健康

体調不良のため、《知的生活》からめっきり遠のいていました。

空き時間には、薄明りの下、昔の甘ずっぱい記憶と魂が溶け合っ

ていました。そんな中、音楽鑑賞か天井を眺めていました。ふと

思いました。天井の無い家に住んでみたい。趣のある星や月を

眺めながら、眠りに落ちることが出来れば、きっとこの上なく

幸せだろうな、なんて何気に考えていました。話を戻します。

今日は僕の仕事始めです。松の内の賑わいも遥かに過ぎ、

先日は正月で疲れたお腹を整えるため、七草粥を食しました。

おかげでようやく体調が回復し始めました。年末から正月にかけ

て酷使した胃腸を休ませ、野草の生薬効果を期待し、本来の

自己治癒力を回復させることを目的とします。しかしたとえ

どんなに節季に忠実に従って、食事や身体を気遣っても

病気や怪我をしない人は、この世には一人も居ません。

話をさかのぼること、想像するに、昨年末誰かからのウイルスが

僕にも襲った。熱を出して、咳にあえいで体調を崩して、

撃沈してしまい、食べることすら、面倒で億劫でした。世間で

言うところの《風邪ひき》ってやつです。僕も人並みに

病んでしまいました。久しぶりです。思い起こせば、数年ぶり。

これで僕が《バカ》でないことが証明できたんじゃないでしょうか。


改めて《健康》は何ものにも代え難い、今年も健康は一番です。

年を越しての、体調不良風邪は正直きつかったでした。しかも

内臓疲労から、僕の愛ある可愛い、くちびるははれ上がり

今もって食用ノリを貼ったようで、かさぶたが付いています。


その一日の間、食事をするために、一日じゅう必死で動く。

その食事でようやく翌日動けるだけのエネルギーを補充し、

また動いてその日の食事を摂取する。ただその日を生きる

ために、その日を過ごして居たのです。生命を維持するため

だけに生活していました。普通であれば、そこには不安と

苦悩しかありません。何の希望もなく、自分の身体から

沸き上がる自然治癒力が、苦しみから解放してくれるのを

待つだけでした。そのような人間の日常と、動物のそれとの

あいだに、どれほどの違いがあるというのでしょうか?

幸運なことに、思考力が単細胞並みに、欠落しているおかげで

プラス思考も無いかわりに、マイナス思考も思い浮かばない、

といった《ケガの功名》にあやかりました。


《人間は考える葦である》と言われますが、僕は体調不良の間、

そのカタゴリー外の生物でいたようです。思考力が完全停止

してしまいました。そのせいで、人間である前の、本能だけで

動く動物のような、すさんだ日々を送っていました。これは逆

に、本当に貴重な体験でした。人間は高度の知能を所有するが

ゆえに他の動物と一線を画しています。知性と本能の能力の加減

によらず動物は、死の危険に直接関わる、目に見える外敵には

予防も含め、知恵と本能で割と容易に防御出来ます。一方

死に直接関わっていないためか、直接目には見えないためか、

目には見えない小さな外敵には対処を怠りがちです。しかも

その予防には目も手も行き届いていません。自然界には目には

見えぬ恐ろしい微生物が、無尽蔵にはびこっています。奴らは

自分の住かを拡大しようと、執念深く常に隙を伺っています。

しかし正月すら酒を断ったこの身には、なんの《うまみ》も

無いと、おそらく嫌気がさして、ここの所、僕から退散したよう

です。ーー「ざまあみろ」--少し気を抜くと、弱った身体は、

あおりを食って、ウイルス等に簡単に侵入を許し、健康を害して

しまいます。すんでの所で、かろうじてまだ人間である

おかげで、わずかな知力で対処することができました。風邪への

抵抗力は、身体から《酸性》を除し《アルカリ性》に傾ける必要

のために、柑橘系の果物(みかん)を大量に摂取しました。


おそらくその程度の知恵が無くても、生物の本能ってやつは

とんでもなく優秀で、尊敬以上の畏(おそ)れ多い、意識を持っ

た《存在》なのです。もし想いが乗れば、人間は変化を嫌うた

め、流れに任せて楽な方を選択しそうです。一度外敵に侵入され

衰弱した身体を無理に酷使しない方が、身体は楽でしょう。

でも本能に従順な身体は、生命維持のため、外敵に対して、

野放し状態にできずに、なんと立ち向かうのです、しかも

戦うのです。生物の細胞の本質は、どのような環境にあっても、

不利な状況の中でも、勝てそうもない戦いにも挑み、前に進んで

いくのです。現実の世界であったならば、人間は無理に障害を

克服しようとしないで回避しようとするでしょう。なぜなら、

障害を克服しようとする戦いこそが、目的に向かって進んでいく

ため、凄まじい活力を必要とするからなのです。生命組織の防衛

のためには、生物には排除の理論が働きます。生命の維持のため

には、どのような敵にも、立ち向かって戦い抜くのです。しかも

その戦いは、決して諦めることもなく、努力し続けます。

無理だ、「不可能」と言われながらも、障害を乗り越えなければ

ならないのです。それは限界を超えるような、のっぴきならない

戦いなのです。生物の本質は、常にそれを心得て、対処している

のです。これを《狂気》と言わずして、何を狂気と言おうか。

このことはまさに、生物の矜持(きょうじ)なのです。


あなたの中に何かがあれば、あなたにそれだけの価値があれば、

道は必ず開けるものなのです。生物はそのように創造されている

モノなのです。現実社会で、障害に遮(さえぎ)られると、途端

に勇気や気力はしぼんでしまい、歯を食いしばる、といった

精神力を保つのは難しいことです。体調を崩し、弱り切った身体

が、日ごと回復に向かっていることに感謝して、奇跡のような、

本能の成せる《御業》に自分自身の強い想いも、重ね合わせて

いました。何事においても、都合のいい状況や環境が整うのを

待っているものには、決して何事も成すことはできません。

無理だと言われながらも「不可能」をやり通し、障害を乗り越え

ていくモノこそが、どのような世界でも通用することができるの

です。を、再度学んだ今年の正月でした。自分自身が考える以上

に、内なる本当の自分が、自分を一番よく分かっているのです。


今日はここまで。近藤浩二でした。

久しぶりに文章を書くと、やはり想像以上に

疲れてしまいました。今日はもう寝よう。

疲労の上で、病気に付け入れられる、隙を与えてしまったこと

は空白の年末を過ごすことになった、ひとつの契機でした。


ではまた。PS I love you.