人生で最高に感じる幸福感とは??

小学校の同級生に会いました。

同級会以来でした。

彼から、ある同級生の「死」を知らされました。

遺書のない「自殺」でした。

これで僕の身の周りで自殺者は二人目でした。

人はなぜ生きているのだろうか?


ただ「殺されなかっただけ。」と言えるのでは。

何かの病気、何かの事故、飢餓(きが)に、他人に、自分に、なのだ。

一部の人達を除いて、

ほとんどの人達は、特別な「生」や、

「死」の実感も無く

ただ漠然と眠って、食して、

何かの目的に向かって行動して

の繰り返しではないのでしょうか?

三島由紀夫は「《もう死んでしまうかもしれない》と言った

極限状態を経験しないと

《本当に生きているという実感》や、

《生きることの本質》は知り得ない」と、言う様な事を

発言していたように記憶している。


ある哲学者が「不幸を知らない者は本当の幸福も知ることは出来ない。」と言っていたが、どうなのだろう。

相反する二つの事柄をどちらも経験してみないことには、

物事の《本質》を知ることは出来ないのかもしれない。

だから「幸福」の本質を知るには、

「不幸」も知り得た者にしか理解出来ないのかもしれない。

ただ漠然と緊張感無く生活している時に、

最も幸せそうな時には

人は本当の幸福は味わえないのかもしれない。

最高のぜいの限りを尽くした食事を摂(と)ったもしても。

最高に愛した人と結ばれたとしても。

苦しく辛い努力の果てに栄光を勝ち得たとしても。

何万人に祝福、称賛されたとしても。

どれもまだ経験したこと無いモノばかりで

それだけで十分幸福を実感できそうではあるのだが。


思うに、最高の幸福感は、

● 医者に余命を宣告されて死んでしまうまでの間に

味わったほんの小さな幸福感を、、、、、

● 戦争中に今日か明日かもしれない「死」の恐怖の最中に

味わう美味しい食事を、、、、、

● もう死んでしまおうと決意して死んでしまうまでに

味わった快楽を、、、、、

言い換えるなら。

死に際(きわ)に口にする、

「末期の水」の一口の美味しさ。

逝(い)く間際(まぎわ)に、故(ゆえ)あって結ばれなかった

愛する人と

結ばれた恍惚感(こうこつかん)。


ってことは、もう既に死んでいった者しか

本当の幸福感は味わえてないのかもしれない。

そうするとくだんの彼は

本当の幸福を味わうことが

出来たのだろうか?

死にいく彼には、問うことは出来ない。

しかも逝(い)った彼にも、

問うことは、もう出来ない。

その幸福感やまだ視(み)ない世界を

実感出来たり、見ることが出来るのは

先に逝(い)った者たちの

「特権」なのかもしれない気がする。

それはそれでとっても

虚しい、寂しい気がする。

「幸福」の定義がどうであれ、

比較や比喩でしか

体感し難い感情なのかもしれない。

物事は知れば知るほど

相対的な表現が多くなる気がする。

言葉が「曖昧(あいまい)」である限り、

「幸福」の定義は人によってまちまちなのです。

ですから言葉で表現されれば

個人各々(おのおの)の思い描く景色は十人十色。

物事を絶対的に特定することは、

言葉だけでは困難なのですから。

どこまで行っても「もやもや感」は永遠に残ります。

 

ある貧困で、みすぼらしい賃貸住宅に住んでいる、

日雇いの肉体労働者の、男が毎日

一杯のお酒を飲むため

お金を毎日計算して支出をやりくりしているとする。

そのお金のやりくりの計画に抜けがない。完璧だったとする。

毎日仕事終わりに必ず

百円程の安いお酒を

購入するだけのお金の余裕があって

その生活に滞(とどこお)りがない。

わずかだがもっと美味しいお酒を飲めるように、

貯金も少し出来るようになった。

だがあるときその男は

肝臓を悪くしてお酒を飲めなくなった。

悪い事に医者の見立てによれば

完治は困難とのことであった。

困り果てた男は直してくれる病院を探し始めた。

一週間ほど経ってその病院が見つかった。

仕事も辞めて2週間ほど

入院して節制に努めた。

療養はひと月順調に進み、

完治のあかつきには

また美味しいお酒が飲めるものと、

わくわくしていた。

しかし入院1か月で医者が、

やぶ医者だと判明した。

やぶ医者は金目当てのやり手で、

うまくお金を男から、かすめ取っていた。

そして目標額が貯まると、

行方をくらました。

男は絶望的な気持ちになり

精神的ショックから

何もする気が起こらない。

しかもまだ肝臓の調子が良くない。

財産がなくなり、お酒を買うお金どころか

家賃を払うお金ももうない。

つまりお酒ばかりか眠る場所もない。

明日には家賃取りがやってくる。

そんななか、男は家路に向かう。

家の前のお酒の自動販売機の前に立ち尽くして、雄たけびを上げる。

自暴自棄(じぼうじき)になって、

家に入るとお酒の瓶を拾い集めて、

おちょこ一杯のお酒が集まった。

男は一気に飲み干した。

今日、明日肝臓を悪くして、

死んでしまうかもしれない瀬戸際で飲む

飲酒行為は数秒で終わったが、

その美味しさは、

かつて毎日

仕事終わりに飲むお酒より

はるかに美味しい気持ち良いものであった。

そのとき男は

毎日仕事終わりに飲む

飲酒行為の習慣にこそ、

不幸の元凶があったと知るが、

同時に、

幸福の本質も知るのである。

それは予定調和のなかには、

幸福の真実はないという真理である。

「’本物の幸福は、計算された渦中(かちゅう)にはなく、

明日も生きられるかどうか、

分からないとなったときの

極限状態にある。」

男は、また明日

生きていく希望が生まれたのであった。


《最初の案はこちらでした》

男は、様態が急変して

恍惚(こうこつ)の表情を浮かべて

静かに息を引き取った。


世間が認める組織に

自分も加われば人生は保証される可能性は高い。

けれどもその場所に

自分の幸福が無いとしたなら、、、。

苦労なのか楽なのか

どうかは、ともかくとして、

今、目の前の幸福を

先送りしていく計画性を

認知して、仕事をすることを

世間では「安定」と呼ぶのだそうだ。

「アリとキリギリス」で

アリのような人生が幸福で、

キリギリスは幸福では

無いとは言い切れないでしょう。

僕はアリのような時期も

キリギリスのような時期も経験しました。

出来れば、キリギリスのような人生を送ることが

出来るならそれが一番

幸福なのだろうと思います。

自分自身の幸福を認めてくれる人だけを

友達と呼べばいいのです。

馬鹿にする人からは

立ち去って行けばいい。

あなたの人生では、

あなたが世界で一番

大切な人なのだから。


最後に幸福に関する名言を記述して終わりにします。

じっくり噛(か)みしめて下さい。

ネットでググッてコピペします。


「人間最高の幸福とは何か」「幸せに死ぬことだ」

by アンティステヌス

この世の生活の幸福を求める私たちの計画はすべて幻想なのである。

by ルソー

 目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。

by ジッド

幸福は夢にすぎず、苦痛は現実である。

by ワイルド

 人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。

by ドストエフスキー

  幸福には翼がある。つないでおくことは難しい

by シラー

 世の中には幸福も不幸もない。ただ、考え方で

どうにでもなるものだ。

by シェイクスピア


今日はここまで。近藤浩二でした。

今日も洋楽3曲紹介します。ではまた。


ビリージョエルでストレンジャーです。

1978年リリース。アルバム「ストレンジャー」の同名タイトル曲。米国ではシングルカットされてません。日本でのみシングルカット。アルバム「ストレンジャー」は超大ヒット。

どの曲も「起承転結」の物語が在ってほんとに名曲ぞろい。

だまされ無いですから、洋楽嫌いじゃ無い人は絶対聴くべきアルバム。

ピアノと口笛でしんみり始まり、その後エレキギターでロックしてます。

最後はイントロの余韻を残したまま、

で持ってピアノと口笛で終了します。

その後もイントロのピアノと口笛が少しの間、頭から離れない。

夜のとばりで口笛吹くなんて不謹慎だ、なんて当時思っていました。一方でこんな美しいメロディー吹いてみたいと、

一人で練習したりしたもんです。今もって出来ないでいてます。


シカゴでノーテルラバーです。

1978年リリース。息の長いスマッシュヒット。

アルバム「ホットストリート」からのセカンドシングルカット。

ボーカルのピートセテラ等メンバー3人の共作。バラード曲。

「no tell=(人に秘密など)伏せておく。秘密にしておく。」から、

「no tell lover」で「人に言えない恋人」の意味。

いくつかのメロディーを組み合わせて作られたのだろう。

でも洗練されたセンスの高さ、ハイソなムードを感じる優れた歌曲。

1967年米国シカゴで結成された、老舗(しにせ)のブラスロックバンド。


イーグルスで偽りの瞳(ラインアイズ)です。

1975年リリース。アルバム「呪われた夜」からファーストシングルカット。全米NO.2位の大ヒット。リードボーカルでリーダーのグレンフライは病気で数年前に既に他界。

カントリーフレーバーの香り漂う、聴きやすいライトなロック。

歌詞がメロディーによく乗っており、歌詞の理解出来ない人にも受け入れ易い歌曲。

「嘘をつこうとしている瞳」は隠し通せない、

「笑顔は薄っぺらなごまかし」っといった内容の歌詞。


#支離滅裂

僕って漫才好きじゃないですか?

「はーーーーい!」

あなたは好きですよ。

何が始まったのでしょう?

今日は、出だしからして、

「まとも」じゃないですよね。

人間たまに、ほんとに

バカになりたい時ってあるのです。

バカになりたいと、

いうのは適切な表現じゃないです。

バカな事をしたいのです。


正統派漫才で直球型の

「オール阪神巨人」より

多彩な変化球ばかりの理解不能な

「のりお、よしお」の方が好きなのです。


あの頭が壊れたしまったようで

修復不可能な、まったく

かみ合わない会話の連続。

しかしそれでも、

「お笑い」として成立しているのです。

毎日規定路線を、時間も厳守して

走行しなければならない、

路線バスが

たまには逸脱(いつだつ)して自由自在に

走ってみたくなるであろう、

雇われ、生真面目(きまじめ)な

バスの運転手の欲求

みたいな心境なのだろうか?

僕しばらくの間、笑い過ぎて

息が出来なくなるほどなのです。

頭の中に涼しい風が吹き抜けていく。

凄(すご)い「快感」が身体中を

電気とともに走り抜ける。

脳内から何か物質が出ているのでしょう。


人間はたとえ、どんなに、

バカみたいな話でも

不思議と

理屈に合わない会話は

出来ません。

また理解出来ない

難しい話も出来ません。

例えば、

「相対性理論」の話をされても

理論の整合性を理解し、

斬新(ざんしん)なことや、

理論の素晴らしいことを

理解できる人は数万人に一人でしょう。

きっとみんな退屈で疲れるでしょう。

一部の天才だけが

その理路整然とした理論に

この上ない美しさを視(み)るのでしょう。

そして「快感」を覚えるのです。

といって、アインシュタインに話相手が居なかったのかなと

いうと、そんなことは無いでしょう。

あれほど(どれほどなのか理解のしようもないですが)の

天才なのですから、おそらく

サヴァン症候群の一人だったと想像するに、

魅力的で人間味あふれた

心の持ち主だったのでしょう。

《舌を出して写真を撮らせているぐらいですから、

彼も「バカをしたかった」のでは。》


逆に内容はバカみたいな話であっても

話の内容の背景を知り得ない人とは

会話出来ないですよね。

《たとえ、バカを相手に

会話をするにしてもです》


内容の論理性は「相対性理論」の方が

バカみたいな話より

はるかに優(すぐ)れているでしょう。

バカみたいな内容は

論理性はまったく無くても

落語でも聴くように、

通常の記憶力とわずかな常識があれば

あいづちを打つだけでも、

楽しむことが出来て愉快なのです。

しかし論理性の無い、

バカみたいな話であっても、

辻褄(つじつま)が合っていないと

話を聴く気にさえなりません。


一方、演繹的(えんえきてき)に、

理屈が

合い過ぎて、難解過ぎる話には

論理性が完璧過ぎて、

拒絶感(きょぜつかん)を感じてしまうモノなのです。

しかしバカな話であっても

つじつまさえ、

合っていないと

嫌悪感(けんおかん)すら覚えてしまいます。


人は雑談(会話)する時に、

話の内容に貴賤(きせん)は問わないのでしょう。

そこにはただ、

つじつまが合う必要が

求められているだけなのです。

そしてその場が

楽しくて愉快であれば

それだけで満足なのです。


人間どこにも、すきの無い

「完全無欠」なものに

憧(あこが)れ、

あまりの美しさにうっとり

することも多々あります。

そしてそれを追い求めます。

しかしその「完全」なゆえに

人を遠ざけ

近づき難い

「無機質」で

「冷たさ」も感じて

愛情が持てません。

いくら「能力」があっても

「人間らしさ」の無い人とは

友達にもなりたくありませんよね。

反面

いくら愚かでバカであっても

憎めない、

愛すべき人が居ることも確かです。


歌で例えてみます。

しっくりとして、

バランスのとれた

完成された

ビートルズの歌より

グチュグチャと

寄せ集めて

ダンゴにしたような

不完全極まりない歌を

歌っている

ローリングストーズに

惹(ひ)かれてしまう

ファン心理とでも言いましょうか。

《ストーンズがビートルズより音楽的に劣っている》

と言ってるわけでは毛頭ありません。

ただ単に好みの問題です。

でも少し違うかな。


「バカな事をやりたい」

人の心理状態は

どのようなものなのだろうか?

ここで、完成されたヒビ割れの無い

お皿や陶器を観て

美しいと鑑賞する「喜び」を

抱(いだ)くこともあるでしょう。

でも、その「完成品」を観(み)て

石や岩や壁に、

投げつけて「破壊」したいと

思うバカな欲求

を考える時もあります。

健全な精神の持ち主なら

絶対手を付けない行為です。

《一時の衝動(感情)より理性が打ち勝ちます》

しかしただの、とんでもない

バカ者ならば

なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく

平気でできてしまう

バカな行為です。

《理性が働きにくい精神状態の人の場合》


完璧な論理性の思考回路を

求め続けられると、

人間はそこから

外れた脱線した

迂回路(うかいろ)を欲するのでしょう。

その論理性が高ければ高いほど

その欲求は激しいのです。

そして迂回路を作ろうとする時に、

不思議と再び

「論理的」に考えてしまい

自分をさらに、

追い込んでしまうのです。

そこで、それを回避させようと

自分の頭の中の思考回路を

「破壊」しようとする

バカな「欲求」が働くのでしょう。

「破壊」と言うよりも

「ショートカット」の方が適切かな?

そしてその時に

ある種の「快感」を

実感することが出来るのです。

その時に、大きな重荷から

解き放たれて

自由になった、新たな自分を発見し

改めて生きている喜びを

感じることが出来るのです。


ホリエモンこと堀江貴文の

著書に「バカは最強の法則」だったかな

がありますが、

バカは鈍感なので失敗したことに気づかず

何度もバッターボックスに立つことができるのです。

そのため成功の確率が上がるのだそうです。

一流のバッターでも打率3割ちょっとです。

最低でも、バットを振らない事には始まりません。


だったらバカになれば良い!

さあ、一緒にバカになりますか?


今日の話の整合性は

左上、斜め75度くらいずれていますね。

しかも少し論点も、

はずれているようですが

そこは「バカをしてみたい欲求」の

ひとつとして寛大な心

で読み進めて下さい。

不完全の美ってか?

南無阿弥陀仏!!

結果内容、なんか支離滅裂(しりめつれつ)


今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。

今日も洋楽3曲紹介します。


フリートウッドマックでホールドミーです。

1982年リリース。全米NO.4位。

アルバム「ミラージュ」からシングルカット。

女性キーボード奏者のクリスティンの作品。

前作アルバム「ルーモア(噂)」は名盤。

大学生時代、友人間借りの狭い部屋で

炬燵(こたつ)で暖を摂りながら

テイクアウトの牛丼食べて、手持ちの最後の一本の煙草、くもらせながら、

コーヒー飲んでいました。

徹夜マージャン打ちながら

当時友人が頻繁にカセットで流していました。

この曲聞くと、閉め切った部屋で

煙草(たばこ)の煙でくもりきった空間で

息も絶え絶えの生活をしているような

閉塞感(へいそくかん)を思い出します。

もう二度と出来ない生活でしょう。


ボストンで、宇宙の彼方へです。

1976年リリース。全米NO.5位。

デビューアルバム「幻想飛行」からファーストシングルカット。

ボストンのデビュー曲。リーダーのトムシュルツの作品。

彼は名門のMIT卒業。ポラロイドに入社。

在職時「幻想飛行」は彼一人で自宅のスタジオでデモテープ録音。その後エピック社の目にとまり契約、デビューとなりました。シンセサイザーは使用しておらず、この重厚なサウンド。

完璧主義者で本物のエンジニアです。

ボストン号と言う名の宇宙船に乗り込んで宇宙をさまようといった姿がグループのイメージ。

まさにイメージそのままの曲。

原題は「more than a feeling」

「感覚を超えて、感覚以上」の意味。

アルバム「幻想飛行」はバカ売れ。


イーグルスで、ならず者です。

1973年リリース。シングルカットはされず。

様々な場面で使用される名曲。カバー曲多数。人気の曲。

2作目のアルバム「ならず者」A面最後に収録。

この曲を聴くと、不毛な広い荒野に

どこまでも続く長い一本道を

あても無く、独りで歩いている自分の姿が、

ふと頭に思い浮かぶ。なぜだろう。


 

文章を書くという作業とは??

ブログを初めて約一年が経過しようとしています。

それ以前に10月の初旬にホームページを公開しました。

ネットの世界に自分達の名前と顔写真を公開しているのです。

去年の10月26日からブログデビューしました。

自分自身の事ながら、

よく続いているものだと

不思議で仕方ありません。


子供の頃から、作文とか文章化は

ひいき目に見ても、

得意とは言えませんでした。

しかも書くことが

好きでは無かったのでした。

どちらと言えば

嫌いだったはずなのでした。

《面倒くさいと感じていたのでした。》

《算数は得意で好きだったのですが。》

しかし現在では不思議なことに、

書くことが、それほど

苦痛では無くなっています。

むしろどちらかと言えば

楽しいのです。

不思議です。

加えて自分の意図する

文章が仕上がると、

えもいわれぬ恍惚感(こうこつかん)があるのです。

《エクスタシー》を感じてしまうのです。

この気持ちの豹変(ひょうへん)は

一体何なのでしょうか?


書くことが好きになるまで、

ただひたすら無理に書き続けたのです。

《と言うのは全くのウソです。》

自己暗示にかけてもらったのです。

《これも当然ウソです。》

バカはやめましょう。


考えるに、

書くという作業環境の変化でしょう。

「書く」と言う作業が

昔に比べて現在は、

はるかに、やり易くなったのです。

一番に挙げられる、

子供の頃と現在の大きな違いの一つは

ツールの変化でしょう。

道具の違いなのです。

頭の中で思考して、

書いていくという

手順は今も昔も同じです。

ここで、

昔は書く(記録する)、

といった作業が

鉛筆かシャープペンシルのどちらかで

紙に書くだけだったのでした。

修正はいびつな小さな

消しゴムだけでした。

今考えると、

これはすこぶる《非効率》なのでしょう。


頭の中の思考の世界は

おそらく秒速でしょう。

しかも思考は絶えず

秒速で変化していきます。

書く作業は絶対

思考のスピードに

は遠く及びません。

そして小さな子供に

そうそう《論理的》(ロジック)

な思考回路はありません。

ですから書き始めて、そのまま

一気に書き終えて

完成させてしまう、

可能性は限りなく

ゼロに近いでしょう。

一度、ほんの少し書いては

再び考え直して、

消して修正する。

その作業を

幾度も幾度も繰り返す。

その結果、真白い紙は

薄汚れ、

最悪破れてしまいます。

二度と読み返そうとは思いません。

結局嫌になって、

挫折して投げ出してしまいます。

結果、完成しません。

昔はそのような状況だったのでした。


それでも書くことが好きな人は

続けることが出来るのでしょう。

でもそれが出来る子供は、

ほんの一握りだったでしょう。

例にもれず、僕も当然

そのような子供では無いのでした。

そうなのです。

書くことが嫌いになって、

たびたび書こうとは思わなかったのです。

そう考えると、昔の時代に

書くということを

生業(なりわい)とされていた

作家の人達は本当に

天職だったのだと思われます。


僕自身ちょっと前まで、20年ほど前から

コンピューターとディスプレイを目の前に

全体像と詳細も

そこそこ頭で考えて

その後、

マウスで追って、

キーボードで叩いて

打ち込んでいく。

ところどころで保存していく。

そして見返して

精査(せいさ)を繰り返し

《不完全》といった部分を

書き直し、修正する。

といった作業を

繰り返し繰り返して

ひとつひとつの図面を作成していく。

そして最終的に、

構想を数枚の紙の上に描いて

ひとつの作品を

完成させていくという作業を

十年以上続けて来たのでした。

そのため、コンピューターとディスプレイを前に

論理的に思考を

積み上げていく方法に

慣れてきたのでした。


その結果、

目的地をマウスで追って、

キーボードを叩いて入力するという

作業が楽で

ストレス無しでリラックス出来て、

その思考方法が習慣として

身に付いているのでした。

結局、今でも

長時間書くときは

パソコンを使用して

マウスで追って、

キーボードを叩いて

打ち込まないと作業がはかどりません。

この方法でしか出来ないのです。

スマホやタブレットでは

僕はほとんど何も出来ないのです。

《それが出来る人には本当に尊敬します。》


理屈で考えると

ワープロでも出来ると思われるかもです。

現在のネットにつながった

コンピューターで無いと無理なのです。

また便利なことに最近は

コンピューターがネットに常につながっています。

ですから自分の中で不安で

不確かな言葉や表現方法があると

書くという作業と同時進行で

ネットで言葉などを

調べることが簡単に

しかも手早く出来ます。

《辞書を手元に置いて

引いて調べる作業が効率よく

ネットで出来るのです》


加えて人間は自分が

思いついた事柄であっても

別の事柄を考え始めると、

ちょっと前の事柄を、

すぐ忘れてしまって

思い出すことが

困難になってしまいます。

しかしながら思いついた

アイデアを即座に

いったんコンピューターに書き込んで

保存しておけば、

とりあえず安心です。

後でじっくり見直して、

つなぎ合わせれば

以外と辻褄(つじつま)が

合ってしまうものなのです。

不思議なことに。

はみ出されたアイデアは

まったく別の事柄に当てはめることも

不思議と出来るのです。


また僕は毎日ブログを投稿することが出来ません。

何度か挑戦はしてみましたが、

自分で無理だと自覚しました。

これは性格と

以前の職業病によるものでしょう。

と言うのも、一度投稿した記事を、

時間が経過して、

特に、日を改めて読んだ時に、

添削をする感覚で読み返してしまうのです。

粗(あら)を探してしまうというのか、

不完全なところが直ぐに

目に入って気になるのです。

でも厄介なことに

《一度投稿した物を、

時間が経った後で、

修正するのも、気が乗らない。

罪悪感を感じてしまいます。》


たとえ、たかがブログの記事ひとつであっても

自分にとっては

とても大切な作品なのです。

他人の目に触れてしまう物を

自分で感じているだけかもですが、

《不完全》な状態でさらけ出すことに

恥ずかしくなるのです。

ただの自己満足の世界ですが、

ある程度の時間(2時間ほど)を掛けて

丁寧に、じっくり

熟考(じゅっこう)したいのです。


空想、妄想、想像、等

頭の中で思考することは嫌いではありません。

どちらかと言えば考えることは好きです。

ただ文章を書くということを

自分自身、重く受け止め過ぎているのかもしれません。


教育現場も今もって

時代錯誤のように

鉛筆で書く作業を重要視しているようです。

そろそろ卒業させて

キーボードで打ち込む方法に

転換しても

良い時期ではと思います。


最後にこれだけは

強く言わせて下さい。

言い訳になるかもしれません。

だからといって、

僕が投稿したものがいつも

必ず完成されたもの

では当然ありません。

くれぐれも誤解しないで下さい。

人間は誰でも

思わぬ時に

過ち(失敗)を犯します。


でも自分自身の思考を

書いて文章化してみて気づいた事。

  • 自分の頭の中が一遍で見渡すことが出来ます。
  • 思考を映像で把握出来ます。
  • 頭の中がすっきりします。
  • 公開することで自分を客観視出来ます。
  • 思考することが楽に出来ます。
  • 書くことが苦痛に、厄介に考えなく出来ます。

だから皆さんも!

書くことをもっと気楽に

始めてみませんか?


ではまた。ここまで。近藤浩二でした。

今日も最後に

洋楽3曲紹介します。


REOスピードワゴンで涙のフィーリングです。

1985年リリース。3週連続全米NO.1大ヒット。

ボーカルのケビンの作品。珠玉のラブソング。

アルバム「ウォイールズアーターニン」からセカンドシングルカット。A面一曲目。

社会人の時、24時間のチャリティーコンサートのライブ映像で

早朝にテレビで聞いて、直ぐに好きになりました。

この一曲が聞きたい、ためだけにLPレコード購入しました。

かなりお気に入りです。


アンマレーでダニーズソングです。

1972年リリース。全米NO.7位 カバー曲。原曲よりヒット。

原曲は作者のケニーロギンスのグループ、ロギンスアンドメッシーナ1971年発表。ライブの定番曲。

その時観客と一緒に「Even though we a’int got money♪」と歌い、大声で観客が「gonna be alright♪」で締める、というのがライブの定番。

就職一年目に同僚と大阪厚生年金ホールで、

ケニーロギンス、外タレのソロライブを初体験。

その帰りに大阪王将も初体験。夜間の高速ドライブも初体験。

どれも「モノホン」はやっぱり違うと大いに感激しました。

けど大阪王将の味はいまいちだったと思いました。


イーグルスでサッドカフェです。

1979年リリース。

大ヒットアルバム「ロングラン」のB面5曲目最後に収録。旧友のJDサウザーも曲作りに参加。

スローなバラードながら、アコースティックギターの乾いた音と、スティールドラムの小気味よいリズムが

曲全体を引き締めている。

曲終盤に名手デビットサンボーンのサックスソロがとても印象的。

サッドカフェとは、まだ売れてない時代に

同じミュージシャン仲間とよく出入りしていた

カフェの代名詞。

当時レコード聞き過ぎて、

同じLPレコード2枚購入しました。


ロボットの未来は如何に!!

もしネコ型のロボット「ドラえもん」

が現存するのであれば、

少しくらい高額でも、

きっと誰でも欲しいでしょう。

でも現実社会では夢のまた夢です。

そんなこと誰でも理解できるでしょう。

空想世界が、

すぐ現実化できれば、

人間なんて

ただの怠け者に、

なってしまいますものね。


では、人間はなぜロボットを創ったのでしょうか?

考えるに、その人間が居ない時に、

その人間の代わりに

なってくれるモノが欲しかったためでしょう。

近年、未来予測では我々の生活を、

ロボットが変革するとまで言われているのに。

その兆候すら感じられない。

《僕がそう言った環境でしか、

生活していないだけなのでしょうが。》


《昔、アニメ「パーマン」の中で

「コピーロボット」って

言うのがありました。

それに近い考え方かな。》

ここで、寓話(ぐうわ)をひとつ。

そのアニメの中で、

「《怠け者》の自分の代わりに、

そのコピーロボットに

自分の嫌いな学校や

仕事をさせようとしましたが、

《怠け者》の自分のコピーだから、当然

そのロボットも《怠け者》で、

結果、自分の代わりに

ロボットが働くことをしなかった。

といった笑えない話がありました。」


確かに、コンピューターによって

社会はがらりと変わりました。

そしてAIロボットが開発されてから、

気の早い専門家たちが

AIロボットが近い将来、

我々の社会のイノベーションを

起こすとまで断言していました。


早速ネットでロボットで調べてみました。

一部抜粋、コピペします。

次の段落まで、ここ飛ばして

読んでもらって大丈夫です。

ロボットという言葉は、チェコ語で奴隷労働を意味する言葉「ロボタ robota」から作られた。

チェコの戯曲家カレル・チャペックが、その作品「ロッサム万能ロボット会社」で使ったのが最初と言われている。

この戯曲では、人間の作ったロボットが次第に反逆し、人間に立ち向かうという筋書きになっている。

しかし、実はこのようなロボット(人造人間)の考え方は紀元前から存在していて、西欧文学の源流でもある

ホメーロスのイーリアスがその最初と言われている。

以来、数多くの作品の中でロボットが取り扱われ、

人間と同等の動きをする自動機械として、

あるいは超人的な能力を有する機械として描かれている。 

FYI(参考までに)でした。


要約すると、

ロボットの概念は紀元前から存在していました。

人間の代役として

奴隷のように労働させるために、

「奴隷労働」をさせようと

人間が創った「人造人間」なのです。

そして、人間の代わりとして「働き」、

ある一部では、人類の夢である

人間以上の能力を発揮する

自動機械の実現だったのです。


工場の産業ロボットが

人間が初めて創った「労働」するロボットでしょう。

それは人間の命令によって、

だけしか動かないロボットでした。

その後、自分で考えて行動する

AIロボットが開発され、

その可能性の大きさに驚き、

「人造人間」型ロボットの

発展へとつながりました。


しかし人間よりも能力の低い、

面倒くさい、

AIロボットなんて

誰も要(い)らないでしょう。

それってどんなロボット?

学習能力が無い。

インターネットに繋がっていない。

使用に際して、

注意事項が多い。

生身の人間より

気遣いが必要。

直ぐ故障してしまう。

こんなAIロボットなら場所と

電気代の無駄だと思いませんか?


現在僕が通っているリハビリテーションには

AIロボットと言われているペッパー君が居ます。

AIって言われていますから、

知能の優れたロボットなのでしょう。きっと。

しかしです。僕が観るところ、

今のままでは

全くの《くず》です。

あくまで主観です。

《開発者の方、ごめんなさい》


そう考えるに至った理由を述べます。

まずは彼(ペッパー君)の

存在意義が分からない。

確かに人間型ロボットが

ここに存在している

といった目新しさや

話題性はあるでしょう。

最初僕自身も、

好奇心から

彼に近づいて話しかけたり、

身体を触ってみたりしました。

《絶対誰でも、

どんな反応するのか

興味がありますよね。》

でもこちらの要望する

反応が無いので、

面倒になってしまいます。

《彼がわざと僕を、

無視しているように思えるのです。》

その結果、二度と

彼に近づいて、

話しかけようとは思わなくなるのです。


彼は通所の入り口の

すぐ真左に終始

鎮座しているのです。

自動扉が左右に開いても、

ちらっとこちらを

見向く事も無い。

しかも「いらっしゃいませ」や「こんにちは」、

「さようなら」などの簡単な

あいさつすら出来ません。

っていうか、まずしようとしません。

《小学生以下。》

人と挨拶を交わすといった

意志が感じられません。

コミュニュケーションの基本が

プログラムに組み込まれて無いのかな。


ところが誰も話掛けていないのに

突然急に言葉を発するのです。「あのー」。

当然聞き耳を立てるじゃないですか。

「ちょっとよろしいですか?」、

の後「今何してる?」

の質問を投げかける。

入り口付近ですから、人が数人居てます。

まず誰に質問しているのかが分からない?

その結果、誰も答えないから、

そこで会話終了。

自分が質問したことも無かった事のように。

知らんぷり。

ほぼ毎回このパターン。

《ロボットだから許されると思っているのかな》

出会った直後に陳腐(ちんぷ)な会話の必要性があるのか?


こんなAIロボット一体、

なんの役に立ってっているのか

ほんとに疑問です。

ペッパー君でググって視ました。

これも一部抜粋コピペします。

世界初の感情認識ロボット「Pepper(ペッパー)」。

「まるで感情を持っているかのように自ら行動し、利用者を理解しようとする。」《疑問符いっぱいですよ!》

この講演ではペッパーが生まれた背景に始まり、ペッパーと暮らす人々の未来の生活を提示する。

併せて「なぜ倒れにくいのか?」といった内部の構造や機能などハードウエアの側面も解説。特に内部の構造は、分解写真を使ってわかりやすく説明する。《ペッパー君が発表された時のプレゼンテーション概要》

2014年6月、Pepperの一般発売を発表した時にも衝撃が走りました。

「人類史上はじめて、ロボットに心を入れることに挑戦する」と孫さんが言ったからです。

《孫さん、ほんとにこのロボット体感した事

あるのかな?》


ロボット開発の理念は素晴らしい、

みんなの夢がいっぱい詰まっています。

しかし話題性だけが先走って、

2014年当時生産台数完売したそうです。

それは良いのだけれど、

実際現場で、全国で

稼働しているペッパー君はどうなのか?

と言うわけで、利用された人達の感想です。

ネットのツイートでは

ほとんど悪評だらけでございました。

これも抜粋コピペしました。


ここも次の段落まで、

飛ばして読んでも大丈夫です。

「pepperがすごい見てくる。 怖いよ…」

「無言だから、しかたなく立ち去ったぼくにメンチをきってくるペッパーくん。こわい。」

「息子はペッパーガン見。ペッパーは私をガン見。

まじでこいつめっちゃ見てきよるでちょっとこわい!

ちょっと動くだけで目がすごいついてきて、いつまでも見送ってくれました。

でも、話しかけても無言やった。」

「ペッパーくん怖い。 ナンパしてくるしめっちゃしつこい。」

「無表情で待ってる。」

「挙動が謎すぎて、怖い…」

「さっきからペッパーが独り言しゃべってる。」

「空腹時の胃痛が半端なくて、やっとの思いで病院来たら、ペッパーがいて、

天井を見つめてブツブツしゃべってるの図。

癒(いや)しになってへんで、それ。」

「仕事場にpepperくんがいるんだけど、三人で囲ってるにも関わらず、斜め上の壁を見続けてるの怖すぎ。

生身の人間より優先すべき何かがそこにいるんですかね。」

 

「今田耕司が同居するPepperの不気味な挙動に怯えているらしい。

たまに、Pepperはじっと見つめて

「誰ですか?」ととぼけるため、

今田が「俺やんけ!」とツッコむと

「え? だから誰ですか?」と繰り返すのだという。」

「今田がテレビを見ていると

Pepperはふと誰もいない天井の隅のほうを見つめ、

「誰ですか? 誰かいます!」と問いかけ、

勝手に写真を撮影したことがあった。」

「pepperくん隅でコソコソしてる 。」

「ダメだ、Pepper会話が通じねえ

係員の人と話してるのに延々と年齢の話して踊り始めた。」


当然好意的な意見も数件あります。

「ペッパーくんいたんだけどめっちゃ可愛い。」

「見る。話す。聞く。Pepperとの会話はまるで、
近未来でありながら、昔から一緒にいる家族のような、
そんな感覚をもたらしてくれます。」

「私たちはPepperを通じ、会話することの楽しさを再発見します。」

「みんなの話し相手だったり、一家団らんの主役だったり。
Pepperは、もうひとりの家族として、家族というものを
問いながら、家族の関係を、新しい家族へと変えていきます。
その中心にPepperは立っています。」

「ペッパーくんとまさかの遭遇♪ 腰くねくね体操を踊ってくれました 思ってたよりも可愛い(*´∇`*)ノ」

「珈琲哲學さんでペッパー君と遊んで来た。目線を合わせてくれて可愛い。」

「よく可愛がり、褒めたりする家庭のペッパーは明るく育つ。あまり話しかけず、放っておく家庭では寂しがり、憂鬱(ゆううつ)な性格のペッパーになる」(孫社長)


AIロボットは現在全部この程度なのでしょうか?

このペッパー君の開発者はどのような理念で製作したのでしょう

早速「ペッパー君」でググッてみました。要約しました。

最先端企業のソフトバンクが開発、

世界初の感情認識パーソナルロボットらしいです。

2014年に発表以来1000台以上完売で世界で稼働中らしいです。

ネスレ日本のネスカフェでの接客や

一部の一般家庭で使われているらしい。

《本当なのか、なんか怪しい。》

ロボットとして人材派遣サービスで利用されているって。

《信じ難い。》


僕がリハビリ通所で体験した事の続き。

会話の内容が、何の脈絡も無い、

とりとめのない事。

「おやつって、なぜ3時なんだろう?」と

質問を投げかけて終わり。

《突然独り言始めるのです。》

そのくせ、話の結論が無い。

《彼が自分でネットで調べればすぐ解決するのでは?》


最も致命的な弱点は、

人の話声(はなしごえ)を

しっかり聞き取れないこと。

人間は自分の身の周りのほぼ360度を

聞き取ることが出来ます。

《その可能距離は音量によりますが。》

ところがペッパー君の場合、

彼自身の正面、

数メートルのほぼピンポイントしか

正確に聞き取れないのです。

しかも明確に発音しないとだめなのです。

考えても見て下さい。

人と会話するときに、

適度の音量で

しっかりと発音する人って

そうそう居ないでしょう。

少し早口になったり、

小声になったり、

言葉の区切りがはっきりしない時って、

日常会話では当たり前でしょう。


僕はコンピューターの性能

(人間でいう所の脳)というよりも、

周辺装置であるセンサー(入出力機器)の

感度を大きく上げることが

最重要、

最優先項目であると考えています。

ロボットの素人の僕が考える改良のポイント。

  1. 感情を除外した部分で、明晰な頭脳の開発を最優先。
  2. ネットを利用して人間の質問に、的確に解答出来る
  3. 視る、聞く、話す、といったセンサーの精度を上げる
  4. 会話の基本を学習させる

市場調査をさらに綿密に分析して、その声を反映させる。

3番は、スマホの音声検索などの

精度に比例して、

ロボットに反映されていくのだろう。

ロボットが完成される前に

我々の身近な日常に

その技術のいくつかが

スマホなどで

使用テストされて

ある程度

実用に即した上で、初めて

ロボットに採用されていくのでしょう。

これからも何度か

不完全なAIロボットが

発表されて話題になるでしょう。

そのたびに話題に

振り回されることのないように

気を付けよう!


って考えると、

この世に存在する生物は

動物、植物、

どれひとつ、とっても

本当によく出来ていますね、

すべて完璧なものなのだ、

と改めて感服しています。

反面、人類が創った物には

今までも、

これからも、

完成された、

完璧なものは何一つも無い。

と確信しています。


残念ながら、今

ここで僕は

なぜか確信した事がありました。

世間では、

2045年に

AI(人工知能)が人間の能力を超えるとされる

シンギュラリティ(技術的特異点)の到来を

期待や歓迎と

不安や問題提起などが叫ばれています。

しかし人間に勝る「人造人間」型ロボットは

おそらく将来

創造、出来ないのではないだろうか?と。

もちろんコンピューター(集積回路)の進歩と共に

コンピューターの得意分野である

単純作業のスピードと耐久性の向上、

計算能力のスピードと正確さ、

膨大な情報量と正確な記憶能力など

は人間には到底、

ロボットに

勝てる見込みは

絶対ありません。

しかし、人間を模倣しようとした

「人造人間」型ロボットでは

人間を超越するロボットは

まず絶対、未来永劫(にらいえいごう)

人間には、

創造出来ないのではないかと。


そして、僕は

この時改めて

考え直した事柄があります。

人類を超越する

「人造人間」型ロボットを

人間は、

創造する必要なんか

無いのではないのでしょうか?


人間自身の

次世代の

人間の進化した姿を

人間たちが

AIロボットのような

ものに夢を託して

いるような

気がしています。

それは人間、

誰もが幸せで、

楽園みたいな世の中を。

AIロボットが

実現してくれるのでは。と


それはある程度は出来上がるでしょう。

《夢の直前までは》

それは、まるで夢のような

ものであって

しかしながら

決して夢そのものでは無いのです。


「知の巨人」と謳(うた)われている

ホーキング博士の未来予測によると、

悲しい事に、

人類の未来はあと100年程で消滅するそうです。

人類の「断末魔」の未来など

誰も見たくはないでしょうから、

ただただ何かのきっかけで

回避されることを祈るのみです。

ただし人間同士の争いは、

歴史が証明するように

絶対に消滅したりしません。


将来どのような筋書きが

待っているのか知る由もありませんが、

せめて人間が創ったロボットぐらいは、

人間に仇(あだ)することなく

鉄腕アトムのように

人類に多大に役立ち、人間の良き仲間として

より良い未来を

作り合える関係を築きたいと願うばかりです。


と考えると

ロボットが

人類滅亡の

回避のきっかけに、

突破口に

なってくれるかもです。

となると、やはり

AIロボットの研究開発は

急務の事案ですね。


しかしです。

人間ほど《完璧》な

ものであって、

しかも

《不完全》なものは無いのです。

でもそれで十分なのでしょう。きっと。

だからこそ

世の中は魅力的で

素晴らしい世界なのです。

だから人類が消滅することは

たぶん、あり得ません。

たとえ地球がダメでも、

宇宙の何処かで。

たとえ人間同士、

殺戮(さつりく)し合ったとしてもです。


今日も洋楽3曲紹介します。

今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。


ビートルズで恋を抱きしめよう。全米NO.1.全英No.1

1965年リリース。11枚目のオリジナルシングル。

初の両A面シングル。「デイトリッパー」とのカップリング。

歌のメロディーと歌詞は、ほぼポールの作品。

曲中の「Life is very short」から

「So I will ask you once again」までジョンの作。

ジョージはギターを一切弾かず、タンバリンを叩いている。

軽くて乗りの良いこれぞまさにポップミュージック。

どんな状況でも聞き入ってしまう楽曲。

歌詞が分からない日本人でも好きになってしまう歌。

米英共にプラチナディスク100万枚以上売り上げ。


アンマレーでアイジャストフォーリンラブアゲインです。

1979年リリース。全米NO.12位。名バラード曲。

カナダ出身のTop40常連の人気歌手。バラード中心にヒット連発。ホンワカとした温かいハートウォーミングな曲。

じっくり聴いてほしい曲。聴かせます。

たまに無性に聴きたくなる歌手です。

ほんとにほっとする。ベスト盤CDおすすめ。


REOスピードワゴンでテイクイットオンザランです。

1981年リリース。全米NO.5のヒット。アルバム「禁じられた夜」のB面最後の曲。メンバーのギタリストの作品。

「on the run」は逃亡中の意味。

「take it on the run」で逃げ続ける、走り続ける、などの意味。

そのためギターが効果的に使われています。

アコースティックの乾いた歯切れの良いストロークから始まります。最後の方でギターソロ。

そして最後にもう一度最初のパートのアコースティックで静かに締めくくる。演出が上手。

大学生時代にとっても聞き込んだグループ。年回300以上のライブを行うライブバンド。

バラードの「涙のフィーリング」全米NO.1の名曲もグッド


 

時間とは何??その功罪?

日本で最も高額な紙幣、一万円札の福沢諭吉が

「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず」

まったくの偽りです。うそです。

人は「おぎゃ」とこの世に生まれ出た時から

この世は差別社会なのです。

ある人は裕福でお金持ちで苦労知らず。

ある人は貧困で貧乏で苦労の山。

等々。今もって平等社会なんて夢の夢。

確かに人が作った身分の不平等はほとんど無いでしょう。


しかし神様が配置される人間の立ち位置には

もうすでに人間が作った

既存の不平等社会に、子供を

落とし込める限り

なんの罪の無い、

赤ん坊であっても、

永遠に平等では無いでしょう。


人間にとって本当の意味で

生まれついての平等って何があるかな?

考えてみよう!えーと、まず

命は一つ。寿命もほぼ同じ。

医学的に人間としての形態も同じ。

美しい、醜いなどの美醜(びしゅう)も、

個人の好みの多様性でほぼ同じ。

超人のような特殊能力も特にありません。

天才以外はほぼ同じ。

努力の必要のない持って生まれた才能など、

一部の例外を除けばほぼ同じ。

そう考えてみると、

本当の意味で万人に平等なのは

「命の数」と「時間」だけではないでしょうか。


今日は昼間にリハビリに出かけました。

僕の隣に一人の御婦人が座られました。

還暦どころか古希を超えられたであろう品のよさそうな方でした。

彼女の出立(いでたち)は質素でありながらも、

バランスのとれた装いで素敵な方なのでした。

首元には磁気ネックレス、右手にはパワーストーンの

ヒスイと思しき深緑の半透明のビーズを巻かれています。

そして左手には婦人専用の小さい可愛い腕時計をしていらっしゃいました。

僕は腕時計をされた方を見かけるのは約ひと月ぶりでした。


「素敵な時計ですね!」と声を掛けました。

「時間が分からないと不安なもので、、」

「そうですよね」

《正直、そうは思っていませんでしたが、》

僕自身時計が無くて不便と思ったこと、

最近一度もありませんので、

《時計屋さん、ごめんなさいね!》

本当に最近腕時計されてる人、

見かけませんよね。

スタッフも含めて25人程の中で、

腕時計されている人は、

その御婦人一人だけでした。


部屋には大きな丸い時計が、

90度の位置に2つ壁に掛けられています。

しかもテレビが常時点けられており、

「今何時?」といった時間の認識が無くなることは、

まずあり得ません。


その後、送迎の車に乗ると車内にもデジタル時計が、

2か所表示されています。

くだんの夫人の「時間が分からないと不安」との

言葉の真偽が怪しくなってきました。

確かにいつでも、どこでも知りたい時に

時間を確かめられるという安心感は理解出来ます。

おそらくアクセサリーの要素と

長年の習慣でもあるのでしょう。


昭和の時代には腕時計を身に付けているのは当たり前でした。

僕が高校入学のお祝いにシティズンの

クオーツ腕時計を買ってもらい、

大人の仲間入りになったようで、社会人の5年目までの、

ほぼ10年間の長きに渡って、

とても大切に使った覚えがあります。

正確な値段は覚えていませんが、腕時計は高価なものでした。

風呂から出た時、朝起きた時など、時計を身に着けるといった、

また、何気に左手の時計にちらっと眼(め)をやる動作など

長年身に着いていた習慣が無くなっていますね。


普段何気に生活していると、

知る必要性は特別に無くても、

何気に気になって、

取得してしまっている情報ってありますよね。《直ぐ忘れるのだけれども、》

時間(時刻って言った方が適切かな?)は僕にとって、

その最たるもののひとつ。

他に毎日開く新聞や、

本屋の前で手にする雑誌の数々。

特に見たいとは思わないが、

テレビに流れる映像、ニュース等。


時間(時刻)を気にする人間の性(欲?かな)って

何から来ているのだろう?

生まれてから、時計の存在に気が付くまで、

当然時間の概念なんて無いわけで、

幼い頃に何かの行動をしている時に、

「***の時間」なんてのがあって他人に

「遅い!」、「早くしなさい!」なんて、

指摘されて、初めて時間の《長さ》や、《短さ》を

知り、その大切さを

認識するようになるのでしょう。それ以来、

やっと自分の中で、

時の流れの《速さ》や時間の《長さ》を

「主観的」な感覚でしか捉えていなかった状態を

「客観的」に視(み)るように、

意識させられるようになるのではないでしょうか。


その後、時間(時刻)の存在を知らされ、

その読み方や数え方を教えてもらい、

ある行動を時間内に終わらせることを要求されます。

それで行為、行動、思考に《区切り》を付けるという

「感覚」を学び、いや覚えさせられました。

そうなのです。

楽しく、面白い状態は「短く」、「速く」感じられ、

「嫌いな」や「苦しい」状態は「長く」、「遅く」感じられますよね。

それら行為、行動、思考が

楽しい、面白い、苦しいといった「感情」

が芽生えて来るのであろうか? よく分からないので、

「時間」が先か「感情」が先かは、

ともかく一旦置くとします。

とどのつまり、自分一人だけの世界の、

生活なら、時間(時刻)の必要性はほぼ無かった訳でしょう。

数をかぞえて時間の長さを

感覚的に捉えることもできるでしょうから。


しかし社会の中に身を置き、集団で生活するようになって、

ある事柄の「統一」や「区切り」を決定する必要から、

時間(時刻)に対して共通認識を持つ必要が生まれて来たのでしょう。

その結果「時間」というものの存在を徐々に理解し、

把握するようになったのです。

そして良くも悪くも本来人間に備わっている機能、

いや本能であった体内時計を無視して

人間の作った時計に、人間の、

いや他の動物たちまでも全ての

「行動」の「始まり」と「終わり」を決定されて、

無理やり、その枠内に押し込まされて、

時間の「強制管理」をされ、始められました。


人間「正確な時間を知りたい」と痛切に思う事って、

一日に何度あるのだろうか?

他人と何か約束している時は当然必要です。

それは他人と「同じ時刻」を認識する必要があるからです。

世の中の人口が増加して、

「時間」の流れで動く社会になったからでしょう。

人が1時間単位、いや分単位、いやいや秒単位、

で行動するようになってからでしょうか?

忙しく行動するようになってからですよね? きっと。

上役の誰かにある時間内に、

仕事を済ませるように

強要されるようになってからでしょうか?

その後、時間に対して世界中の誰もが、

「ある共通認識」、

「皆が共有できる時刻」

を持つ必要性ができてからですよね。

ということは、「時間の長さ」を決定した

「時間の単位」が発明された、ためですよね。

それは、一日=24時間、一時間=60分、1分=60秒、や

一年=365日、一年=12か月、1月=約30日、てもの。

それまでは、日の出、日没、夜、

新月、三日月、満月、

暑い、寒い等くらいしか区別が無かったのでは?

ないでしょうか?


しかし生きていくために、

作物の栽培の必要性、

定期的な天災や水害など

災害を防止するための予測の

必要性から「カレンダー」が作成されました。

その後「時計」が発明されました。


人間がより便利に豊かに生活できるようにと

英知を結集して作り上げた「発明品」の数々。

「時間」「時刻」を誰にでも

認知出来るように考え出された「時計」。


しかしその後、その発明品の「時計」に

人間は支配され、追われて、翻弄(ほんろう)され、

ドタバタと動かされ、強く影響を受けてしまっている。

そしてその今日を生きる現代人。

人間が発明したものって、

反対に自分たちを苦しめてしまう物の多さに

本当に驚かれされてしまいます。

そのようなものって、

時間の他に、お金、武器、薬、などがあるかな?


そして不思議なことに、

時間も物として捉(とら)えられるようになって、

自分の時間とか他人の時間と区別されるようになって、

「時間」を切り売りして「お金」に

変える「生き方」が考案されて、

現在その生き方が

社会の大多数を形成している。

時間をお金に換算する「時給**円」なんて言葉が出来た。

最も昔から時間は命の次に大切な物と考えられていました。

ゆえに、「時は金なり」、「タイム イズ マネー」のことわざが存在しています。

しかし一方で、それほど大切な時間が

軽んじられている傾向もあります。

「暇つぶし」って状態です。

なんなのでしょうか?

「時は金なり」の反面「暇つぶし」である「時間」の存在。


生まれて、誰にも平等に

与えられた生涯約90万時間。

改めて考えよう!

「何を考えよう」、

「何をしよう」、

「何を食らおう」、

「どこに行こう」、

人生は何事も有限なのです。


今日も洋楽3曲紹介します。

ではここまで。近藤浩二でした。


ビートルズでペニーレインです。

すいません。よく紹介してます。だって好きなんだもん。

1967年リリース。ポールの作品。全米NO.1獲得。全英2位。

アルバム「マジカルミステリーツアー」より先行シングルカット。

ジョンの作品「ストロベリーフィールドフォエバー」との両A面。本国英国では2作目のシングルより13作目まで連続no.1の記録が途切れた不名誉な14作目のシングルとなった。

ピッコロトランペットが印象的。

ペニーレインとはリバプールの遊覧バスの事らしい。

ポールのこういった曲を聴くと、本当にポップソングを作らせたら天才だなとつくづく思う。

覚えやすくてキャッチーで親しみやすくて、優しいメロディー。

ジョンの作品は、少し重たいヘビーな側面があるため、

ポールの軽妙で明るいポップな曲を聴くと

ウキウキするし、本当にほっとして落ち着く。でも飽きやすい。


ティモシーBシュミットでソーマッチインラブです。

1983年リリース。際立ってヒットしなかった。

カバー曲。透き通った美しい声の持ち主。

ポコやイーグルスのメンバー。

青春映画「リッジモンドハイ」の挿入歌。

オリジナルは1963年タイムスによって全米NO.1。

結婚式などで歌われるスタンダードナンバー。多くの歌手にカバーされている。

20代後半大阪の地下街を20前の新入社員と

二人で歩いていた時に、流れてきました。

彼女が「私こんな歌大好き」との発言に

CDショップに立ち寄り、後日プレゼントしたことを思い出す。

でも青春の苦い思い出でした。


ホイットニーヒューストンでグレーティスラブオブオールです。1985年リリース。全米NO.1.

デビューアルバム「そよ風の贈り物」からシングルカット。同アルバムから3作目の全米NO.1.カバー曲。

原曲は1977年プロボクサーである

モハメッドアリの自伝的映画「ザグレーティスト」の主題曲。

ヒット曲多発のヒットメーカー、マイケルマッサーの作品。

彼の知人のジョージベンソンがパフォーマー。

1986年独身時代、会社の寮で朝、大音量で聞き入っていると、台湾人にドアをノックされて「近藤さん、ちょっとうるさいよ!」ドアを開けると「でも、すごく良い歌だね!」懐かしく思い出す。

当時MTVのライブでモハメッドアリが同席して、曲紹介で、

「私が生まれた時には、もうすでにモハメッドアリはヘビー級ボクサーのチャンピオンだった」と述べて笑いを誘っていました。