挑戦

もうじき、秋が深まり冬の訪れの兆しが見えてきます。

太陽が気持ちいい。日差しが最高。草木がなびいている。

うっそうとしてた山が、色づき始めています。秋晴の中、木の葉

やそよ吹く風にだって、幸せの肌触りを感じて嬉しくなります。

自然がじきに幻想的な紅葉を演出してくれます。そんな日に

我々夫婦が待ちわびていた人が現れました。週末の土曜日


穏やかな昼下がり、僕の一番の友人であり、教師でもある

二歳の幼児が、我が家に登場してくれました。我々が

一見すると何気ないモノ。でも彼のどんなモノにも向けられる

温かくて繊細なまなざし。「*@<@*+>」つぶやく。彼は

目の前の、どんな小さなモノであっても、想像の翼を広げます。

決して尽きるこの無い好奇心、色眼鏡と先入観を持たない真っ白

な概念。目にしたモノすべてが興味の対象。彼の小さな身体内に

激しく脈々と息づいている、意識のすべてを傾けていきます。

小高い山の中腹辺りの公園で腰かける。奇抜な飾り物を見つけ

近づき、観察しようとする。身体を滑らせ転倒し身体を撃つ。

痛みと恐怖心で、「エーン、エーン」しかしすぐに立ち直る。

失敗を恐れないで、挑戦し続ける者。死をも恐れないで、

生きるを探求する者。常に、ほとばしるように流れる気力。

一種の畏敬(いけい)に似たものさえ感じます。なぜなら、

自分にとことん素直で正直で、誰の目、さえ一切がっさい、

気にしない、思いついたら迷わず即行動します。まるで

《すべては自己責任》と、自分自身から行動をとりたがります。

人知れず喜び、挑(いど)み続けるその姿に、崇高(すうこう)

なもの、高貴なもの、献身的な何かが感じられます。軽食を


摂った後、後部座席に立ち、後方から景色を楽しんでいます。

帰路途中座席に立ったまま、手を伸ばした状態で、身体を支え

何かを耐え忍んでる様子で、突然口を閉ざしたままでした。

何かを感嘆するたびに、口を開く。でも、感じるままの気持ちと

思いはなかなか言葉に出来ません。我々には聞き取れない

事がほとんど。


彼は充足感が得られるのなら、何を差し出しても、失くしても

構わない。一方私達大人は多くの場合、大きなリスクをとらな

かったり、失敗を恐れたり、自分のコントロールできる範囲内で

行動をしようとするので、突き抜けるほどのモノを取得すること

はできません。私利私欲の影が見える、夢と野望への醜い執念。

世の中の矛盾を見過ごし、社会の理不尽を看過し、自分の

心が感じた違和感にも、立ち向かわないのです。幼児である彼は

自分の心に、激烈に忠実であり続けているのです。世間が

《終わり》だと思っているところが、彼には《始まり》

かもしれません。だからこの命枯れ果てたとしても、誰に

なんと思われたって、笑い飛ばすだけ。と思っているようです。

幼児である彼を見ているだけで元気をもらえます。人が評価

しようが、評価しまいが観察、挑戦をすることが子供の特性。

何か違和感感じて、投げ出したくなって、何もかも

しっくりしない、何かが足りなくて、眉をひそめる、

顔をしかめたくなることが、そこら中に転がっている

現実が私たちにはあります。それでは日常生活は過ごせたと

しても、面白みがない。挑戦なくして、人の成長はありません。

我々に、最も危険な行為は《自己満足》や《自己防衛》です。

自己の内に目を向けたり、広く熱心に学んだり、することは

いっぱいあります。ここで知行合一(ちこうごういつ)が大切。

おそらく、どれだけ《わからないこと》を信じられるか、そこに

飛び込めるか、どうかなのです。幼児は見えない感じる道を

行き、ありのままの人を、モノをすべてを受け入れていきます。

子供は絶妙なバランスを保ちながら、成長していきます。加えて

子供達は、ほんの少しの知恵と勇気を兼ね備え、そして

ほとんどが無欲であります。ただ幼児の挑戦は

ある意味《向こう見ず》の側面があるかもしれません。

と言っても、挑戦だけが現実を変える力があります。

人はもろいようですが、強いものです。しかも、

限界を超えることで、確かに人は強くなります。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


彼が突如無言になったのは、車酔いだったようです。顔色が

青白くなって、額と耳下に、冷や汗か脂汗をかき、おむつを

汚していたのでした。その後汚物を処理し、横にして休ませると

再び機嫌よく何かを遊び始めました。


分かった風に書いていますが、正直よく体感出来ていません。

でもここに書くことだけで、自分自身に言い聞かせるようで

あり、これが今の僕の挑戦なのです。