大東亜戦争末期、軍機と共に突撃していった 神風特別攻撃隊。
その特攻作戦が始まった昭和19年10月、フィリピン マバラカットより飛び立ち、散って行った、西条市出身の関行男中佐。
関中佐を隊長に飛び立った 神風特攻一番敷島隊の5人。
軍神となった5人の御霊を弔うための追悼式典。
終戦後30年過ぎた40年程前から始まり、今も10月25日には 西条市の楢本神社で開催。
追悼式典を今後も継承していくために、今年新たに新体制でスタートした「神風特攻敷島隊五軍神・愛媛特攻戦没者奉賛会」
略して、「五軍神奉賛会」
昨日、その奉賛会の総会が開催され その中で 聴かせてもらった深いい話。
今60歳は過ぎている、I さんが東京の飲食店で若いころ仲間と話していた中、隣に座っていたおじさんから 「どこの出身?」と聞かれ
「四国です」と答えると、四国のどこ?
「愛媛です」と…。
すると、愛媛のどこ?と…。
「西条です」と言ったところ、
「やっぱり」と…。
その隣り合わせた方、関中佐とフィリピンで一緒に居たらしく、飛び立つ敷島隊を見送ったとか…。
関行男さんが、きっとフィリピンでも西条弁で「ほじゃけん」とか「ほうよ」とか「あんのーえー」とか言っていたんでしょうか。
お国訛りというのは、その人の風貌と共に覚えているようで、おそらく関さんが飛び立った日から 30年以上は経っているその頃にも その西条弁を耳にし 関さんを一瞬で思い出したのかと思うと…胸が熱くなります。
そして、その若かった、I さんが東京で聴いた軍神関行男中佐のお話し。
終戦後、教育が変えられ 学校では戦争が無かったかのような授業の中、聴かせてもらった関さんのお話は強烈だったそう…。
高校の教員をされてたその方は、教員仲間の中では「あいつはちょっと右寄りだ」と言われながらも
追悼式典の開催される楢本神社傍の高校に赴任中などは、10月25日追悼飛行で飛ぶ自衛隊機を仰ぎ、生徒たちにも敷島隊や祖国の為に命を懸けた英霊の話をしてきたそうで…。
戦争を賛美するわけではなく、ただただこの日本が世界で一番長く続き、今こうして家があり、食べることが出来る生活の陰では、
命を懸け祖国の為に闘ってきた英霊の方々がいること。
そこを、ないがしろにするわけにはいけない。
命を懸け、行ってくるよ!と、ぐっと奥歯を噛み締め笑って飛び立って行ったからこそ、何十年経っても人の脳裏から離れることのない存在なのだと…感じます。
そして「カミカゼ」と読んでいた「神風」は実は「シンプウ」というらしく、正式には「シンプウ特攻敷島隊」だと…。
今年も、10月25日、西条楢本神社にて執り行われる追悼式典。
同じ石鎚の湧水を飲み、同じ小学校を卒業し、同じ言葉を話していた先人の思いもまた共に…継承させて頂きます。