信仰によって…

太陽院院長 近藤 千恵子です(^^♪

今晩から、うちのトミ子さん…従妹に連れられて奈良県の天理教の教会に参りました。

うちの叔母は、浄土宗…南無阿弥陀仏の世界。

ただ、四国という土地柄のため、弘法大師が開いた真言密教を唱え、たしか もう一人の叔母が荼毘(だび)に付す時は、四国88か所参りで頂いた納経帳を懐に隠して持って行った様な…。

認知症になり、何も覚えてない叔母を グループホームに居るときも、我が家に来てからも 毎月8日にお参りに誘ってくれ そして今晩からフェリーに乗り大阪まで渡り…奈良県の天理市まで連れて行ってくれるという。

もともと、信仰心はある叔母だったけれど、毎月のお参りも…今回のお参りもどこかで神さまが叔母をその場に導いてくれているのか…

片時も目を離すことの出来ない叔母を連れてのお参りは、本当に大変なことなのに それを使命としてしてくれる従妹。

従妹と言っても、父方の従妹。

叔母とは全く血は繋がっているわけでもなく…本当にこの信仰心には頭が下がります。


ずっとずっと昔…。

やはり、大阪に向かうフェリーの中で、まだ私が20代の頃…熱心な天理教の信者さんと隣り合わせになったことがありました。

その女性は、ずっとずっと昔、自分自身のおじいちゃんが目が見えなくなったところ天理教の教祖様に見えるようにしてもらい…それから代々教会を継続させているのだと…。

まだ若く、全く見えない世界のことを知らなかった時…その話は、私自身にはかなり興味深いものでもありました。


と、言うことで今晩フェリー乗り場まで送っていき…月曜日まで少し解放される週末。

そして、明日は広島へうちの主人と大好きな赤塚さんのお話を聴きに参ります。

そして、今回は2年前名古屋で、昨年は神戸で一緒に赤塚さんの聖書講座を受けていた 名鉄構内にある「小さな時計屋さん」の照ちゃんとも講演会場近くの駅で合流。

楽しみに行って参ります。


そして、赤塚さんの聖書講座の中、伝えてもらった信仰によって変えられた聖書の中の人々のこと

「へブル人への手紙11章」

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。

信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。

彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。

信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。

このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。

この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。

彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。

信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。

信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。

信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。

信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、

罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、

キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。

信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。

信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。

信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。

信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。

信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、

火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。

女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。

なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、

(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。

さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。

神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。


「へブル人への手紙」11章1節から40節までの間に何度も何度も出てくる「信仰」という言葉。

単純に…信仰とは、信じて仰ぎ見るモノ…。そして、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること…とある。

アブラハムもヤコブもモーゼもノアも…そしてキリストイエスも…このへブル人への手紙を書いた使徒パウロも…目には見えないけれど確実に存在する大いなるモノに動かされる世界。

明日、久しぶりに話を聴かせて頂く赤塚さんも 何か大いなるものによって導かれ、話させられてる世界。

今日、叔母を天理にまで導いてくれた従妹もそう…。

求めよ…さらば与えられん
探せよ…さらば見つからん
叩けよ…さらば開かれん

信仰によって与えられ、見つかり…そして開かれていく世界。

日本人こそ  この見えない世界を大切にしてきた民族。

そして、日本にたくさんある新興宗教もまた神さまの臨済によって開かれて来たであろう宗教。

どうか、教理や教則ではない真の信仰が世の中を救っていきますように…祈り求めます。

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