求めよ、さらば与えられん!

聖書の中の一説

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

私の魂が本当の事を求め始めたのは、きっと父が脳出血で倒れ、右半身に麻痺がおこったあの時からだったのかもしれない。

私自身、3人姉妹の末っ子で父は私をいちばん色々な所へ連れて行ってくれました。そして母より優しい父が大好きでした。

母はいつも「父ちゃんは千恵子に甘いんだから・・・」と言ってたくらい。

国鉄に勤務していた父は、若いころ列車を連結する際の事故で、左足の膝下5センチくらい残して挟まれ、切断。

私が物心ついた時も、父は隠すことなく川や温泉でも 義足を外し泳いだり温泉につかったり、また西日本最高峰の石鎚山にも私が幼稚園くらいのころ登り山頂で撮った写真があるほど・・・。

義足であることの弱音など一度も聞いたことがありません。

昭和3年3月3日生まれの父。

そんな父が2002年2月脳出血で入院。1ヶ月以上ものあいだ意識も戻らず・・・そして、意識が戻ったものの  脳の左側に出血していたため、右半身が麻痺。

神さま、神さま、、、あなたは、なぜ一生懸命仕事もし、3人の子供も育て、まじめに生きてきた父を こんな風にしたんですか?

なんで、なんで、、本当に、神さま ひどすぎます。

と、両手両足のうち  動かせるのは左手と膝下から切断された左足だけの父をみてこの世の不条理を痛切に感じ憤っていました。

そんな時、ちょうどカイロを受けに来られた患者さんが、「先祖よ。先祖。先祖供養をするといいよ。」っていうことを聞き、

私がお経をあげることで、父が元気になるなら、いくらでもお経くらいあげられる!!と、その日から朝夕ろうそくと線香を立て、法華経を唱えました。

姉たちにも、お経をあげるともっと回復するから・・・と本当に父の回復だけを信じ唱えさせて頂きました。

新年年明けから立春までは、「南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経…」と朝5時に起き、水をかぶり寒行もさせて頂きました。

ただ、やはり新興宗教…

真剣に祈り供養し仲間も増やして参りましたが、「~せねばならない」と思うようなことや ちょうど何か違和感を感じ始めた頃

カイロで往診に行った患者さんより旦那さんが大腸がんにかかった時の話を聞かせてもらい、その話に背中を押されるように、新興宗教からは脱会。

そのお話と言うのが、

ご主人さんが病院で「大腸に癌が出来てますが、今なら手術で取ることも出来ますよ。」とのお医者さまの言葉に

「わしは、手術はせん!」と先生の前で一言。

「あっそう…ええよ。あんたが死んだら私も一緒に死ぬから」と先生の前で奥さんも宣言。

そうすると、旦那さんが「お前は死んだらいかん!お前が死ぬんだったら、わしは手術する!」ということで手術に!

この奥さんのええよ!と受け止める凄さにもビックリでしたが、

その後、手術を終え  入院中の抗がん剤投与の際、看護師さんより
「抗がん剤の副作用で目が見えにくくなって来るかも知れないですが何か異常があったらすぐ言ってくださいね」と…。

そして、その看護師さんの副作用の言葉を聞いたその時言った奥さんの言葉が「深いぃ~」

「あんたの目が見えんなったら、私の片目あげるけんね・・・」と。

私がこの新興宗教に入り、唱えてた法華経。

この法華経を読んで、書いたと言われる宮澤賢治の「雨ニモマケズ」

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

何の宗教も知らないこの患者さんの言葉に、法華経の神髄を感じ、いくらお経を唱えようとも、実際行っていかないと意味がないな~と、目が開き新興宗教からちょうどまる1年たった2003年5月脱会させてもらいました。

ただ1年間真剣に祈り唱えてきたこと、夏も冬も1年間 水を浴びた修行の日々は私にとっては見えない世界とつながる始まりの尊い一歩であった様にも思えます。

大好きな父が倒れたからこそ、求めた本当のこと。

ただ一人の者を目覚めさせる為に、愛する我が子に重荷を負わせる主の愛。

求めよさらば与えられん!

探せよさらば見つからん!

叩けよさらば開かれん!

求め、探し、動いたその時また違う世界の扉が開いて来るのだと・・・。

あっ!!私の大好きな父は歩くことは出来ないけれど、2017年年が明けた3月3日89歳になります(^^)

 

生まれる前から

この世に生まれる前から、育み育ててくれる 母親という存在。

2013年12月19日、夕方5時すぎ  携帯を別の部屋に置いたまま施術中、何度も電話がかかり、最後には主人の携帯に姉から電話が入り、

「とうとうその時が来てしまったのか?」と、車で5分もかからない入院先の病院へ。

駆けつけた時、ちょうど一番上の姉がエレベーターから出てきて母の死を告げてくれ、最後の着替えを取りに家に戻り 私は病室へ。

亡くなってどのくらい時間が経ったのかはわからなかったけれど、

「人は臨終のあとも   しばらくは聞こえてる」と聞いてたので、
耳元で「母ちゃん…ありがとう!楽になったね!!ありがとう…」と言わせてもらいました。

実は亡くなる1年前の12月初め、低酸素・低血圧状態が続いてるという連絡が入り、

その日から毎日、脊柱と両足にオイルマッサージそして頭骸と顔面の骨格矯正。

それから1年は熱を出すこともなく、看護士さんもまだもう少しは持ってくれると思ってたと言われるほど・・・。

実は、私  毎日母のケアしながら  耳元で「母ちゃん!しんどいけど   もうちょっと私に甘えさせてね」「ごめんね」「ごめんね」「もうちょっとこの身体も触らせてね!!」・・・と。

末っ子の私は、一番遅くまでおっぱいをもらい、甘えられる特権を得てた様で、

好きなことや思うことをさせてもらえなかった姉たちと比べると ホント好きなことしかしていない私は、放蕩娘。

35歳くらいのころ、自己啓発セミナーに参加した時 何が怖いですか?という質問に「両親の死」と答えてたほどの私。

母の死を迎えるまでちょうど1年間。

いつかは触れなくなる その肉体をいっぱい触らせてもらい、帰り際にはほっぺにチュをして帰ってたほど…。

もう数年前から  寝返りも話すことも出来ない母に思い残すことの無いようにと…。

本当にその1年があったからこそ、死を迎えたその時の心の穏やかさは他の人からみると、きっとなんて冷静って思われそうなほど穏やかで…。

そしてもっともっと思えば、亡くなった日が19日。
ちょうどその前、12月16日~17日と伊勢の神宮の月次祭に合わせて伊勢の修養団で行われる「神話を体感する会」に仲間と参加しており

伊勢に行く前の日15日も病院に寄ることが出来ず、戻ってきた18日は姉から「今日は私が行ったから行かなくていいよ!」と連絡が入り、そして19日昼間も病院の前を通った時、「いつも通り夜行けばいっか!!」とそんな感じで、

毎日「私の為にがんばってよ!」「もうちょっと甘えさせてね」と言ってた私が、5日間行けず・・・。

後でふと思ったのは、
「きっと千恵子が来るとまた頑張れって言うし…。来ないうちに逝かせてもらお!!」「さいなら~」と…

私の携帯が氣づかないところに置いてたり、病室に5日間も行けなかったことも母を思う天の計らい。

母親は、我が子の為に命削っても守り愛してくれる。

私の母、厳しい所もいっぱいあったけれど、本当に優しくて結局私の耳元でささやく「頑張ってね」の言葉に頑張り続けてくれていたんだと…。

私がこの世に生まれる時も、お腹にいる十月十日の間もずっとずっと、護り続けてくれてた母。

きっと天に還っても  見守ってくれてるようで…。

昨日19日命日、お墓に行ったとき、うっかりライターを忘れてしまっており…どうしよう!!って思いながら、

ちょうどその日1段上で工事をしてた青年に「ライター誰かもってたら貸してもらいたいんですが…」と。

その青年、何も言わず降りてきてくれ、すっとライターを渡してくれた時は、あーこの青年神様が使わせてくれたな~と思ったくらい。

お盆やお彼岸でもない滅多に人に会うこともない平日。あの時間に工事してたのも天の計らい。

ろうそくとお線香に火を点すと、火は一連の出来事を喜ぶようにどんどん大きくなり 「私は元氣でやってるよ」「ありがとう」「いつも見てるし守ってるからね。」「大丈夫だよ」と言ってくれてるようで 涙溢れスーっと母と一体になった感じでした。

52歳でパーキンソン病と診断され、すぐに悪くはならないものの  筋肉の硬縮が起これば左手が震え。

そんな病の中でも母は、私が勝手氣ままにスキーをしている間も 娘の身体を案じ、嫁に行かない娘をどうにか行かせられないものかと方々に釣書を配り・・・。

今思えば、本当に親不孝の放蕩娘。

今、私が54歳。母が病を持って生きた52歳から80歳までの28年間。
母のやりたかったことも一手に引き受けて生きていこうと思った4回目の命日。

母の病室に行ったとき、CDのスイッチをオンにし、一番初めにかかるこの曲をきっと脳裏に焼き付けて母は天に還っていったのだと思う

思い出の讃美歌「主よみもとに近づかん」

是非聴いてもらえると嬉しいです。

手に職!

1988年26歳の冬からインストラクターになり、冬はスキー 夏はアルバイトという生活が続いた1995年33歳になる年の春 右膝の前十字靭帯断裂。

スキーインストラクター事態、一年中出来る仕事でもなく、そんなだから宿でアルバイトさせてもらったり、スキーショップで店員さんさせてもらえたり…と、花嫁修業っていうより人生修行をさせてもらった7年。

1996年34歳になる年の春、再建手術はしたものの  その年は電話帳の片っ端から電話をかけて「水フィルターの掃除機」の会社のアポ取りの仕事。

この仕事もいい経験でした。いきなり電話がかかって来て、「水フィルターの掃除機ご存じご存知ですか?」と話し始めるんですから、きっと電話の向こうでは いい迷惑だったかも…。

10件かけて1件くらい話を聞いてくれると良いくらいの確立。

ある意味、凄い社会勉強になりました。その時のアルバイト仲間とは1時間に毎回15分づつある休憩で仕事のストレス解消。

そんな生活の中、手術はしたものの まだたまに膝に水が溜まり痛みがあるところで紹介されたカイロプラクティック。

「膝に水が溜まるのは、関節のズレから生じる摩擦での炎症を冷ますために出てくるもの…。関節を整えることで、少しづつ水は身体に吸収されるが、多い場合は一端整形外科で水を抜いてもらったうえで 関節を整えたほうが良い」と・・・。

んんん~なるほど なるほど…。

単純だけど、了解できる説明に 安心して施術してもらい、数回通ったある日  「カイロプラクティックを勉強してみないか?」と。

実は、まだOL時代 ひざの靭帯を伸ばしたことがあり。その時通ったのもカイロプラクティック。

ただその時の施術院は、毎日通うようなところで  しかも保険が利かずいつもたくさんの患者さんで溢れてて・・・。
カイロって人助けだし、儲かるんだな~って思ってたくらい。

でも実際自分自身が 施術する側になるなんて思ってもおらず・・・

しかし身体の奥深い所から 求め続けた「手に職!!」

言葉通り、カイロはギリシャ語で「手」。 プラクティックは「技法」

あの日、ケガをしたことから始まったような世界。

人生は、本当にわからないから…面白い。

そして、こうして満月の夜から真面目に書き始めたブログ、

改めて見直し出来る「今」に感謝。

先ずは、毎日書き続けることが目標!!

 希望と愛を感じてもらえますように・・・。

 

 

 

 

神さまのいたずら

スキーが好きで好きで大好きで、朝から晩まで もっともっと…と滑り続けた青春時代。

そんな私を知ってか知らずか、1991年に初めて愛媛代表として出場した八方尾根スキー場での全日本スキー技術戦。

実はその大会がどんなものかも知らず、四国大会→西日本大会と出場し、愛媛ではまだ誰も出たことがなかった全日本技術戦。

その大会の凄さもわからぬまま、出場。

そこでのウェーデルンとまだ読んでた頃の競技。今でいう急斜面での小回りターン。

いつもの年よりも緩いと言われる名木山のこぶ斜面。

ゼッケンを付け、スタート地点に立ったけれども どこをどう滑れば良いのか全く分からぬまま顔から火が出そうなくらい恥ずかしい滑りでゴール…そして涙。

今、思い出しても あの日のあの場面は私の人生最大のピンチだった様な・・・いやいや幼稚園の頃、練習もせずに 楽譜なしでみんなの前に出さされ 間違いながら弾いたあのピアノの発表会の時と同じ。

恥ずかしくて恥ずかしくて穴が有ったら入りたい様な出来事。

ピアノと大きく違うのは、スキーは私が選んだ道だから…。

このツラく 恥ずかしい思いをしたことが また私の人生の転機ともなり、1991年の志賀高原でのスキー学校が閉校後 春にスキー場がオープンするという山形の月山スキー場へ向かい 全く初めて訪れた月山でいきなり人生初の居候生活もスタート。

月山へは、1991年から1995年まで もう今は天に還ってしまったけれど、当時70歳を過ぎたお爺ちゃんとお婆ちゃんの経営する“ロッヂかしわや”で初めての年は居候。

翌年からは春ゴールデンウェークの前から雪が溶ける6月下旬ころまで、平日2~3時間アルバイトの仲間と交代に滑りに行かせてもらって、あの苦い思い出のこぶ斜面の練習。

お爺ちゃんとお婆ちゃんの経営する「かしわや」に巡り会えたからこそ5年間も月山に行けたんだと、やはりあの日かしわやの扉を開いて良かったと、今更ながら感謝。

おかげさまで、1995年に出場した全日本スキー技術戦 不整地小回りターンでは、「雪とお友達」っていう感じで月山の宿のお客さんが、ラッパ鳴らしてくれての応援も入り、予選通過は到底出来ないものの   目の前に次々と現れるこぶ斜面を先取り。気持ちよ~く軽快に滑らせて頂きました。

ところが、いつもの年のように春 月山でアルバイトしながら滑ってた所、転んでもなく逆に おっ!いい感じ…いい感じ!!って滑った直後、膝がガクガクとなり、結果 前十字靭帯断裂(>_<)

しかも、その頃なんの医学的知識もない私。いつもかかってた鶴岡にある整体の先生の所へ。

そうしたら、先生曰く「後ろ向きに歩いて登るといいよ」…と。

数日たって腫れも引いたので、後ろ向きに歩いて、まだ滑りに行ってたんだから本当にバカそのもの。

で、夏 地元に戻り、運動具屋さんでアルバイトしてた時ずっと立っていたり、重いものを持った時は すぐに膝が腫れたり痛くなったり…。

お客さんにどこかいい整体の先生いないですか?ってまだ聞いてたくらい、私自身 靭帯が切れてるとも思っていなくて…トホホ。

そして、整体ではないけどいい整形外科があるよ!っていうことで、あのけがから3~4か月くらい経って整形外科に!!

整形外科的テストの結果、切れてる可能性が高いからと 大きい病院へ。そして、内視鏡手術。

ちょうど執刀医の先生が、「自分の体の中なんて、めったに見れないから目を開けて見れたら見てて」と言うので、ずっと内視鏡で映し出される画像を見させてもらい、半月板のササクレだった部分や、ほぼ全滅してしまってる前十字靭帯もこの目で確認。

その場で再建手術は無理なので、靭帯切れたまま1996年はシーズンイン。

装具を装着してたものの、今思えば 若かったし、バカだったな~と。もっと自分自身の身体大事にしてあげてれば良かったと、深く反省。

1996年春になると同時に、スキー学校の仲間が教えてくれた横浜にある「港湾病院」で再建手術。

屋上に上がると、ランドマークが良く見え、勝手に「ホテル港湾」と言いながら楽しく入院生活を過ごさせてもらった次第。

前の会社の東京や千葉に住む同期の仲間や、横浜に住むスキー学校の仲間にも、「今横浜で入院中。遊びに来て~」と…。

横須賀の友達の所へは、外泊もらって松葉づえつきながら泊まりに行ったことも…。

このケガをしたことで、また今の仕事カイロプラクティックにも出会えたようなものだから、まさに「ケガの功名」

神さまは 本当に いたずらがお好き。

 

 

般若心経

今から3年前の2013年12月、母が天に還りました。

今年も19日まで、あと2日。 4回目の命日です。

今日は、3年前 母が亡くなり、実家に戻ってお経をあげていた時 私がふと感じたことを少し…書いてみようかと…。

弘法大師空海さんの故郷四国は、遍路88か所のお寺はもちろん、真言宗のお寺が多く いろんな形で「般若心経」を耳にすることもありお経は凄く身近なものでもあります。

「般若心経」
[仏説]摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五
蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不
異色色即是空空即是色受想行識亦復如
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減是故空中無色無受想行識無眼
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死
亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
所得故菩提薩捶依般若波羅蜜多故心無
罫礙無罫礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三貌三菩提故知般若波羅蜜
多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜
多呪即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

そして、私が幼いころから、母はよく般若心経を唱えてました。

そして思ったのが、人はご先祖様や身近な誰かの為にお経を唱えて来たつもりだけれど、一番そのお経を聴いてるのが 自分自身の肉体の細胞そして、自身の魂。

今誰かの為に唱えているお経って…自身が天に還る時の為のものかもと。

そう思うと、母はスーッと天に戻って逝ったように思えたくらい。

自らの魂の修行は自らが行い、そして何億年という魂の旅路の中で様々な肉体をまとい 修行していくとしたならば 善をしたことも、悪をしたことも全て自身の元に戻ってくる…まさに「情けは人の為ならず」

  お経を唱えることも人の為ならず…って感じでしょうか?

そして、最近知ったのが「般若心経」の中の最後

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶  般若心経

それ行け それ行け 動いていけよ!!という意味でもあるそうで、

聖書の中でも動くことが テーマでもあるそうで…。

現に弘法大師様が持ち帰った「真言密教」の元をただせば、聖書に繋がるとも言われてる様だし…。

そして今回、般若心経の訳を探していた所、こんなに若者風の訳があることを知り 貼り付けてみました。  ラップ調でどうぞ…。

現代語訳「般若心経」
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。いいか、耳かっぽじってよく聞けよ
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
  『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』心配すんな。大丈夫だ。

般若心経=「大乗仏教の空・般若思想を説いた経典」          (別名=般若心経ロック)  tam3さんより抜粋

宗教と信仰は全く違うものであり、

今、情報過多の時代

ぶれずに何か大いなる

エネルギーの存在を知り

信じて仰ぐ信仰こそ 

本当に大切な氣がします。

 

 

数々の奇跡

9年間のインストラクター生活の中では、数々の喜びと試練もありました。

4度の全日本技術選手権出場、指導員取得、シーズンイン前のオーストリア滞在と想像もしていなかった数々の奇跡の出逢いのおかげで、たくさんの経験もさせて頂きました。

オーストリアに行くことになったのも、1990年夏 京都の比叡山スキー場でのSWANS主催のサマーキャンプに出たあと、京都に住むスキー学校の先輩に連絡させてもらったことから。       ※先輩は女性です(笑)

向かった先は、アキレス腱の手術で入院中の病院へ。

そしてなんとその時に、シーズン始まる前の10月中旬から11月いっぱいオーストリアへ行くけど一緒に行ってみる?と誘って頂き…。

正直その時点で28歳の私にとっては、初めての海外旅行。

少しの不安はありながらも、即決。   一緒に 参加させて頂くことに…。

しかも先輩とは出発日程が合わず、少し遅れて一人でのオーストリア入り。

スイスのチューリッヒ空港に着き、ホテルに1泊。その後列車でオーストリアへ入り、目的のZELL AM SEEの駅に向かいその後タクシーで先輩たちが借りているアパートへ。

いまから思えば初めての海外旅行。

英語もドイツ語も出来ない私が アパートの一室の扉の前までたどり着いたのだから 我ながら「いい線いってる!」…いやいや全て神さまのおかげ…だったと。

到着後ビックリしたのは、あの比叡山スキーキャンプのコーチでもあったプロスキーヤーの千葉信哉さんや澤口学さんも同じスキー場にトレーニングに来られており、再会。

数少ない日本人っていうことで、何度か食事も御一緒させて頂いたのは、海外だからこその特権でもあったような…。

ザルツブルグ州にあるカプルーンという村の氷河スキー場「キッツシュタインホルン」のスキー場には、その後4年ほど続けてシーズン前になると1ヶ月~1ヶ月半ほど滞在させてもらったくらい、私にとっては忘れられない場所でもあります。

そして、この滞在中ほぼ毎日通い滑っていた「キッツシュタインホルン」実は2000年11月11日ゲレンデまで向かう登山列車で火災事故が起こり、155人もの人が亡くなったところ。

朝一番の登山列車は毎日大勢のスキーヤーが乗っており、改札のカウンターで乗車人数も数えられ、目の前で次の便まで待たなければならないことも…。

あの日のあの時刻のあの列車に、いつもと同じように乗った人々。

長いトンネルの中、火や煙に巻き込まれながら天に逝った155人の魂。

日本エドガー・ケイシーセンター 光田会長の講座の中で話されるケイシーのリーディングの中では、

「多くの魂は自身のこの世での命の寿命を理解し、そういった現場に居わせることになっている」…とも言われ、

「その被害にあった方々の遺された家族や親友もまた、その哀しみや状況に耐えうるだけの魂を持っていると…。」

思わぬ事故や出来事で、天に還って逝った魂のひとつひとつが、そして残され哀しみを背負う魂の中にも 強いものが必ずあると、ケイシーの遺したリーディングから一筋の光を見させてもらっている感じです。

今、生きてること 出会っていることは、

本当に数々の奇跡の連続であり 

奇跡そのもの…。

そしてどの魂も永遠不滅の高貴な魂である…と。

日本エドガー・ケイシーセンターのホームページは  ☛http://www.edgarcayce.jp/

 

 

 

やりたい事とやるべき事

あの日、あの時、あの出来事があったからこそ、今がある?

54歳の今、このブログを書くことになり 改めてこれまでの人生を振り返ってみると、あのスキー場で出会ったひとりの素敵なお姉さんとの出会いから・・・http://taiyohanasaku.waterblue.ws/chieko/wordpress/2016/10/28/始まりは出会いから/

そして、志賀高原でのインストラクターとしての生活の始まりは同時にその頃言われ始めた「フリーター」という、生活へ。

その前に会社を解雇されるという「リストラ」まで経験してるのだから、今思えば かなり時代の先端いってる!って感じでしょうか?

夏は、スキーショップで働き、冬はインストラクター。

時間の許す限りジムにも通ってたあの頃・・・。

先日朝のドラマ「べっぴんさん」の中で、言ってた言葉

        “やりたい事とやるべき事が一致している”  

その事に出会うこと  

それは奇跡の様なこと・・・

1988年から1997年まで26歳から35歳までのスキーの事だけ思い過ごした毎日。   本当に奇跡の様な日々。

そして、今の私だからこそわかる 私自身も知らない私を知っている 大いなる存在。

ただその大いなる存在も 私自身の中で、求め 探し 動いたからこそなのだと…。

そして出会えた奇跡の様な毎日にも、

試練はあるんだから・・・ 

人生は面白い!

「主は、愛するものを戒められる。あたかも父がその愛する子を戒めるように…」  と聖書の中にもあるように…。

あ~ この試練の頃から、神さまのえこひいきは始まってたんだな~と思う
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