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10月何とか…頑張りました(^^ゞ

太陽院院長 近藤  千恵子です(*^。^*)

今日、10月最終日。

7年間グループホームに居た 認知症の叔母が我が家にやって来て、丸5か月が過ぎました。

そして、今月はなんだかんだ行事も重なり…

有森裕子ではないですが、「自分で自分を褒めてあげたい」と思うほどの10月でした。

お祭りは、今年婦人部長ということで なかなか家のことや叔母のことまで手が回るかな?と、思いながらも…何とか一つひとつクリアし、本当にこんな時こそ、

「恐れるな!主はあなたと共にいる」

という、言葉がぴったりするような…全てが目には見えないけれど、守られてるな~と実感。

そして、氣付くと今年初めて購入した28日×13の月で示される「コズミックダイアリー」も4つ目の月…に突入してしまってました。

しかも4つ目の「自己存在の月」…10月18日から始まってて、今日で14日目。

半分も過ぎてしまってました(・.・;)

って言う事で、ゆっくり「自己存在の月」を読んでみると、なるほどなるほど…です。

自己存在の月
「私」の奉仕は、どういう形をとるのだろうか?

人とどう違うかという表面的なことを、個性だと考えていませんか?

宇宙の目的、生命の目的のなかで、何を自分ができるのか?

それを「測る」こと。

宇宙の摂理に目的がかなっていても、顕われる形は様々。

それは、与えられた地球上の環境の中で、形として顕れるもの。

宇宙の目的の中で、自分ができることを測ってみる。

生まれ育った地球上の環境から影響を受け、

まわりのものに影響を与える「行い」を重ねることによって、

自分のできることが形として、顕われてくる。それが「自己存在」。

「行為の基礎を確立する」4つの月。

「磁気の月」で、宇宙の目的を見つめ、

「月の月」で、二元的なエネルギーを醸成し、

「電気の月」で、宇宙のリズムに行いをつなげ、

「自己存在の月」では、宇宙の目的の中で、自分のできることを測ってみよう。

自己存在の月の28日間は、こころのもつ「定義する」という力を生み出す月。

自己存在という、ミクロなところを深く掘り下げるところから、

マクロな、宇宙の目的と結びつくものを形にしていく。

What is the form my service will take?

こうやって「自己存在の月」を読んでみると、なんだかんだ誰かの為にさせて頂いてること…嫌いじゃないし、僖んでもらえることで自分の存在価値を感じられるような…。

そして、必ずしも歓んでもらったり…褒めてくれたりするわけでもなく…「あたりまえ」とも思われることも有るけれど…

私はナルシスト(笑)

私が私を一番好きで…そして誰かが歓んでくれるのが好き!

誰でもが出来るわけではなくて、こんな私だから出来ること…そしてさせてもらってること…。

今年もあと2か月。

ふと先日主人と話ながら…「今年、夏暑かった?」と…聞いてみたけど、思い出せず…。

認知症の叔母との生活でガラッと変わった毎日。

5月末日から我が家にやってきて…きっと暑かった夏も、介護の大変さも能天氣な私だからこそ 記憶されず…(+_+)

今、この瞬間瞬間に「神さまなら どうする?」と見えない大いなるエネルギーに問いながら 歌いながら…笑いながら…日々楽しんで参ります(^^ゞ

僕の人生は明日で終わる…

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^ゞ

この世に生まれた瞬間から、私達はひとりの例外もなく…死へと向かって行きます。

そして、若い頃や、50歳を超えた今でも まだまだ命が終わるということを…わかってはいても実感はありません。

戦争の真っ只中にいる人や、飢餓で苦しむ国に生まれた人…、病で苦しんでいる人々にとっては、きっと…誰よりも今この世に生きている生かされているということを実感しているはず…。

「僕の人生は明日で終わる。生きたであろう明日を 未来の君たちに託す」

と…遺書を書き、飛行機に爆弾乗せて 多くの若い若い命が 空に向かい…そして、敵艦に体当たり…。

たったひとつの尊い命を、国家の為…家族の為…愛する者の為に…捧げました。

そんな、神風特別攻撃隊が初めて編成されたのは、大東亜の戦争が終盤を迎える昭和19年10月。

そして、フィリピン…マバラカットから飛び立って行った5つの御霊。

明日、この肉体が無くなり…もう愛する人とも話すことも…触れることも出来なくなるとしたら…その前夜、どんな気持ちで夜を迎えたのでしょうか。

日本の特攻隊が初めて敵艦に体当たりしたのが、73年前の…10月25日。

特攻作戦が始まり、次々に爆弾積んで突撃してくる姿に、米軍の兵士たちは、「クレイジー」と思い…またそれが本当に怖かったそう…

そして、終戦後 徹底的に日本のことを研究した結果、変えられたのが教育。

「戦後教育」

戦後72年…特攻作戦から73年。

今日、平和で豊かな社会は、悠久の大義に殉じられた 多くの方々の尊い犠牲の上に成り立っていること…。

そして、思うに…本当に平和で豊かな社会なんでしょうか?

明日、日本で初めての特攻隊である…「敷島隊」五軍神と愛媛県の特攻戦没者の追悼式典が、私の住む愛媛県西条市で開かれますが…

訪れる人々は、60歳以上の人々がほとんど…。

自殺ではない…誰かの為に命を捧げた英霊の方々。

2000年前に、エルサレムで何の罪もなく 当時の権力者によって 十字架にかかり…人類の罪を贖うための神への燔祭となったキリスト・イエス。

私の為に生きるのではなく…人々の為に、命を捧げた神の子と、73年前から1年間…次から次へと敵艦目指して突撃していった英霊の方々は、私の中では イエス様と同じ…。

その同胞の命をかけた生き様こそが、世界に誇る…武士道。

大和魂。

明日は、あの長く続いた雨もなく…台風も去って行き きっと天も高く秋晴れの日。

遠い遠い空の上から、この平和で豊かに見える 今の日本に生きる我々を どんな風に思ってみているのでしょうか?

あの長く長く続いた雨は、天の哀しみの涙だったのでしょうか…。

「今一度、日本を洗濯致し候」と言った 龍馬の感じたような時代が、今また訪れているのかも…知れません。

追悼式典には来れなくても 10月25日…尊い命を捧げた御霊にどうか思いを寄せて頂けると嬉しいです。

感謝…合掌…

 

幼子のごとく柔らかに軽やかに…

太陽院院長 近藤 千恵子です(*^^)v

自身の身体のメンテナンスの為…今日、予約していたオステオパシーの施術を受けに、午後行って参りました。

フランス人のグレゴリーさんの施術はもちろん、グレゴリーさんと奥様の香さんや娘さんの咲ちゃんに会えるのも楽しみのひとつ。

初めて施術に伺わせて頂いた時は、あまり話せなかった咲ちゃん…今日は、すごく上手にお話してて…子供の成長にビックリ。

施術の際は、奥様の香さんが通訳をし、英語で会話されてるお二人。

聞くとグレゴリーさんは咲ちゃんとの会話はフランス語。

そして、香さんと咲ちゃんの会話は日本語。

おさなごの吸収力は、ビックリするほど・・・。

香さん、英語はペラペラだけど、フランス語は咲ちゃんに負けたと…そしてグレゴリーさんもまた日本語は咲ちゃんに負け…

聖書の中、「幼子のごとき信仰を…」と言われるが、誠に聖書や神さまの御業や計らいを理屈や頭では考えられないことばかり…。

以前、誰かが話されていた中、英語が出来ると国際人になれるからと、小さな時から英会話スクールに入れてみたり、文部科学省でも小学校から英語の授業を取り入れたりしてるけれど…

僕なんて東京大学で、英語の成績は学年でトップクラスだったけれど、いざアメリカに行った時、僕の英語なんて通じないんですよ。

その辺で遊んでる子供でも話せてるのに…と。

そして、また続けてこうお話し下さいました。

「英語が出来ると国際人になれるなら、アメリカ人はみんな国際人ですか?」と…。

これを屁理屈と取ると、話は繋がらないけれど…私自身このお話を聴いた時、そうだな~と納得。

事実、英語が出来なくても海外旅行には行けるし、大きくビジネスで展開しようと思えば、しっかり儲けて英語の出来る通訳の人を雇えばイイだけ…。

でも、今日の咲ちゃんをみてると 環境や興味が人を育てていくんだな~と実感。

今月届けられた「生命の光」の中、キリスト者の手島郁郎氏が1973年に講義された中にも、キリスト・イエスが「我が肉を食え…血を飲め」との言葉について書かれていた中、

私は日本の古事記や日本書紀などを読むのを好み、そこに天と地の消息を知り…困難に遭っては天を仰ぎ、天の助けによって国を建てられた、神武天皇の故事を読んでもそう…。

天上界と地上界、相接するようにして影響し合ってる状況。

当時の人々は、心が純で幼な子の様でしたから、それを聞いても良くわかったんだ…と。

そして、国を司る人々においても、「一葉落ちて天下の秋を知る」というけれど、小さな現象を見ただけでも、何か大きな変化の予兆を知るのが本当の政治家です。

…と、1973年の講義でお話されたことは、今の我々にもしっかり伝わることであり、世の中が混沌としている今だからこそ 私自身も幼な子の様な心で、柔らかに…軽やかに…過ごして行きたいと思う秋の一日です。

ムーブメント♡♡♡

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^)/

9月長月…満月の夜。

そして、今日届いたキリストの幕屋からの「生命の光」

パラパラっと開いてみると、なんとマハトマ・ガンジー歩いてる写真。

昨日、経営セミナーの中 「塩の行進」を知り…ブログに書いたばかり…。

ヒンドゥー教の聖者ヴィヴェカナンダは、イギリスの植民地支配のもとで 奴隷のように虐げられてきた人たちと共に生き、人々の心に希望の火を点し、民族の誇りを自覚させたのだとか…。

そして死を前に言った言葉が
「インドは不滅である。もし神を探求しつづけるのなら…しかしインドが政治と社会闘争に入るなら、滅びるだろう」と…。

その後、マハトマ・ガンジーが現れ、非暴力をもってインドの独立運動を指導していったのだとか…。

1930年3月、約380㌔の道のりを23日かけて行進し、海岸に着くや、塩を作り始めたのだとか。

生活必需品である塩を作る運動に、知識人も…貧しい人たちも…ヒンドゥー教徒も…イスラム教徒も…参加し、独立運動は大きなうねりとなったのだとか…。

法を破ったというので、ガンジーはじめ6千人以上の人が投獄され…しかし非暴力を貫いた独立運動と国際世論の後押しもあり、1947年8月15日、ついにインドは独立することが出来たんだとか…。

ガンジーは、こう言ったそう

「もしインドが剣の教義を採るならば、一時的な勝利を得るかもしれない。 だがその時は、インドはもはや私の誇りではなくなる。
私の人生は、私がヒンドゥー教の本質と信じる非暴力の宗教を通して、インドへの奉仕に捧げられている」と…。

エドガー・ケイシーが、地球上でもっとも普遍的な神の真理を書いた書として、ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」

聖書の中、神の子として生まれて来たキリスト・イエス。

神さまの愛の世界を伝えてきたイエス様を十字架へと追いやり、その後2000年近く流浪の民となってしまったユダヤ人。

そして、神国日本…古事記から繋がる皇室により伝え守り続けられたもの。

ガンジーが「塩の行進」に向かった時、自身も死を覚悟しその中に入っていった きっと最初のひとりもいるはず。

そして、次から次へと繋がっていった ガンジーの思い。

イスラエルのシオニズム運動もそう…。

たった一人の思いに賛同し、繋がっていく仲間がいること。

神さまはそうやって、一人の人間に光を与え…またそこに共感し共に輝きたい!と動き…その輝いてる姿にまた人は動かされ…。

何が良くて、何が危険なのか?わからない世の中。

そんな世の中だからこそ、ガッチリ神さまと語り合い導かれ、素直な氣持ちで 歩んで行きたいものです。

神さまならどうする?

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^)v

日中は蝉が鳴き…夜は鈴虫が鳴く 夏から秋へと移るこの季節。

しみじみ「いいな~」と思ってしまいますが、

今朝の北朝鮮のミサエル発射のニュースを耳にし、予測のつかない状況に 手を合わせ天に委ねることしか思いつきません。

昨年末、エドガー・ケイシー探求講座で光田先生より教えて頂いた、ケイシーが最高の知慧の書と言った「ヴァガバッド・ギーター」

戦場が舞台となるヴァガバッド・ギーター…神の詩

その中で神さまは、戦うことさえも神の成されたこと。

悪も善も神が作る…と。

天使も堕天使も神が作った…という感じでしょうか。

いつの時代にも どんな国にも 降り注がれているであろう天からの愛の光。

北朝鮮に限らず、何がそうさせてしまうのでしょうか。

家庭の中での兄弟喧嘩や親子喧嘩…そして夫婦喧嘩
そして、近隣トラブル、学校でのいじめ、職場のトラブル…

私が正しい!!
私を認めて!!

聖書の中、アダムとイブの子供…カインとアベル。

神さまへ自分が育てた野菜を捧げた兄カインと自分が育ててる羊のなか初子を捧げた弟アベル…神さまは弟アベルの捧げものを受け取った。

そして、嫉妬から弟を殺してしまった兄カイン。

その兄カインに、主は言われた

「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中から私に叫んでいます。今、あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。
あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」と…

そして、主の言葉をうけ兄カインが言った

「わたしの罪は重くて負いきれません。あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでも わたしを殺すでしょう」

と、言うカインに主は…

「いや、そうではない。だれでもカインを殺すものは七倍の復讐を受けるでしょう。」そう主は、カインに告げ…そして主はカインを見付ける者が、誰も打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。

と、主が殺すことなく生をもって生き抜く事を兄カインに求め…そして印までつけて聖別され…

父アダムは主に隠れ、誰かのせいにし…神の楽園エデンの園を追放され、また息子のカインもまたエデンの東、ノドの地に住むように…。

そして、アダムとイブの二人の子供は側にいなくなり、その後アダムとイブの間に生まれた男の子「セツ」

その「セツ」の子孫に主の言葉を受け方舟を造った「ノア」が生まれ…

聖なる書にも、善と悪があり…その根底には あの禁断の果実を食べたことから始まる人間的な頭や感情から始まるもののような状態。

旧約聖書の初めから書かれる神の考えと、人間的な智慧によりおこってしまう罪。

「W.W.J.D」…What Would Jesus Do?

神さまならどうする?

この地上に住みながら、地上をエデンの園としていくために今、生を受け世界中に住む神の子73億人。

今、隣国に嫉妬されているような、日本に生まれた我々1億2千万人。

天が今を生きる私たちに望む生き方…神さまならどうする?

隣国からのミサイルが日本のどこにでも飛んできそうな今。

イザナギ、イザナミが生んだ神話の国日本の平安を魂いっぱい…祈ります。

ライオンゲート

太陽院院長 近藤 千恵子です\(^^)/

今日、8月8日は地球が銀河の中心となり霊的世界の扉が開くと言われ、また今年は満月…そして月食とも重なり特別なパワーを感じる日なんだとか…。

私も真ん丸なお月様に、月光浴させて頂きました。

で、私が「ライオンゲート」と聞いて頭に浮かぶのが、ステパノという聖書「使徒行伝」に出てくる殉教者。

イエス様の十字架での死後、律法学者たちはイエスと共にいた弟子たちを迫害し、罪に上げようと躍起になっていた頃、ステパノを捕らえます。

そして、ステパノは「いつも聖霊に逆らって、律法を守ったことがない」とユダヤ人たちを断罪し…

この言葉に怒りを燃やしたユダヤ人たちは、ステパノを殺そうと周りを取り囲む。

そして身の危険を感じたステパノは、天を見上げこう言う…「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」…と。

神を冒涜することばと捉えた彼らは大声で叫びながら耳をおおい、ステパノを町の外に追い出して、石で撃ち殺してしまう。

体中の激しい痛みと遠のいていく意識の中で、ステパノは祈る。
「主イエスよ。私の霊をお受けください」そして、また
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」とも…。

命を奪おうとする者たちに囲まれて天を見上げた時、ステパノはイエスと同じ苦しみを受けることの喜びと感謝の思いで満たされ平安に満ちていたとも…。

2014年、イスラエルに行った際 エルサレムの神殿に入るいくつかの門の中、「ライオンゲート」から入場。

キリストイエスが十字架の拷問にかかってなお…
「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分が何をしているのか自分でわからないのです」と言ったのと同じように

ステパノも、この「ライオンの門」の外に出されて、大きな石をぶつけられながらも 天を見上げ…平安に満ちていたのかと思うと、2000年も前の出来事ながら、光に包まれたステパノがその場にいるようで、何とも言えない氣持ちになったことを覚えています。

そして、ライオンゲートを通るとき、そっと門に手をやり 傷つきながらも光に満ちたステパノをギュッと抱きしめさせて頂きました。

スピリチュアルな世界で伝わるライオンゲートと聖書の中のエルサレムの神殿に繋がるライオンゲートが 繋がっているのかどうかわからないけれども、

今日ゲートが開き、どんな理不尽なことも 殉教者ステパノの様にまっすぐに光輝く方に向かって歩む強さを持っておきたいと改めて感じる

2017年8月8日満月の日でした。

∞の∞の日に感謝(^^ゞ

 

銭形~♡

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^)/

今日、香川県観音寺市に行って参りました。

約束の時間よりも 随分早く到着したので 「琴引公園」にある銭形を見ることの出来る展望台にも寄って参りました。

「銭形砂絵」は1633年(寛永10年) 高松藩主の生駒高俊公を歓迎するために急遽一夜で作り上げられたと伝えられており

「銭形を見たものは 健康で長生き、おまけにお金に不自由しない」と言われるほどの パワースポットなんだとか…(*^^)v

高校3年生の卒業遠足が、ここ琴引公園でみんなでバスに乗り来た時が初めての銭形!

そして、1年前…主人とドライブの途中、看板を見かけ 行ってみようか…と、行ったのが2回目!!

そして、そして今日3回目の銭形!!!

3回訪れたとなると、きっと神さまはじっとしてないかも…知れません(*^^)v

そして、お会いした女性は、イキイキ動かれ…月収も7ケタは行ってる 素敵な人生を満喫されてる女性。

銭形パワーとイケてる女性パワーたっぷり頂いた観音寺。

しつこい様だけれど…コズミックダイアリーでの「磁氣の月」

お金も人も…私自身が強力な磁石となり、ぐわ~っと引き寄せているような今。

「億」も夢じゃない?…と思い意識をそこに持って行ってみる。

自身の磁力引き寄せられてくる多くのモノや情報。

「取捨選択」していくのも私。

そしてこの大宇宙の中、生きているこの3次元の世界。

よく三重県津市の赤塚建設社長…赤塚高仁さんが言われる言葉
「この世の学びは、人間関係と経済活動」…だと。

そして、今日観音寺でお話しさせてもらった「観音寺グランドホテル」は、私が高校卒業後8年間務めた会社で 最後の慰安旅行の時に泊まったホテル。

会社の都合で、退職することが決まっていた私を、西日本の営業所の方々が人生で初めて「胴上げ」をしてくださった思い出の場所でした。

天井に当たりそうな恐怖と共に、心地よい空間に舞う感覚。

この世は、先の見えない楽しみな冒険の場。

こんな讃美歌のように、歌いながら歩んで行けます様に…

主にすがる我に 悩みはなし
十字架のみもとに 荷をおろせば
歌いつつ 歩まん 
ハレルヤ ハレルヤ
歌いつつ 歩まん
この世の旅路を

恐れは変わりて 祈りとなり
嘆きは 変わりて 歌となりぬ
歌いつつ 歩まん 
ハレルヤ ハレルヤ
歌いつつ 歩まん
この世の旅路を

主はいと優しく 我と語り
とぼしき時には 充たし給う
歌いつつ 歩まん 
ハレルヤ ハレルヤ
歌いつつ 歩まん
この世の旅路を

主の御約束に 変わりはなし
御許に行くまで ささえ給わん
歌いつつ 歩まん 
ハレルヤ ハレルヤ
歌いつつ 歩まん
この世の旅路を

信仰によって…

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^♪

今晩から、うちのトミ子さん…従妹に連れられて奈良県の天理教の教会に参りました。

うちの叔母は、浄土宗…南無阿弥陀仏の世界。

ただ、四国という土地柄のため、弘法大師が開いた真言密教を唱え、たしか もう一人の叔母が荼毘(だび)に付す時は、四国88か所参りで頂いた納経帳を懐に隠して持って行った様な…。

認知症になり、何も覚えてない叔母を グループホームに居るときも、我が家に来てからも 毎月8日にお参りに誘ってくれ そして今晩からフェリーに乗り大阪まで渡り…奈良県の天理市まで連れて行ってくれるという。

もともと、信仰心はある叔母だったけれど、毎月のお参りも…今回のお参りもどこかで神さまが叔母をその場に導いてくれているのか…

片時も目を離すことの出来ない叔母を連れてのお参りは、本当に大変なことなのに それを使命としてしてくれる従妹。

従妹と言っても、父方の従妹。

叔母とは全く血は繋がっているわけでもなく…本当にこの信仰心には頭が下がります。


ずっとずっと昔…。

やはり、大阪に向かうフェリーの中で、まだ私が20代の頃…熱心な天理教の信者さんと隣り合わせになったことがありました。

その女性は、ずっとずっと昔、自分自身のおじいちゃんが目が見えなくなったところ天理教の教祖様に見えるようにしてもらい…それから代々教会を継続させているのだと…。

まだ若く、全く見えない世界のことを知らなかった時…その話は、私自身にはかなり興味深いものでもありました。


と、言うことで今晩フェリー乗り場まで送っていき…月曜日まで少し解放される週末。

そして、明日は広島へうちの主人と大好きな赤塚さんのお話を聴きに参ります。

そして、今回は2年前名古屋で、昨年は神戸で一緒に赤塚さんの聖書講座を受けていた 名鉄構内にある「小さな時計屋さん」の照ちゃんとも講演会場近くの駅で合流。

楽しみに行って参ります。


そして、赤塚さんの聖書講座の中、伝えてもらった信仰によって変えられた聖書の中の人々のこと

「へブル人への手紙11章」

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。

信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。

彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。

信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。

このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。

この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。

彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。

信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。

信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。

信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。

信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、

罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、

キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。

信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。

信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。

信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。

信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。

信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、

火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。

女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。

なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、

(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。

さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。

神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。


「へブル人への手紙」11章1節から40節までの間に何度も何度も出てくる「信仰」という言葉。

単純に…信仰とは、信じて仰ぎ見るモノ…。そして、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること…とある。

アブラハムもヤコブもモーゼもノアも…そしてキリストイエスも…このへブル人への手紙を書いた使徒パウロも…目には見えないけれど確実に存在する大いなるモノに動かされる世界。

明日、久しぶりに話を聴かせて頂く赤塚さんも 何か大いなるものによって導かれ、話させられてる世界。

今日、叔母を天理にまで導いてくれた従妹もそう…。

求めよ…さらば与えられん
探せよ…さらば見つからん
叩けよ…さらば開かれん

信仰によって与えられ、見つかり…そして開かれていく世界。

日本人こそ  この見えない世界を大切にしてきた民族。

そして、日本にたくさんある新興宗教もまた神さまの臨済によって開かれて来たであろう宗教。

どうか、教理や教則ではない真の信仰が世の中を救っていきますように…祈り求めます。

主の契約

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^)/

旧約聖書…まだアブラハムもイサクもモーゼも出てくる前のお話。

新約聖書は、キリスト・イエスを身ごもった母マリアのお話から始まるから、今から2017年程前の出来事から書かれており…

そのもっともっともーーーーっと前、イエス様誕生より3000年程まえの「ノアの方舟」のお話。

旧約聖書、創世記6章5節に…


主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。

主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも、わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

しかし、ノアは主の前に恵みを得た。

神はノアに言われた、

「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。」

そして、主はノアに三階建の方舟を造らせ ノアの家族と地に住むすべての清い獣の中からオスとメスとを七つづつ…、清くない獣の中からオスとメスを二つづつ…また空を飛ぶ鳥の中からオスとメスを七つづつ…

その選ばれた獣や鳥が全地のおもてに生き残るように…と。

方舟が完成し、そして主の言われた通り 獣や鳥たちと共にノア一家も方舟の中に入り…

七日後雨は降りはじめ、そしてそして四十日四十夜地に雨が降り 主の造ったすべての生き物…人も家畜も、這うものも、空の鳥も…みな地からぬぐい去られた…。

ただノアと、彼と共に方舟に居た者だけが残ったそう…。

そして、天から雨が降らなくなり 水が地の上から引いて方舟が今のトルコのアララテの山にとどまったのが…今日の日付と同じ7月17日と書かれています。

そして、その後 主はノアと契約を立てたそう…

契約には、こう書かれてます!
「すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起こらないであろう…」と。

そして、契約のしるしとして  雲の中に、にじを置く…とも。


もう二度と洪水は起こさないと、約束した契約は今、崩れていってしまったのでしょうか?

旧約聖書とは、キリスト・イエスが生まれ出る前の神さまとの約束…契約が書かれた書。

そして、今 主イエス様が十字架にかかったことで 人類の罪を贖い、救いをもたらす…という新しい神さまとの約束。

しかし先週、襲った九州の大雨や土砂崩れ…。そして、2011年3月11日の東日本大震災。

各地で起こる目や耳を塞ぎたくなるような事件や災害。

「我が子…イエスを信じなさい」と母マリア様は、メジュゴリエの小さな村で35年以上も現れ メッセージを残しています。

神のひとり子が、神さまの生き方を多くの人々に示した…この地上で神と共に生きる生き方。

人は何度も生まれ変わり…未熟だった魂も少しづつでも成長し…

もしかすると2000年前、目の前でイエス様の十字架への歩みを見た人も…

復活を見た人も…

その後神さまの臨在をありありと感じたことのある人々も…

ただ、イエス様ひとりに贖ってもらうのではなく、あの東日本の大震災で天に還って逝った何万人もの方々は…救い主イエス様と同じ?

きっときっと今回の大雨によって天に還って逝かれた魂も…

あのノアの方舟の時、神さまがノアを救ったように…神さまが選び世の人々に、あのビアドロロッサ…十字架への道をイバラの冠を打ちつけられ十字架を背負い、血を流しながら歩いた罪なき贖いびとイエスさまを見せられるような…

ノアの時代とは違う、尊い魂を持つ人々の召天。

どうか、多くの人々が罪ない方々が 世の罪を背負うことのない世の中になりますように…

今日、ノアの方舟が5000年前トルコのアララテ山にたどり着いた日…旧約聖書の時代とは違う 今。

益々、この世での生き方が問われるように思わされた神さまの契約。

世界一のベストセラーである聖書を読む機会が少ない日本人。

日本人だからこそ、深い所で理解することが出来る聖書。

九州熊本は、私が2年半勉強させてもらった無教会の「キリストの幕屋」が開かれた場所。

幕屋の創始者手島郁郎氏は、阿蘇の山の中で、神さまの声を聴き聖書集会を子供も含む5人から始まったんだとか…。

イエス様が群衆に神の御言葉伝えていた場所は、教会ではなく野原や湖上…。

日々の生活の中に、神さまとの対話が生まれてくるのかも…。

今朝、私の携帯に届いたエドガー・ケイシーセンターからの珠玉の御言葉

内なる静かで小さな声こそが、人を動かす力に命をもたらし、その命が人間の奮闘努力の土台となるものを与えるのです。(239-1)

 

 

 

 

空の空(くうのくう)

今朝、知り合いの奥様が天に召されたと連絡が入りました。

昨年夏、50歳近くになって、結婚したお二人は この上ない歓びに満ち 恥ずることなく 寄り添い微笑ましい光景でした。

数回しかお会いしてませんが、彼女の魂の底から歓びに満ちたあの笑顔というものは、こんなにも人の心に残るモノなのかと もう会うことが出来なくなった今 しみじみと思います。

結婚後も、遠距離での生活が続いてた様ですが、やっと一緒に暮らし始めたところに訪れたお別れの時。

なぜ?なぜ?なぜ?

神さまは、なぜこんな哀しいことを計画されたのでしょうか?

それとも、二人が出会うことによって 人を愛する歓びをプレゼントしてくれたのでしょうか?

天使のように軽やかに笑い、旦那様を愛して 天に還っていった彼女。

きっと多くの人に愛を届ける為に 地上にやって来た天使そのものだと思えてなりません。

奇しくも、今日はあの阪神淡路大震災から22年目を迎えました。

あの日も、多くの方々が最愛の人と別れ、ツラく哀しい時を過ごしたのだと思うと、本当に「今」をどう生きていくのか…改めて考えさせられます。

旧約聖書 伝道の書より
1章

伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。
伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。

日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。

日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。

風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。

川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。

すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。

先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。

「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。

前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のこともに起る者はこれを覚えることがない。

伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。
わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。
 わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。
曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。
わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
それは知恵が多ければ悩みが多く、
知識を増す者は憂いを増すからである。
 そしてまた3章ではこう続く


天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。

生るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。

わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。
またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。
わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。
わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。
わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。
わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。
人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。
すべてのものは空だからである。
みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。

抜粋出来ないほど、聖書の言葉のひとつひとつは 心地よく胸に響いてくれます。

空の空、空の空、いっさいは空である…

そして、
みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
現世は、うつしよ。 すべては、空(くう)
先に天に還って逝った彼女や私の友、そして母。
天からみるとどうなんでしょうか?
まだしばらくこの「現世(うつしよ)」の世界で、魂磨いて戻ります。
今日の歌は「この空を飛べたら」
https://youtu.be/GmaiWgtaDYI