あなたは普段どのような時に、
「怒り」を 感じますか?
大抵のことは考え方によって
「スルー」できる
はずなのだろうと思います。
僕は人間としての「器」が小さいのでしょうか?
●食堂内に集団で席を陣取り
騒いで騒々(そうぞう)しい人達を
迷惑そうに睨(にら)みつけます。
相手は悪ぶれることもなく、
不思議と睨(にら)み返してきます。
●順番待ちのため、列にならんで待っています。
強引に列に、割(わ)け入ってくる人がいました。
少し睨(にら)むように見ます。
相手は険しい表情でこちらを強くにらみ返してきます。
●車を安全走行中、後ろにピッタリくっつけて煽(あお)って迫ってきます。
不意にブレーキを踏み危険を知らせます。
相手はアクセルをふかして加速して
ぎりぎりで追い越して、通り過ぎ去ります。
「あんなやつ、事故起こしてしまえ!」イラってして心で思います。
●集団行動で集合時間に戻って来ません。連絡が取れません。
長時間後、悪ぶれる様子もなく、にやけた顔して
戻って無言で席に着きます。
あなたの周りにも、こんな人いませんか?
不思議な事に誰一人、注意や文句ひとつ言いません。
僕はすぐに顔や言動に
「怒りの感情」が出てしまいます。
僕の知り合いの中には
自分自身を無くしてしまえば、
「怒りの感情」が無くなるのだそうです。
そんな神さまみたいな人は稀(まれ)でしょう。
また別の人は「神が裁(さば)く」と言い切ります。
しかし「神が裁く」ことはまずありません。
ほとんどが「泣き寝入り」でしょう。
これはただ単に
みんなが優しいのでしょうか?
いや、絶対違うはずです。
通常の常識を持ち得た人なら
誰もが「共通で持つ怒りの感情」を
共有できるはずです。
まるで「加害者」が
「被害者」顔(づら)している状況なのです。
相手が明らかに法律に触れている
行動なら何かの対処もあるのでしょう。
しかし残念ながら、それは自分の心証(しんしょう)でしかないのです。
ひと昔前なら、話題にもならなかった事柄も
「ハラスメント」といった言葉の出現以来、
ちょっとした事柄でも社会的に
問題視されるように,、なり始めました。
普通なら優しい気持ちで許せる事でも、
行動を起こした人によって、
不快に感じたり、
逆に、好意的に感じる事があります。
それは「被害者」側が「優しい」とか、
「許容範囲が広い」とかの問題では無いのでしょう。
行動をした人が、《何をした》のでは無く
《誰かなのか》が問題なだけなのです。
実際僕も相手が、
強面(こわもて)で反社会勢力や
地位や権力のある人達なら
絶対沈黙を貫き、何事も無かったかのように
「泣き寝入り」するでしょうから。
「被害者」が自身の優しさの許容範囲に
「その加害者」がいないだけ。
それはただ、自身の「好き」か「嫌いか」
の違いだけ。
非常に冷酷に見えるあの人も、
非常に残忍に見えるあの集団も、
彼ら自身だったり、
彼らの家族だったり、
彼らの国だったり、
彼らの宗教だったり
に対してはとても優しいはず。
とても温和で、気が弱くて、
誰かに強く言い切られると
反論したくても
口を間一文字(まいちもんじ)に閉じて
黙ってうつむいて
我慢してしまうほどの彼は
警官を父に持つ妻と
小さな幼い可愛い女の子と
つつましいながらも一国一城のあるじ。
家族にも誰にも、とっても優しく
何をされても、何を言われても
にっこり微笑み返すだけです。
最近の事です。
妻や娘が、
悪いやつらと迷惑者に
いわれのない「迷惑やいじめ」を被(こうむ)っています。
彼は、
家族からも愛されている
近所でも誰にも
丁重に頭を下げる
挨拶もしっかりできる
世間でもとっても
優しいと、評判の良い
模範のような亭主なのです。
自分では納得してませんが、
地元の高校を卒業後
大きな企業内で単純な流れ作業の仕事に就いて
飽き飽きしらがらも、日々満足して
幸福に過ごしているようです。
しかしただ、理屈に合わない
理不尽な要求や
法律に抵触しない、
裁(さば)かれない
他人に迷惑を掛けるような
行動を起こす人達を
絶対許すことが出来ません。
彼は迷惑者と悪いやつらに
「殺意」を抱きました。
その衝動はもう止められそうにありません。
正義感の強い、
自称「正義の味方」が
夜になると
「天罰」を下すといって
妻や娘に迷惑といじめや、悪さをする
法で裁(さば)けない悪いやつらを
一撃必殺であの世へ送る
「殺人」を数多く重ねて行きました。
ある日の夜、彼の「殺人」を知った妻と娘が
彼の「殺人」をどうしたものかと
悩み苦しんでいました。
そして妻と娘は、彼の殺人を
誰かに止めてもらいたくて
警察に彼を売りました。
ある日とうとう逮捕されました。裁判になりました。
精神障害者と判断されて無罪放免。
また同様な「殺人」を繰り返して再逮捕。
今度こそ、妻も娘も
刑務所に入ってもらうことを
強く望んでいました。
裁判になりましたが、
精神障害者で、また無罪放免。
ある日の夜、娘が再度
父親の殺人を見てしまい
心優しい彼女は悩み苦しみました。
数日過ぎました。
父親はなおも、殺人を繰り返します。
ある日の夜、父親は、
父親の「殺人」を止めようと
誰にも優しい、自分の娘に
殺されてしまいました。
家族にはとっても優しい娘も、
父と同じ精神障害者で
父親の気持ちを理解して
迷惑者や悪いやつらに強い「殺意」を抱きます。
その衝動を止めることが出来ずに、
父親と同じように
迷惑者や悪いやつらを成敗します。
息子と祖母は彼女を止めたくて
警察に売ります。逮捕されました。
しかし裁判では
精神障害者で無罪放免。
しかしある日、息子が
非常に優しい母親の殺人を、
再度見てしまいました。彼はどうしたものかと
悩み苦しみました。
息子も精神障害者です。
迷惑者や悪いやつらを許すことは出来ません。
誰にも優しい息子も
この世にはびこる
「悪」を嫌悪していました。
迷惑者や悪いやつらに、
母親や祖父と同様な
「殺意」を抱きました。
しかし彼は祖母に相談をして、衝動を抑えていました。
しかし悪いやつらの迷惑行為は無くなりません。
いっそう、悪質になっていました。
もう「殺人」の衝動は
止められそうにありません。
毎晩考えました。
彼は祖父と母親の殺人を
よく理解していました。
母親の殺人はなおも続いています。
どうしたものかと、思い悩んでいました。
ようやく結論を出しました。
翌日彼は
母親を殺して、
首をつりました。
同じ日に悪いやつらも
ほとんど事故で死んでしまいました。
一人残された年老いた祖母は
死んでいった者たちを
弔(とむら)おうと剃髪(ていはつ)して
出家して「尼」になりました。
そして死ぬまでみんなの
菩提(ぼだい)を弔(とむら)いました。
《これはあくまでフィクションです。》
さてここで問題です。
誰が一番優しい人なのでしょうか?
答えは、、、、、
みんな全て、同様に優しい人なのです。
「優しい」は、
誰かと比較して
論じる「形容詞」ではないものなのです。
個人各々が主観的に感じる、
ある人に向けて感じた
単純な「感情」なのです。
ある人や動物に優しくない人でも
ある特定の人には優しいはずなのです。
自身の家族には絶対に。きっと。
Aさんが優しいと思う方もいれば、
Aさんほど酷(ひど)い人はいないと
思う人もいるでしょう。
Bさんが好きと思う人もいれば、
Bさんが嫌いと
言う方もいるでしょう。
つまり、その人自体が本質的に
「優しい、好き」と
思わせる性質を持っているだけなのです。
「Aさんは好き」
「Aさんは優しい」
「Bさんは嫌い」
「Bさんは優しくない、酷い人」
当たり前のことですが、
この事実を意識できるかどうかで
大きく感じ方が変わってくると思います。
一方で、別の考え方があります。
「騒音、不公平、ズル、煽(あお)り、非常識。」など。
その物事自体が、ネガティブな
特質を持っている という
考え方だと思います。
私達の価値観が
物事の捉(とら)え方が、
「感情」を 左右している
だけであるということです。
でもそれも正しいはず。
動物嫌いで犬や猫に優しくない人が、
人に対して優しくないわけでもない。
人は特別に自分には
優しくしてもらいたいと
思ってしまう贅沢な生き物だから。
他の人よりも自分が愛されてると感じる時に、
相手が誰であっても、
この人は優しい人と思ってしまう困った生き物だから。
だから、優しい人であるのはとても難しい。
誰まで、何にまで、優しくするかという
優しさの許容範囲をどのように
判断するのかが難しい。
その物事が悪いと捉えてしまうと
相手が誰であろうが、
自分にコントロールが出来ないように
なってしまいます。
「騒音、非常識、ずる、煽り、非常識」が
悪いのではなく、
「自分のアプローチが正常では無いのでは?」
という考え方に変換することによって
コントロールが自分に戻ってきます。
《罪》を憎んで「人」を憎まず。ってやつ
法治国家であろうが、なかろうが
この世の中で絶対的に
一元論で「悪い」、「悪」と断言できるのは
「殺人」、「殺し」だけでしょう。
それ以外は大概やり直しが出来ます。
人を変えようとする前に自分を変えろ
とは、よく言われますが、
それは物事への取り組み方にも
当てはまるのでは
ないでしょうか?
物事が悪いと思う前に自分の
取り組み方が悪いのではないかという
考えにシフトすると新しく見えてくる
ものがあると思います。
「非常識、嫌いだ、迷惑だ」と思うと
不快で苦しいですが、
「他の人はどう感じているのだろう?」
という疑問に変換することで新たな
道が見えてくるかもしれません。
どうせ生きていくなら出来るだけ
楽(らく)して、楽しめる方法を模索していきましょう!
でも正直、僕にはとても無理だろうな
《やる前から頭で結論出してしまう、僕の悪い癖(くせ)》
自分は博愛主義者に
なりきろうとする人ではなく、
優しい人間であろうとして、
でもなかなか優しい人間になれないって
日々葛藤(かっとう)して
悩んで苦しんでる人こそが、
僕は本当に優しい人なんだって思う。
だから、僕はそういう人にこそ優しくありたい。
今日はここまで。近藤浩二でした。
今日も洋楽3曲紹介します。ではまた。
スティーリーダンでダーティーワークです。
1972年リリース。シングルカットされていません。
彼らのファーストアルバム「キャントバイアスリル」のA面2曲目。決して有名ではありませんが、《ほんわか》した聴きやすい楽曲。ボーカルはドナルドフェイゲンじゃ無くて、デビットパーマーって人。すぐにグループ脱退します。米国のロックバンド。
時節に合わせて様々な音楽形態のミュージシャンを参加構成。最盛期にはジャズ色の濃い音作り。名盤アルバム多数。
「プリッツルロジック」、「エイジャ」、の2作は名盤。必聴の価値あり。代表曲「リキの電話番号」、「ペグ」など多数。
人気女性芸人「ブルゾンちえみ」のテーマミュージックとは同名異曲。
ジャーニーでドントストップビリービンです。
1981年リリース。全米No.9位。2弾シングルカット。
アルバム「エスケイプ」のA面一曲目。アルバム「エスケイプ」は全世界で大ヒット。「信じることをやめるな」ボーカルのスティーブペリーとキーボード奏者のマイケルケインとの共作。
スティーブが電話越しで父親からの言葉「Don’t stop believin’」が頭から離れず、曲のタイトルが決定。
マイケルと単調なコード進行で普通の人々の日常を話題に物語展開。構成はユニークで単純。同じメロディーの繰り返し。ただ単に歌詞とリズムの強弱、音の高い低いを変えているだけ。
大学生時代、僕の隣の住人で「中島みゆき」しか聞かない同級生の彼がこの曲を頻繁に流していたのだろう。部屋の隙間から音がもれていた。帰宅時にほぼ毎日流れていました。
ニールショーンにギターがかっこいい。
カーペンターズで見つめ合う恋です。
1976年リリース。全米No.12位。カバー曲。
アルバム「見つめあう恋」から先行シングルカット。
原曲はハーマンズハーミッツが1967年発表。
原題は「A kind of hush」。恋人との幸福の歌。
hush=静けさ。「ある種の静けさ」=「二人だけの世界」との意味。恋人と二人だけになった時に、お互いがちょっと黙った時の沈黙の瞬間。=「a kind of hush」
カバー曲多数。世間でいう所のオールディーズです。
中学生当時、日曜の昼間人気のラジオ番組から頻繁に流れて、まったりと緩やかな時間を過ごしていました。優しいメロディー。
今日はおまけで哀愁帯びた、味わい深い名曲を。
ダンフォーゲルバーグで懐かしい恋人の歌です。
1981年リリース。全米No.9位。先行シングル発売。
2枚組アルバム「イノセントエイジ」に収録。
原題は「same old lang syne」
収録曲はどれも秀逸。聴き応え十二分のアルバム。「イノセントエイジ」。「バンドリーダーの贈り物」。「run for the roses」。「same old lang syne」等など。印象深い歌詞の一部です。本人は既に他界。
イブの夜に昔の恋人に偶然再会。過去と現在に乾杯!再会を誓い合って、彼女を見送った後、帰ろうとしたら、、、雪が雨に変わって、、ここでサックスの哀愁あるメロディーが、、、。絶対に名曲だと思います。良かったら、アルバムで通して聴いて欲しい。