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秋の夜長に…

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^ゞ

夕方6時半 車を走らせていると もうライトをつけないと危ない時間。

あの暑かった夏をすっかり忘れてしまいそうな 秋の到来。

夜が長く…それでも今、西条にある楢本神社で10月25日朝10時~開かれる

「神風特攻敷島隊五軍神・愛媛特攻戦没者追悼式典」の案内の発送準備で 何だか夜が短い。

2011年に 三重県津市の工務店社長赤塚高仁さんのお話の中、あの大東亜の戦争で、自分自身が弾になり突撃していった 若者の思いを聴き、その後 立ち寄ってみた楢本神社。

西条市出身の関行男さんを隊長とする「敷島隊五軍神」の案内文には、世界で初めて人間爆弾となって散って逝ったと…。

関行男さん…と、名前は知っていても、特攻作戦が始まっていちばん初めに米軍の戦艦に突撃していった「敷島隊」の隊長だったとは その時初めて知り…

そして…毎年、突撃した10月25日の命日に開かれる追悼式典のお手伝いをさせて頂くことに…。

ボーっとしてる間に 早一か月前!!

名簿をチェックし、奉賛金の振込用紙…式典への参加の有無を知らせてもらうはがき等々400通ほど発送します。

ホント…発送が終わるまでは落ち着きません。

同じ街に生まれ生きた関さんのこと…戦争を知らない人に是非知ってもらいたいです。

そして、昔…私自身「特攻なんて馬鹿げてる!!命を落とすなんてホント馬鹿なこと…」と、思ってたけれど あの時米軍から見ると 次々と突撃してくる本当に怖かったんだと…

そして、祖国や愛する家族を守る為に散華していった命ほど尊い命はないと…知った今。

大勢の方に、来て頂きたいものです。

小春日和の中の清掃奉仕と四十九日

太陽院院長 近藤 千恵子です(^.^)

今日、3月最後の日曜日…毎月一回の神風特攻敷島隊 関行男中佐の慰霊碑のある楢本神社の清掃奉仕。

先月、大分へ行く為出席できなかったので 久しぶりのご奉仕。

朝、7時…太陽は昇り、春の陽射しは暖かく…

寒い間 生えてくることのなかった雑草も あちらこちらで芽を出し…境内のまだ出て来たばかりの雑草をコツコツ根っこから除き まだ少し厚着をしてきた身体からは汗が出てくるほど…

8時までの1時間…しっかりご奉仕させて頂きました。

そして、今日は2月8日 天に還って逝った 主人のお父さんの四十九日の法要。

お義父さんは7人兄弟の長男。

お義父さんの妹弟夫婦や 姪っ子 甥っ子、孫やひ孫…30人以上が主人の実家に集まり 賑やかに四十九日。

つくづく、お義父さんは倖せ者だな~と思わされ、また末っ子の主人は小さな頃から可愛がってくれた 叔父さん叔母さんの傍で 子供時代の様に可愛がられ…ほっこり。

お墓での納骨では、先に入っている 主人のお爺さん お婆さんの骨壺の横に置かれ…無事 魂の故郷へ戻って逝ったような…。

まだ寒く、少し雨の降った2月の葬儀の日とは違って、春の暖かな陽射しの中 お線香の香りと煙…と共に穏やかに還って逝ったお義父さん♡

どうか自由に大空を渡り また私達の毎日も 笑ってみてて下さい。

 

 

 

楢本神社清掃奉仕

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^ゞ

先月より、始まった愛媛県西条市大町の楢本神社さまへの清掃奉仕。

楢本神社は、私の住む大町地区の氏神さまであるだけでなく、大東亜の戦争が終わる1年前フィリピン・マバラカットより初めての特攻作戦で散華された神風特攻一番戦闘機「敷島隊五軍神」の御霊を追悼慰霊してる神社。

五軍神と愛媛特攻戦没者の方々の追悼式典は、毎年「敷島隊」が米軍に突撃した10月25日。

平日にも、関行男さんのことを知った方が愛媛を訪れた際 足を延ばし手を合わせに来て下さる方もいて、地元西条の人間よりも 全国で知る人ぞ知る…関行男さん♡

私自身、西条に生を受け楢本神社の近くの中学校にも通い、部活の時には慰霊碑の前をいつも走っていたけれど…ちゃんと知って手を合わせるようになったのは、2011年8月くらいだったでしょうか。

その年の10月25日、初めて慰霊祭をお手伝いさせて頂き…そして、今年4月また新たに役員改定され 10月の式典だけでなく毎月最終日曜日の朝、楢本神社の清掃をしていこう!!と決まり…。

7月は、朝9時から掃除を始めたところ…暑くて暑くて…。

どうせなら、朝6時半からしよう!!っていうことで、朝の光と爽やかな風を全身に浴びながら…清掃奉仕させて頂きました。

普段持つことのない、竹ぼうきで境内の落ち葉を掃いていると、3年前の5月…皇居の勤労奉仕に行った時のことが鮮やかに甦ってきました。

28人の勤労奉仕の仲間の中…ふたりも天に還って逝った仲間がいます。

そして、ふたりとも本当に大切な大切な仲間だったからこそ…今思い出しても涙が止まりません。

同じ時を共に過ごした仲間。

毎月、同じ時間に神聖な境内を掃き清めていく、年齢も職業も違う五軍神奉賛会の仲間達ともまた、この清掃奉仕を通して同郷の愛と勇氣溢れる英霊の方々を通して繋がっていけること嬉しく思います。

来月は9月24日(日)

一緒に清掃奉仕する仲間も大募集中です(^^)/

 

楢本神社境内の二人の偉人

太陽院院長 近藤 千恵子です!(^^)!

愛媛県西条市大町の氏神様…楢本(ならもと)神社

境内には神風特攻敷島隊 関 行男氏ら五軍神の追悼碑

追悼碑の裏にはこんな言葉が…

「大東亜戦争末期米軍の大機動部隊のレイテ侵攻を阻止し、大和民族の純血を守らんとして神風特攻第一号敷島隊は一機一艦轟沈を目指して、世界最初の公式の人間爆弾となり国家悠久の大義に殉ず。
嗚呼若き血潮の滾る五軍神命達よ、世界恒久平和の魁としてこれの聖所に安らかに齋かれまさんことを祈る。」

そして、毎年10月25日敷島隊五軍神の命日には、大町の有志で追悼式典を開催しており…

今年度から大きく役員も変わり、先日役員会で毎月末日に 境内の掃除をしていこうということが決まり、今朝9時 蝉の声を聞きながら清掃。

そんな境内にもうひとつ ある建物が、医聖と呼ばれた眞鍋嘉一郎氏の生誕の家。

眞鍋氏は、1878年(明治11)に現在の西条市大町に生まれ5歳で父を失い、貧しい 暮らしの中で育ったそう…。

西条から松山中学校、第一高等学校、東京帝国大学医科大学(現在の
東大)へと進み、どの学校でもトップの成績で卒業され、松山中学校時代は夏目漱石の生徒でもあったそう…。

卒業後は、東大に勤め、1911(明治44)年から3年間ドイツに留学し、野口英世氏にも出合い彼が亡 くなるまで交流は続き…

帰国後、内科の治療にレントゲン線、ラジウム鉱泉などを利用する物理療法を取り入れ…1926(大正15)年には東大の教授となり、内科物理療法学の講座を開いたそう…。

眞鍋氏は、夏目漱石や野口英世…そしてあの226事件の浜口雄幸首相等 有名人との交流があり、特に、浜口首相最後の脈を 取ったことなどで知られているのだとか…。

その眞鍋嘉一郎先生の生誕の家が楢本神社境内にあり 今朝掃除が終わった後 眞鍋先生のお話を聴かせて頂きました。

軍神関行男さんや医聖眞鍋嘉一郎先生と同じ西条市大町に生を受けた者のひとりとして、お二人の偉業が後世に伝えられていく様…先ずは毎月のお掃除からお手伝いさせて頂きます。

 

関 行男さん

終戦を迎える前年  昭和19年10月20日、フィリピン・ルソン島で編成された 「敷島隊」・「大和隊」・「朝日隊」・「山桜隊」の神風特別攻撃隊第1陣。

「敷島の 大和心を 人問わば 朝日ににおう 山桜花」の和歌からついた各隊の名前

関 行男さんは、10月25日フィリピン・マバラカット空港より、敷島隊の隊長として敵艦セント・ローに身体ごと体当たりし命中…。

関さん行年23歳。ほかの隊員も19・20歳の若さでの突撃。

関さんは、私の暮らすこの西条市で誕生し、同じ大町小学校を卒業。

その後、現在の西条高校の前身  西条中学を卒業後、海軍学校へ。

私が関 行男さんのことを知ろうと思ったのは、三重県津市の赤塚建設社長赤塚さんから聴かせてもらった数々の日本のお話の中から…。

日本が世界で一番長く続く国家であること。

天皇陛下が、終戦後マッカーサー元帥のところを訪れ、この日本国民のために命をかけて会いに行ってくれたこと。

日本を守るために命をかけて突撃した特攻隊というものがあったこと。

などなど、学校では教えてくれることの無い、真実を聞いたとき 魂が震え、そして西条にも関行男さんって特攻の方がいたな~と、

石碑のある西条楢本神社を訪れて初めて知った日本の特攻作戦の中でも、1番戦闘機として飛び立っていたということ。

その後、数多くの若い命が、祖国のために命をかけて突撃して行った特別攻撃隊という存在。

ここ西条の楢本神社では昭和50年に、関行男さんの石碑が建立され、その後昭和56年に敷島隊の4名も含め「五軍神祀碑」として建立。

毎年10月25日に追悼式典が開催され、私もこのことを知った2011年よりお手伝いさせてもらうようになりました。

驚いたことに、初めて五軍神の資料館に入った時に目にした 関さん小学校5年生のころの写真は、私がカイロプラクティックを始めた頃 凄く大事にしてくれた田坂さんが寄贈したもの。

関さんと同級生だったそうで、田坂さんのご実家が写真館ということで 田坂さんのお父様がなんと立派な子供だろうということで 我が子と並んで写した1枚の写真。

終戦後、田坂さんが資料館に寄贈されたんだと思うけれど、もう10年程前に肺がんでこの世を去るまで、一度も田坂さんの口から特攻の話も もちろん関さんの話も聞いたことはなく…。

あの小学校5年生で二人並んだ写真を見た時、田坂さんが私に

「俺の自慢の同級生、関行男君。どうかたくさんの人に知らせてね」と言ってるようで、胸が締め付けられました。

日本のこと、戦争のこと、特攻のことを全く知らなかったあの頃、もし話を聞いていたとしても ふーんとしか思わなかったかも知れないし…。

時が来て、知ったことも意味があるんだろうと 今…思います。

その後、私の近所に住む現在85歳のおばさんも、施術中

「関さんのお母さんは、私の家の近くに住んでて 私が小学生のころ、関さんがお母さんのところに戻って来たときは、カツ カツ カツっと革靴の音が響いて ついて歩いて触りに行ったよ」と、話してくれて

「あの頃、兵隊さんっていっても革靴履いて あんなにかっこよかった人はいなかったしね」…とも。

生きている関さんをみた人は、たとえ自分がまだ幼くても しっかりと胸に焼きつけられてるようです。

追悼式典のお手伝いさせてもらい、まだ6~7年だけれど 奉賛会の役員会にも加えて頂き 私に出来ること少しづつさせてもらってます。

今日、来月の総会に向けての役員会。

世代交代もあり、また新しい体制で始まる29年度。

私にとっては、関行男さんは私の中で英雄。

「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」ともあり、国のため 愛する家族のため 玉となって突撃する姿は、仁・義・礼・智・信・忠・孝…全て。

特攻作戦を知らされた時、関さんは

「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」
「僕は最愛のKA(妻の意味の海軍隠語)のために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」と言ったとか。

現に終戦前年から、海軍が行った特攻作戦は 敵国アメリカに、かなり精神的な打撃を負わせたと思う。

アメリカ軍は身体ごと体当たりしてくる特攻機に「クレイジー」と…。

先日ブログでも書いてみたが、私の主人が今から25年前 アメリカにホームステイした時のホストファミリーのお父さんが、戦後45年たっているにもかかわらず、日本人が体当たりしてきた特攻のことを聞いて来たのだから…。

イエス様が十字架にかかり昇天したように、命懸けで突撃する様にアメリカ人は衝撃を受けたのだと…。

私自身、命をかけて祖国を守ってくれた英霊の方々に出来る限りのことをしていきたいと思わされてなりません。

もちろん戦争を賛美するつもりは全くなく、ただ国家があることはあたりまえでない現実ということだけ…。

西条市出身の秋川 雅史さんの歌った 「千の風になって」は天に還った英霊からのメッセージとも受け取れる名曲

西条市出身の秋川さんが歌ったのも感慨深い…。