極限(振れ幅)

台風が発生して、雨、雨、また雨。なおも雨、雨

そして雨。もううんざりだ、勘弁してくれ。

橋や山肌を破壊して、結界を取り除き、点在している家々の

枝分かれした道に流れ込み、道を川に変えて、茶色の濁流が

枯れ木や枯れ葉と、ともに自動車をも流している。

おそらく猫も犬も、にわとりも、あげくは人までも。

そんな現状の中、対岸の火事の如く、車に乗り込み

県内を渡り走った週末の日曜日。


もなかアイスとアイスコーヒーをお供に、ドライブ大好き

夫婦二人で車内で会話を楽しんでいました。絶えることなく

次々に変わる景色や話題もなんのその、

話し弾むこの上なき楽しさ。


あれこれと他愛のないことを、思い考える稚拙(ちせつ)

な頭脳。自分勝手な理屈で構築していく世界。

そんな世界を少し覗いてみましょう。「ようこそ。」


この世の中は2種類しか存在しない。

生物界、はオスかメス。

人間界、は男性か女性。

視界、は見えるものか見えないもの。

する側とされる側。与えられる者と奪われる者。

万物は有限か無限。このとき気付いたこと。

今まで無限だと思っていたものは

有限の集まりによる、無限ループの結果だということ。

この世が始まって、時間は永遠に終わらず、

流れ続けるでしょう。しかしその時間は、何か個々の持つ

有限と考えられる、時間のつながりで出来上がっているのです。

そして思い当たったこと。人間が生まれた理由の一つは、

物事は有限であることを思い知らされるためなのだと。


またこの世界のモノは、ほとんどが固有の振れ幅が存在します。

その振れ幅内で生かされて、存在させられています。

今走っている車にしても、材料の破壊限度を超えない範囲の、

力加減の釣り合いで、存在しています。車のスピードも

スピードメーターが振り切れない、範囲までしか出せないように

制限されています。これは万物すべてに当てはまります。

生き物にもその大きさや寿命には限度があります。

その振れ幅を超える時、そのモノは存在できなくなります。


しかし例外がありました。たびたび振れ幅を容赦なく

超えて存在するものの、ひとつが《自然》なのです。

自然は振れ幅を超えても、なおも、いつも、いつまでも

存在し続けます。今回の甚大(じんだい)な

被害が証拠でしょう。「今回はこの程度に抑えておこう」

「今日はこのぐらいにしておいてやろう」、っといった

「優しさ」や加減を、自然は持ち合わせていません。極限を

超えて、その強大さを、我々にまざまざと知らしめるのです。

まるで神様が何かの「うっぷん」を晴らすかのように。

雨を降らせ過ぎないように、地上を揺らせ過ぎないように

火山噴火を吐き出し過ぎないように、なんて考えが及びません。


しかし、《極限》が無く、最も恐ろしいものは、

人間の頭の中の思考、によって生み出されたモノなのです。

思想、嫉妬、欲望、などなど。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。