「追悼式典」タグアーカイブ

大和のこころ♡

太陽院院長 近藤   千恵子です(*^^)v

昨日、神風特攻敷島隊五軍神 愛媛特攻戦没者 慰霊追悼式典が無事開催され…

一年に一度きれいに献花で飾られる石碑。

  

式典中、ひとり座る男性に 近づくとポケットから 日の丸の旗…びっしりと書いてる寄せ書きを出して見せてくれました。

 

終戦から 73年目…。

式典中で、お話を聴かせてもらうことが出来なかったものの、拡げた日の丸には

一死報告

必死必中

靖国の宮で握手の日を誓う

特攻精神

散って又 清く咲こう 靖国の宮

靖国の宮で握手の 日を誓う

大君の 御旗とならん 若桜  等々…


出征の日、たくさんの寄せ書きの書かれた日の丸を胸に 向かった戦地での日々。

きっと 壮絶な戦いの場であったはず。

実は、追悼式典の事務局をさせてもらう中、届いた手紙も 生きて戻って来たことへの無念の思いが綴られておりました。

以下 届いたお手紙のままです☟


実は戦中、五軍神を見送ったあと 子安中学の同志たちと小松駅の近くにあった関大尉のお宅へ どっと押し寄せ

お母さんのサカエさんに面会
「私たちも関大尉のあとを 追います。お母さん 御安心下さい!」と約束して帰ったことがありました。

それから、予科練甲種練習生を受けに今治まで行きました。その際、子安大師(香園寺)の山岡瑞圓大僧正師が

「命を粗末にしてはいかん。元気に帰ってこいよ!」と言って みんなの前で大護摩を焚いてくれました。

しかし、時遅く 飛ぶゼロ戦武器なく、昭和20年8月15日敗戦となりました。

先輩と一緒にレイテ沖で死ねなかったのが、実に残念でありました。
今もその氣念が続いております    多謝!!


命あることを手放しに喜べず…

命ある限り、無念の思いを抱き生きている今。

戦争を経験した方にしかわからない命の価値。

先人の思い…少しづつ寄り添わせて頂き 戦争を知らない私たちが伝えていければと思います。

ありがとうございます♡

太陽院院長 近藤   千恵子です(^^ゞ

今日、無事43回目神風特攻敷島隊 愛媛県戦没者奉賛会慰霊追悼式典…青空の元開催いたしました。

お手伝いさせて頂くようになって数年目…開催の準備の為 昨日、一昨日となかなかブログも更新する時間もなく 年に一度の追悼式典の為、準備頑張りました(*^^)v

平日にもかかわらず、たくさんの方々に参列頂き 盛大に追悼式典開催することが出来…大東亜戦争の最期の攻撃…神風特攻隊。

準備を始めた7時半…式典が始まるまでの間 軍歌が流れ、心地よい時間。

散華し天に還っていった多くの御霊。

平成最後の追悼式典は、最高の秋晴れでした。

手作りの式典は、今回の式典で初めて歌う五軍神を讃える「悠久の五つ星」の歌詞カード、3番の歌詞では、痛恨の入力ミス。

1番機…2番機と歌われる中、3番機がなんと3番器と…入力ミス。

4番も5番もちゃんと機体の機。

気付いた時は、もう式典中。

もしも その前に気付いていたら 200枚全て印刷しなおしたかも…。

神さまの最大のエコヒイキ。

色々ありながらも 今年も無事催行出来たこと…神さまに感謝いたします。

2日連続の睡眠不足も…やっと解放されそうです(*^^)v

秋の夜長に…

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^ゞ

夕方6時半 車を走らせていると もうライトをつけないと危ない時間。

あの暑かった夏をすっかり忘れてしまいそうな 秋の到来。

夜が長く…それでも今、西条にある楢本神社で10月25日朝10時~開かれる

「神風特攻敷島隊五軍神・愛媛特攻戦没者追悼式典」の案内の発送準備で 何だか夜が短い。

2011年に 三重県津市の工務店社長赤塚高仁さんのお話の中、あの大東亜の戦争で、自分自身が弾になり突撃していった 若者の思いを聴き、その後 立ち寄ってみた楢本神社。

西条市出身の関行男さんを隊長とする「敷島隊五軍神」の案内文には、世界で初めて人間爆弾となって散って逝ったと…。

関行男さん…と、名前は知っていても、特攻作戦が始まっていちばん初めに米軍の戦艦に突撃していった「敷島隊」の隊長だったとは その時初めて知り…

そして…毎年、突撃した10月25日の命日に開かれる追悼式典のお手伝いをさせて頂くことに…。

ボーっとしてる間に 早一か月前!!

名簿をチェックし、奉賛金の振込用紙…式典への参加の有無を知らせてもらうはがき等々400通ほど発送します。

ホント…発送が終わるまでは落ち着きません。

同じ街に生まれ生きた関さんのこと…戦争を知らない人に是非知ってもらいたいです。

そして、昔…私自身「特攻なんて馬鹿げてる!!命を落とすなんてホント馬鹿なこと…」と、思ってたけれど あの時米軍から見ると 次々と突撃してくる本当に怖かったんだと…

そして、祖国や愛する家族を守る為に散華していった命ほど尊い命はないと…知った今。

大勢の方に、来て頂きたいものです。

海ゆかば…

太陽院院長 近藤  千恵子です!(^^)!

海行かば 水漬く屍(みづくかばね)
山行かば 草生す屍(くさむすかばね)

大君の辺(おおきみのへ)にこそ死なめ
かえりみはせじ

海に行けば、水に漬かった屍となり
山を行けば、草の生す屍となって、

大君のお足もとにこそ死のう。
後ろを振り返ることはしない。

終戦まで、「準国歌」と言われ、小学校では毎日唱和していたほど…

今日、朝10時半からの 神風特攻敷島隊五軍神・愛媛特攻戦没者追悼式典でも 参列者全員での合掌♪

私自身、この詩を知った時、この歌詞に正直ビックリしたほど…。

海に行けば海で…、山に行けば山で…

「死」と言うものの 捉え方の違いから、その後に続く、「誰かの為に…」が基本。

この歌が、軍歌とか 危険な歌と思われ… 歌われなくなった今…。

海で…山で…自分自身の為に命を落とす人が増えた今。

「自殺」とは、誰の為でもなく 自分自身の為に、自分を殺してしまう事。

戦後の高度成長の中、心が置き去りにされ… 誰かと比べて落ち込んだり…、誰かと比べて優越感を持ったり…。

ただ、日本人として生まれて来た我々は、長い長い歴史の中 この細胞の一つひとつが覚えている 大和の心。

教えられなくても…取り去られようとしても…きっと ふとした瞬間にスイッチがONになるもの。

「海行かば」の歌も、スイッチがONになる様な日本人の魂が甦る歌。

先週末の台風21号と、今週末に近づいて来ている台風22号の間の秋晴れの日に…私も大きな声で「海行かば」歌わせて頂き、やまと心にスイッチONして参りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっと晴れました(*^^)v

太陽院院長 近藤  千恵子です(*^^)v

今日は、やっとお陽さまを拝むことが出来ました。

随分長い間、雨が続き…また一雨ごとに、寒くもなり…

四季のある日本ならではの、この氣温の移り変わり。

そして、年々寒さが応える様になって来てます。

小学校の頃、男子が冬の間ずっと半ズボンで過ごすことがかっこいいような感じで、クラスの男子は結構半ズボンで過ごしてましたが…

55歳になった今では、考えられないほど…。

「伊達の薄着」…なんていうのも若いから出来ること。

これからの季節は、しっかり暖かくして「クシュン」なんて…風邪をひかないように過ごしたいものです。

と、書きながら…実は今かなり薄着でパソコン打ってますが…。

水素のお風呂にじわ~っと20分程入ると、かなり湯上りにポカポカが継続してくれるので、ついつい…。

さてさて…今日はブログを書いた後、またひと踏ん張りして 25日西条楢本神社で開催する
「神風特攻敷島隊五軍神及び愛媛県特攻戦没者追悼式典」の席次表の作成。

今年は、昨日までイヤというほど降ってくれたので…25日はきっと快晴。

お天氣が良いと、記念飛行もしてもらえるので…ホント有り難い。

今年は、事務局をさせてもらっており、参加の返信はがきが 9月20日過ぎから次々に届き…

その中でも、「高齢になり、出向くことが出来ません。」というメッセージがかなりあり…

72年前に終戦を迎えたけれど、特攻で亡くなった方々にとっては 73年目のお法事。

終戦間際の、最後の最期に行った特攻作戦。

しかも私が生まれ育ったこの町で同じように生まれ育った、関行男さんが、特攻作戦1番戦闘機「敷島隊」の隊長。

250㌔の爆弾積んで、敵艦に体当たりしていった…若い御霊。

母を…父を…家族を…そして祖国を守れるならばと、命を掛けて戦って下さった同郷の先人たち。

天からみれば、きっと歯がゆいような今の世の中だと、思いますが…、どうか天から叡智を…そしてなにものにも屈しない力を与えて下さい。

この祖国日本が、永遠に続きます様に…と今日も祈りながら…しっかり準備させて頂きます(^^)

秋の香りと共に…

 

お国訛り

大東亜戦争末期、軍機と共に突撃していった 神風特別攻撃隊。

その特攻作戦が始まった昭和19年10月、フィリピン マバラカットより飛び立ち、散って行った、西条市出身の関行男中佐。

関中佐を隊長に飛び立った 神風特攻一番敷島隊の5人。

軍神となった5人の御霊を弔うための追悼式典。

終戦後30年過ぎた40年程前から始まり、今も10月25日には 西条市の楢本神社で開催。

追悼式典を今後も継承していくために、今年新たに新体制でスタートした「神風特攻敷島隊五軍神・愛媛特攻戦没者奉賛会」

略して、「五軍神奉賛会」

昨日、その奉賛会の総会が開催され  その中で  聴かせてもらった深いい話。

今60歳は過ぎている、I さんが東京の飲食店で若いころ仲間と話していた中、隣に座っていたおじさんから 「どこの出身?」と聞かれ

「四国です」と答えると、四国のどこ?

「愛媛です」と…。

すると、愛媛のどこ?と…。

「西条です」と言ったところ、

「やっぱり」と…。

その隣り合わせた方、関中佐とフィリピンで一緒に居たらしく、飛び立つ敷島隊を見送ったとか…。

関行男さんが、きっとフィリピンでも西条弁で「ほじゃけん」とか「ほうよ」とか「あんのーえー」とか言っていたんでしょうか。

お国訛りというのは、その人の風貌と共に覚えているようで、おそらく関さんが飛び立った日から 30年以上は経っているその頃にも その西条弁を耳にし 関さんを一瞬で思い出したのかと思うと…胸が熱くなります。

そして、その若かった、I さんが東京で聴いた軍神関行男中佐のお話し。

終戦後、教育が変えられ 学校では戦争が無かったかのような授業の中、聴かせてもらった関さんのお話は強烈だったそう…。

高校の教員をされてたその方は、教員仲間の中では「あいつはちょっと右寄りだ」と言われながらも

追悼式典の開催される楢本神社傍の高校に赴任中などは、10月25日追悼飛行で飛ぶ自衛隊機を仰ぎ、生徒たちにも敷島隊や祖国の為に命を懸けた英霊の話をしてきたそうで…。

戦争を賛美するわけではなく、ただただこの日本が世界で一番長く続き、今こうして家があり、食べることが出来る生活の陰では、

命を懸け祖国の為に闘ってきた英霊の方々がいること。

そこを、ないがしろにするわけにはいけない。

命を懸け、行ってくるよ!と、ぐっと奥歯を噛み締め笑って飛び立って行ったからこそ、何十年経っても人の脳裏から離れることのない存在なのだと…感じます。

そして「カミカゼ」と読んでいた「神風」は実は「シンプウ」というらしく、正式には「シンプウ特攻敷島隊」だと…。

今年も、10月25日、西条楢本神社にて執り行われる追悼式典。

同じ石鎚の湧水を飲み、同じ小学校を卒業し、同じ言葉を話していた先人の思いもまた共に…継承させて頂きます。