オリンピックの問題(不思議)

オリンピックが始まると、地上波テレビではどこの局も

オリンピックを放映します。日本人気質なのでしょうか?

嫌いじゃないですが、少々うんざりなのです。

それぞれのテレビ局が資金を出し合ってスポーツ専門の

チャンネルを2つ、3つ作って、時間帯とか競技ごとに

それぞれの局のキャスターや解説者に特色を出せば

通常のテレビ番組を変更なく放送出来るのではと

考えるのですが、これって素人の域を出ないのでしょうね?


改めまして、

羽生選手、小平選手の金メダル獲得本当に

おめでとうございます。個人的には

高梨沙羅選手の銅メダルほんとに良かった。

どの選手も、前回のソチからの裏話を聞くにつけ

怠け者の僕とは、やはり人間の《デキ》がこうも違う

ものかと感心、感嘆しています。

数年間湧き立つ「欲」のほとんどを

脇に置き去りにして、自分自身を自制する人間。

過酷な訓練を詰め込んだ毎日。


日向水(ひなたみず)の日など、1日たりとも送っていない

メダリストたち。少し鋭く、ひたむきさを感じさせる

目の輝き、太い太もも、引き締まったふくらはぎと胴体が

禁欲生活とすさまじい訓練の中で過ごしたであろう

青春時代を偲(しの)ばせる。僕自身、自分の

怠け心に《かつ》をいれて、同じ人間、僕にも

努力できるはず、しなければいけないと

気合いが入ります。


今回のオリンピック観てて痛切に感じたことがありました。

オリンピックってスポーツの祭典ですよね。いってみれば

運動会と同じようなもののはず。規模が学校、自治から

世界に広がっただけです。でも不思議なことに楽しくない。

わくわくしない。スタート前の緊張感が感じられない。

もちろん自分自身が参加していないといった大きな

前提の違いがあります。


メダル獲得に沸いている国内に、水を差す気は毛頭ありませんが

例えば、スピードスケート、

各々の選手が二人ずつ

別の時間帯にスタートして、

タイムの順番で順位を

競い合います。これが何かしっくりしません。

100メートル走のようにファイナリスト5、6人を

横1列に並べて、いっせいに走らせたら

分かりやすくて、面白い、より刺激的で興奮すると思うのですが

競技場の都合もあるのでしょうが、

出来ないはずはないでしょう。


文明の進歩と科学の発展で、あまりにも抜け目なく、

必要以上に効率化に取り組み過ぎている。

様々な事柄を削(そ)ぎ落として、簡素化してしまうのは

時間や作業の短縮化のため、やむえないとは思います。

しかしスポーツ本来の《魅力》を失わさせて、

ほしくはありません。

《強く》《速く》《遠くへ》《長く》《多く》《確実に》を

もっと単純に、簡単に、誰にでも、もっと分かりやすく、

あってほしのです。


本日のテレビで申されていましたが、金メダルを取った

小平奈緒選手のスピードスケートの走りを再現映像で見ると

スタートの時、細かく調べれば「フライング」の

可能性が大だとか。本当に最大限、文明の利器を活用するならば

すぐにやり直しにすべきところでしょう?

しかし誰も異議申し立てを訴えない。

《スポーツマンシップ》らしく潔(いさぎよ)い

と申しましょうか。でもこんな所だけは人間の不確かな感覚、

視覚判断に委(ゆだ)ねられている。

不思議です。誰が決定しているのでしょう?

《不確実》で《不正確》な判断基準の概念を

僕の頑固な脳が無視できないのだ。


10分の1秒程度なら大多数の人間の視覚でも正確に

判断できるでしょう。でも

100分の1秒だったら、大多数の人間の視覚だけでは

正確な判断を自信を持って言い切れないでしょう。

そこで機械に頼らざる得なくなるのです。

《有無を言わせない確実な証拠》なのです。

ある部分では文明の利器に、任せっきり、

ある部分では「《ある》個人の人間だけの視覚判断」に任せる。

微妙なところで、何かが大きく間違っている、

欠け落ちていると感じてしまうのは

良くない事なのでしょうか?


こんな最新技術が蔓延(まんえん)する、現代社会においてでも

最後の最後の判断は機械やロボットではなく人間、

スポーツにおいては審判なのです。審判はスポーツにおいては

絶対な存在、すなわち、その言葉は神の言葉と同等なのです。

そこには《心証》といった「私情」が許されないはずなのです。


そんな問題が発生し易い競技と言えば、もうひとつ

フィギュアスケートや体操競技です。これは

《美しさ》《華麗さ》《力強さ》《難易度》《確実さ》

といった機械だけでは、到底その判断を委ねられないものを

競い合っているのです。第三者の専門家の人達だけで

判断決定するのです。間違いなくそこには、100パーセント

個人の「好み」、「気分」、「偏見」、「思い込み」など

《心証》が大きく影響して、結果に反映されてしまうはずです。

確かに審判(神)の判断と、納得せざる得ないといけない

選手の潔(いさぎよ)さはスポーツマンらしく頭が下がります。

4年間365日の努力をたった、一回の一発勝負の

結果に委(ゆだ)ねる、ここで審判である専門家たちも、

おそらく選手と同様に4年間365日毎日

寝る間も惜しんで命を削って、判断する《審美眼》

を磨こうと、努力をしているとは到底思えません。

そのような、いっときの人間の判断で

選手たちの努力が犠牲になっているようで遺憾なのです。


出来ればもっと公明正大に

誰にも分かりやすく

判断できるような

誰でも納得できるように

審判基準を改良すべきだと、つくづく思います。

例えば、全く同じプログラムを決められた時間に

ピッタリと演じさせてみる、とか。

ジャンプの回転の《多さ》や《高さ》、《長さ》

を競い合う、とか。


ルールなので仕方がないのでしょうが、

後よく納得できないのが、ドーピング疑惑問題。

薬物使用の制限なのです。賛否はともかく、

せめてオリンピックの競技の中に薬物使用を

認めた競技が存在しても良いのではないのか?

人間の持つ潜在能力も含めて

100パーセント、200パーセント、300パーセント

出せれば、どれほどの可能性があるのか、

人間の持つ極限の能力を一度体感させてみたい

見てみたいのです。死なない程度で薬物使用を容認してほしい。

麻薬のような常習性や危険性の問題なのでしょうか。


麻薬まではいかなくても、創造性を増殖させたくて

何かの薬物を使用して、斬新(ざんしん)で革新的な

何かの理論を着想した人間が居たとしても

誰も薬物使用を疑って、ドーピング検査をするなんて

ことはないはずです。

そこの境目があいまいで、ほんと疑問符いっぱいです。

神による《絶対性》と機械による《非情性》の

あいまいな境目に存在するのが、人間の《温もり》なのです。

おそらく自己満足と社会貢献の違いなのかな。

でもそれだとしたら、スポーツ選手に失礼でしょう。


今日はここまで。近藤浩二でした。

洋楽紹介します。ではまた。


ホールアンドオーツでキス オン マイ リストです。

1981年リリース。三週連続全米No.1位。アルバム「ボイシズ」からシングルカット。テンポの良い軽快なポップソング。

アイ ラブ ユーと言う代わりに

「君のキスは僕の人生の最高のリストに入っているんだ」

って婉曲的に愛の告白をした楽曲。米国の男性コーラスヂュオ。

大ヒット曲多数あり。


 

ボニーレイットでナット ジ オンリー ウァンです。

1992年リリース。全米No.34位の中ヒット。

アルバム「ラックオブザドロー」からシングルカット。

米国の人気女性ギタリスト、シンガー。リズムアンドブルース

とカントリー色のある味わい深い楽曲。お気に入りです。

アルバムはグラミー受賞。必聴の価値ある歌手です。


 

エルトンジョンでネバーゴナフォールインラブアゲインです。

1980年リリース。シングルカットせず。アルバム「21 アット 33」に収録。秀逸のバラードです。


 

ロバートフラックで「やさしく歌って」です。

1973年リリース。5週連続全米No.1位の大ヒット。

アルバム「キリングミーソフトリー」からシングルカット。

原題「Killing me softly with

his song 」=「彼の歌で優しく殺して」の意味。

当時学生の頃、テレビでコーヒーのコマーシャルで

頻繁に流されていた。米国の女性ソウルボーカリスト。

間違いなく名曲です。聴きごたえのあるバラード曲。


 

 

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