まだ見ぬ世界を見るために

「@@@さんてすごい人よね。尊敬してます。」

<@@@さん、私信じられないけど、+++++だと思う。>

「でも++さんて最近****でしょう。ちょっと変じゃない」

(<<は>>で@@よね、変わってるわ。)

(****ってすごく楽しい。面白い。)

<@@は++っていわれてるでしょう。今ネットですごい話題でしょう>

「私はもういいです。だって@@@は++++だから」

(<<<|>>の話はもう結構です。しませんから、面倒やし。)

<今忙しくて時間無いから。****はもう少し時間経ってから聞くわ>

「まだ@@@やっているのか?+++++++はやめなさい」

この数週間、身近な人の言動を目や耳にする度、人の考え方、物の見方、人や物に対する接し方の大きな違いを感じています。

そして当然それによってその後、人の行動力、行動範囲、行動の自由度に大きな影響を及ぼします。

同じ人、同じ物に対してなのに、人によって、どうしてこんなにも考え方や見方が、大きく食い違うものなのかと痛感しています。

今日はその辺のことについて僕なりの考え方、物の見方で、考えてみたいと思います。


以上のような会話は全て「偏見」と言う言葉で括られるでしょう。「偏見」とは偏った物の見方や考え方。しかも全て非好意的


これってどこから来るものなのでしょうか?

例えば好きな芸能人と嫌いな芸能人のランキングには不思議と必ず同じ名前の人が上位にランクインします。

これはあるひとつの表情に対して個人によって違った解釈をするからでしょう。ただ単に好みの問題でもあります。

よく話す人を(うるさい)と非好意的にとらえる人もいれば(明るくて楽しい人)と好意的にとらえる人もいるようにです。ただ見た目(イメージ)だけで判断する場合もあるでしょう。

見た目すごく可愛らしくて優しそうで女性らしそうな方なのに、実際話して付き合ったら、下品でケチで酷い人も居ます。

すごく裏切られた気分になり落ち込む時があります。


もうひとつ違った例を見てみましょう。

テレビで見たり、ただなんとなくやっている人を見てるだけだと、テニスやスキーなんてとっても簡単なスポーツで直ぐに上手くなると思っていました。でも実際やってみると、なかなか上手くできず奥が深いなと思ったりします。あれ、思っていたのと、考えていたのと、実際やってみるのとでは、全く違ってるじゃないか。って思う時あります。

政治家なんて自分勝手でお高いと思ってましたのに、実際会って話をしてみると、気さくで楽しくて面白い人だったりする人もいてます。あれ、思っていたのと実際とでは異なってる人もいます。中には印象で思ってたままの人もいますが。

慎重で真面目だと思っていた人が車の運転をすると、無謀で粗く法律すれすれでヒヤヒヤさせられたり。本当の姿はどっちなのって分からなくなる時もあります。

気が弱くて頼りなくて何も出来ないと思っていた人なのに、現実には、気丈で色々な事が出来て頼りになる人もいます。まったくその反対の人もいますが。良い意味で裏切られた時です。

人を集めてイベントを開催する人は「これだけ儲かる」とお金儲けだけが目的と思ってる人って多くないですか。でも実際に当事者と親しくなり実態が分かってくると開催目的は「この講演会に来てくれた人達の考え方や知識のために」だけだったりするんです、お金は二の次だったなんてことも経験しました。しかも身銭を切ってまで開催する人もいたりとかしてました。その逆の人も居たりしますから訳分からなくなってきました。

これらは初めに思い抱いていたイメージや知識と、現実に体験した後のイメージや知識とで、大きな食い違いを感じることが少なくないことのほんの数例です。


人間って自分自身の今までの経験や知識と、テレビや雑誌やうわさ話などの不確かな情報(新聞で信じて良いのは、日付だけ。某有名(?)作家の口癖)だけで、人や物を自分勝手に判断してしまいがちです。でもこれって仕方のないことなのです。

これは自分自身でその人やその物を「よーく知っている」と勝手に思い込んでいるだけなのです。しかもその人やその物は「なんかこーんな感じ」と大雑把に考えているだけのときがほとんどでしょう。

おそらく思い込んでいる人に、ではその人やその物は何か詳しく教えて下さい。と聞き返してもよく知らないはずです。実際に聴き返した時には、言い訳みたいに、根拠等どこにもないのに、自分はそれを知っておく必要もないし。知る必要もないからと開き直る人が居ます。実際に知らないから仕方ないことなのです。

多くの人たちは「よーくは知らない」、けれども「間接的に噂話やメディアで何かを知っている」だけなのです。

しかもその何かが、その人やその物の本質や真の姿では無い上に特殊で特別で普通でない部分、しかも大きく的外れの部分で、本質や真の部分とは程遠い、細かいどうでもいいような事柄であることがほとんどなのです。悪意に満ちた何かの場合がほとんどです。

良くも悪しくも、その人やその物をほんの少し「間接的に何かを知っている」場合にこれらは形成されます。


そしてそれは特殊な部分で、そのひとやその物の普通でない部分であるがゆえに、より大きくクローズアップされます。そしてそれらの殆どが非好意的で攻撃的なのだす。

ここで特殊で特別な部分(普通でない部分)でない部分、つまり普通な部分がその人やその物の本質であったり真の姿であったり実態であることが数多くあります。

しかも「間接的に知った」情報では、普通の部分は意図的に削ぎ落とされています。

「間接的にしか、その人やその物を知らない」から、それらの特殊な部分だけをまとめあげた情報が、その人やその物の本質や真の姿や実態を捉えきれないまま、

真核からずれてしまって特殊な部分や偏った部分だけがその人やその物の本質や真の姿、実態の普通の部分(全体像)と思い込んでしまうのでしょう。

しかしそれは人が愚かで悪い人だからではなく「間接的に知っている」情報が本筋から大きくそれていて、しかも偏っている情報でしかないので、偏見になるのは必然なのでしょう。

情報全てを冷静に判断しても、情報自体がずれてしまっているから偏るのは仕方ないでしょう。だからこれらを悪と決め付けられません。


まさに、木を見て森を見ず、です。物事や人間には多様性があるってことや、また氷山の一角、のように見えてない部分にこそ本質が隠されていることの方が多いことを認識や意識することが重要なのでしょう。

また自分自身の自分は何でもよく知っているというおごりを失くすことも大切でしょう。

また人間の知識量には限界があるということもしっかり知っておきましょう。今自分は偏見を持っているかもしれないと自覚しておくことも大切でしょう。

そういう認識や意識が偏見を防ぎ、本質を見失わないで行動の自由度を広げたり、行動力を発揮させたり行動範囲を広げる事にもなるでしょう。

特殊な部分や偏った情報だけでない、その対象物の本質や真の姿やその実態(まだ見たことのない世界)を知ることも出来るかもしれません。

この世界にははまだ見ぬ真実にあふれかえっています。しかも実態のつかめない見えない世界の方が,見えてる世界より数多いのです。

まさに生命の起源は深海であって、しかもその深海の実態は今もって誰も見たことが無く、全てを把握できない世界であるのです。


《追記》

この話自体にも僕のどうにもならない偏見に満ち満ちているかもです。ご了承下さい。自戒してます。


 

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