朝夕ともに涼しいというより、すっかり冬かと勘違いするほど
寒くなってしまいました。数日前、昼前の11時過ぎ車に
乗り込み、昼食を兼ね、隣町へと新鮮卵を購入に出発します。
秋晴れの中、草をなびかせる、でも穏やかな風、空には薄く
静かにたなびく雲、草木がもうじき色付き始める季節が迫って
来ています。秋の柔らかい光に導かれ、低い位置に
視線が移りました。ほんのりと肌寒く、車中から心地良く
秋景色を眺めていました。青空と取り囲む古い家並み、
川べりを走行中、うっすらと、緩やかに、わずかに
揺れ動く白い穂先が僕の視界を捉(とら)えました。
次の瞬間「ススキがいっぱい」確信が持てずとも、
思わず声が、、「あれ、ススキで?」いきなり聞かれて、
泡(あわ)食ってしまって、声が上ずってしまいました。
「えっ、、っと、、」、、押し込まれて、自尊心が
傷つきたくない僕は、しどろもどろと言い訳がましく
「ススキ科か、、ススキの仲間の植物やろ、、」との自己弁護に
走って、自己嫌悪が襲い掛かっていると「えっ、、ほんとに?」
と再度尋ねられ、さらに自己弁護を重ね塗りしてしまいました。
「そんなの、本人に聞いてみないと、分からないでしょ、、」
そんな僕の発言に嫌気がさしたのか妻の逆襲が始まりました。
「もう、ほんとに素直じゃないのね。大嫌い。」
「もっと素直になりなさい。」その時二人の視界に
本当の《ススキ》らしき一群が見えました。
「あれが、ススキですよ。」妻が強い口調で自慢気に
言い切っていました。僕にもなんとなく納得できましたが
なんだかその正当性が認められず、悔しくて抵抗しました。
「君はススキさんですか?」ダイコン役者が絵空事を論じます。
「私はススキではなくて、、鈴木ですよ」とオチをつけました。
「よく間違えられるのよ。気を付けてね。」「あっ、そっだね」
僕たち夫婦はつまらない、些細(ささい)な事でよく
揉(も)めます。お互い聞き流せば、済むことを生来の
負けず嫌いがそうさせるのでしょう。バカみたいです。その後
本気で喧嘩になって言い争いに至ります。良く言えば《本音》
でぶつかり合います。結果どちらも折れないから、互いを
ののしり合ってしばらくの間、沈黙になります。《時間》の経過
だけが、ふたりの《かすがい》として存在しているのです。でも
これで20年近く今もって365日二人だけで生活しています。
本音で傷つくならば構わない。でも、嘘で傷つくのならば
いたたまれない。理屈では理解できても、悪態をつかずには
いられない。これが人間の悲しいサガです。しかし互いに
相手をよく理解し合っているのでしょう。加えて根本的に人間を
愛しているのだなと思います。それは《本音》でぶつかり合う
からなのです。自分は勝たず、相手も負かさず、敬意を払って
《虚》(嘘)ではなく《誠》(本音)を振りかざす限りは、
相手を切っても、傷つけても、血は流れません。
得てしてとかく、我々は自分の正当性を言い張って
しまいがちです。しかし一方の正当性の反対は
《また別の正当性》であることを引き合いに出すまでもなく、
論争は相手に歩み寄る気持ちが、無い限り、平行線なのです。
夫婦喧嘩はたいがいこれでしょう。したがって結論は、
第三者が、客観的に下す以外に答えは出ません。結局
ほとんどの人は残念ながら、その言葉に、
生き方が追いついていないものです。
今日はここまで。近藤浩二でした。
ではまた。今日も楽しんで書けました。