本性

エジソンによると発明の行動原理は、本当かどうかはともかく

「1%のひらめきと99%の汗(努力)」らしい。一方

僕が考えるに、人間の行動原理は

「1%の本音(真実)と99%の建前(虚偽)」だと思う。


8月に入っても、なおも暑さが続いて「あついね、あついね。」

って言ってた時には、このままこの暑さが続けば、

12月になったら、どれほど熱くなるかと、気をもんでいたけど

立秋を過ぎた頃から《四季のある国日本》のありがたさを

しみじみ、かみしめることが出来ました。朝夕冷房を付けた

ままだと、肌寒く感じるようになってきた、

今日この頃です。


昨年春、妻以外の他人と生活するという《人生最大の譲歩》を

自分自身に受け入れて過ごしてきましたが、

正直もう限界でした。受け入れる時は、身寄りもなく

妻の母の姉なので、温厚で優しい義母の思い出しかなかった

こともあって、グループホームに入れるのは忍びなく

姉妹なら認知症であっても、間違いなく良い人だろう、

うまくやっていけるだろうとの、安直な考えでは済まなかった。


まだ数年前には《ボケ》始めていたとはいえ、妻や僕の名前も

記憶にあって、会話も正常と思えてたのに、しばらく

会わなくなって、どうしているのかと不安になっていたものの、

  • 夜中に徘徊(はいかい)する、
  • 自分の物と他人の物の区別がつかない、
  • 排泄物を汚物と認識できない、
  • 身体の自然現象に対応できない

等の病状を耳にするようになって、どこかに入居し直す

必要に迫られ、身内が看(み)てあげるのが一番、

との判断だったのでした。色々ありました。結果


おかげさまで、この8月から妻ふたりとの生活に戻りました。

一番の決め手は、排泄物の処理のわずらわしさなのでした。

毎日どこかに、垂れ流され、廃棄物の後処理と

不快臭には閉口でした。


約一年間、認知症と生活して気付いた事のひとつ。

人の口にする言葉は、ほとんど

信用できない、なんとでもなる。

そこに真実があるかどうかは究極のところ、本人以外

誰にも、分からない、判断出来ない、っという事。

認知症のおばさんには本人にさえも、真実かどうか

判断できませんでしたが。とどのつまり、誰にでも、

何事においても、口先で取り繕うことは

簡単に出来るのです。


「おばさん、お腹すいた?」

「ないね。」でも食べ物を、口に近づけるといくらでも

食べるわ、食べるわ。際限ない。

「おばさん、おしっこある?

「ない、ない。」直後に寝床で放尿。

人間の本能の感覚においてさえ、この有り様。

おそらく思考に関わる本心の判断はさらに不確かでしょう。

認知症本人は自分の本心を隠すことの利得を考慮して

嘘をついているのではないはずです。

正常な思考の人間が自分の利得を考慮して

本心を隠して、嘘をつくことぐらい少しの

罪悪感もなく簡単に出来るはずでしょう。

妻が正常だった頃から、嫌いだったと言っていた

頑固で身勝手だったおばさん。認知症のせいなのか、

徐々に暴かれていく人間の本性の行動。

(刻々変わっていく生理的に受け付けない表情)

自覚がないだけに、正直始末が悪い。


「お金儲けの良い話があるけれど、聞きたい?」

「わたし、お金には興味ないんよ」っていう人。

こんな人こそ、《世の中お金がすべて》、って思っている人。

100%嘘でしょう。なぜって、お金のために、

自分の人生の99%を費やして、お金儲けして

お金のために仕事をして、自分の時間や楽しみを犠牲にして

自分以外の誰かのために費やして、他人の人生を生きている

人のなんと多いことか。なんと言葉と行動との間の距離が

遠い人の多いことか。


ほとんどの人は1%の本性を、自分にも他人にも隠して、

99%(本人には100%でしょうか)虚偽の人生を

生きているのです。そして周りの人も他人の1%の本性を

見抜くことが出来ずに、99%の虚偽の人間像の印象で

だまされ続けるのでしょう。それは99%のうわさ話で

翻弄されて、1%の真実を見抜けず、理解出来ない

状況を作っている昨今のネット社会や、個人情報保護法の

はびこる社会と同じ様な気がします。


人間の本音はその人の虚偽の言葉と行動の中に隠されて

見え難いのです。物事や人間の快い表面だけに惑わされず、

虚偽の中に隠された、本当の真実を見たいものです。

真実を見抜くことがどれほど困難な事か、そして

真実を見れずに、だまされている人(当然僕も含めて)の

いかに多いことかを痛感した最近です。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


判官びいきの国日本。国民の8割が応援していたで

あろう高校野球、秋田の金足農高。

でも実力通り、現実には奇跡は起こらず大阪桐蔭優勝。


 

言葉

先日ふと思った。この世界は《言葉》であふれかえっている。

でも「言葉」って一体、誰の、どこから、生まれ出て、

理解されて伝わっていくのだろう?

誰かが、どこかから、何かを聞いて、口から言葉として

吐き出ていくのだろうか?それとも、誰かの身体

の中から、自然と湧き出て、言葉となって出るのだろうか?

言葉の最初の発生とその伝承の謎の解明に何気に気付いた事。


今年のお盆期間は言葉の未熟な幼児が初めて我が家に

やって来ました。午前中の活動は、初めての体験に

緊張して疲れたのか、車に乗り込むとあっという間に、

こっくりこっくりと、船をこぎ始めてしまいました。

重い頭が固定できずに、振れてしまう頭を、両手で自然と

バランスをとっている姿がいじらしく、僕の身体にもたれ

掛けてやると、すやすやと夢の世界に。可愛い寝顔にうっとり。


うたた寝も兼ねて昼食も摂ろうと、いったん家に戻り

マットに寝かせて自分たちもそれぞれの寝床で

横たわっていました。空気がよどまないようにと

すべての部屋の仕切りを開け広げ、明かりをつけない状態

のままでいると、僕の部屋の入り口付近に、起き出した

彼の姿が目に入り、ふと視線が合いました。


「***、どうした?」無言ですが目が何かを訴えていました。

「寂しい?」大きくうなずきました。僕は不思議に思いました。

彼は、《寂しい》って言葉を知っていたのかな?

彼は、いつ、どこで、覚えたのかな?

《寂しい》の意味を、どこまでどれほど、解っているのだろう?

もう一度尋ねました。「ひとりは寂しい?」うなずきました。


一歳余りの彼は、聞いたことはあっても、おそらく誰かに

何かで覚えたのではないはず。なぜなら《寂しい》っと

口に出せないから。知っている言葉ではないはず。

でも聞くだけで、なんとなく体感できる、分かる

理解できている。賢明な彼には空気が読めるのでしょう。

自分の感情を、口で発することは出来なくても、

不思議なことに、聞くだけで、その言葉の意味を《共有》

出来て、把握できているのだ。なぜだろう?不思議だ。

言葉は分からなくても、知らなくても

当然人間は解り合える存在なのだ。


《言葉》の成り立ちや細かい意味を、頭で理解できていなくても

《言葉》は、特に感情を表す《言葉》は頭で理解するものでは

ないのだ。

「初めに言葉があった」とは聖書のヨハネの福音書にある。

ところ変われど、《言葉》は人類の歴史とともにどこかで

生まれ出て発展しているのだ。


《言葉》の持つ、その《響き》や《雰囲気》は、頭の中を

通り越えて感じてしまうのだ。ゆえに《言葉》は身体全体で

感じ取る《感性》なものであることを、改めて幼児から

教えられた。だから《言葉》とは、長い歴史の果てに

身体(DNA)に沁み込んだ、きっと人間の身体の一部分から

吐き出されてできた、身体の一部分のはずだ。ゆえに《言葉》は

頭で、理解するものではなくて、長く忘れていた記憶を

思い出すように、身体で感じ取るものなのだ。そして言葉は

不思議なもので、身体の部分から出来上がったものだから

ひと文字、ひと文字、まったく無駄がなく、

過不足なく、出来ているのです。やはり世の中には、

無駄なものや、無駄なことは、何ひとつ絶対に無いのだ。

《言葉》は絶対、感じるものであって、《生き物》であり

《ミュージック》であり《リズム》であり

《波》や《感性》なのだ。

つまるところ、よくわからないが《言葉》に関して

現在感じ得た、僕のつたない言葉でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。