時計

本日昼食を済ませた後のこと、一息ついていた時、

静々と清流のような緩やかの時間の流れを感じる真昼に、

それは届けられました。若い郵便局員が、

さわやかな笑顔と共に運んでくれました。


名古屋《小さな時計屋さん》からの小包です。開けると名古屋の

風が吹いてきました。(ほんまじゃけんのー)ほほをなでます。

雑多な荷物の中にそれは丁重に収められていました。

少し前に頼んでいた精密機械です。

父の臨終の際に、僕に見つけて欲しいとばかりに、

ベッドの枕元の棚にそれは大切に置かれていました。

いまわの際(きわ)に、取り立てて何かを言うこともなく

信頼している母に、見送られて旅立った父。でもきっと

それは誰かに使い続けて欲しいと望んでいたのだ。

(だから生涯大切に使っていたのだろう。)

遺産のすべてを放棄していた僕は唯一の遺品として

その時まで、大事に使わせて頂こうと心に決めました。

すこぶる使い込んでいたのか、かなりキズが目だっており

汚れていたので、信頼できる時計屋さんにオーバーホール

(全分解清掃修理)に出していたのです。

早速左うでに装着しました。と同時に

「カチッ、チッ、チッ、」その腕時計は職人の純粋な願いが

僕の心臓音に協調するかの如く、時を刻み続けています。

(はめる前から当然動いていました。)今の時代

腕時計を身に着ける必要性は少なくなりました。しかし、

きっとこの時計の役割は、《時間》だけを

計(はか)るのではなくて、僕の今後の人生の

何か大切な《機会》もはかってくれる予感がします。

人生においてそんな重要な機会が訪れるのを

忍耐強く待ちます。

この時計は、その機会を逃さないように間違いなく

僕に図(はか)って、教えてくれるでしょう。

僕のこれからの残りの人生、父と《同行二人》で歩みます。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

忍耐

「はぁ、はぁ、ふっ、ふっ、ふっ、」

肩で息を切らせています。(16、17、18、あと少しで

ノルマ達成です。19、20、終わったー)

「あー、どちゃくそ、しんどい、」

「もう、半分、青い・・・・・違う、死ぬーーー」


「少し休みますか?」スタッフが寄り添って

優しく声をかけてくれました。

「はい、では水を一杯お願いします」

「ありがとうございます」

「いただきます」

「グッ、グッ、ゴックン」

「ふー、生き返った、落ち着いた」

「もう少し休んでようかな」

「いや、だめだ、何のためにお前はここに来たのだ」

「さて、次はと・・・・・」(意気込んでみたものの

現実は、やはり辛い、・・・・)

「あれでもやろうかな、でもあれきついよな、」

「あと、あれとあれが残っているか?」

昨日(金曜日)は午後から半日、リハビリで汗を

目いっぱい流しました。


しんどい、疲れた、といって気の済むまで休んでいれば

楽です。それでも身体にむちを打ってやらなければ

ならないこともあるのです。それがリハビリなのです。

痛みに負けて、運動をやめれば身体の勝ちです。

心が勝つためには、やり続けて身体を心に

従わせる以外にないのです。

僕は今忍耐を学ぶべき時なのでしょう。

その先にはきっと良いことが

待ち受けてるはずでしょう。


最近読んでいる本に書かれていたのでした。

《ここを乗り越えれば、身体はお前に従い始める、

痛みはいっときのことだ、ひるまず続けろ》

作家山本一力氏の言葉です。

江戸の剣術道場は、忍耐と努力を学ぶ

人間修練の場でありました。

今の僕にとってはその場は、リハビリステーションなのです。

最後にこんな言葉もありますね。

《君の心の庭に忍耐を植えよ。その根は苦くても

その実は甘い。》(オースティン)


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。


 

早起きは三文の得

曇り空ながらも、雲の切れ間から柔らかい優しい陽光が部屋の

窓から差し込んでいた、清々(すがすが)しい朝の空間。


今朝9時前のこと。妻がファミリーサポートの仕事

を済ませ、玄関前で車をUターンさせて、

車庫に納め込みました。軽やかに車を降り、何か良いことでも

あったかのように帰って来て、玄関先で

僕を見かけて部屋に入るなり、口を開きました。

《妻》「最近膝(ひざ)、調子良いかい!!、

楽なんよね」(彼女はスキーのインストラクタ―の頃、

じん帯を切ってしまったのでした)

《僕》「よかったね」笑顔で答えました。

《妻》「なんでか、わかる??」

解っているでしょう、っとでも言わんばかりに、

問いかけられました。

《僕》「例のあれやろ」と答えました。

《妻》「よく解らないけど、そうなんよ」

間髪置かずに、かえってきました。

ここ数日前から、彼女は入浴後《全身、前後》の写真を撮って

《光カード》とやらを載せて《除霊》をすれば、

スッキリする、とかで続けています。(僕は心の中で眉を

ひそめています)。僕はゲン担(かつ)ぎのようなものだと

とらえています。(信じる者は救われますから)


取り立てて、何か特別な幸運があったわけでもありません。

しかし彼女の晴れ晴れしい顔で、一日の始まりを迎えました。

威勢の良い、気持ち良い表情を見せられると、こちらも何か

嬉しい気分にさせられてしまって、不思議と

その一日が、気分良く過ごせられます。

(喜びの笑顔は伝染しやすいのでしょうか)


最近、日の出とともに目を覚ませて玄関の部屋の中で、

朝日を浴びながら、その日を始めます。

目を閉じて、まぶたに朝日を感じていると、人間は生来

日の出とともに起きて、行動するように作られていることを

実感します。東に面したガラス窓の多い玄関の部屋で

小一時間本を読むことを日課にしています。

(今、時代小説にはまっています)ふと本を小脇に置いて、

眼鏡をはずし何も考えず、ボーッとすると、目にするものは、

ぼやけていますが、鳥のさえずりと車の通過音が、

ときおり鮮明に聞こえてきます。しかも五感が、

研(と)ぎ澄まされるように感じられてきます。

朝起きて、世の中の人と同様な習慣を、心掛け、

実践することで、気持ちが落ち着くのです。

そのおかげで、妻の《喜び》(ほんの少しの元気)を理解でき、

僕も喜ぶことが出来たのでしょう。たかが平凡な日常の1日に

張り合いが出るのです。(普段よりも早起きは、三文の得です)

「よーし、今日もがんばるぞー」って。


しかし現実の生活は今もって、心配事、不安や不満は

数えあげれば、尽きませんが、朝食前のこのいっとき、

《喜び》、《平安》を感じることができて

なんだか少し幸せなのです。


人の元気そうな顔つきを見るだけで、その訳を聞かなくても

喜ばしいことがあったことが理解できます。

現実には自分自身に、たとえ大きな金や仕事が入ってこなくても

気分だけでも、

他人の《喜び》も自分の《喜び》に感じられるようになれば

人は、人生の《喜び》には不自由しません。

を再発見した朝の出来事でした。


今日はここまで。近藤浩二でした。

ではまた。