「信仰」カテゴリーアーカイブ

魔法のことば

太陽院院長 近藤 千恵子です(*^。^*)

7年ほど前に 知人から教えてもらった『ホ・オポノポノ』

「ありがとう」

「ごめんなさい」

「ゆるしてください」

「愛しています」

「今、目の前で起きている現実は100%すべてが自分の記憶(潜在意識)が現実化したもので」あり、自分の記憶をクリーニングするために使う四つの言葉。

一昨年の11月から 我が家のお風呂は「水素風呂」

そして、水素をたっぷり発生させて 頭や額まで浸かってしまいます。

そして、唱える
「ありがとう」「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛してます」

一緒に住んでいる叔母にも お湯に浸かりながら言ってみて!!と言ったところ

「ありがとう」や「感謝します」は何度も浸かりながら言えるのに、
「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛してます」が言えません。

言えないというよりも、言いたくない!!といった感じでしょうか。

86年の人生を生きて来た叔母。

頑固なところは 私もそっくり…。

「ごめんなさい」「ゆるしてください」の言えない叔母をみながら、私自身「ごめんなさい」「ゆるしてください」が、出来てるのかな?

…と、ちょっと考えさせられました。

人は記憶の動物。

どうでも良いちょっとしたこと…いえ、自分自身では忘れてしまっている様なことも、潜在意識の中で記憶され…深く深く傷つき、「ゆるせない」「謝れない」状態を作り出してしまっているのでしょうか?

また 誰かの思いに変わって お風呂に浸かっている15分間

「ありがとう」「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛しています」

私が唱えることで、叔母の中の…また私自身の中の潜在意識に刻まれた傷や知らず知らずのうちに犯してしまった罪や穢れ

クリーニングされていくのならば…しっかり唱えさせて頂きます。

以前、五日市 剛氏がイスラエルで出会ったおばあさんに、教えてもらった運命を変える魔法の言葉「ありがとう」「ついてる」「感謝します」

ホ・オポノポノにもイスラエルのおばあちゃんの魔法の言葉にも、確かに宿る 言霊のちから…ほんとうに素晴らしいです(*^^)v

ライオンゲート

太陽院院長 近藤 千恵子です\(^^)/

今日、8月8日は地球が銀河の中心となり霊的世界の扉が開くと言われ、また今年は満月…そして月食とも重なり特別なパワーを感じる日なんだとか…。

私も真ん丸なお月様に、月光浴させて頂きました。

で、私が「ライオンゲート」と聞いて頭に浮かぶのが、ステパノという聖書「使徒行伝」に出てくる殉教者。

イエス様の十字架での死後、律法学者たちはイエスと共にいた弟子たちを迫害し、罪に上げようと躍起になっていた頃、ステパノを捕らえます。

そして、ステパノは「いつも聖霊に逆らって、律法を守ったことがない」とユダヤ人たちを断罪し…

この言葉に怒りを燃やしたユダヤ人たちは、ステパノを殺そうと周りを取り囲む。

そして身の危険を感じたステパノは、天を見上げこう言う…「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」…と。

神を冒涜することばと捉えた彼らは大声で叫びながら耳をおおい、ステパノを町の外に追い出して、石で撃ち殺してしまう。

体中の激しい痛みと遠のいていく意識の中で、ステパノは祈る。
「主イエスよ。私の霊をお受けください」そして、また
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」とも…。

命を奪おうとする者たちに囲まれて天を見上げた時、ステパノはイエスと同じ苦しみを受けることの喜びと感謝の思いで満たされ平安に満ちていたとも…。

2014年、イスラエルに行った際 エルサレムの神殿に入るいくつかの門の中、「ライオンゲート」から入場。

キリストイエスが十字架の拷問にかかってなお…
「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているのか自分でわからないのです」と言ったのと同じように

ステパノも、この「ライオンの門」の外に出されて、大きな石をぶつけられながらも 天を見上げ…平安に満ちていたのかと思うと、2000年も前の出来事ながら、光に包まれたステパノがその場にいるようで、何とも言えない氣持ちになったことを覚えています。

そして、ライオンゲートを通るとき、そっと門に手をやり 傷つきながらも光に満ちたステパノをギュッと抱きしめさせて頂きました。

スピリチュアルな世界で伝わるライオンゲートと聖書の中のエルサレムの神殿に繋がるライオンゲートが 繋がっているのかどうかわからないけれども、

今日ゲートが開き、どんな理不尽なことも 殉教者ステパノの様にまっすぐに光輝く方に向かって歩む強さを持っておきたいと改めて感じる

2017年8月8日満月の日でした。

∞の∞の日に感謝(^^ゞ

 

10の言葉

太陽院院長 近藤 千恵子です(*^。^*)

毎月「生命の光」という キリスト聖書塾が発行している小冊子が我が家に届けられます。

冊子の中には、キリストの幕屋を開いた手島郁郎氏の聖書講話が記されており、今月届けられた小冊子の講話は、1973年7月1日に東京全国町民会館でお話しされたもの…。

時がたっても色褪せない真実への扉。

私自身、聖書に触れるようになったのは、エドガー・ケイシーと三重の赤塚さんの影響から…

地元のプロテスタントの教会に2年半毎週日曜日の礼拝にも通い、

そしてその後 赤塚さんの紹介で松山の「キリストの幕屋」で長年伝道されている竹下仁平先生からも毎月一度我が家で聖書の勉強会が始まり…

そして、2年前 赤塚さんが名古屋で聖書講座をされるということで、毎月名古屋まで通わせて頂き…その後長崎や神戸の聖書講座へ…

そして今は、どこに勉強に行くことも無い私の元に毎月届けられる「生命の光」は、届くのが楽しみでもあり…

そして、この今月届いた「生命の光」の中に 書かれてあったモーゼが受けた「十戒」のお話。

大阪に住んでおられる伊藤正明さんと言う方の随想のなかに、十戒のことが書かれてあり、聖書(口語訳)の中には

・あなたはわたしのほかに、なにものも神としてはならない。
・あなたは殺してはならない。
・あなたは姦淫してはならない

と十戒のすべてが「~してはならない」「~せよ」と、命令形で訳されているけれど、

原文では、未完了形の動詞が使われていて「あなたは 殺さないであろう」「あなたは姦淫しないであろう」とも訳せるのだとか…。

そして、なぜそう訳した方が良いと思ったかと言うと 十戒の前提となる前文に

「神はこのすべての言葉を語って言われた。『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導きだした者である』」…と、書かれてあり。

今から3千年以上の昔、イスラエルの民はエジプトで奴隷となっており、その苦しみから天に向かって祈った時、彼らを救い出し、乳と蜜の流れるよき地に導いたのは、主なる神だったと…。

そんな神の憐れみを受けた者なのだから、神さまは
「あなたは他の神を拝んだりしないよね。人を殺したり、姦淫したりはしないよね…」というのが、十戒の土台となる心ではないかと…伊藤氏は書いており

アーメン…アーメン…あ~ホントそうだな…と。

ちなみに十戒と言う言葉も、ヘブライ語では「アセレット ハディブロット」➟「10の言葉」と言うらしく戒律とは違った意味を使っているのだとか…。

どの家庭の親も「うちの子がそんなことをすることは無い」と思うのが親心」でもあり…その思いを受け育つのが子供。

聖書の神さまは、一人ひとりを生まれる前からずっと知っててくれていて、赤塚さんの聖書の勉強会で伝えてくれた神さまは、「~だから愛する」なんていう条件の付いたちっぽけな神さまではなく

「I LOVE YOU,BECAUSE YOU ARE YOU」
「私はあなたを愛する なぜなら あなたは あなただから…」と…。

今月届けられた「生命の光」のこの十戒の訳に神さまの温かさと深い愛を教えて頂きました。

①あなたには、わたしのほかに、他の神々があることはないよね。

②あなたは、自分のために、偶像を造ることはないよね。ましてやそれらを拝むことも、それらに仕えることもないよね。

③あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えることはないよね。

④安息日忘れることはないよね。また聖なる日であることもわかっているよね。

⑤あなたは父と母を敬い大事にするよね。

⑥殺したりなんてしないよね。

⑦姦淫したりもしないよね。

⑧人のモノ盗むなんてしないよね。

⑨あなたの隣人に、偽って証言なんてしないよね。

⑩あなたの隣人の家をほしがるなんてしないよね。

信仰とは、信じ仰ぎ見る何か…

私たちが信じるように、天の神さまもずっとずっと信じてくれてるんだな~と思うと、なんだかワクワクしてきます。

イエスさまが言われた
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という主の戒めでさえも…

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主はあなたを愛してるよ。」とも 受け取れるかも…。

そう思うと、もうひとつイエスさまが言われた戒め
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と…言う言葉でさえも

「あなたの隣人もあなたと同じくらい私は愛してるから嫉妬しないでね」とも取れるかも…。

聖書も誰から学ぶか? どんな風に感じるか?で大きく解釈が変わることもあり…

私自身、初め教会に行ったことも無駄ではなく、また幕屋の竹下先生、三重の赤塚さんの聖書講座 またエドガー・ケイシーや 「生命の光」を通して学ばせて頂けること…

本当に「神は愛なり…」と改めて感じさせて頂きました。

 

 

 

葉月朔日…

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^)

本日葉月朔日、朝九時より伊曾乃神社…朔日祭に参列させて頂きました。

夏真っ盛りの御神事。

御本殿の中では、蚊取り線香の香りと首を振り吹く扇風機の風…そして、蝉しぐれ。

土の中で長い年月過ごしたのち、やっと成虫となり過ごす地上での生活。

いのちの限りなく蝉の あの鳴き声が さらに夏を感じさせてくれるし、また8月は、この蝉しぐれと共に迎える敗戦記念日。

今年72年目の終戦記念日。

8月6日…9日と続けて投下された原子爆弾。

そして、暑い夏の日蝉しぐれの中 流れる昭和天皇の玉音放送。

生きたくても生きることを許されなかった者と、ツラい思いを噛み締めながらも生き抜いてきた戦後の先人たち。

今日朔日…引いた37番末吉御神籤の「神の教え」

何をするにも神様相手、人が知ろうが、しるまいが 神様が見ていらせられる。

神様は、言う事、なす事、思うこと、見ぬき見透しに、心の底の底までも、見て居らせられる。

人は知っても知らないでも、神様を御相手に、世のため、人のため、清い正しい心で尽しましょう。

神様は必ず正しい者に御味方下さる。

日本人の持つ 全てのモノに神が宿るという八百万の神さまの世界と、「天知る! 地知る! 我知る!!」とする世の教え。

蝉の一生も、人の一生も 全てのモノに神さまが宿り 儚く思う蝉の一生も 全ての生き物の中 それが与えられている使命。

8月葉月は、きっと多くの日本人にとって「命」の大切さを改めて感じることの出来る一か月。

まだまだ始まったばかりの暑い夏…心柔らかく過ごさせて頂きます。

 

 

信仰によって…

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^♪

今晩から、うちのトミ子さん…従妹に連れられて奈良県の天理教の教会に参りました。

うちの叔母は、浄土宗…南無阿弥陀仏の世界。

ただ、四国という土地柄のため、弘法大師が開いた真言密教を唱え、たしか もう一人の叔母が荼毘(だび)に付す時は、四国88か所参りで頂いた納経帳を懐に隠して持って行った様な…。

認知症になり、何も覚えてない叔母を グループホームに居るときも、我が家に来てからも 毎月8日にお参りに誘ってくれ そして今晩からフェリーに乗り大阪まで渡り…奈良県の天理市まで連れて行ってくれるという。

もともと、信仰心はある叔母だったけれど、毎月のお参りも…今回のお参りもどこかで神さまが叔母をその場に導いてくれているのか…

片時も目を離すことの出来ない叔母を連れてのお参りは、本当に大変なことなのに それを使命としてしてくれる従妹。

従妹と言っても、父方の従妹。

叔母とは全く血は繋がっているわけでもなく…本当にこの信仰心には頭が下がります。


ずっとずっと昔…。

やはり、大阪に向かうフェリーの中で、まだ私が20代の頃…熱心な天理教の信者さんと隣り合わせになったことがありました。

その女性は、ずっとずっと昔、自分自身のおじいちゃんが目が見えなくなったところ天理教の教祖様に見えるようにしてもらい…それから代々教会を継続させているのだと…。

まだ若く、全く見えない世界のことを知らなかった時…その話は、私自身にはかなり興味深いものでもありました。


と、言うことで今晩フェリー乗り場まで送っていき…月曜日まで少し解放される週末。

そして、明日は広島へうちの主人と大好きな赤塚さんのお話を聴きに参ります。

そして、今回は2年前名古屋で、昨年は神戸で一緒に赤塚さんの聖書講座を受けていた 名鉄構内にある「小さな時計屋さん」の照ちゃんとも講演会場近くの駅で合流。

楽しみに行って参ります。


そして、赤塚さんの聖書講座の中、伝えてもらった信仰によって変えられた聖書の中の人々のこと

「へブル人への手紙11章」

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。

信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。

彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。

信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。

このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。

この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。

彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。

信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。

信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。

信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。

信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、

罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、

キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。

信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。

信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。

信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。

信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。

信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、

火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。

女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。

なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、

(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。

さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。

神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。


「へブル人への手紙」11章1節から40節までの間に何度も何度も出てくる「信仰」という言葉。

単純に…信仰とは、信じて仰ぎ見るモノ…。そして、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること…とある。

アブラハムもヤコブもモーゼもノアも…そしてキリストイエスも…このへブル人への手紙を書いた使徒パウロも…目には見えないけれど確実に存在する大いなるモノに動かされる世界。

明日、久しぶりに話を聴かせて頂く赤塚さんも 何か大いなるものによって導かれ、話させられてる世界。

今日、叔母を天理にまで導いてくれた従妹もそう…。

求めよ…さらば与えられん
探せよ…さらば見つからん
叩けよ…さらば開かれん

信仰によって与えられ、見つかり…そして開かれていく世界。

日本人こそ  この見えない世界を大切にしてきた民族。

そして、日本にたくさんある新興宗教もまた神さまの臨済によって開かれて来たであろう宗教。

どうか、教理や教則ではない真の信仰が世の中を救っていきますように…祈り求めます。

主の契約

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^)/

旧約聖書…まだアブラハムもイサクもモーゼも出てくる前のお話。

新約聖書は、キリスト・イエスを身ごもった母マリアのお話から始まるから、今から2017年程前の出来事から書かれており…

そのもっともっともーーーーっと前、イエス様誕生より3000年程まえの「ノアの方舟」のお話。

旧約聖書、創世記6章5節に…


主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。

主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも、わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

しかし、ノアは主の前に恵みを得た。

神はノアに言われた、

「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。」

そして、主はノアに三階建の方舟を造らせ ノアの家族と地に住むすべての清い獣の中からオスとメスとを七つづつ…、清くない獣の中からオスとメスを二つづつ…また空を飛ぶ鳥の中からオスとメスを七つづつ…

その選ばれた獣や鳥が全地のおもてに生き残るように…と。

方舟が完成し、そして主の言われた通り 獣や鳥たちと共にノア一家も方舟の中に入り…

七日後雨は降りはじめ、そしてそして四十日四十夜地に雨が降り 主の造ったすべての生き物…人も家畜も、這うものも、空の鳥も…みな地からぬぐい去られた…。

ただノアと、彼と共に方舟に居た者だけが残ったそう…。

そして、天から雨が降らなくなり 水が地の上から引いて方舟が今のトルコのアララテの山にとどまったのが…今日の日付と同じ7月17日と書かれています。

そして、その後 主はノアと契約を立てたそう…

契約には、こう書かれてます!
「すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう…」と。

そして、契約のしるしとして  雲の中に、にじを置く…とも。


もう二度と洪水は起こさないと、約束した契約は今、崩れていってしまったのでしょうか?

旧約聖書とは、キリスト・イエスが生まれ出る前の神さまとの約束…契約が書かれた書。

そして、今 主イエス様が十字架にかかったことで 人類の罪を贖い、救いをもたらす…という新しい神さまとの約束。

しかし先週、襲った九州の大雨や土砂崩れ…。そして、2011年3月11日の東日本大震災。

各地で起こる目や耳を塞ぎたくなるような事件や災害。

「我が子…イエスを信じなさい」と母マリア様は、メジュゴリエの小さな村で35年以上も現れ メッセージを残しています。

神のひとり子が、神さまの生き方を多くの人々に示した…この地上で神と共に生きる生き方。

人は何度も生まれ変わり…未熟だった魂も少しづつでも成長し…

もしかすると2000年前、目の前でイエス様の十字架への歩みを見た人も…

復活を見た人も…

その後神さまの臨在をありありと感じたことのある人々も…

ただ、イエス様ひとりに贖ってもらうのではなく、あの東日本の大震災で天に還って逝った何万人もの方々は…救い主イエス様と同じ?

きっときっと今回の大雨によって天に還って逝かれた魂も…

あのノアの方舟の時、神さまがノアを救ったように…神さまが選び世の人々に、あのビアドロロッサ…十字架への道をイバラの冠を打ちつけられ十字架を背負い、血を流しながら歩いた罪なき贖いびとイエスさまを見せられるような…

ノアの時代とは違う、尊い魂を持つ人々の召天。

どうか、多くの人々が罪ない方々が 世の罪を背負うことのない世の中になりますように…

今日、ノアの方舟が5000年前トルコのアララテ山にたどり着いた日…旧約聖書の時代とは違う 今。

益々、この世での生き方が問われるように思わされた神さまの契約。

世界一のベストセラーである聖書を読む機会が少ない日本人。

日本人だからこそ、深い所で理解することが出来る聖書。

九州熊本は、私が2年半勉強させてもらった無教会の「キリストの幕屋」が開かれた場所。

幕屋の創始者手島郁郎氏は、阿蘇の山の中で、神さまの声を聴き聖書集会を子供も含む5人から始まったんだとか…。

イエス様が群衆に神の御言葉伝えていた場所は、教会ではなく野原や湖上…。

日々の生活の中に、神さまとの対話が生まれてくるのかも…。

今朝、私の携帯に届いたエドガー・ケイシーセンターからの珠玉の御言葉

内なる静かで小さな声こそが、人を動かす力に命をもたらし、その命が人間の奮闘努力の土台となるものを与えるのです。(239-1)

 

 

 

 

我慢と忍耐

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^♪

今日、車を走らせながら 東京でのエドガー・ケイシーセンターの定期講座のCDを聴いておりました。

その中で、講師の光田先生曰く

我慢と忍耐は同じようで違います…と。

なるほど…我慢は口を紡ぐことでストレスを生むが 忍耐は目標に向かって向上していくことである…と。

なるほど…なるほど…我慢よりも忍耐!!

で、家に戻って主人に言ったら
「忍耐の意味は我慢することと出てて、我慢の意味は耐え忍ぶこと…と、書いてるんだろうね」と…。

早速携帯で 「忍耐」を検索すると…つらさ・苦しさ・怒りを、じっと我慢すること。

そして、「我慢」といえば…辛いことを耐え忍ぶこと。こらえて許すこと…だと。

本当に書いてありました。

ちなみに、「辛抱」は、つらさをかなり長い時間じっと我慢する。ツラい仕事をじっと耐えて勤めること…だと。

なるほど…3つとも、検索によると、ほとんど同じ意味。

私自身、6月から 認知症の叔母と暮らしながら、ある意味「忍耐の修行中」

10秒で忘れてしまう叔母…氣にいらないことが起こると、プイッとご機嫌斜めになることもあり…。

本人は忘れてケロッとしてるけど…、私は覚えてる!

改めて日々新しい叔母と共にいることで、忍耐の勉強させてもらってます。

と、いうことで、

我慢だと続かないし・・・、

辛抱でも…ダメ!!

忍耐が、前向きで相手も自分にも嘘をつかない言葉に思えてきます。

そして、忍耐と言えば…聖書の中

「コリントの信徒への手紙一」

愛は忍耐強い。
愛は情け深い。
ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐える

主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるから…ともあり、

主の愛、創造主の愛の世界、日々の生活の中…忍耐を通して感じられるよう鍛錬していきたいものです。

お山開き

西日本最高峰「石鎚山」も、昨日からお山開き。

「仁」「智」「勇」の御神像…

そして、古事記の記述の中 2番目に生まれた石土毘古命(いわつちひこのみこと)

イザナギさまとイザナミさまの国生みの後、神生みの中2番目に生まれた神さま。

山全体が、御神体と崇められるお山は、私でも思わず手を合わせてしまうほどの神々しい姿。

山の神さまの「お山開き」が終わると、今度は海の神さまの「海開き」

昔、誰かが人生を変える3大スポーツが、「山登り」と「ヨット」と「スキー」だと聞いたことがあります。

この3つとも、2度と同じような状況がなく…山もヨットもスキーも自然との共有。

登山家に「なぜ 山に登るんですか?」と聞くと「そこに山があるから…」というあまりにも当たり前すぎる様な素敵な言葉。

私の人生を変えてくれたのも、その中のひとつ「スキー」

一つひとつ刻んでゆくターンにも、雪質やコース、そして自身の体調が大きく左右し、もっと上手くなりたい!さっきの様に滑ってみたい!!と、ひと滑りひと滑りが真剣そのもの。

世界最高峰を目指す登山家。

世界一周をヨットで成し遂げる冒険家。

山にも海にも、神さまが宿り そこで感じるものは 本当に何か不思議な世界へと運んでくれるのかも知れません。

明日は、朝一番の飛行機で、東京に飛びます。

空をこえて…ららら 星の彼方…ではないですが、昔なら東京まで何時間もかかって歩いてた時代からは想像もできないような今。

5月四国での初公演で愛媛に来られた「風の祭典」の齋藤さん一家との久々の再会。

ご縁って不思議です。

齊藤美惠子さんに出逢わせて頂き、障がいを持つお母さんの強さと優しさを改めて感じさせていただきました。

普通ではない神宿る舞台を20年続けて来られてる齋藤さんご一家。

久しぶりの東京…そして「金町」というなんともリッチな駅で待ち合わせ。

認知症の叔母も今日の夕方から5日の夕方まで預かってもらって、しっかり自分の時間過ごさせて頂きます。

山も海もそして人との出逢いも 全て人智を超えた世界。

楽しんで参ります(*^^)v

水無月大祓い

夕方5時からの…伊曾乃神社での水無月大祓式。

ギリギり間に合い参列させて頂きました。

「水無月の 夏越の祓ひ する人は 千歳の命のぶというなり」

水無月は、水の無い月とではなく 「水の月」

もともと古事記のお話の中でも、黄泉の国から逃げ帰り、川に入り水によって…目を洗い…鼻を洗って…禊してきたもの。

水の月…梅雨となり 人間だけでなく世の中の全てのモノが水によって清められる月。

そして宮中でも 1300年ほど前から水無月晦日には 夕刻大祓いの儀式が執り行われているのだそう…。

6月までの半年間の罪穢れを 人形に移し 祓ってもらう大祓い。

一人ひとりが川に入り、禊をするのではなく 人形に移し 茅の輪をくぐり そして、その青々とした植物は再生を促す力を宿すのだそう…。

今日の水無月大祓いと同じように、旧暦の6月15日…今年は8月6日には、西条市内を流れる加茂川の河原で執り行われる「夏越祭」

河原に幕屋が作られ、大勢の人々が この夏を無事に過ごせますように…と祈りこの日も人形に罪穢れを移し、茅の輪をくぐり 神さまに全託。

京都の祇園祭が行われる 7月17日などは 聖書から繋がるお話の中、疫病を祓う儀式として 伝わって来たのだとか…。

小さな頃から 夏越祭の日には お風呂上りに 人形(ひとかた)さんを手に…

頭がよくなりますように…
目がよく見えますように…
耳が聞こえますように…
顔がきれいになりますように…

と、手や足や身体全部を撫でまわし…なんだかホッとしたものです。

罪穢れを祓うより人形に願いを込めて…

50歳を過ぎた今でも、人形さんを手に 身体中を撫でまわし…たくさんの罪穢れを身代りになってもらいました。

清められ、そしてまたこれからの半年間…身も心も神さまと寄り添い過ごさせて頂きます。

 

 

 

禊の雨

やっと梅雨の季節を感じる今週…。

紫陽花も雨を喜ぶようにキラキラ輝き、やはり6月水無月…水の月。

7月1日には、四国西条のシンボル霊峰石鎚山のお山開きもあり、その前に浄化の雨。

お山開きと言えば…スキーインストラクター時代、シーズンも終わり ちょうど石鎚山の成就社にある白石旅館でお山開きの間のアルバイトしてみない?

…ということで、10日間のお山開きのアルバイトを、4~5年続いてさせて頂きました。

7月1日からのお山開きの準備から10日間のお山開きの期間、そして終わってからの片づけまでお手伝いさせてもらったときは、15日くらい。

岡山や広島、山口県からの石鎚信仰の信者さんが、その頃はしまなみ海道もなく夕方到着し、夕食を食べお風呂に入り…翌日朝3時には起床。

そして朝食をし、山頂へと登り ご来光を拝み…お昼近くには戻ってきて、昼食をすませ地元に戻っていく。

お山が御神体。

きっと遠い遠い昔、瀬戸内海の向こうから見る そびえ立つ西日本一の霊峰石鎚山は、雄々しく輝き、神さまのように 遠く近い存在だったのかも知れません。

しかし、あの頃の10日間のお山開きの最中は、毎日朝3時には起き、夜は10時ころまで手伝い…その後お風呂に入り、睡眠時間は毎日3~4時間ほど…。

今は、土小屋の方で旅館をしている白石旅館の長男、廉太郎さんが責任者で、毎年岡山大学のラグビー部の男の子達と食堂で働く10日間は、今では楽しい思い出。

アルバイトさせてもらってたのは、私がまだ28歳の頃~だったので、もう26年前。

ぎゃ!!その頃大学1年生だった彼らも今は、44~5歳?

私の中では、ずっと大学生のままの彼ら…。

お山開きの後、一緒に山頂まで登山し 鎖も登ってたんだから…私も若かったし体力あったな~と…。

不思議とお山開きを手伝わせて頂いた頃、何か運氣も上々…。山の神様のエネルギーを知らず知らずのうちに頂いてたのだと…思います。

10日間の中、出来れば山の神さまがやさしく包んでくれるような、お天氣に恵まれ 遠くからも近くからも来る人々にも 素晴らしいお山開きとなりますように…。

今週の雨は禊の雨。

霊宿る霊峰石鎚の神さま…あなたの麓で生活させて頂いていること…改めて感謝し ここに生まれたことを嬉しく思います。