「母」タグアーカイブ

ツガイノツバメ

太陽院院長 近藤 千恵子です(о´∀`о)

我が家の軒下には、今年もツバメがやって来て、南向きに2つ 東向きに2つ、北向にも1つ…

大勢のツバメが どんどん家族を増やして行きます。

で、そのツバメ達の中で、ここ3年ほど 1羽だけで巣も作らずに 夜を過ごしていたツバメが  今日ふと見上げると 小さな巣だけれど 巣を完成させてました。

そして、なんと夜になると2羽のツバメが仲良く並んで巣の中に…。

あ~

そんな寄り添うツバメを見ると 今月5日に天に還って逝った 父と 7年前に先に逝った母が やっとまた天上界で 寄り添っている姿を見せてくれたようで凄く嬉しくて 久しぶりのブログ更新となりました。

大好きな父は 昭和3年3月3日に生まれ、令和2年5月5日夜10時14分 天に還って逝きました。

女の子のお節句に生まれ、男の子のお節句に 寿命を迎えた父。

5月7日、葬儀を終え 肉体をまとった父とお別れし 見上げた空には 大きくまん丸の月。

後で、ウエサク満月だったことを知り 天の神様がこの日を選び 父を満月で照らし迎えてくれたんだな~と

ひとつの大きな節目を越え 新しい時の扉をまた開いてくれた様です。

思えば、平成15年…

父が脳出血で倒れてから 始まった両親への介護。

元々 パーキンソン病の母を 父が看てくれてたところへ 父の介護がプラスされ、

父母ふたり揃ってのデイサービス…

父母の新しい形での夫婦生活が始まった時でもありました。

今日、ツガイで寄り添うツバメを目にし 父母ふたり寄り添い過ごした晩年を見たようで…

母を見送り、まだまだ父とも共に過ごしたかったけれど

「死ぬに時があり…」

「生まれるに時があり…」

きっと全ては 神様の壮大な計画の中…

これからは もっともっと近くで 常に父母の大きな愛を感じながら しっかりと生きて行きて参ります(^_^)v

台風の来る前に…

太陽院院長  近藤千恵子です(*^^*)

8月、9月となかなかブログを更新出来ず、久々の投稿です。

ちょうどお彼岸に入った昨日から  台風17号接近のニュースが流れ

明日 明後日と続く連休がどうなるのか?ちょっと心配な今日 近藤家と実家の安藤家 そして 母の実家で認知症の叔母の小西家のお墓参り行って来ました。

安藤家のお墓で  香の花を交換しているとき  今まで見たことも無いような 赤や緑の色のついた虫に遭遇。

そして、その後鮮やかな緑のカエル

そしてそして、最後は てんとうむしまでも遭遇。

普段の場所とは違う 6年前に亡くなった母と出逢える場所で 出会う小さな事柄に  母を感じる瞬間。

そして、一番初めに会った 赤と緑の鮮やかな色の昆虫をグーグルさんで調べてみると…

ハンミョウという名の昆虫でした。

別名「道先案内人」とも呼ばれているそうで  それが今日は何だか嬉しくて 久々にブログに残しておきます。

きっと天上界から我が娘を思い道先案内人となってくれてる母。

何気無い 小さな虫を通して  母の優しさを思い出させてもらいました。

ありがとう…私は幸せ者です(*´-`)

梅…うめ…ウメ…♡

太陽院院長 近藤   千恵子です(^^)

昨晩、炊飯器で仕掛けた「梅シロップ」

12時間保温で、美味しく美味しく出来上がりました(*^^)v

氣を良くした私…朝、またまた昨日七折小梅を買ったスーパーに行き、同じ七折小梅を1キロと 愛媛産の「南高梅」を3キロ購入。

何と、綺麗な南高梅が1キロ398円で販売されており、これは梅酒と梅干しも作らないと…と、ホワイトリカーや氷砂糖も購入し、もう…梅おばさん(笑)

で、早速家に戻って水洗いし…水素水に浸け、夕方ザルに上げ乾燥。

一粒づつ、おへその軸を取り、キッチンペーパーで水気もふき取り…

そして、今…南高梅の梅酒を1キロと南高梅の梅シロップを仕込み完了。

実は、梅酒用の容器を何も用意しておらず、床下に収納された2006年の梅酒の梅だけ入った瓶を出し、別容器に…収納。

この梅酒の梅を見ると思い出すのが、5年前に亡くなったうちの母。

私が高校生の時、学校から帰ると 台所に座り込み…

「梅酒の梅食べてたら食べ過ぎた!!」と…(笑)

母は昭和8年生まれなので、29歳になる年に私が生まれ、私が高校生の頃の母は、まだ48歳頃。

私が小学1年の頃から仕事に出てた母。

今日、別容器に移した 梅酒の梅 私も一粒食べて…また一粒。

こうやって母はいくつ食べてたんでしょう?

気付けば、私もブログを書きながら もう5つは食べているかも・・・(笑)

昨日から、続く梅の仕込み。

後は、実は人生初の梅干し作り。

七折小梅を1キロと、南高梅を1キロ購入し…なんと紫蘇もすぐ入れられるような即席のが販売されており、初挑戦の私の為に作ってくれたような一品。

昔から続く 日本の味。

我が家で梅酒や梅シロップ、梅干しになるために 花咲き 実をつけ…収穫された可愛い小梅ちゃんや梅さん達。

子育ても環境が大切なように、我が家で美味しく頂ける日楽しみに見守らせて頂きます♡

そして、今私は 梅酒の梅を食べ過ぎて…(笑)ちょっと酔っ払いです(~_~)

母の宝物

太陽院院長 近藤  千恵子です(^^)

今日、19日は2013年天に還って逝った母の命日。

朝から何やら時間が取れず、お墓詣りにも行けず…過ぎた一日。

そして、夜探し物をしていたら出てきた一冊のファイル。

開いてみると、母が読売新聞の地方版に、投稿し掲載された短歌や川柳

そして、姉の子供…孫たちの顔が掲載された新聞の切り抜きや幼稚園から送られたおじいちゃんおばあちゃんへのはがき。

母の宝物の数々。

歌会始の切り抜きもあり、また来年の題「苗」の募集要領が切り抜かれていたので、秘かに出していたのかも…。

切り抜きの短歌は…

湯の谷の 湯より上りて 赤々と 稲田を染むる 夕日見てをり

寺の門 足早に入る 遍路らの 白衣は染みぬ 極む もみぢに

そして川柳には…

冬物を もうひと洗い 梅雨晴れ間

立秋が 高校野球で 出番待ち

孫三人 縫上げも出来 七五三

老い二人 登校児等の 声で起き

おばあちゃん あのねのあとは 内緒ごと

手の切れる ようなお札の お年玉

そして、俳句はひとつ

リハビリの 部屋に桜の 花ざかり

そして、そんな新聞の切り抜きと共にはさまれていた 「パーキンソン病」に関する記事の数々。

切り抜きは、平成6年~7年

今から、22~23年前。

母が57~58歳の頃のもの。

今日、母の命日に「見つけて~」と、出てきたような母の宝物たち。

そして、そのなかに私の長野の住所と便箋も挟んであり 千恵  と、震える文字の書きかけの便箋が一枚…。

若い時は うるさいな~とも感じていた母。

病気で身体が動かなくなり…喧嘩することも出来なくなって やっと知る母の存在の大きさ。

そして、命日となる今日 母の宝物のような短歌や俳句などが掲載された新聞の切り抜きに 母の生きてた頃の僖びを共有。

そして、私 やっぱり母の娘に生まれて来て良かったな~と、改めて思った命日の今日でした。

 

 

 

冬将軍到来☆

太陽院院長 近藤 千恵子です>^_^<

12月に入り…5日目。

早くも冬将軍が、日本列島に寒波を運び…年の瀬モードにスイッチが入ったような感じ。

高校を卒業して、就職した先のボーナス支給日が毎年7月5日と12月5日。

25歳で会社を退職して もう30年経っても 7月5日と12月5日は、「あ~ボーナスもらってたな~」と、思いだすほど…(笑)ぼー

世のサラリーマンの人やOLさんを唯一良いな~と思ってしまうような日。

OL時代のボーナスは、旅行や買い物…そしてスキー始めてからは、夏と冬のボーナス全てスキーにつぎ込んでたような感じ…。

ちょうどバブルの頃、12月に入るとクリスマスのパーティー券なんかもあり、年に数回の夜遊びを楽しみにしてた頃…。

あれから30年…時代も変わり、私自身の生活も変わり、そんな中 考え方も昔とは変わったような…。

一つひとつ扉が開き、一つひとつ変わっていくモノ。

だから人生は面白い。

スキーが大好きでやってた頃 冬将軍がやってきた!!と聞くと、嬉しくて嬉しくて わくわくしてた私だったけれど、今では冬の寒さに 身体は縮みアウトドアなんて とてもとても…。

52歳で 筋肉が硬縮するパーキンソン病にかかってた母にとっては、本当にひと冬ひと冬寒さが堪えてなんだろうな~と、今更ながら思わされ…

年を取り…原因不明と言われるパーキンソン病を抱え 不安さえも抱きながら過ごしていた50代後半…

母のツラさや思いなど見ないふりして、スキーに行ってた冬。

雪の季節、家を離れて住む私のところへ母が届けてくれるお米やみかん…そして、 その中に入っている 病で震える右手で書かれた手紙。

私自身、今55歳…母が病と共に生きた数十年を考えると、本当に勝手な娘で、何もしてあげることが出来なかったな~と今更ながら「ごめんね…ありがとう…」と、頭が下がります。

そして、膝は悪いけれど まだまだ元氣で動ける今…母が出来なかった 遊びも 仕事も 介護も…すべてのこと…

にっこり笑ってやっていきたいと 思わされます。

生まれる前から

この世に生まれる前から、育み育ててくれる 母親という存在。

2013年12月19日、夕方5時すぎ  携帯を別の部屋に置いたまま施術中、何度も電話がかかり、最後には主人の携帯に姉から電話が入り、

「とうとうその時が来てしまったのか?」と、車で5分もかからない入院先の病院へ。

駆けつけた時、ちょうど一番上の姉がエレベーターから出てきて母の死を告げてくれ、最後の着替えを取りに家に戻り 私は病室へ。

亡くなってどのくらい時間が経ったのかはわからなかったけれど、

「人は臨終のあとも   しばらくは聞こえてる」と聞いてたので、
耳元で「母ちゃん…ありがとう!楽になったね!!ありがとう…」と言わせてもらいました。

実は亡くなる1年前の12月初め、低酸素・低血圧状態が続いてるという連絡が入り、

その日から毎日、脊柱と両足にオイルマッサージそして頭骸と顔面の骨格矯正。

それから1年は熱を出すこともなく、看護士さんもまだもう少しは持ってくれると思ってたと言われるほど・・・。

実は、私  毎日母のケアしながら  耳元で「母ちゃん!しんどいけど   もうちょっと私に甘えさせてね」「ごめんね」「ごめんね」「もうちょっとこの身体も触らせてね!!」・・・と。

末っ子の私は、一番遅くまでおっぱいをもらい、甘えられる特権を得てた様で、

好きなことや思うことをさせてもらえなかった姉たちと比べると ホント好きなことしかしていない私は、放蕩娘。

35歳くらいのころ、自己啓発セミナーに参加した時 何が怖いですか?という質問に「両親の死」と答えてたほどの私。

母の死を迎えるまでちょうど1年間。

いつかは触れなくなる その肉体をいっぱい触らせてもらい、帰り際にはほっぺにチュをして帰ってたほど…。

もう数年前から  寝返りも話すことも出来ない母に思い残すことの無いようにと…。

本当にその1年があったからこそ、死を迎えたその時の心の穏やかさは他の人からみると、きっとなんて冷静って思われそうなほど穏やかで…。

そしてもっともっと思えば、亡くなった日が19日。
ちょうどその前、12月16日~17日と伊勢の神宮の月次祭に合わせて伊勢の修養団で行われる「神話を体感する会」に仲間と参加しており

伊勢に行く前の日15日も病院に寄ることが出来ず、戻ってきた18日は姉から「今日は私が行ったから行かなくていいよ!」と連絡が入り、そして19日昼間も病院の前を通った時、「いつも通り夜行けばいっか!!」とそんな感じで、

毎日「私の為にがんばってよ!」「もうちょっと甘えさせてね」と言ってた私が、5日間行けず・・・。

後でふと思ったのは、
「きっと千恵子が来るとまた頑張れって言うし…。来ないうちに逝かせてもらお!!」「さいなら~」と…

私の携帯が氣づかないところに置いてたり、病室に5日間も行けなかったことも母を思う天の計らい。

母親は、我が子の為に命削っても守り愛してくれる。

私の母、厳しい所もいっぱいあったけれど、本当に優しくて結局私の耳元でささやく「頑張ってね」の言葉に頑張り続けてくれていたんだと…。

私がこの世に生まれる時も、お腹にいる十月十日の間もずっとずっと、護り続けてくれてた母。

きっと天に還っても  見守ってくれてるようで…。

昨日19日命日、お墓に行ったとき、うっかりライターを忘れてしまっており…どうしよう!!って思いながら、

ちょうどその日1段上で工事をしてた青年に「ライター誰かもってたら貸してもらいたいんですが…」と。

その青年、何も言わず降りてきてくれ、すっとライターを渡してくれた時は、あーこの青年神様が使わせてくれたな~と思ったくらい。

お盆やお彼岸でもない滅多に人に会うこともない平日。あの時間に工事してたのも天の計らい。

ろうそくとお線香に火を点すと、火は一連の出来事を喜ぶようにどんどん大きくなり 「私は元氣でやってるよ」「ありがとう」「いつも見てるし守ってるからね。」「大丈夫だよ」と言ってくれてるようで 涙溢れスーっと母と一体になった感じでした。

52歳でパーキンソン病と診断され、すぐに悪くはならないものの  筋肉の硬縮が起これば左手が震え。

そんな病の中でも母は、私が勝手氣ままにスキーをしている間も 娘の身体を案じ、嫁に行かない娘をどうにか行かせられないものかと方々に釣書を配り・・・。

今思えば、本当に親不孝の放蕩娘。

今、私が54歳。母が病を持って生きた52歳から80歳までの28年間。
母のやりたかったことも一手に引き受けて生きていこうと思った4回目の命日。

母の病室に行ったとき、CDのスイッチをオンにし、一番初めにかかるこの曲をきっと脳裏に焼き付けて母は天に還っていったのだと思う

思い出の讃美歌「主よみもとに近づかん」

是非聴いてもらえると嬉しいです。

般若心経

今から3年前の2013年12月、母が天に還りました。

今年も19日まで、あと2日。 4回目の命日です。

今日は、3年前 母が亡くなり、実家に戻ってお経をあげていた時 私がふと感じたことを少し…書いてみようかと…。

弘法大師空海さんの故郷四国は、遍路88か所のお寺はもちろん、真言宗のお寺が多く いろんな形で「般若心経」を耳にすることもありお経は凄く身近なものでもあります。

「般若心経」
[仏説]摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五
蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不
異色色即是空空即是色受想行識亦復如
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減是故空中無色無受想行識無眼
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死
亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
所得故菩提薩捶依般若波羅蜜多故心無
罫礙無罫礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三貌三菩提故知般若波羅蜜
多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜
多呪即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

そして、私が幼いころから、母はよく般若心経を唱えてました。

そして思ったのが、人はご先祖様や身近な誰かの為にお経を唱えて来たつもりだけれど、一番そのお経を聴いてるのが 自分自身の肉体の細胞そして、自身の魂。

今誰かの為に唱えているお経って…自身が天に還る時の為のものかもと。

そう思うと、母はスーッと天に戻って逝ったように思えたくらい。

自らの魂の修行は自らが行い、そして何億年という魂の旅路の中で様々な肉体をまとい 修行していくとしたならば 善をしたことも、悪をしたことも全て自身の元に戻ってくる…まさに「情けは人の為ならず」

  お経を唱えることも人の為ならず…って感じでしょうか?

そして、最近知ったのが「般若心経」の中の最後

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶  般若心経

それ行け それ行け 動いていけよ!!という意味でもあるそうで、

聖書の中でも動くことが テーマでもあるそうで…。

現に弘法大師様が持ち帰った「真言密教」の元をただせば、聖書に繋がるとも言われてる様だし…。

そして今回、般若心経の訳を探していた所、こんなに若者風の訳があることを知り 貼り付けてみました。  ラップ調でどうぞ…。

現代語訳「般若心経」
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。いいか、耳かっぽじってよく聞けよ
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
  『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』心配すんな。大丈夫だ。

般若心経=「大乗仏教の空・般若思想を説いた経典」          (別名=般若心経ロック)  tam3さんより抜粋

宗教と信仰は全く違うものであり、

今、情報過多の時代

ぶれずに何か大いなる

エネルギーの存在を知り

信じて仰ぐ信仰こそ 

本当に大切な氣がします。