「時」タグアーカイブ

習慣

主人が作ってくれたこのホームページが出来上がったのは昨年10月。

そのホームページの中に、私の書き込むブログを付けてくれたのは良いけれど、書きづらく10月に2日書いただけでストップ。

しかし、いろんな人が様々な形で自由に情報発信出来るブログは、Facebookとはまた違う良さがあるように思っていただけに、せっかく作ってもらったブログに書き始められない自分に自己嫌悪。

「どうしたもんじゃろのう~」と思って、主人に「なんかフォームが凄く書きづらいんよね!」と愚痴ってみると、なんかフォームをチェンジ出来るんだとか…。

色々開いてみて、わっ!!!いい感じ~ってことで、12月半ば 今の書きやすいフォームに決定。

「よーし!!頑張って毎日書くよ~!!」とブログの女王のような友達に宣言。

そして、もう少しで100日。

我ながら、こうやって書くことで頭の中がちょっとづつ整理されてくる毎日。

始めて良かったなー…とつくづく思います。

コツコツ書く「習慣」

元来、3日坊主の私。

テレビショッピングで、ワンダーコアを購入しながらも1~2週間使ったっきりで、後で後で…と思ってしまい…。

「続けられない」という悪しき習慣。

こんな習慣はいらないんでしょうが…。

習慣…朝起きたら歯を磨き、顔を洗い、トイレに行くと手を洗う…。

お風呂の中では同じ場所から洗い始めるのも習慣。

「おはようございます」「いただきます」「ごちそうさまでした」「行ってきます」「ありがとうございます」「どうもー」…人との会話の中での習慣のように発しているコトバ。

電話をしながら、頭を下げお辞儀をしてしまうこともある。

「習慣の奴隷」という言葉もあるそうだけど、これが「あたりまえ」ということにも繋がってくるのでしょうか。

長くお付き合いしているカップルのように…。

私も主人と出会いデイトしてた時は、ドキドキワクワク…していたのに、こんなに毎日ソバにいると そんな新鮮な氣持ちはもう全く起こることもなく…。

まっ夫婦でずっとドキドキしてたとしたら、心臓に負担掛かりすぎて大変なことになってしまいますが…。

習慣や当たり前という中の「落とし穴」の様でもあります。

スキー教本の中にも「習う」「滑る」「慣れる」とあります。

先週まで受けていた、チャレンジスクールの中「ビジネスマナー」を教えて頂き、自己紹介やお辞儀の仕方習いながらも、いざそういう場面が来たとき  なかなか実践出来ず…。

「習い」「意識し…」「習慣とする」

カイロの技術を学んできた時もそうでした。

習い…全く初めはわからなかったことが、解るようになり…。勝手に動いていくような手の感覚。

車の運転も…お料理も…このパソコンだって、結婚した時は私自身ワープロを使うことがやっと…。

パソコンの電源を入れることすらわからず、メールもチラシを作ってもらうのも主人に頼み…。

でも微妙なところが氣になる私と、このくらい大丈夫っという主人の間ではいつも喧嘩になり…(笑)

そんなんだったら私がやる!!って言うことから、チラシも自己流ながら作れるようになり…。

やっぱり「時」が来て習慣が出来てくるのでしょうか。

人にはそれぞれの「時」があり、私自身このブログを書き始めるのに「時」が来て始まり…そしてまた終わりが来るのでしょうか。

三重県の津に住む赤塚さんがヘブライ語で示された創世記の一節の中で見つけた神さまが創ったものに「始まり」と「終わり」があると…。

光と闇、天と地、海と陸、地に住むモノ、海に住むモノ、空を飛ぶもの、自分に似せて作られた人。

しかし、日本語に翻訳された聖書の中には記されていない、ヘブライ語で示された創世記の中に、もうひとつ神さまが創ったものがあり、それが「始まり」と「終わり」だと…

なるほど…

人のこの地上での始まり「生」も、この地上の最期「死」の時も見えない神さまが創られるもの。

この地球の始まりも終わりも…きっと然り。

人の出会いも別れも、やはり自分自身で選んでいるようで、やはりみえない神さまに寄って私たちは出会わされ、そして離れていくのでしょか。

結婚することにによって新しい人生が「始まり」そして二人の間にもいろいろな形で「終わり」があり

また子供もそう…。

子供が生まれることにより「母」や「父」という親になることが「始まり」そしていつかこの世を離れるとき「終わり」が訪れる。

私自身、このブログのフォームを変えたところで毎日書くことが始まり、いつどういう風に終わりを迎えるのか想像も出来ないけれど、示されるままに…。

54年間の人生を振り返り、少しづつ文字に書くことで整理され

そして、どこかで誰かが読んでくれて、私の学んで来たことや思いが、チカラになってくれると嬉しいです。

毎日、パソコンのメールに届けられる日本エドガー・ケイシーセンターからの珠玉のメッセージ

手にあるものを用いるならば、より多くのものがあなたに与えられます。

手にあるものを使うなら、それを自分だけのために使うのでない限り、その日その日に充分なものがあります。

As ye apply, as ye make use of that in hand, more is given thee.
For, day unto day is sufficient, if use is made thereof; not to self, not to self alone.               (1206-13)


今日のこのメッセージは、10年前 我が家にとって凄く力をもらった珠玉の言葉。

うちの主人が2007年脳出血で倒れ、半身不随の状態になりながらも、たまたま翌年出会ったエドガー・ケイシーの言葉の数々。

倒れる前まで、機械の設計をやってたものの 同じ仕事に復帰するには色々困難もあり、そんな時に知ったこのリーディング。

「今、手元にあるものから…」

おかげさまで、右手と言語、そして頭脳だけは回復したことで始めた進学塾。


学生時代から「アメリカに行きたい!」という夢から、29歳の時 アメリカで小学校の先生の家にほぼ1年間、ホームステイ。

その間、小学生に日本の文化や風習を伝えたり 英語を学んだり…。


つい最近聞いた話ですが、昭和36年生まれの主人が29歳の頃なので、戦争が終わってまだ45年ほど。

ホームステイ先のホストファミリーにとっては、戦争の時日本人が命をかけて突撃してきたことが本当に信じられなかったようで、

日本から来た青年に

「国のために命懸けられるか?」…と、29歳の主人に問うたそう…。

その話を聞いた時、どう答えたかを、ドキドキしながら聞いていたけど「offcourse…もちろん!!」と…答えたそう。

そうすると、またホストファミリーのお父さんは

「really?本当??」と聞かれ、「yes!!」…と。

続いて「why?なんで??」と…。

その後の答えがかっこいいから、惚れ直してしまったんだけど・・・

なんと私の旦那様は、「なぜ命をかけられるか?」の問いに

「because … I  Love  Japan」 と…。

惚れてしまうじゃないの…って感じですが、主人の小学校の時の先生がいろいろ教えてくれていたと…。


そんな主人は、アメリカから帰国後、大阪の進学塾で3年間塾講師を経験もあり

ちょうど、広島で受講したケイシー講座で聞いた「今、手元にあるもので始めなさい!!」というリーディングを知り、

「塾、やってみる…」ということに…。

責任ある仕事に、私と結婚するときと同じくらい真剣な面持ちでしたが…。


元々、理系の頭脳に アメリカ帰り(1年だけですが…)の英語力。

そして先ずは、塾の名前。

私の「太陽院」と名付けてくれたはんこ屋さんにお願いして付いた名前は「花咲塾」・・・なんとも縁起の良い名前。

そして、始まった花咲塾。

今、手元にあるものから始めて丸8年。


子供のいない我々夫婦にとって、子供たちとの触れ合いは最高の時間。

嫁の私が言うのも手前味噌のようなアピールだけど、英語も理科も数学も一緒に教えられる先生って凄いと…改めて思う今日この頃。

神さまは、まだ終身雇用が当たり前のような時代に、退職しアメリカへ行かせ…。

その後、大阪の大手進学塾で就職させて…

そしてそして、旦那が倒れようが何が起きようが、めげない能天気なこんな嫁と出会わし結婚させたこと。

人生何が起こるかわからない!!


今日、携帯の方に送られてきたケイシーの珠玉のメッセージは

あなた方は肉体的な意識の中で、一度に一日しか約束されていない。

それを生かしなさい。それを乱用してはならない。

For ye are not promised more than one day in the physical consciousness at a time.Use it – don’t abuse it!              (5392-1)


聖書の中、出エジプト記に書かれたマナの話ではないけれど、

今日は今日の1日。

明日はまた明日の1日。


そして、もうかなり前チェーンメールで流行った「時間銀行」というお話をふと思い出したので、転記します。

次のような銀行があると、考えてみましょう。

その銀行は、 毎朝あなたの口座へ86,400円を振り込んでくれます。同時に、その口座の残高は毎日ゼロになります。

つまり、 86,400円の中で、あなたがその日に使い切らなかった金額は、すべて消されてしまいます。

あなただったらどうしますか。もちろん、毎日86,400円全額を引き出しますよね。

私たちは一人一人が同じような銀行を持っています。

それは時間です。

毎朝、あなたに86,400秒が与えられます。

毎晩、あなたが上手く使い切らなかった時間は消されてしまいます。それは、翌日に繰り越されません。それは貸し越しできません。

毎日、あなたの為に新しい口座が開かれます。そして、毎晩、その日の残りは燃やされてしまいます。

もし、あなたがその日の預金を全て使い切らなければ、あなたはそれを失ったことになります。過去にさかのぼることはできません。

あなたは今日与えられた預金の中から今を生きないといけません。だから、与えられた時間に最大限の投資をしましょう。

そして、そこから健康、幸せ、成功のために最大の物を引き出しましょう。時計の針は走り続けてます。今日という日に最大限の物を作り出しましょう。

1年の価値を理解するには、落第した学生に聞いてみるといいでしょう。

1ヶ月の価値を理解するには、未熟児を産んだ母親に聞いてみると
いいでしょう。

1週間の価値を理解するには、週刊誌の編集者に聞いてみるといいでしょう。

1時間の価値を理解するには、待ち合わせをしている恋人たちに聞いてみるといいでしょう。

1分の価値を理解するには、電車をちょうど乗り過ごした人に聞いてみるといいでしょう。

1秒の価値を理解するには、たった今、事故を避けることができた人に聞いてみるといいでしょう。

0.1秒の価値を理解するには、オリンピックで銀メダルに終わってしまった人に聞いてみるといいでしょう。

だから、あなたの持っている一瞬一瞬を大切にしましょう。

そして、あなたはその時を誰か特別な人と過ごしているのだから、十分に大切にしましょう。

その人は、あなたの時間を使うのに十分ふさわしい人でしょうから。

そして、時は誰も待ってくれないことを覚えましょう。

昨日は、もう過ぎ去ってしまいました。明日は、まだわからないのです。今日は与えられるものです。

だから、英語では今をプレゼント(=present)と言います。

今日は、主人の好きな曲 EAGLES の「Hotel California」

 

 

 

 

時の流れ

10年がひと昔ならば、もうみっつも昔に流行ったテレサテンが歌った「時の流れに身をまかせ」

時は、その時その時を鮮やかに駆けて行き、想い出に変わっていく。

今はひとり暮らしの学生さんも必ずもってる電子レンジも、出始めはかなり高級品で 使ってみると便利なので、電磁波がどうのこうのって言っても使ってしまう電氣製品。

電話だって、小学生の頃我が家に電話が着いたときは、凄くわくわくして 電話が鳴ると競って受話器に向かったような。

FAXが家庭用にも使えるようになったり、全自動洗濯機が主流になってきたり、一家に2台も3台も車があったり、道路がアスファルトになったり、木造住宅が鉄筋住宅になったり、窓がサッシに変わったり…。

世の中もどんどん移り変わって来たけれど、私自身もコーヒーにミルクやお砂糖を入れてたのが、ブラックになったり、ピーマンやシイタケが食べれるようになったり、

日本酒や焼酎を美味しいと感じたり…。

時が嗜好を変えてくれたり、思考も変えてくれたり…。

多くの便利なものが出て来てはいるけれど、そのどれもが人々の身体や生活にとって良いものかと言うと、???って言う感じのモノも多いかも知れません。

車社会になり、どんどん便利になる一方、空氣も汚れ事故も増え、テレビの番組で伝えるニュースは、悲惨な事故や悪質な犯罪。

まるで、昨日ブログで書いたソドムの町の様にも思えるような事件までも…。

夜も昼も開いているコンビニや、スーパーが私の住む田舎町でも当たり前にあり…。

日本人や田舎の人間は、同胞意識が高い為か、誰かと変わったことに凄く抵抗を感じる人も多いようです。

ツーと言えばカーと言うように、思っていること考えていることもまた凄く伝わりやすく…。

今、世の中で注目されている「水素商品」

我が家は、昨年から飲んだり水素風呂にしたりと、普通の家庭より少し早く水素のある生活を始めました。

そして、太陽院でも扱い始めました。

水を電気分解することで発生する水素。

きっと世の中の常識になっていくのもあと1~2年程かと思います。

3,780円で借りられる水素風呂は、経済にも健康にも、美容にも効果抜群!

使わないと始まらないし、使い始めるとやめられない…かっぱえびせんのような(?)水素風呂。

カセットテープがMDになり、すぐにCDに変わっていった様に、世の中はどこかで何かに仕掛けられ、また何かの力に抑圧されながら流れて行ってるような…。

宇宙にだって人が行く時代。

小学生の頃、21世紀の世界を想像してたけれど、今まさに21世紀。

便利になりすぎることで、大切なものを失ってしまってるのも今かも知れません。

アトランティス大陸が3回の地殻変動で海底に沈んだり、ノアの方舟が40日40夜洪水の中漂ったり、ソドムの町が滅ぼされた時のように、

人類のいちばんの罪は「神から離れてしまうこと」

三重県津市の赤塚さんが自身の会社でずっと提案し続けている「健康になるための住宅」の話を聞き

あー   世の中では人が住まう住宅も有害物質で簡単に張り付けられた味氣ない産業になり、

また神の宿る身体を治していく医までも算術になってしまおうとしているのかと…。

時は常に流れ、人も変わっていくけれど、変わらないものがあるとしたら、見えない世界から届けられている人々への希望と愛。

その時どう思い、どう動くか。

様々な試練にも立ち向かい、初めてのおつかいに行く幼子のように、迷いながらも自分自身が求めるモノに向かって…。

そして今宵は 懐かしい沢田 研二「時の過ぎゆくままに」

 

 

 

空の空(くうのくう)

今朝、知り合いの奥様が天に召されたと連絡が入りました。

昨年夏、50歳近くになって、結婚したお二人は この上ない歓びに満ち 恥ずることなく 寄り添い微笑ましい光景でした。

数回しかお会いしてませんが、彼女の魂の底から歓びに満ちたあの笑顔というものは、こんなにも人の心に残るモノなのかと もう会うことが出来なくなった今 しみじみと思います。

結婚後も、遠距離での生活が続いてた様ですが、やっと一緒に暮らし始めたところに訪れたお別れの時。

なぜ?なぜ?なぜ?

神さまは、なぜこんな哀しいことを計画されたのでしょうか?

それとも、二人が出会うことによって 人を愛する歓びをプレゼントしてくれたのでしょうか?

天使のように軽やかに笑い、旦那様を愛して 天に還っていった彼女。

きっと多くの人に愛を届ける為に 地上にやって来た天使そのものだと思えてなりません。

奇しくも、今日はあの阪神淡路大震災から22年目を迎えました。

あの日も、多くの方々が最愛の人と別れ、ツラく哀しい時を過ごしたのだと思うと、本当に「今」をどう生きていくのか…改めて考えさせられます。

旧約聖書 伝道の書より
1章

伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。

日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。

日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。

風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。

川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。

すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。

先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。

前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のこともに起る者はこれを覚えることがない。

伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。
わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。
 わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。
わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
それは知恵が多ければ悩みが多く、
知識を増す者は憂いを増すからである。
 そしてまた3章ではこう続く


天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。

わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。
わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。
すべてのものは空だからである。
みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。

抜粋出来ないほど、聖書の言葉のひとつひとつは 心地よく胸に響いてくれます。

空の空、空の空、いっさいは空である…

そして、
みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
現世は、うつしよ。 すべては、空(くう)
先に天に還って逝った彼女や私の友、そして母。
天からみるとどうなんでしょうか?
まだしばらくこの「現世(うつしよ)」の世界で、魂磨いて戻ります。
今日の歌は「この空を飛べたら」
https://youtu.be/GmaiWgtaDYI

 

9の年

2016年も、残りあと数時間で終わる本日は大みそか。

2016年は、2+0+1+6=9ということで、9の年だったそうなんですが、

そこに自分の生年月日、私は9月27日生まれなので

2+0+1+6+9+2+7=27

そして、さらに一けたにするために、2+7=9

ということで、私にとっても9の年でした。

占いやジンクスをまるっきり信じるわけではないけれど、世の中は9年周期で動いてるという話を聞き、9は9年間の総決算の年。

2016年の元旦に出した年賀状に、偶然にこんな聖書の一説を書いて出させてもらってました。

**************************************************************************

救世主キリスト・イエス誕生前、書かれた旧約聖書の中「伝道の書」

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
と、全てに「時」があると…。
そして、この3章はもう少しこのようにも続いている。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
**************************************************************************
全てに「時」があり、神のなされることは皆その時にかなって美しく、今大晦日を迎え また明日は新年。
 
太陽は今日も西に沈み、明日はいつもと変わらず東から昇ってくるが、大晦日とかお正月を作ったのも神さまの計らい。
以前、明治天皇の玄孫である竹田 恒泰氏主幹の「竹田研究会」で
『正月はめでたいか?』
という題でお話下さった時、お正月は特にめでたいわけではないと…。
Why???
この聖書の一節にも書かれているが、
『人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごす』
『人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得る』
『人はその働きによって楽しむにこした事はない』
神さまが求める楽しむこと=歓ぶこと!!
ここに繋がってくるようで、1年365日毎日は変わらないけれど、お正月の三日間だけくらいみんなが
「おめでとう!!おめでとう!!おめでとう~!!!」と歓ぶためにあるんだと。
昔、宮中では天皇陛下にいつも歓んでもらってようと、毎日食事にお頭付きの鯛が出され、宮中で働く者もまた不幸事や何かある時には出入りを禁止されたそうで・・・。
もしかすると、天照大神様から繋がる天皇家には、あの天照大神様が天の岩戸に隠れ、世の中が真っ暗になったあの古事記の一節も関係しているようです。
**************************************************************************
以下、古事記の天岩戸開きの一節
スサノオは調子に乗り、アマテラスの田んぼを壊し、御殿で汚物をまき散らす等の乱暴を働きます。
 
スサノオがやらかす度にアマテラスは弟を庇いますが、調子に乗ったスサノオは止まりません。ついに機織りの部屋に馬の皮を投げ入れ、それによって中に居た機織女が死んでしまいます。
 

これにはついにアマテラスの堪忍袋の緒が切れ、天岩戸に閉じこもってしまいました。

太陽の化身でもあるアマテラスが天岩戸に隠れた為、世界は闇に閉ざされてしまいます。

八百万の神々は集まって相談し、思慮の神オモイカネを中心に作戦をたてます。

まず、太陽の使いの長鳴鳥を集めて、いっせいに「アサー」と鳴かし、

タマノオヤに玉飾りを、イシコリドメに鏡を作らせると、これらをマサカキ(サカキ(榊)のこと)に結びつけました。

そしてアメノコヤネが祝詞を献上するなか、玉飾りと鏡を結んだマサカキを携えた神々が岩戸の外を取り囲みます。

岩戸の前ではアメノウズメが踊り舞い、これを八百万の神々がはやしたてます。まさに大宴会。

騒がしい外の様子が気になったアマテラスは、戸を少し開けます。

すると踊っているアメノウズメが「あなた様よりも貴い神様がいらっしゃいます」と言うではありませんか。

そこへ差し出されたマサカキ。そのマサカキに結ばれた鏡には、美しい女神が映っています。

その女神を自分だとは思わずに、アマテラスは身を乗り出します。

その時、岩戸のすぐ横に隠れていたタヂカラオがぐいっとアマテラスの手を握り、外へと引っ張り出します。

そしてフトダマがしめ縄を張り、中へ戻れないようにしました。

こうして、世界は光りを取り戻しました。

**************************************************************************
 この天の岩戸開きでも、アメノウズメの舞を見てみんなが 笑い歓び楽しんだところでアマテラスが出てきたとされ…、楽しむこと、歓ぶこと。
新約聖書の中、パウロがテサロニケ人にあてた第一の手紙の中でも
いつも喜んでいなさい
絶えず祈りなさい
すべての事について、感謝しなさい

これが、キリスト・イエスにあって、神があなた方に求めておられることである。

毎年、11月に入ると喪中欠礼のハガキが届くけれど、この年内に親族が亡くなったりした場合は送られ、喪中の人はお正月が出来ないか?というと、そうではないらしい。

 宮中で働く者もまた不幸事や何かある時には出入りを禁止された様に、他の人が喜べないといけないからだけで、喪中のお家であっても外に言っては他の人が氣をつかってしまうから、

家の中では「おめでとう!!おめでとう!!おめでとう~!!!』と歓んで新年を迎えると良いそうです。

っていうことで、天皇陛下は毎日尾頭付きの鯛を食べてもらい、毎日新しい正絹のふんどしを身に着け、いつもお正月状態で喜んでいてもらうということが、以前はあったそうです。
今は、毎日尾頭付きの鯛を食べて…という形ではないですが、天皇皇后両陛下がいつも喜んでくれていることが一番大切なことで、私たちはお正月3日間だけでも、歓ぶ日を…ということで、お正月がおめでたい日とされてるようです。
しかし、聖書にも古事記にも 歓び楽しんでいなさいと書かれていることは、本当に何があっても神さまの胸の中、喜んで生きていきたいと改めて思う大晦日でもあります。
そして、古事記天の岩戸開きでも、まず初めに太陽の使いの長鳴鳥を集めて、いっせいに「アサー」と鳴かしたそうで、
神社での御神事の際にも、神主さんによって「うぉー―――――」と長鳴鳥の声真似をされ始まり、終わる時も「ううぉ―――――」と。
2017年の干支でもある鳥は始まりの知らせでもあり、また終わりの時でもあるようです。
ということで、最初の9の年に戻りますが、
来る年2017年は
2+0+1+7=10   一桁に足すと1+0で1
2017年は、終わりではなく、9年周期で動く世の「1」始まりの時。
何だか うきうき…ワクワク…してきます。

私自身も「1」始まりの時、あっ!水素も原子記号1番。水素の年かな?

今年もたくさんお世話になりました。

そして12月本格的に始めたブログも毎日更新目標に、

また1年…楽しみ歓んで参ります。
 
 
 
 

)

)
()()
()(
)