近藤 ヒロ子という女性

夏色の生ぬるい風がそよぐ中、青空が広がる日々が続いている昨今。

季節外れの厳しい暑さであるものの、木々の緑がいっそう映え、私的には、心地良い季節を迎えている。

鳥のさえずり、季節の花々が心を和ませ、自然の恵みを感じながら日々の生活を楽しんでいた、梅雨明け間近の晴天が続くそんな中、天から呼ばれた時が先日の日曜日、6月最終日30日、その日であった。母が逝った。


誕生日付近は、何でもない日の一点五倍の確率で亡くなるらしい(ネット情報)にたがわず、昭和8年1933年、七月一日生まれの92歳、現代の平均寿命を超え、まさに天寿をまっとうした人生であった。


昭和という激動の時代背景、貧しい農家の長女として生を受け、食べることもままならず、いつもヒモジイ思いを抱いていた少女時代であったと聞かされた。今もって痩せこけた身体から、生涯、腹いっぱい食することなど稀なことであった、何よりの証拠であろう。

望むべくもない境遇の中、長男の元に嫁ぎ、しゅうと、小姑との確執。

避けることのできない様々な酷い立場に追い込まれ、理不尽な扱いを受けることも数知れず。

どうすることもできない封建的なしがらみに巻き込まれ、三人の子供を抱えては、逃げ出すことなど許されず、心の中ではいつも泣いていたという母,ヒロ子。

人生の大半は、辛く厳しい人生であったやも知れないが、三人の子供を産み落としたおかげで、4人の孫と五人のひ孫に囲まれ旅立つこともでき、幸せを感じたであったろう。それは、穏やかな顔からも伺い知ることができる。


生来の、小さいことにはこだわらない、気にしない性分が、彼女を彼女たらしめた。彼女は、笑うことや楽しむことを決して忘れなかった。死装束の母の顔を見ていると、今も頭をよぎるのは、笑顔の中、毎日を楽しんでいた貧乏ひま無しの働き者の母の姿であった。

惜しみなくば、根っからの貧乏性がたまに傷であった。良かれと思って、お金を掛けて、たまにには贅沢を味わってもらおうと準備しても、高いと言って素直に好意を受け取らないこともたびたびであった。

最低限の世間体を考慮に入れながらも、それ以外のどうでもいい人に対しては、他人の目を気にすることなくマイペースに、ただただひたむきに自分自身を生きてきた。

子供には理解を示し、倫理的や経済的に許せる範囲内であれば、大概のことは許して、自由にやらしてもらえた。

そんな優しい理解のある母でも、道徳上の問題や、曲がったことだけは、一ミリたりとも許してもらえなかった。小学生の頃、兄と2人で人に言えないような悪さをした時は、あの仏の母が鬼になったのではないかというくらい、親に殺されるのではないかと思えるくらい、烈火の如く、それはそれは叱られた。


晩年は認知を患い、同時に口から食事も摂ることができず、楽しみや喜びが奪われたであるにも関わらず、目で見て、耳で聞いて、会話の少しなら可能であったことが少なからず救いであった。

父と同様に、誰かに不機嫌を撒き散らすことはなく、誰とでも仲良く、誰にも優しく、それでいて、ユーモアを忘れない、図太くも、ある一本芯の通ったそれはそれは強い女性であった。


今日はここまで。

近藤浩二でした。

ではまた。


P。S

寂しくなると、電話の留守電に

「浩二、おるん?」「何しよん?」

「どなんしたらええんかいね?」

「居らんかったら、しょうがないね」

「コウジ、コウジ、ツー、ツー、ツー」などと、

質問しておきながら、ひとりで自己完結させていた、ことが

今さらながら、思い出すと、家内と献杯時、語り合った。