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興味の対象が努力の対象

塾という仕事を長年従事していて、改めて気づいた事があります。

昔からの言い伝えです。「好きこそものの上手なれ」です。


戦国時代の初期の出来事です。1560年、 桶狭間の戦いが起こりました。今川義元2万5千の兵、対する織田信長3千の兵です。普通に考えれば今川義元の圧勝だったと、誰もが疑わないでしょう。

結果は皆さんご存知の通り、数の上で圧倒的に劣勢の織田信長の勝利でした。

この説明で終わりにしようと思ってましたが、成績が芳しくない生徒が「どうして、織田信長が勝てたのですか?」予期していない質問でした。

無視することも出来ず、知っていたので説明することにしました。

「奇襲でした。」「どのような?」「桶狭間と言われる狭い窪地で義元の首を取った」「もっと詳しく知りたい」僕は知っている限りの知識を総動員させて説明しました。

生徒達は興味津々な様子で熱心に聞いていました。僕はご満悦で気分がとっても良かったものです。

しかも、そこに居合わせた生徒たちはその後、歴史にすごく興味を持ち始め、歴史の成績が上がってきました。


出来事の結果だけを、読み上げて終わるつもりが、そういう訳にはいかなかったのです。それが思わぬ好結果につながりました。

歴史はストーリーですから、興味の対象は結果だけでは無くて、その過程が大切であると子供達でも気が付いているのです。


問題から答えを出すのは、ほとんどの問題の場合、わずかな時間であるか、ほんの一瞬でしょう。

しかしそこに至るまでの99パーセントは時間をかけて勉強した努力のはずです。

何事も結果が全てではなくその過程も大切です。

だから努力することは大切です。

と教えたかったのですが、、、、、、


生徒達は歴史においては結果のみならず、

その結果に至る経過に興味を持ち始めました。

しかしほんの少しトリッキーな数学や科学の計算には頭が回らないのか、考えたく無いのか、その結果に至る過程にはまったく興味を持ちません。


僕はこれは仕方の無い事だと気が付かされました。

人間好きな事には興味を持ちます。嫌いな事には興味がわきません。無駄になるかもしれない努力なのだと本人が一番よく分かっているのです。無理強いはよくないと思いました。

残念ながら頭の良し悪し、得手不得手は生まれつきある程度決まっていると僕は思っています。

ある事柄が得意な人は初めから得意なのです。不得意な人は初めから不得意なのです。数学、芸術、スポーツ等においては顕著に出ます。

誰でも疲れる事はやりたくないのです。見通しの立たない努力はしたくないのです。


現行の学校教育では教育格差はますます広がると思われます。

勉強の得意な子供はますます得意になるでしょう。80点が100点近く取れるようになるのでしょう。一方不得意な生徒はほんの少し点数が取れるようになるだけでしょう。30点の生徒が40点程度になるだけでしょう。

すなわち、ある生徒は得意な分野はさらに得意になるでしょう。しかし不得意な生徒は人並みにもなれず、底辺を這っているままでしょう。

落ちこぼれが無くなるどころか、ますます格差が広がりそうです。


しかしです。ほとんどの人達は自分の不得意な分野を把握できずに、努力すれば一人前になれて、さらに努力を重ねれば一流になれると思い込んでいるのです。不得意を克服しようとするのです。

あのイチローですが、誰かがもし無理やり野球ではなくサッカーをやらせていたとしたら、野球と同じ程度の功績を残していたかどうかです。おそらく途中で努力することさえ断念したでしょう。

僕が思うに不得手な事柄はおそらく努力しても、一流どころか、一人前にもなれないでしょう。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


 

偉い人ってどんな人?!

偉い人って数多く居てますが、どんな人を言うのだろうか?

早速ウイキペディアで調べてみると、「歴史に遺るような、並外れて優れた人間のこと」と記述されてました。


僕が子供の頃、伝記と言われるような本にその生涯が物語になっている人を偉人と言うのでしょうか。誰が判断しているのでしょう?

偉人は時代によって、つまり世代によって異なるでしょう。

また国によっても変わるでしょう。

そして価値観が変化すれば、それに従って個々の人達の考える偉人達も異なるはずでしょう。

また、誰もが知っている人以外にも、自分の周りの自分だけが知っている偉人も存在するはずです。


少し列挙してみます。

  • 徳川家康
  • 織田信長
  • 豊臣秀吉
  • ナポレオン
  • ジョージ、ワシントン
  • 伊藤博文
  • エジソン
  • ベンジャミン、フランクリン
  • ガリレオ
  • ヘレンケラー
  • マザー、テレサ
  • アインシュタイン
  • 湯川秀樹
  • 坂本龍馬
  • ゴッホ
  • モーツァルト
  • イエス、キリスト

僕が学生の頃、伝記で読んだ人達の一部です。


今の年齢になって感じますが、たしかに名を残すような、並外れた優れた人であるには違いないと思いますが、腑に落ちない人も含まれているように思えてなりません。

今もってそうですが、本屋に行っても、図書館に行っても、児童館に行ってもです。伝記コーナーみたいに区切られて、初めから「この人達は偉い人です」のように押し付けられ、教え込まれて、詰め込まれている気がするのは僕だけでしょうか?

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、ナポレオンなどは戦争で多くの人を殺戮して手に入れた名声です。確かに素晴らしい志や信念に根差した行動であったでしょう。身習う生き方もあるでしょう。僕も信長の考え方やその行動力は驚愕しましたし好きな武将です。


ある国、ある時代ではレーニンやマルクスが尊敬されましたが、

平等を謳って成功した国はありません。

「自由な社会よりも平等な社会が人を幸福にする」とする考えは間違いであることは歴史がそれを証明しています。しかしながらレーニンやマルクスを偉人と捉える人達も数多く存在しました。


現在は自由な社会で資本主義な社会です。ですから「お金持ち」が偉くて偉人であると考えられています。となると後の時代ではビルゲイツや孫正義など金持ちが偉人として伝記に描かれるのでしょう。

たしかに今のような現実的な物質社会において、そこを生きる我々は「有名」、「地位」、「名声」、「権力」、「お金」などを判断材料に人の偉さを測りがちです。もちろんある分野に特別に、際立って優秀で努力したからこそ、成功をおさめ「地位」や「お金」を手に入れる事が出来たのでしょう。それを疑う余地はありません。


でも僕は思うんです。そこに偏りはないでしょうか。ただ自分がそうなりたいと望み、拝められるような人だけが本当に偉い人なのでしょうか?

それは自分には無いもので、もし仮に自分がそれを手に入れる事が出来れば、自分の心の中の穴を埋める事が出来るだけなのではないでしょうか?


世界一の大富豪のビルゲイツはお金持ちになっても幸せにはなれなくて、虚しい心の穴を慈善団体を作って寄付をすることで埋めていったのです。

またフェイスブックの創始者のマーク・ザッカ―バーグも資産の99%を寄付しています。


人はいつも自分に無い物を強く願い欲しがり、すでにもうそれを持っている人を尊敬し憧れるのです。そして偉いと考えるのです。

僕の考える偉人のひとつには、

どれだけ自分の理念にそって生きたかであり、
それは自分に利がなくても、怒りを買ったとしても、
批判されたとしても、理念に沿って生きるのです。

そのうえでどれだけ他人に貢献できたか、なのです。

そしてそれは時代が変わろうが、国が変われろうが、誰からも尊敬される思想であり、功績であって、特定の人達からのみ拝められる偶像ではなく、それは普遍的でなければならないのです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした


《追記》先日の日曜日、地元で市議会議員選挙がありました。候補者の中には僕が割と知っている方が出ていました。内心あんな人が議員に成ったらこの街も終わりだと思っていた人達が当選してました。別のある人がその人は偉い人だと言ってたのです。そこで人によって、偉い人の定義は大きく異なるものだと痛感したのでした。


 

近未来予想!?

昨日の続きです。近未来予想です。


パソコンやスマホが

「一家に一台」から「ひとりに一台」の時代が今です。

「ひとりに一台」の次は? その未来は?


単純に誰でも考えられる事では、

「ひとりに一台」から「ひとりに数台」でしょうか。


その程度なら、どこかのパソコンメーカーでも考えていたでしょう。

でもそうなると、その市場は過当競争になってしまいます。

そして行き着く先は価格競争になってしまいます。その結果自分達の首を自分達で絞めることになってしまいます。


ここで、携帯電話の必然性の未来社会と、コンピューター社会と、ネット社会の、三つの組み合わせを考えた男がいました。

スマホの登場は社会の常識ばかりでなく生活スタイルや経済の枠組みまで変えてしまいました。

そしてそれぞれの市場(カメラ業界もですね)を一手に獲得してしまいました。もしかすれば今後、テレビ業界も変えてしまうかもしれません。


その結果、時代が大きく変革しました。今もなお変わり続けています。

僕も子供の時、当時の大人たちが予想した、21世紀の未来はどうなるのか、その予想図、それに近い絵画のような漫画を、たびたび本や雑誌で見かけた記憶があります。

その時に見た物と21世紀の現代ではかなり違っていると思います。

記憶は確かではありませんが、違いを列挙してみます。

  • 町並みがスマートでした。今のようなずん胴のビルではなくもっと曲線形のスマートなビルでした。
  • 自動車が空を飛んでいました。しかも水中も水上も雪道もたやすく走ります。そしてその形状も細くてかっこよかったはずです。
  • ドアがほとんど自動ドアです。
  • ほとんどの機械、特に家電は遠隔操作で動かします。
  • もっと多くのロボットが活躍していました。
  • 同時自動翻訳機をみんな身に付けていました。

きりがないのでこれぐらいにしておきます。


前述の未来は、常識の大きな破壊とそこに住む人達の理解が無いと無理でしょう。そしてそれに伴う大きな技術革新が必要でしょう。

子供の頃は空飛ぶ自動車の登場を一番に待ち望んでいました。しかし現在の物理学のニュートン力学を充足させるには、さらなる時間を要しそうである。

何かの本で読んだ事だが、現在の社会環境では、夢の機械タイムマシーンは創造不可能であると断言していました。理由は光より速くタイムマシーンが走らないと、時間を超越出来ないのです。しかしながら、相対性理論では光より速い物はこの世には存在しないと明言されているためということらしい。


現在の科学の常識から考えると、空飛ぶ自動車やスマートなビルは、残念ながら、21世紀中でも不可能だと考えています。


近未来は、僕の想像では次のようになるだろうと考えています。

  1. 化石燃料の使用が減少して自然代替エネルギーである、太陽熱、風力、水力が大きく増えるようになると思っています。
  2. 車はほとんどが自動運転になるでしょう。
  3. 家電製品のみならず、日用品、椅子、机等までもネットに接続された状態になり、求める様々の情報が取得出来るようになる。
  4. 各地区に経済特区のような場所が出来、未来都市のような小さな街が作られるような気がしています。

大きな変化は無いと申しましたが、2、3、だけが実現されただけでも生活スタイルは大きく進歩したように感じるでしょう。

その実現のために4番のような場所が作られ徐々に広がっていくのではないかと考えています。

現在でもどこかの国では未来都市建設中です。


期待の人工知能ロボットが人間に執って代わるにはまだ数十年はかかると思われます。

2、の自動運転の技術は現在ほぼ出来上がっています。実現には社会環境の整備が必要なだけなのです。

資源を持つか持たないかが、国力の強弱を決定しないように、また環境衛生などの両面から、エネルギー源が大きく変換すると考えています。

それを実現するためには、ライフラインの新たなな整備が必需であると思います。


そのためには国民である我々が公共に対する町作りをもっと理解する必要があると考えています。

例えば道路を広げたり、新たに作ったりする時、飛行場、駅を新たに建設する時、政治家まで巻き込んで反対のストを起こす人達がいますが、町の発展から視ると言語道断です。公共意識お無さも甚だしい。考えるべき意識でしょう。


以上が僕が考える近未来のひとつです。

では今日はここまで。近藤浩二でした。


 

世の中はまさにスマホ時代

家内の知り合いの一人にパソコン教室を営んでいる女性社長が居ます。

世界一大富豪のマイクロソフトのビルゲイツはOSソフトを開発の折り、

「一家に一台パソコンを」を目標に掲げていました。


その上を行ったのが、そのマイクロソフトとのOS戦争に敗北した、アップルの創業者のひとりである、スティーブ、ジョブズでした。後に彼はiphoneを開発しますが、

「ひとりに一台スマホを」と掲げました。

実際その夢は実現するような勢いです。


くだんの経営者はワープロからパソコンへの転換時にパソコンの到来を予想しました。手作りのパソコン数台から事業をスタートさせ、いち時期はパソコン数十台を設置する程に拡大したそうです。

しかしスマホの登場で事態は急変したそうです。パソコンが一家に一台行き渡る前に、手軽で操作性の良いスマホの登場は世間の常識を大きく変えてしまいました。


家に固定電話は無くても家族全員スマホを持っている家族は多く存在します。そして家にパソコンは無くても各人スマホは持っている人達も数多く居てます。

実際知り合いに某有名家電メーカーに勤務されていた方であっても、家にパソコンもDVDプレーヤーも所持してないそうです。そんなこともあってか、パソコンやパソコン関係のアイテムはその需要を大幅に減少させています。すでに、企業やいち愛好家や職業で必需品と言う方しか、もはやその存在意義は無くなっています。


くだんの経営者も今では大部分を占めていた、いち個人の客はひどく減少し、今では職業訓練校として、市から委託を受けることで経営がどうにか維持出来ている状態だそうです。

経営の能力の問題というよりも、著しい技術革新が社会の需要をも変えてしまったほんの一例です。


「一家に一台」から「ひとりに一台」の時代はここ十年程で変化しましたが、「ひとりに一台」から次はどうなるのでしょうか?

それを誰が仕掛けてどのような時代を作るのかは想像も出来ません。しかしそのチャンスは誰にでも有ると僕は思います。これから数十年先の未来をどう見据えるかによって各人の未来が変わってしまいます。


未来がどうなるのか、ただの傍観者になるのでは無くて、自分達で仕掛けて、自分達の考える未来を作っていきましょう。

最後に筆者の座右の銘です。スティーブ、ジョブズの言葉で

「ハングリーであれ!、愚かであれ!」です。

いつもこうありたいものです。


今日はここまで、ではまた、近藤浩二でした。


《追記》

「ひとりに一台」と理念を掲げたジョブズでしたが、後のインタビューで自分の子供にスマホを使用させますか?との質問には、自分の子供達には使用させたくないと望んでいたそうです。不思議ですね?

目的が入れ替わる

年が変わってブログを書こうと思いパソコンに向かってあれこれいろんなことに想いを巡らせていました。

しかし正月でアルコールが入り睡魔のせいか、気分が乗らず筆が進みません。頭の中に想い浮かんだテーマを考えましたが考えがまとまらない。投稿の締め切りには時間が一時間程で日付が変わる。考えがまとまらない上に筆が進まない。


新年が初めってそうそうブログをスタートしないのは気分が良くないと思ってました。そこでその一日の出来事を箇条書きに書くだけにしようかなとも考えました。まるで小学生の日記みたいになるかもと思っていました。でも自分自身が認めることが出来ません。それで後から編集することにしてとりあえず投稿だけしました。

昨日と今日はその投稿の編集をする前に考えがまとまらず途中の話のまま投稿したことを考えました。


それで気が付いたのです。僕はブログを書くことだけが目的になっていたことに思いあったのです。本当はブログを書いたその先に目的があるのにもです。


誰にでもよくある話ですが、ある目的である行動を行っている間に目的が変わってしまうことってよくあります。

学生時代要点の整理と全体の流れを把握するため、ノートと教科書の二つを読み返して別のノートに数種類に色のマーカーや下線を引いたりカッコで囲んだりとカラフルにいっぱい時間かけてまとめ上げて整理ノートと作り上げました。これで今度のテスト対策はバッチリって思ってました。でも不思議な事にあんなに時間をかけたにも関わらず、テスト結果が伸びない時が多々ありました。

しっかり覚えて自分のものにすることが目的であるのに、ノートに綺麗にまとめ書きをすることで満足していたんです。こういうこっとって誰でも経験したこっとってあると思います。

本来の目的が作業の途中で別な物に入れ替わっているんです。僕は、年末部屋の掃除をしようとしました。数年前の懐かしい写真の束を見つけました。一枚二枚と見ていくうちに懐かしくなって椅子に掛け直して結局最後まで全部見ました。みなさんその後僕何をやったと思います。片付けするのをほっといて写真を探し始めたのです。

掃除して片付けするのが最初の目的だったのです。でもその途中でまったく別の目的に変わりました。そのことにまったく気が付かず時間だけが経過して結局初めの目的は達成されることなく次の目的、次の目的へとどんどん変わっていきました。そして時間だけが過ぎてしまい一日が終わったのでした。


今回ブログを書くにあたり自分なりに目的があったのです。しかし続けていくうちに、内容はともかく書いて一日に一回投稿するということが目的なってしまっていました。じっくり時間をかけて考えなくて投稿することがほとんどなのです。スピードが求められる上に、早いレスポンスが可能になったため仕方のないことなのでしょうが、投稿したい内容によっては毎日投稿可能なテーマと、何日間時間をじっくりかけて洗練すべきテーマがあるはずと考え直しました。しかも毎日考える事は時間の経過とともに変わり続けるのです。


今日はブログが途中で終わってしまったことで改めて考えたことを書いてみました。。人間の目的は行動の最中でさまざまに変化していくということ。そしてそれは誰しも当たり前であるということです。