野暮用事で隣町で用事を済ませその隣町からの帰りの事でした。
車内で「あ、、、、@*+くん」と中学校が同じで近い年代の家内が一言。
「う、うそ!」「あんなじゃなかったろうに」。
どこからどこをどうのように見ても、あんなに冴えてない男じゃないでしょうに。
同級生の僕はどう考えても納得の出来ない彼の風貌とその雰囲気。
もし本当にその人が、家内の言ってる同級生の彼だとしたら
僕はとっても悲しくて切なくなりそうです。
学生時代に勉強やスポーツとも優秀でリーダーシップもあって、僕自身尊敬していた男性だったからです。
その彼が昔の面影は視るところもなく、少し肥えてしまい、自信なさげに暗くうつむき、何か辛そうに、人生に疲れ切っていてそうなのです。結果、どう見ても《敗北者》そのものなのです。
その時僕は絶対、僕の知っている彼であって欲しくないと強く思ったのでした。学生時代の彼の優秀なことを、知っている僕としては、より大きな世界で《成功者、勝利者》として名をはせて、故郷に錦を飾ってほしいと願っているのでした。
しかし彼の兄弟と同級生である家内が「間違いないよ」との発言により、僕は厳しい現実を受け入れて愕然としたのでした。
彼がどのようないきさつで、故郷に戻って来たのかは解りません。実際長男なので家を執る身ではあることはあるのですが。
でも考えてみれば、人の人生なんてある時期だけを、一緒に過ごすだけでは推し量れないものです。
《せんだんは双葉より芳し》とも言われますが、
《10歳で天才、神童と呼ばれ、二十歳過ぎればただの人》っても言われますからね。
幼少期には世間が小さいので、少しの才能と努力で頭角を現すことが出来ます。
歳を重ねれば世間が広がっていくので、頭角を現すのは少しづつ難しくなっていきます。社会人になれば、世間は全世界になるわけですから、少しくらいのレベルの才能では頭角を現すのは本当に困難なのです。
よって本当に才能《本物の才能》があって実力が伴わないと世間に認知されないでしょう。
逆に学生時代優秀でなくても、生き方によっては、社会に出てから活躍される方も数多く存在します。
ですから学生時代いくら優秀であっても、その後の人生が保証されるわけではありません。
また逆に学生時代にいくら評価が低くても、出会う人や運によって自分の人生を大きく花開かせる人もいますよね。
より良い人生を保証されるように、学生時代には勉強に励むわけですが、、、、現実はそう甘くはありません。《学生時代優秀であることに、こした事はありませんが》
また全く別の人の話を家族の人から聞くこともあって、
「昔の名前で出ています」はもはや通用しない現実を痛感しています。
実際のところ、どうなのかは本人から直接聞かないことには解りませんが。
僕ももう半世紀以上も、人間として生き続けています。ですから、外見を一見するだけでも、ある程度人の事は正しく判断できると思っています。
実際厳しい現実に直面して、右往左往して、もがいている人ほど、昔の輝いていた時代をよく口にしてしまいます。
そのような人がいたとすれば、現状の自分に不平不満を持っています。
くだんの彼とは、最近一言も話していないので事実は解りません。
しかもそのような人に限って、絶対に現在の自分の無能《実力の無さ》を認めようとしないのです。
そしてその原因を自分自身ではなく、別の何かや他人のせいにしているのです。
昔の自分のことを晴れ晴れしく語る人には気をつけましょう。
そして《過去の栄光は過ぎたこと》なのです。
《人は無自覚によって自分の地獄を掘るものなです。》
《無能な人はもはや無用なのです。》
すでに時代は混迷期に入っています。
厳しいようですがこれが現実なのだと、自分自身にとっても強く思わされた今日この頃でした。
今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。
きょうも2曲プレゼント
ポリスで見つめていたいです。
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クイーンでキラークイーンです。
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