突き抜けるような青空の下、昼12時前の過日です。
スーパーマーケットの駐車場で車を停車して、家内が惣菜パンとアイスコーヒーを求めようと、小銭入れとチャージカードを取り出そうとしていました。
スーパーの出入り口付近に、濃い茶色の地味な服装に杖を左手に、右手に托鉢(たくはつ)を抱えたお遍路らしき人《真実は解りません。》が一人立っていました。それを見た家内が一言。
「500円あげよ!!」
《なんとばかな!!》
幸運なことに、
小銭入れに500円硬貨が見当たらず、断念した様子。
しかしです「小銭全部あげよ!!」と漏らします。
「100円で良いのに」僕が思います。
支払い直後で家計は切迫しています。
《自分たちは100円パンと100円コーヒーなのです。》
二人合わせて一食分の予算をお遍路さんの接待に割こうとしています。《なんと慈悲深く情に厚いのでしょう!結構な事ですね》
結局、200円だけにした様子。
遍路聖地であるここ四国では、全身白装束のお遍路さんを見かけることは、日常茶飯事です。
ですからお接待を行う精神は、昔から地元の人たちには根付いていると思います。
しかし僕が観察している間(約15分間)、くだんの彼に接待をしたのは家内だけでした。《みんな自分の事で精一杯なのです。》
《暮らしにくい、温もりの無い世間になったものです。》
しかしながら僕が子供の頃、
家の玄関が開いて「チーン」と鈴がなると、母が両手に精米を握らせた僕を連れて、遍路さん持参の袋に精米を静かに差し入れた記憶があります。お礼の札と共に頭を撫でてもらいました。そしておそらくお経を諷経(ふぎん)して頂いたでしょう。でもその時間がすごく長く感じられました。
ほとんど、どこの家庭でも当たり前だったと思います。
僕は一人で居る時に、接待を進んで行うことはまずありません。
その理由はそのお遍路さんをよく知らないためです。
《疑心暗鬼の僕は明鏡止水の家内には遠く及ばないのです。》
以前家内が隣町新居浜市でカイロプラクティック治療院を経営していた時、数人のお遍路さんが来院され、二人してお話を伺う機会が何度かありました。
- 「最愛の子供を亡くし我が子の供養に」と、目に涙をためて話されていた哀愁帯びた老夫婦。 《供養と気持ちの整理》
- 「遍路するなんて特別な何かがあるんですよ。」と最後までその何かを口にしなかった俳句好きの元気な老人。《後日知ったことですが、傷害罪で逃亡中だったのでした。》《しかし結局、遍路中にその方は捕縛されました。》 《現実逃避》
- 「遍路するなんて、お金と時間に余裕があるからできるのです。」と笑いながらおっしゃた独身女性。 《旅行気分》
数年前民主党政権の時代、トップの菅直人氏と鳩山由紀夫氏が、
国のかじ取りもそこそこに、四国巡礼を打っていると話題になりました。彼らの本意は知り得ませんが、民意が得られず第一線を退きました。
地元ではそのような報道から、有名人に会いたい一心で車で追っかけてまで、過分の接待を施してた人も多く居ました。
彼らも何か似たような動機付けなのでしょう。
お遍路されている人の真意はともかく、僕たちの祖霊供養と功徳、信仰心のために、現在は極力積極的に接待をしています。
ですから、遍路周りという行為は、その時にどのような人間であっても、接待《施し》を受ける正当性を得るための免罪符や金科玉条になるのです。
どのような不遇な人にでも道を譲って、情けを掛けてもらえるお遍路さん、次はあなたの番かもしれません。
今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。
今日も2曲プレゼント。
ビートルズでメドレー(ゴールデンスランバー)です。
ザナックでマイシャローナです。
http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/TheKnackMySharona.mp3