言葉

先日ふと思った。この世界は《言葉》であふれかえっている。

でも「言葉」って一体、誰の、どこから、生まれ出て、

理解されて伝わっていくのだろう?

誰かが、どこかから、何かを聞いて、口から言葉として

吐き出ていくのだろうか?それとも、誰かの身体

の中から、自然と湧き出て、言葉となって出るのだろうか?

言葉の最初の発生とその伝承の謎の解明に何気に気付いた事。


今年のお盆期間は言葉の未熟な幼児が初めて我が家に

やって来ました。午前中の活動は、初めての体験に

緊張して疲れたのか、車に乗り込むとあっという間に、

こっくりこっくりと、船をこぎ始めてしまいました。

重い頭が固定できずに、振れてしまう頭を、両手で自然と

バランスをとっている姿がいじらしく、僕の身体にもたれ

掛けてやると、すやすやと夢の世界に。可愛い寝顔にうっとり。


うたた寝も兼ねて昼食も摂ろうと、いったん家に戻り

マットに寝かせて自分たちもそれぞれの寝床で

横たわっていました。空気がよどまないようにと

すべての部屋の仕切りを開け広げ、明かりをつけない状態

のままでいると、僕の部屋の入り口付近に、起き出した

彼の姿が目に入り、ふと視線が合いました。


「***、どうした?」無言ですが目が何かを訴えていました。

「寂しい?」大きくうなずきました。僕は不思議に思いました。

彼は、《寂しい》って言葉を知っていたのかな?

彼は、いつ、どこで、覚えたのかな?

《寂しい》の意味を、どこまでどれほど、解っているのだろう?

もう一度尋ねました。「ひとりは寂しい?」うなずきました。


一歳余りの彼は、聞いたことはあっても、おそらく誰かに

何かで覚えたのではないはず。なぜなら《寂しい》っと

口に出せないから。知っている言葉ではないはず。

でも聞くだけで、なんとなく体感できる、分かる

理解できている。賢明な彼には空気が読めるのでしょう。

自分の感情を、口で発することは出来なくても、

不思議なことに、聞くだけで、その言葉の意味を《共有》

出来て、把握できているのだ。なぜだろう?不思議だ。

言葉は分からなくても、知らなくても

当然人間は解り合える存在なのだ。


《言葉》の成り立ちや細かい意味を、頭で理解できていなくても

《言葉》は、特に感情を表す《言葉》は頭で理解するものでは

ないのだ。

「初めに言葉があった」とは聖書のヨハネの福音書にある。

ところ変われど、《言葉》は人類の歴史とともにどこかで

生まれ出て発展しているのだ。


《言葉》の持つ、その《響き》や《雰囲気》は、頭の中を

通り越えて感じてしまうのだ。ゆえに《言葉》は身体全体で

感じ取る《感性》なものであることを、改めて幼児から

教えられた。だから《言葉》とは、長い歴史の果てに

身体(DNA)に沁み込んだ、きっと人間の身体の一部分から

吐き出されてできた、身体の一部分のはずだ。ゆえに《言葉》は

頭で、理解するものではなくて、長く忘れていた記憶を

思い出すように、身体で感じ取るものなのだ。そして言葉は

不思議なもので、身体の部分から出来上がったものだから

ひと文字、ひと文字、まったく無駄がなく、

過不足なく、出来ているのです。やはり世の中には、

無駄なものや、無駄なことは、何ひとつ絶対に無いのだ。

《言葉》は絶対、感じるものであって、《生き物》であり

《ミュージック》であり《リズム》であり

《波》や《感性》なのだ。

つまるところ、よくわからないが《言葉》に関して

現在感じ得た、僕のつたない言葉でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。