友達

つい先日、中学校の同窓会の連絡をもらった。余りに突然で、

懐かしさと同時に嬉しさもあって、「うん、イイよ」と

返事したものの、近くなって、考えれば考える程、

面倒臭くなってきて、結局、「キャンセル」と、断わった。


なぜかって言うと、卒業してこれまで付き合いのある人も、格別

会いたい人も居ないから・・・。

学生時代、小学校とはぜんぜん違う、初めて体験する雰囲気。

何とも言えない居心地の悪さを常に感じていた。

気が弱く気が小さい僕は、いつもそわそわ、おどおど何かを

警戒しながら、誰かの視線を気にして過ごしてきた。

学業以前に、新しい人間関係、中学校生活に慣れることが

先決問題だった。初めて体験することばかり、心配性の僕は

環境が大きく変わって、入学から数か月ずっと

体は元気なのに精神的に不安定だった。

当時は、考え過ぎて、不登校になる一歩手前だったと思う。

でも、本来の図太さ、呑気もの、細かい事は気にしない、

脳天気で開き直る、性格が良かったと思う。身勝手な奴と

知りつつも声を掛けられ、心根の優しい僕は断り切れず、

付き合っていたら、いじめをされているよと、別の友人から、

こっそり教えてもらいながらも、本人は少しも気付かなかった程

の無神経だったのだから。そいつとはその後、僕の成績が

上がっていくと、気まずくなったのか、もうバカにできない、

見下せないと心変わりしたのか、少しも付き合わなくなった。

そんな最低な人間が世の中、うじゃじゃ居るのだ。

そんな野郎の顔なんかこれぽっちも見たくなかったから。

ほんと良かった。

みんな、気を付けろ!!


 

確かに今もって昔懐かしい当時流行っていた音楽や映像を見ると

途端に、言いようのない切なさでいっぱいになって、思わず、

立ちすくんだり、対面の人との視線を逸らしたりして、

ひとり物思いにふけってしまうことが多々ある。取り立てて、

学生時代、良い思い出なんかほとんどない中学生生活だった自分。

親友と呼べるような友人も居ないし、

会っても愛想笑いをされた上、顔をしかめられそうで

「どうしよう、何話そう」といった相手の心の声が

聞こえてきそうで、心から楽しめない、笑えないと思ったのだ。


無駄に感情を消耗させたり、意味の無い時間やおカネや

エネルギーを使うのは、もうやめようと考え直した。

だって、これからの自分の人生に、彼らは僕のこれからに

きっとたぶん、いや絶対関わらないから・・・。

もう、どうでもいいや。て思った。


勝ち負けで言ったら、カネがない、地位や名声のひとつもない、

子供も居ない、そんな現在の自分は、世間で言うところの

「負け組」になるだろうから。正直に本音を言って断っても

「そんなこと気にするな、いいからこいや!」と愛想して

くれるだろうけれど、どんなに図太いこんな俺でも、そんなに、

強くないのだ。卑屈な劣等感の少しくらい持ち合わせているのだ。

それで言葉をにごして、やんわりと断った。

想像以上に、何だかホッとした自分を知って、正直驚いた。

そんなに気にして、嫌なのに無理してたんだ。この俺は・・・。


 

昔から、ひとりで居る時間が寂しいどころか本当に嬉しくて

たまらない。

それから自分は決めた・・・

帰属意識を持って、誰かと無理してつながらなくても、

人生は幸せに過ごせるのものだと。

いつの間にか、親友になっていた。

気付けばいつも一緒に行動していた。

そういうのは小学校時代で終わっていた。

人間関係は、もういつも「一期一会」でいいじゃないか。

この人と友達になりたいと思ったら、その場で伝え、連絡先を教えてもらえばいいだけのこと。しかしながら、

人間関係なんてその場限りでいいじゃないか、

離れてしまえば、終わりでいいじゃないか。

どうせ離れて会わなくなれば、徐々に切れてしまうのだ、

今どきの人間関係なんて。

葬式で「初めまして」と挨拶する親類なんて、よくあることだし


この春、小学校に入学する子供が「一年生になったら」を陽気に歌っていた。

「ともだち100人できるかな」無邪気で楽しそうに

聞こえるが、孤独を愛する人や社交的でない自分には

脅迫にしか聞こえない。

言わせてもらえば、歌詞で言う友達100人なんて

真っ赤なウソでしかない。

友達100人は多すぎる。それは「友達」ではなく、単なる

「知り合い」と呼ぶのだ。理想だけじゃなく子供には、

もっと現実を教えた方が良いと思う。それでは夢がないといわれそうだ。


幼少の頃、僕は常に母親、おじさんおばさん、隣近所の人達に

いっぱい囲まれて過ごしてきた。そのためなのかどうしてなのか

わからないが、逆に自分は孤独に強く、孤独を愛してきた。

ひとりは、誰にも気を遣わなくて、自分の好きな事だけができて

良いではないか。

でもだからこそ、


人生のよりどころをどこかの誰かに求めるのはもうやめようと

つくづく思った。

だって自分の人生は自分だけのもので、何かは、

自分自身に求めなければいけない。

もういい加減、イイ歳になったのだから。


今日はここまで。

近藤浩二でした。


 

今日心に刺さった言葉

泣く奴三流、

歯を食いしばる奴二流、

果てしなく笑い続ける奴一流。


過去は、捨てられない、

今は、止められない、

未来は、作ることが出来る。


誰かを超えようとするな、

自分の限界を超えろ!!


今日はここまで。

近藤浩二でした。


 

時間ドロボウ

記憶を巻き戻すなら、テレビを見るようになってからだ。

見たいモノを見るだけなら、実家に居る頃だけのことだったが、

ひとり暮らしを始めてから今までずっと、悪い癖が抜けない。

それは点けっぱなしでだらだらと見続け、あっと言う間に時間が過ぎる。と言うこと。

それどころか、「見たい番組がない」と思いながらも、

次々にチャンネルを変えて「特に見たいもんがない」と

結論付けたのに、どういうわけか、どうしても消せない。

まさにテレビは悪魔の機械、時間ドロボウだ。

何かをしながら、同時にテレビの映像や音に包まれてないと

何か大切な情報を見逃したようで不安で落ち着かないのだ。

もはや病気だ。


インターネットの普及と同時に、何でもネットを使うようになり

生活は大きく変わった。そうして時間の浪費がますます増えた。

テレビを見ながら、アマゾン、楽天での日用品や耐久財の購入をするようになった。

更に時代が進んでスマホが出現し、お気に入りのぶろぐや、

知り合いの人達の日常、天気予報、今日の運勢占いニュース全般を、はぼほぼ毎日、チェックするようになった。

またしても時間の浪費は、一気に増え、極限に達した。

スマホの一番の使用目的である携帯用電話やメールは、全体の機能からすれば、わずか数パーセントにも満たないというのに。


結局のところ、一日24時間の内、これらの時間ドロボウによって大幅に時間を取られている。

今現在の僕の日常は、

寝床に入ってスマホをチェックし、翌朝目が覚めたら、

枕元にあるスマホに手を伸ばすことから、一日が始まる。

ほんの数秒間メールをチェックするだけでは終わらず、

ついだらだらと見てしまう。メール、フェイスブック、

グーグル、ユーチュブ。それもそのはず。

これらのアプリは、シリコンバレーで働く天才たちが、

どうやったら人間の時間を奪えるか考え抜いて作ったのものだから。

当然の事、凡人の我々はやすやすと罠にはまってしまうわけだ。

世界中の人間がアメリカ人、GAFAMに日々の暮らしを牛耳られてしまっている。


うまく使えば便利なツールなのに、自制しないとあっと言う間に

昼になり、一日が終わり、知らぬ間に月が変わって、一年が終わり、歳を取る。


当面は、テレビは見たい番組ノミと・・・加えて、

寝床のスマホは絶対にやめよう。


今日はここまで。近藤浩二でした。