名前

自分のものなのに、自分よりも

他人によく使われるもの、ってなあんだ?

子供の頃、《なぞなぞ》でひんぱんに訊かれた。


一昨日の午前中、子供たちへのおみやげにと

何年ぶりかで久しくご無沙汰していた有名ドーナツ屋さんへ

隣町へと足を延ばして半時間(ハーフアンナワー)かけて

おもむいた。家内は仕事でよくご厄介になってるようだが。

並木通り沿いを一本東に位置する目抜き通りに構える地方

有名スーパーへひっきりなしにゾロゾロとにぎやかな人の

群れが慌ただしく、まなこ全体に飛び込んでくる。


そんな人たちを尻目に一歩手前の角を右に大きく曲がってひとり

テクテクと吸い込まれるように入店する。時節柄、消毒液が設置

されているが、べちょべちょになって鬱陶(うっとう)しいので

自己判断で無視して陳列だなを隅々観察しながら、はう様に動く。

そうこうしていると、ある時、親切心からなのかマニュアルから

なのか、身障者への対応へとトレイとトングを手に持って、

ひとりの若い女性従業員が笑みをたたえて近寄って来られ

背後から顔をのぞき込んでこうおっしゃった。

「どうぞ、お使いください」「ありがとうございます、でも、

じきに、連れが来ますから、結構です、すいません」と

微笑み返し断った。彼女はトレイとトングを元の位置に戻すと

「では、お好きな所に、お座り下さい」と声をかけ、丁寧に

応対してくれた。朝から気分を良くした私は「すいません」と

軽くおじきをして背筋を伸ばし店内を見渡した。

ひとりずつの女性客が西と東の隅にそれぞれ腰かけてスマホを

つつきながらコーヒーをすすっている。北側の陽の差し込む

テラス席には年配の男性客大勢が食事が済んだ様子でザワザワと

後片付けを済ませてコートやバックやらをしきりにチェックして

立ち去ろうと腰を浮かせていた。いっきに人気の席がガランと

なって、子供のように喜び勇んで陽当たり一番でベストビュー

ポイントへ腰かけた。やがてやってきた家内に望みの商品を

伝え、席でワクワクしながら待っていると、先般の女性店員が

トレイをさげて近づいた。「お待たせしました、コーヒーの方?」

との声に軽く手を上げて、「はい」と応えた。彼女は

パチクリとした可愛い目元が魅力的な女性で、一瞬目が合って

しまい恥ずかしくなった私は視線を落とすと名札に注意が向いた。

「ごゆっくり」との声に、すかさず「高橋さん、ありがとう」と

名前で呼んでお礼を言うと、彼女は一瞬、ハッとしたようで

ピくッと肩が震え、小さく振り返り目を見て会釈をして立ち去った。

しばらくして、女性店員に目配せして手を上げ「コーヒーおかわり」

と告げると、彼女は笑みを浮かべて近づいて嬉しそうに注いでくれた。

「サンキュー、ミズ、タカハシ」と重ねて言うと、ニコッと

目尻にしわを寄せていっそう嬉しそうに、はねるように戻った。

私が何度も顔を上げてレジ付近に目を向けると、彼女は

コーヒーポットを抱えて給仕の準備体勢を取っていた。

私が手を上げると時を置かずに近寄って応対してくれる。

「飲み過ぎと違う」との家内の忠告に「元とらないとね」

「たかはしさんがいれてくれるから、」「ほんと美味しい」

と答えると「ありがとう」「何回されても、けっこうですよ」

と笑いながら「元以上とってくださいね」「サービスですから」

と声高に優しくおっしゃってくださった。


異なる過日の事。昼食で回るすし屋で食後、立ち去ろうと身体を

すべらせて寄せて杖を手にしてベンチシートから立ち上がろうと

テーブルに手を掛けると、とつじょ・・・ 目の隅にひとりの

男性が・・・ 「どうぞ」と言って手を差し伸べてくれた。

「大丈夫です、ありがとうございます」と丁重に断った。

一瞬、名札に注意が向いて「ファイさん ?」と語尾を上げて

彼を見やると、「はい、外人です」と寂しそうな表情をされた。

自分を卑下してさげすむようで良くない事だと悲しくなった私は

顔から受けた印象から当てずっぽで「ベトナムですか?」と

問うと「そう、ベトナムです」とビンゴだったのか、にこやかに

微笑んで応えてくれた。「仕事で日本に ?」「そうです、」

「ベトナムの印象は ? 」と、彼の問いかけに、こう答えた。

「戦場にされた、悲しい歴史を背負った国、」

「プア・シング(可哀そうに)」

と聞くと、彼は辛そうな悲しい目をして「以前わね」とつぶやく

と「でも、今は変わって良い国ですよ、」「一度来てください」

と笑顔で話してくれた。最後に「ですね、機会を作って、ぜひ

とも」「世界で一番、女性が美しい国とも聞いています」と、

付け加えた。その後、彼は活き活きと、テーブルを片付けている

ように小生には感じられて嬉しくなった。


直接、名前を呼ばれると誰でも自分自身を意識して、アイデン

ティティーを呼び起こされるのだろう、良いことであろうが、

そうでなかろうが。ちなみに、小生の名前の名づけは托鉢で

通りかかったお坊さんに、つけられたと学生の頃に聞かされた。

「ガラガラ、ごめん下さい」「はい」「この家で」

「こんど男のお子さんが生まれますね?」「子供は生まれますが」

「生まれたら、こうじ、とつけたら良いですよ」

「はあ、どうして?」

「こうじ、と名前の人に悪人は居ませんから」と

「考えてみます」で結果、その通りに、

確かに、悪人でないのは間違いないが・・・

安易過ぎないか、もう少し熟考してもよかったのではと。

上善水の如し。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。座って半畳、寝て一畳。


見慣れた通りを転がしていると、母校の小学校が目に入った。

懐かしくなって、記憶の断片をつないで、校歌を口ずさんで

いると「それ、中学校の校歌よ」とツッコまれてしまった。

大人になって、校歌を思い出そうとすると、小学校と中学校が

ないまぜになって、区別がつかないことがよくある。

家内とは小学校は違えど、中学校は同じだ、ごまかせない。

やっかいだ。


 

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