「信仰」タグアーカイブ

日本人ならでは…?

太陽院院長   近藤  千恵子です(*´-`)

いつも いい言葉が書かれている お寺の前を通ってみると…

「主をたたえ、仏に暮れて、神に明け」と  書かれてあり  なるほどな~と…。

実際クリスマスを祝い、大晦日の除夜の鐘を寺で聞き、神社に初詣する自分は何者か?というのを 書いた川柳なのだとか…。

しかし  昨年末から  私自身  救世主イエス・キリストの誕生日を待ちわび  クリスマスツリーを飾り…

24日~25日の聖なる日は イエス様の誕生を魂いっぱい歓びお祝いし…

そして  昨年末から年越しには  お寺での除夜の鐘の96打目をつかせてもらい…

朝には 神社で歳旦祭に参列…そして初詣。

そして そして 今日は 12月のクリスマスイベントから参加させて頂いてた  八幡浜の教会での新年聖会に主人と共に参加し…

数々の讃美歌を歌い  たくさんの方々の 祈りや信仰を通しての歓びの言葉を聞かせて頂き 共に祈って参りました。

牧師先生の 聖書講話では  目の見えなかった者が イエス様によって 見える者となった ヨハネによる福音書 9章

なぜこの人は目が見えないのか?という弟子達に…

「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」と答えるキリスト・イエス。

ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである…どんな出来事も 全て、神さまの御業が 現れるためのもの。

今 、病に伏せる人も…

今、悩みを抱える者にも…

ただ 神さまの御業が現れるためのもの…。

そして  人々の信仰の度合いに応じて 結果は現れると…。

仏教も神道も また聖書の世界も…全て深く知れば面白い。

そして 見えない世界を最も理解出来るのが  日本人で有るのかも…。

アダムとイブも…

イザナギとイザナミも…

アマテラス様もスサノオ様も ツキヨミ様も…

そして 仏陀や弘法大師さまも…

全てその時々に必要な人間が 絶妙な形で現れ 人々へ希望を与えてくれること。

そして全てのものが 統合される世界も そう遠くないかも知れないですね(^-^)v

スルッと片づけ…

太陽院院長 近藤  千恵子です(^_^)/

未来波動実践友の会会長  野村 文子さんが見出した「光カード」

先月8日~9日で先生の講演会に合わせて行かせて頂き、そのパワーに引き寄せられるように光カードを購入。

我が家に到着後、家族にも患者さんにも…もちろん私自身もスマホで撮影し…その後5分~10分浄化。

そんなことを、毎日楽しみ…信じて実践してた所、何だか私の血液の中に居たと思われる 「片付けできない菌」 と 「食欲抑えられない菌」が浄化されたような状況に…

先日来客もあるということで、いよいよ台所のテーブルの上…片づけないと と思いながらも出来ていなかった場所が、スルリっと片づけられ…

自分自身でもびっくり。

そして、食欲もまた 抑えることが出来、何だか身体が軽く…実際3キロは無理なく食べたくなくなったことで減り…このまま順調に食欲が抑えられるとラッキーだな~っと。

そして、何より身体がスッキリ…。

世の中には、いろんな病があり…もしそれが霊や菌、ウイルスなど目には見えない者の仕業であるのだとしたら、本当に「光カード」で浄化出来ることは凄い世界。

そして、私自身左膝靭帯が断裂し再建手術から20年余り…その間に体重も増えたことも有り、膝の痛みとはもう一生付き合うしかない!と、思っていた所で出会った「光カード」

なんと、膝も以前の様な痛みが消えてきており…まだちょっと違和感はあるモノの「光カード」の効果を確認。

主人などは、半ばあきれながらも(笑) 楽しんで 食べるモノや身体の写真をパシャパシャと撮ってる私に…

「まっ お守りだと思えば良いか…」と…。

私自身、主人の脳出血による後遺症や、認知症の叔母の状態なども 浄化していくことで、何かが変わってくれると希望を持って…♡

聖書の中、コリントの信徒への手紙のなか…

信仰と、希望と、愛はいつまでも残るモノで有るというように、神さまへの絶対的な信仰と、人や全てのモノへの愛…そしてそこに顕われる希望。

簡単で効果の早い「光カード」に希望をもって…♡

信仰によって…

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^♪

今晩から、うちのトミ子さん…従妹に連れられて奈良県の天理教の教会に参りました。

うちの叔母は、浄土宗…南無阿弥陀仏の世界。

ただ、四国という土地柄のため、弘法大師が開いた真言密教を唱え、たしか もう一人の叔母が荼毘(だび)に付す時は、四国88か所参りで頂いた納経帳を懐に隠して持って行った様な…。

認知症になり、何も覚えてない叔母を グループホームに居るときも、我が家に来てからも 毎月8日にお参りに誘ってくれ そして今晩からフェリーに乗り大阪まで渡り…奈良県の天理市まで連れて行ってくれるという。

もともと、信仰心はある叔母だったけれど、毎月のお参りも…今回のお参りもどこかで神さまが叔母をその場に導いてくれているのか…

片時も目を離すことの出来ない叔母を連れてのお参りは、本当に大変なことなのに それを使命としてしてくれる従妹。

従妹と言っても、父方の従妹。

叔母とは全く血は繋がっているわけでもなく…本当にこの信仰心には頭が下がります。


ずっとずっと昔…。

やはり、大阪に向かうフェリーの中で、まだ私が20代の頃…熱心な天理教の信者さんと隣り合わせになったことがありました。

その女性は、ずっとずっと昔、自分自身のおじいちゃんが目が見えなくなったところ天理教の教祖様に見えるようにしてもらい…それから代々教会を継続させているのだと…。

まだ若く、全く見えない世界のことを知らなかった時…その話は、私自身にはかなり興味深いものでもありました。


と、言うことで今晩フェリー乗り場まで送っていき…月曜日まで少し解放される週末。

そして、明日は広島へうちの主人と大好きな赤塚さんのお話を聴きに参ります。

そして、今回は2年前名古屋で、昨年は神戸で一緒に赤塚さんの聖書講座を受けていた 名鉄構内にある「小さな時計屋さん」の照ちゃんとも講演会場近くの駅で合流。

楽しみに行って参ります。


そして、赤塚さんの聖書講座の中、伝えてもらった信仰によって変えられた聖書の中の人々のこと

「へブル人への手紙11章」

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。

信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。

彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。

信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。

このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。

この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。

彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。

信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。

信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。

信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。

信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、

罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、

キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。

信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。

信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。

信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。

信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。

信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、

火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。

女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。

なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、

(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。

さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。

神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。


「へブル人への手紙」11章1節から40節までの間に何度も何度も出てくる「信仰」という言葉。

単純に…信仰とは、信じて仰ぎ見るモノ…。そして、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること…とある。

アブラハムもヤコブもモーゼもノアも…そしてキリストイエスも…このへブル人への手紙を書いた使徒パウロも…目には見えないけれど確実に存在する大いなるモノに動かされる世界。

明日、久しぶりに話を聴かせて頂く赤塚さんも 何か大いなるものによって導かれ、話させられてる世界。

今日、叔母を天理にまで導いてくれた従妹もそう…。

求めよ…さらば与えられん
探せよ…さらば見つからん
叩けよ…さらば開かれん

信仰によって与えられ、見つかり…そして開かれていく世界。

日本人こそ  この見えない世界を大切にしてきた民族。

そして、日本にたくさんある新興宗教もまた神さまの臨済によって開かれて来たであろう宗教。

どうか、教理や教則ではない真の信仰が世の中を救っていきますように…祈り求めます。

「生」と「死」そして「病」と「老い」

この世に生まれること…。

老いていくこと…。

病にかかること…。

死ぬこと…。

生老病死。

お釈迦様も、この世で起こるこの四つのことを説くために瞑想。

天上の世界では、老いることも 病にかかることも無い世界。

聖書の中、智慧の実を食べたことから 神と共に過ごすことを許されず、地上に追放されたアダムとイブ。

追放と言っても、最大限の神さまの愛を受けながら、この混沌とした地上で修行するため。

そして最後は、エデンの園に戻るため。

人は、老いて行くとき 不安になり、病を持つと更に不安に…。

不安や心配事…この世を生きる時、この不安や心配事の心の隙間に忍び込んでくるのが悪魔。

天使がいるのであれば、きっと悪魔も存在する。

不安になったり心配事で暗い気持ちになった時に、スッと心の隙間に忍び込もうとする悪魔。

またこの不安や心配事から逃れたり救われようと、祈りや宗教がその人々の人生を変えることも…。

日本には、スゴい数の新興宗教もあり 信仰によって心が救われる人々も大勢いる反面、かつてのオウム真理教のように、宗教によっては逃れられないような、また依存の様な状況を招いてしまうことも…。

何を自分自身の中心に置くか…?

イエス様も、弘法大師様も、お釈迦様も、日蓮さんも…また各新興宗教の教祖様方も、大いなる天と繋がり天の御力によって不思議を見せたり、また見せられた者たちも、信じる心によって奇跡を体感してきたように思う。

今、多くの人々の魂のレベルは、何度もの輪廻転生を経験し、魂は大いに成長した魂たちが、この地球規模で混沌とした地上に送り出され、修行させてもらっている。

5月、多くの障害を持った子供や大人と出会う機会を頂きました。そして、病や老いを迎えた方々とも 日常の中で接することが多くあります。

この病や老いを「善」「悪」で、区切ることは出来ず、「病」や「老い」を経験することで、大いなる魂の成長をもたらすと 私自身感じます。

もちろん、出来ればずっと健康で、ずっと若々しく居たいという思いは誰もが持ってる希望でもあります。

しかし、敢えて神さまがその人々の肉体を通して「病」や「老い」を体験させてくれてるのであれば、またそれを乗り越えられるだけの魂のレベルに達したからこそ与えられた「病」や「老い」であれば、

ニッコリ微笑んで、見えないけれど確実に存在するであろう神さまに

「頑張ります…(*^^)v」と言いたいものです。

いつか訪れる「老い」

そして、自分自身だけでなく、大切な家族や友人、知人の中にも起こる「病」そして「死」

生まれて来たからこそ出会う人と人。

家族で会っても、友達であっても、今世の修行のなかで必要として出会う人々。

・愛する者と別れる 愛別離苦

・怨み憎んでいる者に会う 怨憎会苦

・求める物が得られない 求不得苦

・肉体と精神が思うようにならない 五蘊盛苦

生老病死と共に、この四つの苦を神さまやご先祖様を信じ、何より自分自身の見えない可能性を信じ、四苦八苦しながらも生きて行くこと…

隙間から忍び寄ろうとする、悪魔をも退散していくような、強い精神と肉体で また新しい一週間 迎えさせていただきます。

 

 

 

昨年、4月22日大阪にある「サムハラ神社」を参拝した日、ちょうど春の大祭中で 名古屋から八十路す翁と名乗られる方にお会いしました。

その日は、凄いタイミングで御本殿の前で 一緒に行ってた3人で手を合わせようとしたところ、「中へどうぞ…」と御本殿の中に招いて頂き、

今日は春の大祭なので、祝詞上げさせてもらいますよ…と、宮司さんが言って下さり 座り 玉串も奉納させて頂き お下がりまで頂き、そして社務所の横の休憩所に案内して頂き…お茶とお菓子まで頂戴し…

そして、そこに女性に囲まれて座ってたのが、八十路さん。

何のお話をされてるのか、好奇心漫漫で氣にしてたら通じたのか

「ここに自分の名前書いてみて!」…と。

千恵子と書くと、苗字もね!と言われ、上に近藤と付け加え…

言われた言葉が「千、恵む人だね…」と。

私自身、生まれてその日まで千恵子という字は「千、恵まれる!!」と思っていただけに…そっか~と。

恵まれるのではなく、恵む人。

そういえば、いつも「どんな字書くんですか?」と聞かれると、「千に恵む子です」と言ってきており、母もいつも恵む子だと言ってました。

5月7日松山で開催された「風の祭典」の主催の齋藤 美惠子さんも「恵」が入り、ダウン症の恵子ちゃんも「恵」、そして長女の恵さんは「恵」そのもの。

そして、日本書紀に書かれたイザナギ・イザナミのはじめに生まれた子が「ひるこ」

「ひるこ」が川に流されて、たどり着いたのが西宮。そしてひるこが、恵比寿さまに…。

恵比寿さまも「恵」の文字。

今、思えばカイロを始めるきっかけとなったのが、今はないけれど
「恵比寿脊椎矯正院」

そして、私自身が新居浜にカイロの施術院を開くときに思いついた名前が「福寿脊椎矯正院」

それから西条に、場所を変え開院した「カイロ矯正太陽院」と名付けられ、七福神さまと天照さまとのご縁を改めて感じさせて頂きました。

先日の公演の最後、七福神が出てきて 恵子ちゃんが弁天様となり打ち出の小槌を振り、美惠子さんは大黒様に!!と、福をたくさん頂戴しました。

その頂いた福…名前のごとく 多くの方々に恵を配らせて頂きます。

聖書の中、イエス様が5つのパンと2匹の魚で、集まった群衆…男だけで5000人はいる様な大群衆の空腹を満たしたお話し。

そこで、最初に恵を与えたのは、イエス様ではなく、その場に来ていた一人の少年の心。

自分の為に用意していた食べ物を「これをどうぞ」と言ってすべて差し出した少年の心が、それを見たそこに集っている皆の心を動かし

お互いの食べ物を「私も持ってる!」「私も…」「私も…」と、お互いの食べ物を出し合ったから起こったのだ…と、キリスト者手島郁郎氏が生前の自身の講話の中でお話しされたそうです。

奇跡は、神さまから起こるのではなく、ひとりひとりの信じる心から…

そして、天の神さまは善い人にも悪しき人にも太陽を昇らせ、雨の恵を与える方。

5つのパンと2匹の魚を差し出した、少年の恵もう恵もうとする神さまのような心を持つ人、そういう人々の輪が広がり地上に神の国が完成するのかも知れません。

千 恵む 心…神さまが、私が生まれる前からずっと与え続けてくれている愛の心を 今の混沌とした現代の生活の中、祈り 「恵」与えていく者となって参ります…この名前に恥じぬように。

 

 

 

般若心経

今から3年前の2013年12月、母が天に還りました。

今年も19日まで、あと2日。 4回目の命日です。

今日は、3年前 母が亡くなり、実家に戻ってお経をあげていた時 私がふと感じたことを少し…書いてみようかと…。

弘法大師空海さんの故郷四国は、遍路88か所のお寺はもちろん、真言宗のお寺が多く いろんな形で「般若心経」を耳にすることもありお経は凄く身近なものでもあります。

「般若心経」
[仏説]摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五
蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不
異色色即是空空即是色受想行識亦復如
是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
不増不減是故空中無色無受想行識無眼
耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至
無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死
亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無
所得故菩提薩捶依般若波羅蜜多故心無
罫礙無罫礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢
想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三貌三菩提故知般若波羅蜜
多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜
多呪即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経

そして、私が幼いころから、母はよく般若心経を唱えてました。

そして思ったのが、人はご先祖様や身近な誰かの為にお経を唱えて来たつもりだけれど、一番そのお経を聴いてるのが 自分自身の肉体の細胞そして、自身の魂。

今誰かの為に唱えているお経って…自身が天に還る時の為のものかもと。

そう思うと、母はスーッと天に戻って逝ったように思えたくらい。

自らの魂の修行は自らが行い、そして何億年という魂の旅路の中で様々な肉体をまとい 修行していくとしたならば 善をしたことも、悪をしたことも全て自身の元に戻ってくる…まさに「情けは人の為ならず」

  お経を唱えることも人の為ならず…って感じでしょうか?

そして、最近知ったのが「般若心経」の中の最後

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶  般若心経

それ行け それ行け 動いていけよ!!という意味でもあるそうで、

聖書の中でも動くことが テーマでもあるそうで…。

現に弘法大師様が持ち帰った「真言密教」の元をただせば、聖書に繋がるとも言われてる様だし…。

そして今回、般若心経の訳を探していた所、こんなに若者風の訳があることを知り 貼り付けてみました。  ラップ調でどうぞ…。

現代語訳「般若心経」
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。
この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。いいか、耳かっぽじってよく聞けよ
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
  『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』心配すんな。大丈夫だ。

般若心経=「大乗仏教の空・般若思想を説いた経典」          (別名=般若心経ロック)  tam3さんより抜粋

宗教と信仰は全く違うものであり、

今、情報過多の時代

ぶれずに何か大いなる

エネルギーの存在を知り

信じて仰ぐ信仰こそ 

本当に大切な氣がします。