何の予定も無い日曜日って、まさに人生最高の一日ですよね。

そんな日にドライブの勢いで、道すがら、映画館で映画観るの

って、不意打ちの吉報の如く、気分が頂点まで盛り上がり

ました。しかもその映画が思いがけず、目覚ましく素敵だと

したら、その気分はグランドスラムで優勝する以上のひと時でしょうか。


クイーン (Queen)は英国四人組のロックバンドで、「世界で最も

売れたアーティスト」として名を連ねています。そのバンドの

リードボーカルで、既にエイズで他界(享年45)したフレ

ディー・マーキュリーの半生を、敬意を持って、以外に割と

忠実に描いたこの映画、日本国内で興行収入100億円を突破

しました。85年ライブエイドの入場シーンから始まり、最後は

そのライブエイドの熱いステージで余韻を残し、フェイドアウト

していって、ドントストップ゚ミーナウのBGと共に、エンドロー

ルで幕を閉じます。過去の映像と、映画のために、新しく

撮影したそれと、テクノロジーで上手くつないでいました。

もちろん、メンバーの誰一人、新たに出演していませんが、

ギタリストは、まさに本人と見間違うほどの激似でした。

他3人は、間に合わせにしては、差し当たり、及第点でしょう。


映画のテーマは、彼の生き方を理解できなかった家族や、ゲイで

バイセクシャルの彼を受け入れられない恋人との、悲しい決別。

彼の金に群がる人達と、酒とドラッグにおぼれて、精神を病んで

しまい、大切なバンド仲間やビジネス仲間と仲たがいして

しまい、襲いかかる極度の孤独感から来る恐怖。彼の才能を

見抜けず、口惜しがる権威者を尻目に、スターダムに上り詰める

彼らのほとばしり、はじける人並み外れた、才能から生み

出された名曲の数々。


彼は本当の意味で、《天才》なのです。それもここまで来ると、

もはや人間ではないのです。そのような人は、ある意味《鬼才》

であり《魔物》なのでしょう。頭の中のねじが何本も抜け落ちて

いて、常軌をはるかに逸脱しています。凡人の僕達には、理解に

苦しむ事ばかりでしょうか。社会には馴染まない、不適合者と

言わざる得ません。こんな時、ほんとに凡人で良かったと思える

瞬間。映画を通しての感想。


おそらく主題は天才でスーパースターの《苦悩》なのです。

富と名声を手に入れ、望むものはすべて手に入ると思われる

スターも我々と同じ人間、心の内側では、なぜか不安で、

何かに怯(おび)え、孤独にさいなまれていたのです。

そして当時不治の病気のエイズの宣告を受けて、自分の命の限り

ある、ともしびを悟って初めて《真実》に気が付くのでした。

それは本当に大切なものは何なのか。自分の生まれて来た意味

とは? その答えは、両親や兄弟姉妹であり真実の友人と仲間で

あるのだ、と悟っても、もう失ってしまった時間は取り戻せ

ない。自分は、死ぬまでパフォーマーであり続け、人の魂を揺り

動かしていくとの思いであり、かつて父の口癖だった

「善き思い、善き言葉、善き行い」を思い起こすのでした。

我々は誰もが、なにかのために命を燃やすその姿に、

得も言われぬ、美しさを感じるのです。加えて、

真っ直ぐで、愚かで、愛しくて、哀しい、純粋な命の

煌(きらめ)きに、どうしようもなく惹かれてしまうのです。

一番美しい行為は『命を燃やし続ける』ことだと思います。

しかもすべての美しいものには必然的に、悲しみを内包して

いるものです。


一番は、ひとえにクイーン (Queen)の楽曲の素晴らしさを再認識

するに至りました。ひとたび曲が流れると、監督の意図する物語

やテーマは頭から吹っ飛び、彼らの音楽に、ただただのめり

込んで行きました。映画館は小さいながらも、さながら一瞬で

コンサート会場に変貌しました。この映画絶対、映画館で鑑賞

すべき映画です。断言します。レンタルでDVDなんて、

愚(ぐ)の骨頂ですよ。そこのあなた。いやー、映画って

ほんとに良いモノですね。それではまたご一緒に楽しみま

しょう。さよなら、さよなら、さよなら。

とにかく、風が吹き抜けていました。「ゴーン」。


僕は今は亡きフレディーマーキュリーを偲んで、目頭が

熱くなり、心の中で泣いていました。これはひとりの英国人

男性が亡くなったといった、物語だけでは済まされない

音楽界にとって、人類にとっても、とても大きな損失なのです。

「音楽の力って、すごいな」と感じる夕刻でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S I LOVE YOU.


6分余りの長い曲「ボヘミアンラプソディー」近年の英国の

アンケート調査で「後世に残すべき一曲」で堂々

NO.1に輝くほどの名曲なのです。一聴の価値ありです。


 

言葉足らず

1;この歳(57歳)になると、他人から「おとうさん」

ってよく呼ばれます。

僕は既婚者ですが、子供はひとりもいません。

2;小さな子供を連れていると「おじいちゃん」っと

も呼ばれます。子供が居ないので。当然孫は居ません。

3;「トイレ 流す時は ボタンを押して下さい」

って注意書きがありました。トイレなんか当然流れません。

流れるのは水です。こういった内容、今週で3回ありました。

ちぐはぐなやりとりです。何かしっくりしません。

こういった経験皆さんありませんか?

当然どれも誰もが理解出来るでしょう。当たり前ですが

僕にも理解できます。でも、天邪鬼(あまのじゃく)で、

0か100か、の性格の僕には、モヤモヤが背中

を走って、玉虫色でグレイゾーンに突入して、99%

(100%じゃないのは宝くじのような感じ)当たらない石を、

投げたくなるのです。結果、気になって仕方ないのです。


聞くところによると、人間の話す会話の80%は意味の無い

言葉だそうです。だから見ず知らずの誰とでも違和感なく、

挨拶を交わすことが出来てしまうのです。といった意味では、

意味の無い言葉は、便利ではあります。残りの20%すら

意味の無い時もあります。にも関わらず、言葉だけを交わす人

はいっぱい。コミュニュケーションって一体何なのでしょう?


あいさつ等、いつもそこにあるものは、当たり前すぎて、さほど

気にしない上に、深く考えないため、少しの変化等には気付か

ないものです。それは気付かない間に、沁みついてしまっている

クセのせいで、思考回路が《マンネリ》や《型どおり》に

陥っているのでしょう。変わり映えのしない新鮮味の無い日常に

足りないものや望むものを出しきること、軽いスキンシップ、

小さな些細なことに、手を抜いてはいけないポイントが

あるのだと再認識しました。そして視点を変えてみて、

少し思い直してみれば、良いのかもしれません。もちろん気に

して、深刻になり過ぎても、意味の無いことは分かっています。


そこで、誰かと意思疎通を図る場合や、相手に何かを伝えようと

するには当然《言葉》が人間にとっては、最善のツールです。

ここで優しさは大切です。思いやりも大事です。よって

人間関係において「嫌われないこと」とか「不快感を与えない

こと」は必要です。であっても、最優先であるのは

「自分の思いを伝えること」です。寒さで固まり、行き届かない

思いやりと底の浅い思慮。結果、出て来てしまうのは、

得も言われぬ不協和音なのかもしれません。心のない言葉は

空虚であり、心のある言葉は(どれだけ表現力に乏しいもの

だとしても)心に刺さります。上手い下手ではありません。

大事なのは相手への敬意(愛とも言い換えれます)だと


思います。ここに至って、歴史的観点から、人間のふたつの

行動原理が見て取れます。ひとつは人間の思考傾向は、人間の

本質が、つくづく《性善説》に基づいていることを証明して

います。言い換えれば、あまねく出会う人は、私である自分を、

悪意を持って、攻撃するものでは決して無いのであって、

例外なく誰もが、好意的に、優しく親しみを持って、

出会えたことに感謝を示そうしている、と相手のことを、

考えているのでしょう。もうひとつは、生物界において、

生態系のバランスの保持と維持のため、また数の論理

(食物連鎖)の上で、特に動物は、争いは避けられず、

殺し合いを余儀なくされてしまいます。しかしながら、

知能の高い動物(人間)こそ、食料の確保や種の保存のために、

戦争は例外として、生死を賭けてまで、争わない方が、

得策であることを思い知ったのです。それから学んだことは、

相手に、敵意を見せない示さない、平和的友好が最善な手段

なのだと、身に染みて痛感したのです。ですから、どのような

言葉であっても、人はお互いにとって、都合の良いように

解釈して、平和的に受け入れているのでしょう。だとすれば、

コミュニュケーションには完璧な言葉は必要ないということ

なのでしょう。加えて、


日本人は《言葉の縁起》をとても大事にしています。

結婚式では「別れる」「切れる」の言葉は、ご法度(はっと)

で決して口にはしません。しかし、強気でも弱気でも

「目は口ほどに物を言う」って言われます。ことに恋愛なんて

賭けなきゃ。自分を投げ出さなきゃ。始まりませんよね。

思いを伝える難しさと、伝わらないもどかしさへの一喜一憂は、

当人にとっては、おおげさでなく死活問題です。大概思い描いた

筋書とは裏腹に、意志疎通が、滑らかになされないのです。

その結果、悲しい結末で、袂(たもと)を分(わか)つのです。

おそらく、人間関係には言語能力、日本語力、語彙(ごい)力

などよりも断然、想像力が求められるのではないでしょうか。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。P.S I LOVE YOU.


 

健康

体調不良のため、《知的生活》からめっきり遠のいていました。

空き時間には、薄明りの下、昔の甘ずっぱい記憶と魂が溶け合っ

ていました。そんな中、音楽鑑賞か天井を眺めていました。ふと

思いました。天井の無い家に住んでみたい。趣のある星や月を

眺めながら、眠りに落ちることが出来れば、きっとこの上なく

幸せだろうな、なんて何気に考えていました。話を戻します。

今日は僕の仕事始めです。松の内の賑わいも遥かに過ぎ、

先日は正月で疲れたお腹を整えるため、七草粥を食しました。

おかげでようやく体調が回復し始めました。年末から正月にかけ

て酷使した胃腸を休ませ、野草の生薬効果を期待し、本来の

自己治癒力を回復させることを目的とします。しかしたとえ

どんなに節季に忠実に従って、食事や身体を気遣っても

病気や怪我をしない人は、この世には一人も居ません。

話をさかのぼること、想像するに、昨年末誰かからのウイルスが

僕にも襲った。熱を出して、咳にあえいで体調を崩して、

撃沈してしまい、食べることすら、面倒で億劫でした。世間で

言うところの《風邪ひき》ってやつです。僕も人並みに

病んでしまいました。久しぶりです。思い起こせば、数年ぶり。

これで僕が《バカ》でないことが証明できたんじゃないでしょうか。


改めて《健康》は何ものにも代え難い、今年も健康は一番です。

年を越しての、体調不良風邪は正直きつかったでした。しかも

内臓疲労から、僕の愛ある可愛い、くちびるははれ上がり

今もって食用ノリを貼ったようで、かさぶたが付いています。


その一日の間、食事をするために、一日じゅう必死で動く。

その食事でようやく翌日動けるだけのエネルギーを補充し、

また動いてその日の食事を摂取する。ただその日を生きる

ために、その日を過ごして居たのです。生命を維持するため

だけに生活していました。普通であれば、そこには不安と

苦悩しかありません。何の希望もなく、自分の身体から

沸き上がる自然治癒力が、苦しみから解放してくれるのを

待つだけでした。そのような人間の日常と、動物のそれとの

あいだに、どれほどの違いがあるというのでしょうか?

幸運なことに、思考力が単細胞並みに、欠落しているおかげで

プラス思考も無いかわりに、マイナス思考も思い浮かばない、

といった《ケガの功名》にあやかりました。


《人間は考える葦である》と言われますが、僕は体調不良の間、

そのカタゴリー外の生物でいたようです。思考力が完全停止

してしまいました。そのせいで、人間である前の、本能だけで

動く動物のような、すさんだ日々を送っていました。これは逆

に、本当に貴重な体験でした。人間は高度の知能を所有するが

ゆえに他の動物と一線を画しています。知性と本能の能力の加減

によらず動物は、死の危険に直接関わる、目に見える外敵には

予防も含め、知恵と本能で割と容易に防御出来ます。一方

死に直接関わっていないためか、直接目には見えないためか、

目には見えない小さな外敵には対処を怠りがちです。しかも

その予防には目も手も行き届いていません。自然界には目には

見えぬ恐ろしい微生物が、無尽蔵にはびこっています。奴らは

自分の住かを拡大しようと、執念深く常に隙を伺っています。

しかし正月すら酒を断ったこの身には、なんの《うまみ》も

無いと、おそらく嫌気がさして、ここの所、僕から退散したよう

です。ーー「ざまあみろ」--少し気を抜くと、弱った身体は、

あおりを食って、ウイルス等に簡単に侵入を許し、健康を害して

しまいます。すんでの所で、かろうじてまだ人間である

おかげで、わずかな知力で対処することができました。風邪への

抵抗力は、身体から《酸性》を除し《アルカリ性》に傾ける必要

のために、柑橘系の果物(みかん)を大量に摂取しました。


おそらくその程度の知恵が無くても、生物の本能ってやつは

とんでもなく優秀で、尊敬以上の畏(おそ)れ多い、意識を持っ

た《存在》なのです。もし想いが乗れば、人間は変化を嫌うた

め、流れに任せて楽な方を選択しそうです。一度外敵に侵入され

衰弱した身体を無理に酷使しない方が、身体は楽でしょう。

でも本能に従順な身体は、生命維持のため、外敵に対して、

野放し状態にできずに、なんと立ち向かうのです、しかも

戦うのです。生物の細胞の本質は、どのような環境にあっても、

不利な状況の中でも、勝てそうもない戦いにも挑み、前に進んで

いくのです。現実の世界であったならば、人間は無理に障害を

克服しようとしないで回避しようとするでしょう。なぜなら、

障害を克服しようとする戦いこそが、目的に向かって進んでいく

ため、凄まじい活力を必要とするからなのです。生命組織の防衛

のためには、生物には排除の理論が働きます。生命の維持のため

には、どのような敵にも、立ち向かって戦い抜くのです。しかも

その戦いは、決して諦めることもなく、努力し続けます。

無理だ、「不可能」と言われながらも、障害を乗り越えなければ

ならないのです。それは限界を超えるような、のっぴきならない

戦いなのです。生物の本質は、常にそれを心得て、対処している

のです。これを《狂気》と言わずして、何を狂気と言おうか。

このことはまさに、生物の矜持(きょうじ)なのです。


あなたの中に何かがあれば、あなたにそれだけの価値があれば、

道は必ず開けるものなのです。生物はそのように創造されている

モノなのです。現実社会で、障害に遮(さえぎ)られると、途端

に勇気や気力はしぼんでしまい、歯を食いしばる、といった

精神力を保つのは難しいことです。体調を崩し、弱り切った身体

が、日ごと回復に向かっていることに感謝して、奇跡のような、

本能の成せる《御業》に自分自身の強い想いも、重ね合わせて

いました。何事においても、都合のいい状況や環境が整うのを

待っているものには、決して何事も成すことはできません。

無理だと言われながらも「不可能」をやり通し、障害を乗り越え

ていくモノこそが、どのような世界でも通用することができるの

です。を、再度学んだ今年の正月でした。自分自身が考える以上

に、内なる本当の自分が、自分を一番よく分かっているのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

久しぶりに文章を書くと、やはり想像以上に

疲れてしまいました。今日はもう寝よう。

疲労の上で、病気に付け入れられる、隙を与えてしまったこと

は空白の年末を過ごすことになった、ひとつの契機でした。


ではまた。PS I love you.