今朝、知り合いの奥様が天に召されたと連絡が入りました。
昨年夏、50歳近くになって、結婚したお二人は この上ない歓びに満ち 恥ずることなく 寄り添い微笑ましい光景でした。
数回しかお会いしてませんが、彼女の魂の底から歓びに満ちたあの笑顔というものは、こんなにも人の心に残るモノなのかと もう会うことが出来なくなった今 しみじみと思います。
結婚後も、遠距離での生活が続いてた様ですが、やっと一緒に暮らし始めたところに訪れたお別れの時。
なぜ?なぜ?なぜ?
神さまは、なぜこんな哀しいことを計画されたのでしょうか?
それとも、二人が出会うことによって 人を愛する歓びをプレゼントしてくれたのでしょうか?
天使のように軽やかに笑い、旦那様を愛して 天に還っていった彼女。
きっと多くの人に愛を届ける為に 地上にやって来た天使そのものだと思えてなりません。
奇しくも、今日はあの阪神淡路大震災から22年目を迎えました。
あの日も、多くの方々が最愛の人と別れ、ツラく哀しい時を過ごしたのだと思うと、本当に「今」をどう生きていくのか…改めて考えさせられます。
旧約聖書 伝道の書より
1章
伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。
知識を増す者は憂いを増すからである。
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
抜粋出来ないほど、聖書の言葉のひとつひとつは 心地よく胸に響いてくれます。
空の空、空の空、いっさいは空である…