障害者を抱える家族の本音

僕は10年前に脳疾患を患ってしまいました。

残念なことに後遺症で、左半身まひの状態のままなのです。

その結果、介護度1から5段階で軽い方の介護度2の認定を受けています。

《僕は今現在、障害者なのです。》


左手と左足の自由を奪われていますので、一人で出来ることは限られています。

したがって、誰かの助けがなければ、自分一人だけで生きていくことは不可能です。


最低限の食事でさえ、自分一人では準備できません。

《憲法で保障されている、人間として生きていくためには、健常者の同居人の家族が最低一人必要になるのです。》


当然潤沢なお金があれば、自分一人でもどこかに外食する。

または弁当や総菜等出来合いの食事を購入する。等によって食事は出来ます。

《お金で介護人等を雇えばすべて解決します》

《金の力は絶大です》


そう言った理由で僕は、介護人の手助けのレベルの必要性から介護度2という軽いレベルから2番目です。

介護する人の立場からの見解による、2番目に軽いレベルの人ですと評価されたのです。


一方障害者と同居する健常な家族には,

どの程度、負担になるのかは、障害者の僕には知る由もありませんでした。


しかしです。

本日より、障害者と同居する家族の負担を感じることが出来ました。


障害者が(どこに)、(どの程度)、障害を持っているのか、によって家族の感想は千差万別でしょう。


僕は今回、認知症の患者と一つ屋根の下、1日過ごしました。


本音を言わせて頂くならば、

「子どもか?」 「ばか?」 「あほ?」が正直な感想です。

《ある意味では子どもよりタチが悪い。》

現在僕は運動障害を抱えていますが、幸運なことに思考力、判断力などは普通です。そういう意味では、自分を《普通人》であると思っています。《でも誰かに否定されるかもです。》


認知症は2015年には約700万人、65歳以上の5人に1人の割合。現在はさらに増加し続けています。症状としては、

記憶力が減少して、さらには理解する力や判断する力がなくなって、社会生活や日常生活に支障が出てくるようになります。

それ以外は普通なのです。簡単な日常会話も特に差し障りありません。ただし、

《常識では理解不能の予測できない行動を起こします。》そして、

《日常生活において他人に迷惑をかけるときがあるのです。》


また幸運なことに先週末、知的障害者を持つ家族の出演される舞踊や演奏の伝統芸能を鑑賞させて頂きました。

そこに居合わせた彼ら彼女たちは、明るくて優しい、笑顔の素敵な、強い絆でつながっている人達でした。


今回一連のことや障害者と生活することで僕が気づかされことの一つに、

障害者は社会にとっての《障害》などでは決してなくて、むしろ逆に周りに《益》をもたらしている存在なのではないかと思わされました。


正直すぐに感じた感想は、邪魔くさい、面倒、ついていない等のマイナス感情でした。

時間が経って、わずかの期間後に感じた事は、

どういうことかと言えば、障害者が居ることによって、

周りの人たちが精神的に高められているように思われました。


我々は障害を持つ人と接することによって、普段当たり前と思っている行為や思考が、決して当たり前では無くて、特別なものかもしれないということに気づかされたということです。


普通なことが特別かもしれないという感謝の念が持てるようになりました。

あらゆる事柄に対して、耐え忍ぶという忍耐を学ぶことになりました。

命の大切さ、尊さ、個性の多様性、

人間の弱さ、強さを知ることが出来ました。

自分以外の人を全幅の信頼、信用する必要性。


今日はここまで。ではまた。近藤浩二でした。

今日も2曲プレゼント。


ビリージョエルでシーズガッタアウエイです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/BillyJoelShesgotaway.mp3


ビートルズでエブリリトルシングです。

http://taiyohanasaku.waterblue.ws/koji/wp/music/beatlesEveryLittleThing.mp3